西武線の「開通」が2ヶ月も早い陸軍記録。 [気になる下落合]
この春、千葉市美術館で「板倉鼎・須美子展」Click!を観賞するついでに、千葉駅の近くにある鉄道第一連隊Click!の本部跡を散策してきた。1926年(大正15)の暮れ、現在の西武線の敷設演習Click!を実施した、あの鉄道連隊Click!のひとつだ。
鉄道第二連隊が駐屯していた津田沼駅も通過したが、こちらは連隊本部がほぼ駅前の繁華街にあたり、当時の面影は皆無に近いが、鉄道第一連隊のほうは連隊内の作業場も含め、いくつかの遺構や遺物が現代まで保存されている。
拙サイトでは早い時期から、開業前の西武線を頻繁に往来する貨物列車の目撃情報をテーマに、地元の資料類や国立公文書館に残る鉄道連隊の記録を調べてきた。すると、西武線が開業する以前に、多摩湖建設Click!のために膨大な建築資材(セメントや砂利など)が集積され、一大物流拠点となっていた東村山から、それら資材を陸軍の大規模な施設の建設が計画されていた戸山ヶ原Click!へ、続々と搬入されていたらしい様子が透けて見えてきた。そして、鉄道連隊が西武線敷設を演習先に選んだのも、東村山からの資材運搬ルートの確保という目的が大きかったように思われる。
特に、1926年(大正15)内に軌条(レール)の敷設が完了し、翌年から下落合氷川明神前の下落合駅Click!より、大正末に鉄筋コンクリートの大型橋梁化が完了していた田島橋Click!を経由して、さまざまな資材・物資が戸山ヶ原Click!へと運びこまれ、流弾被害防止のために建設された大久保射撃場Click!(1927年築)を皮切りに、山手線をはさんだ東西の戸山ヶ原Click!には、大規模なコンクリート建築が次々と建設Click!されていくことになる。
この取材の過程で、1926年(大正15)の暮れに鉄道第一連隊の演習本部が置かれていた、野方町の須藤家(野方町江古田1522番地)の証言記録Click!を発見し、井荻駅付近から下落合駅(氷川社前)、そして山手線の線路土手下(西側)にあたる高田馬場仮駅(第1仮駅)位置までの演習が、わずか1週間足らずで結了していること。また、田無町(のち田無市本町3丁目)の増田家に演習本部が置かれた、鉄道第二連隊とみられる司令部(中華民国の武官が演習を視察している)は、東村山駅付近から田無駅の先(東側)まで複線軌道を敷設するリードタイムが、わずか8日間だったことも判明している。
つまり、東村山から山手線の西側土手下までの軌条敷設は、1926年(大正15)の暮れのうちに、のべ2週間ほどで結了していたことになる。そして、鉄道第一連隊の工兵曹長・笠原治長が発明した新兵器=「軌条敷設器」(制式に採用されてからは「軌条引落架」)について、翌1927年(昭和2)1月13日に西武線演習の成果を踏まえて、制式申請の書類が陸軍省(審査は陸軍技術本部)に提出されている。
西武線敷設が、1926年(大正15)のうちにほぼ結了していたことは、所沢の地元新聞にも報道されている。同年12月5日に発刊された、「所澤魁新聞」から引用してみよう。
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川越線の電化工事は、千葉鉄道聯隊の援助により、東村山から高田馬場間の複線レールも殆んど敷設を終つたので、更らに村山・所澤間を複線に拡張して明春早早には開通の予定で、既に新型ボギー車二十台は村山駅に廻送されてゐるが、同車を利用すれば川越から高田馬場まで約四十五分で到著(ママ:着)し得る高速度であると(ママ:。)
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同記事は、同線の電化工事の予告を報道したものだが、「千葉鉄道聯隊」は千葉県の千葉鉄道第一連隊と津田沼鉄道第二連隊の統合表現だと思われる。
さらに、過去の記事では高田馬場仮駅が二度設置されていた面白い事実も明らかになった。最終的に省線・高田馬場駅と並行して乗り入れるのに、ふたつの仮駅が山手線の西側と、山手線ガードClick!をくぐった東側に存在していたので、当時、次々と日本記録を塗り替えていた三段跳びの選手にちなみ、地元では「高田馬場駅の三段跳び」と呼ばれていたことも、先の須藤家の記録から判明している。
そして、省線・高田馬場駅に隣接したホームへ西武線が乗り入れると、その南側には周囲から「砂利置き場」と呼ばれた広い建材置き場Click!が設置されている。もちろん、東村山方面から運ばれてくる砂利やセメントなどの建築資材や物資を、戸山ヶ原の陸軍施設Click!へ安定して供給するのと同時に、西武線の高田馬場-戸山ヶ原-早稲田間の「地下鉄西武線」建設Click!のためにストックしておく物流拠点だったと思われる。
1927年(昭和2)の早い時期、すなわち西武線が同年4月16日の開業を迎える以前に、東村山から下落合へ建築資材が続々と運びこまれ、戸山ヶ原方面へトラックによるピストン輸送が行なわれていたことも想像に難くない。当時の下落合住民たちは、開業前にもかかわらず西武線を頻繁に往来する貨物列車を目撃しては、不可解さとともに印象的な光景として記憶にとどめたのだろう。
さて、ここでもうひとつ、鉄道連隊は1926年(大正15)の年内に西武線の敷設演習を終えたあと、いつからセメントや砂利などの資材を東村山から運搬しはじめたのか?……というテーマが残っていた。1927年(昭和2)4月16日の開業直前や開業後では、大量の建材や物資をいっぺんに運びこむのは実質的に困難であり、建築資材を運搬するリードタイム自体を、かなり余裕をもって長めに設定しなければならなかったはずだ。
また、西武線は電気鉄道なので、軌条敷設が完了したあとは、さまざまな電化設備の設置工事も並行して行われていただろう。さらには、演習では戦場と同様に臨時の木造橋だったとみられる、河川をわたる橋(大きな河川はないが)を鉄橋に造り変える工事や、大急ぎで構築した軌条を支える基盤(鉄道連隊では「路盤」と呼称)を補強する追加工事などもあったとみられる。乗客を運ぶ電鉄車両に比べ、はるかに重量のある資材を運搬することになる貨物列車の運行を考慮すると、補強工事は入念に行われたにちがいない。事実、驚異的なスピードで実施される鉄道連隊の軌道敷設演習では、路盤の脆弱さや敷設した軌条の無理な湾曲(カーブ)などから、少なからず脱線転覆事故も起きていた。これら煩雑な各種工事の合い間をぬいながら、東村山からの資材運びを行わなければならなかっただろう。
そこで、貨物列車の運行準備が整った時期、つまり各種工事に邪魔をされず線路も補強され、西武線が実質的に「開通」したタイムスタンプを確認できる資料が残されていないかどうか、これまであちこち調べてみたけれど、国立公文書館(陸軍関連記録)にも西武鉄道の記録にも見あたらなかった。おそらく、国内の軍事物資輸送ルートはマル秘扱いのため、記録が残りにくかったのだろうとあきらめかけていた。ところが、思いもよらぬところに東村山駅から高田馬場(実質は氷川社前の下落合駅)までの「開通」記録が残されていた。意外にも、陸軍所沢飛行場Click!に保存されていた資料類だ。
陸軍所沢飛行場では以前にご紹介したように、大正期に入ると飛行船・気球や飛行機を分解して無蓋車に積み、戦場へ運搬する演習を西武鉄道と連携して何度も実施している。だから、西武線が山手線(近く)まで延長されたのに留意し、ことさら記録にとどめたのではないか。当該の記録は、陸軍所沢飛行場の資料を整理して年譜式にまとめた、1978年(昭和52)刊行の小沢敬司『所沢陸軍飛行場史』(非売品)に掲載されていた。
同書には、1927年(昭和2)2月15日の項目に、「西武鉄道、東村山=高田馬場間開通」と記載されている。つまり、西武線が実際に営業を開始する同年4月16日より2ヶ月も前に、陸軍では同線がすでに「開通」したと認識していたことがうかがえる重要な記録だ。換言すれば、2月15日から開業日までの2ヶ月間が東村山に集積された建築資材を、大量に運搬する期間として設定されたリードタイムであり、下落合の住民たちが開業前の線路上を走る貨物列車を、何度も目撃した時期と重なるのだろう。
この2ヶ月間で、どれだけの量の建築資材が戸山ヶ原へ運びこまれたのかは不明だが、その直後から先述した大久保射撃場Click!をはじめ、陸軍軍医学校Click!、陸軍(第一)衛戍病院Click!、陸軍技術本部Click!、陸軍科学研究所Click!など戸山ヶ原の各エリアに、コンクリート建築が次々と竣工していくことになる。
さて、ここで鉄道連隊の部隊編成について触れてみよう。千葉鉄道第一連隊を例にとると、ひとつの作業中隊には兵員が250名ほどで、この構成は1.5kmの軌道敷設を11時間で完了するのを前提に編成されているという。中隊は4つの小隊に分かれ、軌道(レール)を敷く土地の測量や敷設記録を作成する「測量小隊」をはじめ、均地(整地)や経始(中心線定義)、枕木を設置する「第一小隊」、枕木や軌条、接続ボルトなどを運搬して軌条を敷設し金具で固定する「第二小隊」、線路の高低を土や砂利で修正したり、枕木にイヌクギを打ちこんで仕上げていく「第三小隊」とに分かれていた。
それぞれ歩兵の訓練に加え、専門の技術を身につけた兵員(技術兵)ばかりで、1941年(昭和16)まで鉄道第一連隊は3個中隊の編成になっており、また作業部隊とは別に材料廠部隊が設置され、兵員は1,300名ほどいたという。だが、太平洋戦争がはじまると、兵員はほぼ倍増の2,500名にまで増員された。鉄道連隊に関する記録は、実際に同連隊に勤務していた人物が証言している、1990年(平成2)3月に千葉市史編纂委員会が発行した『千葉いまむかし・No.3』(非売品)収録の、岩村増治郎「懐想の鐡道第一聯隊」に詳しい。
千葉駅近くの千葉公園には、鉄道第一連隊の遺構が残されているが、「懐想の鐡道第一聯隊」によれば訓練用トンネルの位置は当時のままで、保存にあたり加工されただけだという。また、同公園には訓練用のコンクリート橋脚やウィンチ台座が保存されている。
◆写真上:千葉公園に残る、鉄道連隊のマークがついた訓練用の隧道(トンネル)。
◆写真中上:上は、1929年(昭和4)作成の1/10,000地形図にみる千葉駅付近の鉄道第一連隊。中上は、1946年(昭和21)撮影の空中写真にみる空襲で壊滅的な被害を受けたとみられる同連隊跡。中下は、1929年(昭和4)作成の1/10,000地形図にみる津田沼駅の鉄道第二連隊。下は、1944年(昭和19)の空中写真にみる同連隊。
◆写真中下:上は、千葉鉄道第一連隊の連隊内演習地。右上に見えているトンネルは、現在も同位置に保存されている。中上は、保存された訓練用のトンネル。中下は、訓練用のコンクリート橋脚。下は、訓練時にウィンチを設置する台座跡。
◆写真下:上左は、1978年(昭和53)出版の小沢敬司『所沢陸軍飛行場史』(非売品)。上右は、1990年(平成2)刊行の『千葉いまむかし・No.3』(千葉市史編纂委員会/非売品)。中は、軌条敷設器(軌条引落架)を使って演習する鉄道連隊。下は、1928年(昭和3)6月22日に陸軍技術本部による軌条引落架の審査が結了し制式採用予定の通知。
★おまけ
千葉公園には、千葉駅周辺に展開した陸軍施設の案内板が設置されている。新宿区の戸山ヶ原も陸軍施設が集中していた地域であり、「新宿区平和都市宣言」の趣旨からも同様の案内板が欲しい。もっとも、鉄道連隊などの千葉とは異なり、戸山ヶ原は毒ガス兵器などを開発していた陸軍科学研究所Click!や、軍医学校防疫研究室(731部隊国内本部)Click!など内容がシビアな案内板となりそうだが、歴史や事実を「なかったこと」にしてはならない。
「これまであちこち調べてみたけれど、国立公文書館(陸軍関連記録)..」
大変ですね.....
「少なからず脱線転覆事故も起きていた..」
知りませんでした...
by サンフランシスコ人 (2024-06-18 01:07)
サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
事故の模様は、演習の記録写真として残されている場合もありますが、軍事的に秘密扱いの輸送などでは記録されないケースも多いと思います。
by ChinchikoPapa (2024-06-18 11:25)
千葉いまむかしは、コミュニティセンターの図書室閉鎖時に廃棄処分されたNo.5を拾って手元にございます。
千葉公園からさらに北へ行くと、モノレール作草部駅があり、その西側に“轟町”という一角がございます。
ここはかつて陸軍用地で、古い地図には線路が張り巡らされております。
むしろこっちが主たる拠点であったのではないかと思われます。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2b/Chiba_map_circa_1930.PNG
轟町は今は住宅地だったり学校だったりですが、煉瓦造りの建物が一部残っていたり、あるいは土地の登記記録を見ると大蔵省が前所有者、あるいは前々所有者として出てきたりします。
でも軍用地である旨の記録は、まだ見たことがございません。
by skekhtehuacso (2024-06-18 22:09)
skekhtehuacsoさん、コメントをありがとうございます。
おっしやるとおり、千葉公園は連隊の「作業場(訓練所)」跡で、連帯本部はもう少し北になりますね。展覧会帰りで少し遅くなりましたので、その先には残念ながら寄れず、モノレールの千葉公園駅から千葉駅へとすぐに引き返してしまいました。
書かれているレンガ造りの建物や、空中写真にも記入しましたが、現存している機関車組立工場なども見てみたかったです。
余談ですけれど、旧・連隊訓練所で千葉公園の中にある「荒木山」(陸軍標柱石のある丘です)は、古い空中写真で見ますと鍵穴型をしていますね。千葉県の古墳の多さは有名ですので、発掘するとなにか出てくるかもしれません。
by ChinchikoPapa (2024-06-18 23:14)