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おでん屋が見た聞いた画家たちの素顔生活。 [気になる下落合]

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 落合地域からそれほど遠くないところで、おでん屋を営んでいたとみられる“むさしや九郎”という人物がいたことは、以前に下落合2118番地にあった椿貞雄アトリエClick!の様子とともにご紹介していた。この店には、会派を問わずさまざまな画家たちが立ち寄って、おでんをつまみながら酒を飲み、一種のたまり場と化していたようだ。
 むさしや九郎は、店を離れても画家たちと親しく交流している様子が見てとれるが、来店した画家たちから日本画・洋画界を問わず多種多様なエピソードを仕入れ、それを美術誌「美術新論」の正月号連載エッセイ『謹賀新年妄筆多罪』として書きとめている。中には、書いてほしくなかった出来事までが含まれていたのか、当の画家から編集部へ抗議がとどいたりもしているが、ふだんは表にでることの少ない画家たちの素顔を垣間見られる点では、飾らない貴重な証言記録といえるだろうか。
 以前に書いた記事の末尾でも触れたが、第一文化村Click!北側の下落合1385番地から、上高田422番地にアトリエを移した甲斐仁代Click!中出三也Click!は、バッケが原も近い妙正寺川沿いの空き地で自転車の練習をしている。1933年(昭和8)発行の「美術新論」1月号によれば、昼間はヘタクソな乗り方がみっともないので夜になると練習していたようだが、安売りしていた10円の中古自転車だったせいか乗りにくかったようだ。
 ふたりの練習を知り、すぐ近くの高台にアトリエがあった上高田421番地の耳野卯三郎Click!も、この夜間練習に加わったようだが、ボロ自転車のせいかバランスが悪く、最初に中出三也Click!が転んでケガをし、つづいて耳野卯三郎Click!も転倒して負傷し、最後には甲斐仁代Click!も倒れて傷を負い、3人とも擦り傷だらけになってしまった。あちこち白い包帯だらけの3人は、近くの酒屋の親父に笑われ、むさしや九郎にも笑われたのだろう、「なにしろ付属品共十円で買つた自転車だからな。笑ふなら自転車を笑つてくれよ。畜生」と、中出三也は盛んにこぼしている。
 この「夫婦」がおでん屋にくると、まったく正反対の飲みっぷりだったようだ。1929年(昭和4)発行の「美術新論」1月号(美術新論社)から、ふたりの様子をのぞいてみよう。
  
 さて、わしの店の縄のれんの外に、先づ無地の紅い帯が見え、続いて、しなやかな指先がちよいとのれんにかゝつて、『今晩は。』とやさしい声がしたら、それは甲斐仁代女史の出現にきまつてゐる。大抵は夫君(?)の中出三也先生と御一緒だが、女史の酒の飲み振りのよさは、恐らく閨秀画家の中では東洋一だらう。若し牧野虎雄先生の酒を静かなること林の如しと形容すれば、仁代女史の酒の飲み振りの静かにして且つやさしきは、雨に悩める海棠の風情とも申す可きか。一本、二本、三本、と女子の前に銚子の数が殖えて行く。が、いくら酔うても、女史の手、女史の言葉の、未だ嘗て乱れたるを見た事がない。而も時々ポツリポツリと言葉すくなに話される女史の言たるや凡て鋭く且つ優しい。
  
 甲斐仁代とは対照的に、中出三也は数本の銚子をアッという間に空けると、ベロベロに酔っぱらいそのまま寝てしまったらしい。また、酔うとケンカっ早くなって、相手をポカポカ殴るがすぐに疲れてやめてしまい、相手から逆襲されて殴られるのも早かった。だが、タンカは歯切れがよかったらしく、相手を殴ると「児雷也」のようにドロンとどこかへ雲隠れし、ケンカ相手が立ち直るころにはとうに闇の中へ姿を消していた。
 のちに下落合4丁目2080番地、金山平三アトリエClick!の近くに画室をかまえることになる、下落合の西ノ谷(不動谷)Click!にアトリエ(番地はいまだ不詳)があった岡田七蔵Click!は、大の釣り好きで六郷川(多摩川)や荒川、品川の台場で釣った帰りには、むさしや九郎のおでん屋に寄っては、魚籠(びく)の釣果を自慢しながら一杯やっていたらしい。武蔵野鉄道や西武線を利用して、石神井川の流域にもよく出かけていった。
俣野第四郎「甲斐仁代像」1922.jpg 片多徳郎「N(中出)氏の肖像」1934.jpg
甲斐仁代「睦」「女人藝術」表紙192812.jpg
中出三也「人形」1924.jpg
中出三也「自転車練習」1936.jpg
 その様子を、1929年(昭和4)の「美術新論」1月号から引用してみよう。
  
 (岡田七蔵の)顔は冬も漁夫のやうに真黒だ。その甲斐あつてか、びくも常に重く、なかなか釣りの名人だ。その代り、此の先生が釣場に立つて、イツタン糸を垂れたとなつたら、もう全心全肉、魚の事より外に何も考へず、其の結果、先生の口付は釣場では魚の口付に似て来るさうだ。これは上野山淸貢先生が牛ばかり写生してゐるうちに牛の顔に似て来、辻永先生が山羊ばかり写生してゐるうちに山羊髭が生へたのと同じ理屈であるからやがて次第に岡田先生の顔が魚の顔に似て来るのも、さう遠い将来ではないかも知れない。さう云へば闘犬に漸く飽きて今度は軍鶏にこり出した深沢省三先生の首の様子が、近頃軍鶏の首に髣髴として来た事実も不思議と云へば不思議である。(カッコ内引用者註)
  
 岡田七蔵は、釣りに没頭すると周囲の音がまったく聞こえなくなったようで、何度呼びかけても反応がなかった。集中力がすごいといえば聞こえはいいが、なにかに夢中になると精神的な“視野狭窄症”あるいはウワの空になってしまい、周囲の状況が耳に(目にも)入らなくなる不器用さははわたしも同じで、これまで少なからぬ失敗Click!を繰り返している。石神井川の土手で、何度も声をかけられているのに岡田七蔵はまったく気づかない。
 声をかけていたのは、石神井川へ写生にきていた友人の小林喜一郎で、「イヨウ、岡田君」と声をかけたのがはじまりで、何度も呼んだがまったく反応がなく、しまいには近づき「もしもし、御遊興中甚だ恐縮なれど」と大声で道を訊ねると、岡田は振り返りもせず簡単な道順を説明するばかりだった。これにじれた小林喜一郎は、耳もとで「岡田七蔵といふ御仁の家をご存知なきや」と怒鳴ると、ようやく浮きから目を離し「なあんだ、君だつたのか」と、ふたりで大笑いをしたようだ。
 岡田七蔵は将棋が趣味で、よく友人の児童文学者・川端伊織を相手に指していた。むさしや九郎が「ヘボ」というぐらいだから、ふたりともかなり弱かったのだろう。ふたりはビールを片手に、一手ずつ「何を此の野郎」「何を此の野郎」とお互いかけ声を上げながら駒を進めたらしいが、双方の駒がそろそろ相手陣に攻めこんでくるころ、いつの間にか王将の駒が消えてなくなっているのに、ふたりともようやく気づいている。盤面にビールをこぼした際、観戦していた小林喜一郎が濡れた箇所を拭きながら、双方の王将をすばやく懐中へ隠してしまったのだが、ふたりはそれに気づかず延々と指しつづけていたというから、これはもう「ヘボ」を通りこした「大ボケ」将棋だろう。
岡田七蔵「石神井川風景」1928.jpg
岡田七蔵「石神井の鉄橋」1928.jpg
岡田七蔵「会瀬の海」1930.jpg
 大正初期から目白駅Click!近くの下落合に住み、しばらく巣鴨町で暮らしたあと、戸塚町下戸塚112番地(のち戸塚町2丁目112番地)へ転居して、熊岡絵画道場(のち熊岡絵画研究所)を開設した熊岡美彦Click!も、おもしろいエピソードを残している。ちなみに、下戸塚112番地は早稲田通りをはさみ戸塚第二小学校の向かい側で、今日ではほとんど高田馬場駅前、JAZZスポット「イントロ」Click!や歌声喫茶「ともしび」があるあたりだ。
 佐伯祐三Click!が一時期そうだったように、熊岡も大工仕事Click!に魅せられてしまったらしい。でも、佐伯が自身で大工道具を使って普請(DIY)したのに対し、熊岡はまるで大工や植木屋を住みこみの弟子のように使いながら、何年にもわたって仕事をさせていたようだ。熊岡美彦の普請ヲタクの様子を、1930年(昭和5)の「美術新論」1月号から引用してみよう。
  
 熊岡美彦先生に一個の道楽あり。道楽よりも病癖とや云はん。住宅の改築病コレ也。蓋し大工と植木屋とは先生の終生の友にして、巣鴨の森、鴉の啼かぬ日はあるとも、カンナの音、ハサミの音の聞こえざる日とてはなく、作りてはこはし、こはしては作り、トンカチトンカチ、十年一日の如し。されば昨日の洋式応接間は今日は変じて日本風の玄関となり、今日の平家建アトリエは明日はセリアガリて二階建の書斎となり、或はバルコンは落ちて地下室を現出し、台所は化けて茶室となり、茶室はまた化けて風呂場となり、かと思へば、いつかまた、もとの通りに逆戻りする事などもあり、改築に逆築に、滄桑の変四時絶ゆる事なし。為めに家人は座るに場所なければ、春夏秋冬、立ちて食事をとり、訪客も年ぢう会ふに部屋なければ、止むなく先生と玄関にて立話す。
  
 1930年(昭和5)の時点でこのありさまだから、下戸塚112番地の高田馬場駅前へ転居して「道場(研究所)」を開設してからは、さらに「病癖」が進んだのではないだろうか。このエピソードは、巣鴨町3丁目26番地のアトリエでの出来事だ。
 ところが、トンカチや庭バサミの音がピタリと止まった時期があり、家族はもちろん、いつも騒音に悩まされていた近所の人たちもホッとした。だが、あまりに熊岡アトリエがシーンとしているので、不審に思った近隣の人が熊岡家を訪ねると、ちょうど1927年(昭和2)から1929年(昭和4)までの2年間、熊岡美彦がフランスに滞在していることがわかった。応接した夫人は、「お蔭で、妾が体重も五貫目ほどふえたり」と答えている。「五貫目」(約18.8kg)は増えすぎで、かなり困った状況ではないだろうか。
熊岡美彦.jpg 熊岡美彦「自画像」1936.jpg
熊岡美彦「山上の裸婦」1935.jpg
熊岡道場(下戸塚112).jpg
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 ところが、熊岡美彦がパリから帰国すると、さっそく居間と茶室、アトリエの改築に同時着手し、家内じゅうあちこちが再び普請中となってトンカチトンカチと「修羅場」に逆もどりしてしまったそうだ。夫人は夫の帰国早々、再び体重が1貫目(約3.8kg)ほど減ったと嘆いている。さて、むさしや九郎が記録した、三岸好太郎Click!里見勝蔵Click!宮田重雄Click!伊藤廉Click!の4人による光線談義も面白いが、それはまた、いつか別の物語……。

◆写真上:むさしや九郎の店には、おでんをめあてに多くの画家たちが集った。
◆写真中上上左は、1922年(昭和11)に制作された俣野第四郎『甲斐仁代像』。上右は、1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『N(中出)氏の肖像』。中上は、1928年(昭和3)に制作された甲斐仁代『睦(むつみ)』で、同年の「女人藝術」12月号の表紙に採用された。中下は、『睦』の左側に置かれた同じ日本人形を描いたとみられる1924年(大正13)に制作された中出三也『人形』。は、1935年(昭和10)に制作された中出三也『自転車練習』だが、まだふたりは自転車に乗れなかったのだろうか。w
◆写真中下は、1928年(昭和3)制作の岡田七蔵『石神井川風景』。は、同年制作の同『石神井の鉄橋』。は、1930年(昭和5)制作の同『会瀬の海』。いずれも当時の釣り場ばかりで、遊びだか仕事をしにでかけたのかは不明だ。w
◆写真下は、熊岡美彦()と1936年(昭和11)制作の同『自画像』()。中上は、1935年(昭和10)制作の同『山上の裸婦』。中下は、熊岡自身による戸塚町112番地の「熊岡絵画道場」案内図。は、1937年(昭和12)夏に美術誌へ掲載された同道場の生徒募集広告。
おまけ1
 昭和に入ると画塾を開く画家は多かったが、大正期の画塾時代からつづく下落合537番地の大久保作次郎アトリエClick!に新設された「目白絵画研究所」の生徒募集広告。
目白絵画研究所193505美術(美術発行所).jpg
おまけ2
 三岸好太郎の名前が出ているので、アトリエ保存の一報を書いておきたい。三岸夫妻の孫娘にあたられる山本愛子様Click!によれば、とある企業の協力および住宅遺産トラストの支援により、三岸好太郎・節子アトリエClick!保存の目途がどうやらつきそうとのこと、たいへん喜ばしい限りだ。国の登録有形文化財である同アトリエを、末永く保存していただきたい。
三岸アトリエ.JPG

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