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板倉須美子はオアフ島に戦艦を浮かべる。 [気になるエトセトラ]

板倉須美子「ベル・ホノルル23」1928.jpeg
 先日、千葉市美術館で開かれていた「板倉鼎・須美子・パリに生きたふたりの画家」展Click!を観にでかけたが、板倉鼎の連れ合いである板倉/昇須美子(いたくら/のぼりすみこ)の面白さに惹かれてしまった。アカデミズムにまったく縛られず、すべて無視した構図や表現に思わず見とれてしまったのだ。夫婦ふたり展だったので夫の表現に比べると、ことさらその自由度や柔軟性の高さが際立っている。もう、絵を描くのが楽しくて面白くてしかたがないという感覚が、画面のそこかしこから溢れでていた。
 須美子の作品の中でも、特に目を惹いた画面があった。1926年(大正15)2月から6月まで、ハワイのホノルルに滞在していたときの情景をモチーフに制作した『ベル・ホノルル』シリーズだが、その中に『ベル・ホノルル23』(1928年)と題して、海岸に生えたヤシの樹間をゆったり散歩する人たちを描いた作品がある。画面を仔細に観察すると、彼女はユーモラスな性格というかかなり“変”で、ヤシの樹の陰に入りこんだ人物の半身や、画面の外(右側)へ歩いていき画角から外れようとしている人物の半身像などを描いている。つまり、風景の中に描かれている人々の姿の多くが、みんな中途半端で半身なのだ。樹の陰などで、前に歩く踏み足の見えない人物が、画面に5人も登場しており、おまけに黒いイヌの後足もヤシの陰に隠れて見えない。
 このイヌを連れた、薄いブルーのワンピース姿の女性が顕著な例で、左へ歩いていく女性の顔を含めた前半分がヤシの陰になって見えず、イヌは樹のさらに左側から姿を現わしている。同様に、画面右手の枠外へ歩み去ろうとしている、白いコットンスーツにストライプのシャツ姿をしたラフな男は、画家に視線を送りつつ身体の左半分しか描かれていない。当時の画家だったら、こんな構図や表現はまったくありえないだろうという、画面の“お約束”をまったく無視した「タブー」で非常識だらけの仕上がりなのだ。
 そして、中でももっとも目を惹かれたのは、ホノルル沖に停泊している濃い灰色をした巨大な船だ。この軍艦とみられる艦影は、手前に描かれたヨットのサイズと比較すると、ゆうに200mを超えそうな大きさをしている。しかも、この軍艦も樹影で断ち切られており、異様に長い艦尾が手前のヤシの右側から、ちょこんと顔を見せているようなありさまだ。戦前に生まれた方、あるいは艦船マニア(プラモマニア含む)なら、2本の煙突のうち前方の煙突が独特な形状で後方に屈曲しているのを見たら、絵が制作された1928年(昭和3)現在、想定できる軍艦は世界で2隻しか存在していないことに気づかれるだろう。
 軍縮時代の前、八八艦隊構想をもとに建造され「世界七大戦艦」と呼ばれた日本海軍の長門型戦艦の1番艦と2番艦、戦艦「長門」Click!「陸奥」Click!だ。排煙が前檣楼(艦橋)に流れこんでしまうため、第1煙突が屈曲型に改装されたのは第1次改装時で、「陸奥」が1925年(大正14)、「長門」が1926年(大正15)のことだ。以降、1934年(昭和9)の大規模な第2次改装までの約10年間、両艦は屈曲煙突の独特で印象的な艦影をしていた。
 でも、長門型戦艦にしては前檣楼(艦橋)が低すぎて、当時は平賀譲の設計で建艦技術が世界的に注目された軽巡洋艦「夕張」か、あるいはより排水量が大きな古鷹型重巡洋艦のような姿をしている。また、マスト下の後楼も存在しないように見えるし、そもそも40センチ2連装の砲塔4基がどこへいったのかまったく見えない。だが、須美子のデフォルメは大胆かつ“常識”にとらわれないのだ。これほどのサイズの艦船で、屈曲煙突を備えた軍艦は彼女が生きていた当時、戦艦「長門」「陸奥」の2隻以外には考えられない。
板倉須美子「ベル・ホノルル23」1928拡大.jpg
戦艦陸奥1924.jpg
軽巡洋艦「夕張」.jpg
毎日新聞19271030.jpg
 では、両艦のうちのいずれかが大正末、米太平洋艦隊の本拠地で真珠湾Click!もあるオアフ島のホノルル沖へ親善訪問をしており、須美子はそれを目にしているのだろうか? だが、両艦の艦歴を調べてみても、そんな事実は見あたらないし、そもそも当時は海軍の主力艦で最高機密に属する戦艦(特に「長門」は連合艦隊旗艦だった)が、お気軽に親善航海して海外の人々の目に艦影をさらすとも思えない。しかも、『ベル・ホノルル23』が描かれたのは1928年(昭和3)のパリであり、板倉鼎は落選したが、須美子の『ベル・ホノルル』シリーズのうち2点が、サロン・ドートンヌに入選している。
 『ベル・ホノルル23』に描かれた軍艦の謎を解くカギは、この1928年(昭和3)という年紀にありそうだ。前年の1927年(昭和2)は、大正天皇の葬儀が新宿御苑Click!を中心に行われ、摂政だった昭和天皇が即位した年だった。そして、同年10月30日には海軍特別大演習の実施と同時に、昭和天皇による初の観艦式が横浜沖で開催されている。その際、「御召艦」(天皇が乗る軍艦)の役をつとめたのが、連合艦隊旗艦の戦艦「長門」ではなく、姉妹艦の戦艦「陸奥」だった。観艦式の様子は、日本で発行されている新聞の1面で報道され、天皇が乗る「御召艦」の写真も掲載されている。
 余談だが、わたしの母方の祖父Click!は、このとき横浜沖の観艦式に出かけており、同式典で販売されていた軍艦のブロマイドを購入している。わたしが祖父宅へ遊びにいったとき、その写真を見せてくれたのだが、祖父が購入したのは「御召艦」だった戦艦「陸奥」ではなく、同様に第1煙突が奇妙に屈曲した戦艦「長門」のほうだった。
 当時、日本の新聞がパリへ配送されるのに、どれほどの時間が必要だったかは不明だが、須美子は掲載された写真を見ているのではないか。当時は船便なので、日本の新聞は数週間遅れ(ヘタをすると1ヶ月遅れ)で、パリの日本人コミュニティまでとどいていたと思われるのだが、彼女はその1面に掲載された独特な艦影の戦艦「陸奥」がことさら印象に残り、のちに『ベル・ホノルル23』に描き加えているのではないだろうか。彼女が日本海軍の“軍艦ヲタク”でないかぎり、そう考えるのが自然のように思える。
 須美子は、いつものようにベル(美しい)ホノルル風景を描いていた。海岸にヤシの樹々が並び、その樹間には海辺の散策を楽しむ人々が、面白い配置やポーズで次々と加えられていく。奥に描かれるハワイの海には、いつも夫と同様に白い三角帆のヨットやディンギーばかりを描いてきたが、「そうだわ、たまにはちがう船でも描いてみましょ!」と、以前に新聞で見た横浜沖の観艦式における戦艦「陸奥」の姿をイメージし、彼女にはめずらしく灰色の絵の具で写真を思いだしながら、その姿を再現してみた。
板倉須美子.jpg
特別大演習観艦式1927(横浜沖).jpg
板倉須美子1928.jpg
板倉須美子「ベル・ホノルル24」1928頃.jpg
 でも、彼女は軍艦のことなどよく知らないし、艦影もぼんやりとウロ憶えなので、戦艦の前檣楼をかなり低く描いてしまい、4基の砲塔はそもそもハッキリと記憶にとどめてはおらず、面白いと感じた煙突の鮮明なフォルムばかりが目立ってしまった。軍艦の中央構造部と全長を描いてみて、「こんな、寸詰まりのカタチじゃなかったかも。もっと長くて大きかったはずなのよ」と、右手の海岸に描いたヤシの端から艦尾をちょっとだけのぞかせることにした……。制作時の、そんな情景が想い浮かんでしまう『ベル・ホノルル23』の画面なのだ。ちなみに、同作を制作中の彼女の写真も残されている。
 ほかにも須美子の画面は、東京美術学校の教授や従来の画家たちが観たら、眼を吊りあげていきり立ちそうな、突っこみどころが満載だ。『ベル・ホノルル23』の次作『ベル・ホノルル24』(1928年ごろ)では、「キミ、この人物をタテにした構図の意図はなんだね? 手前のラリッてる半グレの金髪男で、背後の紳士の片足が隠れてるじゃないか。海の虹も2色だしサボテンも変だし、こんなのありえないよ!」と教授に叱責されそうだ。『ベル・ホノルル12』では、「右に歩いていく男の足先がキャンバス外れで欠けてるし、樹から半分のぞく女性は松本清張の『熱い空気』(家政婦は見た)なのか? なんでいつも半分で中途半端で、どこかが欠けてるんだよ!」と、官展の画家から説教されそうだ。w
 『ベル・ホノルル26』では、「キミは、なにか危ない思想にかぶれちゃいないだろうね。特高に尾けられてやしないか? 樹の陰には、それらしい男があちこちウロウロしてこちらをうかがってるよ! 中條百合子Click!なんかと仲よくするんじゃない!」と教授に懸念され、『公園』では「おい、メリーゴーランドの近くにいる人影からするってえと、奥の噴水脇にいる人物は身長5mかい? バッカ野郎!Click! 絵の基礎から面洗って勉強しやがれ!」と、プロの画家あたりに怒鳴られそうなのだ。けれども、彼女の描く絵は面白く、夫の余った絵の具を使ったといわれている色彩感覚もみずみずしくて新鮮だ。
 油絵の具の使い方をはじめ、板倉鼎からなにかとアドバイスを受けて描いているのだろうが、帝展画家の助言など無視して、のほほんと自由に描いているらしいところに、須美子の真骨頂やプリミティーフな魅力がありそうだ。上記の叱責や説教は、戦後の美術界ではほぼ無効になっていることを考えると、彼女は40年ほど早く生まれすぎたのかもしれない。
板倉須美子「ベル・ホノルル12」1928頃.jpg
板倉須美子「ベル・ホノルル26」1928頃.jpg
板倉須美子「公園」1931.jpg
よみがえる画家板倉鼎・須美子展2015.jpg 水谷嘉弘「板倉鼎をご存知ですか」2024コールサック社.jpg
 パリで短期間のうちに夫と次女に先立たれ、帰国してからは長女を亡くして、とうとうひとりになってしまった須美子は、1931年(昭和6)から佐伯米子Click!の紹介で有島生馬Click!の画塾に通いはじめている。妙なアカデミズムに染まらないほうが、彼女らしいオリジナル表現が保てるのに……と思うのは、わたしだけではないだろう。同じ境遇の佐伯米子Click!とは親しく交流しているようだが、1934年(昭和9)に須美子はわずか25歳で病没している。

◆写真上:1928年(昭和3)制作とみられる、板倉/昇須美子『ベル・ホノルル23』。
◆写真中上は、『ベル・ホノルル23』に描かれた軍艦部分の拡大。中上は、第1次改装を終えた1925年(大正14)撮影の戦艦「陸奥」。中下は、竣工間もない1924年(大正13)撮影の軽巡洋艦『夕張』。は、横浜沖で挙行された海軍特別大演習・観艦式を1面で報道する1927年(昭和2)10月30日の毎日新聞夕刊。
◆写真中下は、パリで撮影されたとみられる板倉/昇須美子。スマホのイヤホンで音楽を聴いているような風情から、100年近い年月をまるで感じさせない。中上は、1927年(昭和2)秋に横浜沖で行われた特別大演習・観艦式の戦艦「陸奥」を写した記念絵はがき。中下は、1928年(昭和3)の撮影とみられる『ベル・ホノルル23』を制作する須美子。は、同年ごろ制作された同『ベル・ホノルル24』。
◆写真下は、1927年(昭和2)ごろ制作の板倉/昇須美子『ベル・ホノルル12』(部分)。中上は、1928年(昭和3)ごろ制作の『ベル・ホノルル26』(部分)。中下は、1931年(昭和6)に制作された同『公園』。下左は、2015年(平成27)に目黒区美術館で開催された「よみがえる画家/板倉鼎・須美子」展図録。下右は、(社)板倉鼎・須美子の画業を伝える会Click!代表の水谷嘉弘様よりお送りいただいた著作『板倉鼎をご存じですか?』(コールサック社)。二瓶等(二瓶徳松)Click!の画業に関連し、拙ブログの紹介もしていただいている。
おまけ
 米軍が撮影した、長門型戦艦の写真を探しに米国サイトをサーフしていたら、米国防省から情報公開されたあまり見たことのない写真数葉を見つけたので、ついでにご紹介したい。上の写真は、1944年(昭和19)10月24日の捷1号作戦(レイテ沖海戦)中に、フィリピンのシブヤン海で米空母艦載機と交戦し、回避運動をする戦艦「長門」(手前)と戦艦「大和」Click!(奥)。なお、「長門」の同型艦で板倉/昇須美子がモチーフにしたとみられる戦艦「陸奥」は、1943年(昭和18)6月に広島沖の柱島泊地で謎の爆発事故により沈没している。中の写真は、同海戦で右舷に至近弾を受ける戦艦「武蔵」Click!で、同艦は同日の19時すぎに転覆してシブヤン海に沈没している。下の写真は、母港の横須賀港で係留砲台とされた敗戦時の戦艦「長門」。上空は米軍の艦載機で、敗戦時に唯一海上に浮かんでいた戦艦だった。
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戦艦武蔵19441024.jpg
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水谷嘉弘

落合道人様、おはようございます。本篇endingにお取り上げいただいた水谷です。拙著画像まで掲載賜りありがとうございました。
さて、板倉須美子の『ベル・ホノルル23』について、かねてから気になっていた背景の船についての詳細なご分析に快哉を叫びつつありがたく拝読いたしました。モヤモヤが晴れてすっきりしました。この絵を初めて見た時、軍艦と直感しましたが砲台が描かれていない事に安らかな気持ちになったのを覚えています。弩級戦艦「陸奥」だったのですね。展覧会監修者田中典子さんも流石にそこまで突っ込めておらず、早速、板倉鼎研究の関係者に知らせたく存じます。お差支えなければ一般社団法人「板倉鼎・須美子の画業を伝える会」のホームページでも紹介させていただきたくよろしくご検討ください。
学芸員にはとても書けない作品鑑賞の御文も楽しく読ませていただきました。面白かったです。私は、須美子の描く犬の足と尻尾に感心しました。上手いです。余談ながら吉村昭がこの絵を観たら何と言うだろうか?と思ったものでした。
by 水谷嘉弘 (2024-06-29 08:42) 

ChinchikoPapa

水谷嘉弘さん、コメントをありがとうございます。
わたしは会場で画面を観たとき、なぜハワイの海に長門型戦艦らしい巨大な艦影が浮かんでいるのかと、のけぞってしまいました。w よほど板倉須美子の脳裏に、新聞あるいは当時の写真誌で報道された、御召艦「陸奥」の姿が印象づけられたのではないかと思います。アサヒカメラなども、パリへ送られていた可能性もありそうですね。
どうぞ、記事はご自由にお使いください。学芸員の方々は、アカデミズムの教授や岸田劉生らしい画家のセリフに、呆れて苦笑されるのではないかと思います。
吉村昭がこの作品を観たら、ストレスをためて神経衰弱になった乗組員による犯行説ではなく、米国のスパイによる計画的な爆沈説へ一気に傾くのではないかと思います。w
by ChinchikoPapa (2024-06-29 12:37) 

skekhtehuacso

戦前のかるたに「陸奥と長門は日本の誇り」とあったそうですね。
秘匿とされていた大和とは異なり、それほどに著名な戦艦であれば、当時の新聞にその写真が頻繁に掲載されていて、しかも屈曲した煙突が印象に残っていて、思わず描いちゃったのでしょうか。
by skekhtehuacso (2024-06-29 21:51) 

ChinchikoPapa

skekhtehuacsoさん、コメントをありがとうございます。
海軍の“看板”であり、象徴的な存在の戦艦だったのでしょうね。ブロマイドや絵ハガキも、わたしの祖父がもっていたように数多く販売されているようです。おそらく、当時の人たちは屈曲煙突を見ただけで、すぐに主力艦だった長門型戦艦を認識できたのではないかと思います。
板倉須美子が、それを知っていて意識的に描いたかどうかはわかりませんが……。第2次改装を終えたあとは、両艦ともに世間への露出度がそれほど高くはなくなりますね。
by ChinchikoPapa (2024-06-29 23:37) 

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。板倉須美子さんの作品は、かなり時代を先取りしていますね。ハワイに日本の戦艦を浮かばせ、しかも主砲を描かないところに画家の非凡な才能があると思います。戦艦陸奥は、瀬戸内海を航行中に不慮の事故で転覆したとばかり思い込んでいましたが、停泊中に謎の爆発が起きたわけですね。この事故で1000人以上が逃げる間も無く亡くなったわけですから、一瞬で大爆発が発生したようですね。確か日露戦争の旗艦三笠は、乗組員が停泊中にアルコールランプのアルコールで酒盛りしていたのが原因で爆発事故が起きていますので、そういった原因も考えられるのかなと思います。
by pinkich (2024-07-13 11:11) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
「三笠」のケースは、完全に爆沈していますね。浅い水深だったので、艦体を引き上げて修理されましたけれど、「陸奥」はサルベージが困難な水深のため、重油だけ改修されて戦後までそのままでした。
火薬庫への引火爆発や砲塔内の爆発事故は案外多く、訓練中の戦艦「日向」も砲塔の爆発事故を起こしています。火薬庫には引火せずに沈没はまぬがれていますが、当時はひた隠しに隠された事故のせいか、あるいは戦前は機密扱いだった資料のせいか、これら艦艇の大事故はかなり印象が薄いように感じますね。
by ChinchikoPapa (2024-07-21 14:09) 

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