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ヒッチコックの『裏窓』から烏帽子岩が見える。 [気になる映像]

萬鉄五郎「烏帽子岩の見える海」.jpg
 大正末に下落合のアトリエ建築を物色し、目白中学校Click!の美術教師・清水七太郎Click!の仲介で、下落合584番地の二瓶等(徳松)アトリエClick!に目をつけていた画家に、茅ヶ崎で療養生活をつづけていた萬鉄五郎Click!がいる。1919年(大正8)以来、茅ヶ崎町(大字)南湖(字)天王山4275番地(現・茅ヶ崎市南湖4丁目5番地)に移住し、1927年(昭和2)に死去するまで茅ヶ崎での療養生活がつづいていた。現在でいうと、海岸にある「サザンビーチ・カフェ」から北北西へ600mほどの位置に萬鉄五郎アトリエ(木村別荘)があった。
 茅ヶ崎の地元民から、「おえべすさま」とあだ名で呼ばれて親しまれていた萬鉄五郎だが、ほどなく下落合への転居を計画していたにもかかわらず、結核の病状が重篤化して転地療養の8年めで茅ヶ崎に没している。萬鉄五郎は療養生活をつづけながら、1924年(大正13)から1926年(大正15)にかけて数多くの「茅ヶ崎風景」シリーズを制作している。冒頭の画面は、大正末ごろに制作された『烏帽子岩の見える海』という作品で、茅ヶ崎砂丘から姥島の烏帽子岩Click!を遠望した風景だ。浜辺に沿った茅葺き屋根の漁師村が描かれ、海岸や砂丘上に置かれた地曳き網漁Click!の舟が見えているが、相模湾の風が強くやや荒れ模様の海に見えるので、出漁禁止の日にスケッチしたのかもしれない。
 地元の舟をチャーターすれば、当時は姥島へも気軽にわたれたようで、上陸すれば烏帽子岩を眼前に眺めることができた。おそらく、萬鉄五郎も一度は見学しに漁師の舟をやとって姥島へ上陸しているのだろう。大磯Click!につづき、茅ヶ崎が別荘地や保養地、あるいは鎌倉Click!の由比ヶ浜や材木座海岸と並ぶ海水浴の観光地として拓かれた当時の様子を、1915年(大正4)に出版された河合辰太郎『湘南消夏録』(私家版)から引用してみよう。
  
 姥島(うばがしま/うばじま)は面積約一萬五千坪の一大岩石で、其中の最大岩を烏帽子岩と称し、其形ち其名に背かず、高さ五十尺(約15m余)、礁頂鋭尖、色稍ゝ白きが故に近傍を航する者の好目標となつて居る。岩上総じて海藻密生し、水線下は蠣(カキ)や螺(サザエ)を探し得べく、雲丹(ウニ)の黒針を簇生して点々岩上に付著(ママ:着)するも奇と言ひ得る。又岩隙水浅き処には細鱗群集して居る、子供等は手補にせんと懸命に逐廻すが、泉水の金魚と違ひ頗る敏捷で、容易には捕捉まらぬ、之れほ捉へやうとあせる状を見るも、一種の小景であつた。(カッコ内引用者註)
  
 烏帽子岩は、戦前から茅ヶ崎の保養客や海水浴客のシンボルとしての存在ばかりでなく、姥島の西に隣接した同じような岩礁の平島とともに、格好の漁場だった様子が伝えられている。萬鉄五郎の作品には、茅ヶ崎海岸へ海水浴に訪れる女性をモチーフにした『水着姿』(1926年)などが残されており、背後には烏帽子岩が描かれている。
 同作のほかにも、萬鉄五郎は『盛夏風景』『夏の朝』『荒模様』『冬の日』『海岸風景』『茅ヶ崎風景』『南湖院』『地震の印象』『少女(校服のとみ子)』など、茅ヶ崎の海辺を主題にした作品を数多く手がけている。また、漁師の家や漁民たち、地曳き網、海水浴場なども格好のモチーフとなり、「海岸や農家のまわりを写生してあるく。日本紙で手製の帳面を作り矢立代わりにインキ瓶のあったのに綿と墨を入れ、紐で左手につるして毛筆でつつきながら写してあるく」と、手記には書き残されている。
 萬鉄五郎の「茅ヶ崎風景」シリーズは、病気の悪化とは反比例するように楽しげで明るい。海岸に立てば、両袖に三浦半島と伊豆半島が眺められ、はるか海上には伊豆大島が望める湘南海岸Click!の明るい自然環境に、死ぬまで魅了されていたのかもしれない。その風光明媚さや、冬は暖かく夏は涼しい穏やかな気候、太平洋のほどよい波の高さと東西にどこまでもつづく砂浜の解放感は、日本初の海水浴場として別荘地・保養地に指定した、大磯の松本順(松本良順)Click!の眼差しと重なるものだったろう。
茅ヶ崎姥島1・20000地形図1886.jpg
米軍「Sagami-bay岩礁図」.jpg
三橋兄弟治「茅ヶ崎駅前」1928.jpg
 相模湾が引き潮になると、当時はまさに侍烏帽子(サムライえぼし)のかたちをした烏帽子岩の全体像が姿を現わしたが、1946年(昭和21)以降はその形状を次々と変えていくことになる。1945年(昭和20)の敗戦と同時に、米軍が旧・海軍の辻堂演習場を含む辻堂海岸(藤沢)から茅ヶ崎海岸にかけての広大な砂丘一帯を、射爆演習場として接収したからだ。烏帽子岩は、海岸からの砲撃演習や海上から小型艦船による艦砲射撃演習、あるいは空からの爆撃演習における、格好の標的にされることとなった。
 これらの砲爆撃演習により、烏帽子岩は年々その姿を変えていき、1959年(昭和34)に両海岸が日本へ返還されるころには、侍烏帽子のかたちはとうに失われ、やや南側に傾いだだけの、ただの三角岩のような形状になってしまった。また、茅ヶ崎と辻堂の両海岸一帯は、朝鮮戦争に備えた米軍の敵前上陸演習にも使用され、その砲爆撃の騒音は東の藤沢や鎌倉、西の平塚や大磯の海岸沿いの街々一帯に響いていた。
 当時の様子を、1995年(平成7)刊行の『茅ヶ崎市史・第2巻』から引用してみよう。
  
 敗戦後、茅ヶ崎・藤沢にわたる日本海軍の辻堂演習場は、アメリカ軍の利用するところとなった。相模湾での最初の大規模な上陸演習は、1946年(昭和21)10月におこなわれ、朝鮮戦争の勃発した1950年ごろから、実弾射撃演習が頻繁に行なわれることとなった。アメリカ軍の演習にもっとも被害をこうむったのは周辺の漁業民であった。演習水域での操業制限はいうまでもなく、漁船・漁網・漁具の破損や、火薬処理・爆撃の震動による家屋の破損、病床にある者の神経衰弱、演習場に近接した学校の就学への支障など、その被害は生活面の多岐にわたった。またアメリカ兵による風紀を乱す行いもあった。このような被害については、占領下にある段階では、わずかな補償(見舞金)が厚生省を通じてなされるにとどまった。(中略) あいつぐアメリカ軍の射撃演習の的となった烏帽子岩は変形し、天然の漁場の漁獲は減少した。
  
 当時、同じく米軍射爆場にされていた石川県の内灘海岸における反対運動の影響を受け、茅ヶ崎・辻堂の両海岸でも地元を中心に、激しい返還運動が展開されている。
烏帽子岩1935.jpg
烏帽子岩(現代).jpg
萬鉄五郎「水着姿」1926.jpg
夏の大磯町1926_color.jpg
 さて、話の舞台はガラリと変わるが、A.ヒッチコックClick!監督の映画に、『Rear Window(裏窓)』(1954年)という作品がある。足を骨折し、車椅子から動けない生活をしていたカメラマンのジェフリーズ(ジェームズ・スチュアート)は、退屈しのぎに双眼鏡やカメラの望遠レンズで近所の“のぞき”をしていた。そして、ニューヨークの自宅アパートから、裏のアパートに住む宝飾セールスマンのソーウォルド(レイモンド・バー)が、口うるさい妻を殺して死体をバラバラにしたのではないかと疑いはじめる。毎日アパートへ訪ねてくる、ガールフレンドのリサ(グレース・ケリー)や、通い看護婦のステラ(セルマ・リッター)も巻きこんで、スリルとサスペンスの推理物語が進行していく。先日、デジタル・リマスタリングが済んで画面が鮮明になった『裏窓』を観ていたのだが、アパートの壁面に飾られた報道写真の1枚に、思わず目を奪われてしまった。
 カメラマンのジェフリーズは戦時中、日米戦の従軍カメラマンだったらしく、偵察機から撮影したエピソードなども語られるので、米軍偵察機F13Click!を中心とする空中写真部隊Click!と行動をともにしていたのかもしれない。アパートの壁面には、沖縄戦で上陸用舟艇から撮影したとみられる写真や、米国ニューメキシコにおける核実験の演習写真などが飾られている。ほかにも、カーレースのクラッシュ写真や交通事故、爆発事故などの写真もあるので、戦後は写真誌のカメラマンとして契約しているのかもしれない。中には、戦後の米軍演習(朝鮮戦争か?)を撮影したと思われる写真もあるが、その1枚に茅ヶ崎沖の烏帽子岩を標的に、米軍の砲撃演習を撮影したとみられる画面がある。
 烏帽子岩の周辺には、砲撃による着弾の水柱が数多く立ちならび、茅ヶ崎海岸ないしは辻堂海岸からの砲撃演習であれば、沖の着弾観測船から望遠で撮影したとみられる画面だ。また、小型艦船による艦砲射撃演習だとすれば、同艦船のブリッジから望遠して着弾の様子をとらえたものだろう。いずれにしても、烏帽子岩のかたちから1950年(昭和25)前後の射撃演習ではないかと思われる。映画が公開されたのは1954年(昭和29)なので、それ以前に米国防総省から公表されていた米軍の演習写真の1枚を、ジェフリーズが撮影した作品として小道具に採用したものだろうか。
 『裏窓』では、リサがレストランの給仕とともにアパートを訪ねてきて、ジェフリーズと将来について語りあう1シーンと、殺人の疑いが濃厚になり友人で戦友のドイル刑事に相談するが、相手にされない1シーンとにチラリと烏帽子岩らしきフォルムが登場している。もっとも、映画が撮影されるころには朝鮮戦争は休戦となり(映画公開はその直後)、茅ヶ崎海岸や辻堂海岸を舞台にした実弾砲爆撃演習や敵前上陸演習は行われなくなっていただろう。これら米軍に接収されていた茅ヶ崎・辻堂の海岸線Click!が日本へ返還されるのは、『裏窓』が公開されてから5年後の、1959年(昭和34)になってからのことだ。
萬鉄五郎.jpg 三橋兄弟治.jpg
烏帽子岩(現在)2.jpg
裏窓シーン.jpg
裏窓拡大.jpg
 もの心つくころ、烏帽子岩はとうに三角形の奇妙な形状になっていたが、わたしは単純に、そのかたちが昔の烏帽子に似ているからだと思いこんだ。「♪エボシ~岩が遠くに見える~涙あふれて~かすんでる~」(『チャコの海岸物語』)と歌うサザンオールスターズだけれど、烏帽子岩がサムライ烏帽子のかたちを失ってから、すでに70年余の歳月が流れた。

◆写真上:大正末ごろに制作された、萬鉄五郎『烏帽子岩の見える海』。
◆写真中上は、1886年(明治19)に作成された1/20,000地形図にみる茅ヶ崎沖の姥島と平島の岩礁。は、米軍が作成した「Sagami-bay岩礁図」にみる烏帽子岩。は、1928年(昭和3)に制作された三橋兄弟治『茅ヶ崎駅前』。
◆写真中下は、1935年(昭和10)に撮影された烏帽子岩。中上は、茅ヶ崎海岸から遠望した烏帽子岩の現状。中下は、1926年(大正15)制作の萬鉄五郎『水着姿』で満潮時の烏帽子岩が描かれている。は、1926年(大正15)の夏に別荘地・大磯で撮影された街の様子(AI着色)で、茅ヶ崎の繁華街も似たような雰囲気だったろう。華族一行のあとを、地元の子どもたちがゾロゾロついてまわっているが、背後の高麗山の形状から旧・東海道より国道1号線に出るあたりで撮影されたとみられる。化粧坂に残る松並木や史蹟類を見物した帰りのようだが、佐伯祐三Click!一家が避暑で滞在した大磯山王町418番地の別荘Click!は、ちょうど画面左手を120mほど北へ入った東海道線の線路ぎわにあった。
◆写真下は、萬鉄五郎()と三橋兄弟治()。中上は、侍烏帽子のかたちが失われた現代の烏帽子岩。中下は、ヒッチコック『裏窓』(1954年)の1シーンで、グレース・ケリーの右横に烏帽子岩の着弾観測時に撮影されたとみられる写真が飾られている。
おまけ1
 1960年代後半に撮影された、茅ヶ崎海水浴場とユーホー道路(湘南道路)Click!だが、1959年(昭和34)までは米軍の射爆演習場だった。遠景に見えるのはパシフィックホテル茅ヶ崎で、その向こうの海岸がガメラ映画Click!のロケ地。下は、1966年(昭和41)に開業した当時のパシフィックホテル茅ヶ崎だけれど、その駐車場の水銀灯の下から錆びた鉄箱に入れられた北朝鮮製の無線機が発見され、湘南の地元ではちょっとしたスパイ騒ぎになった。
パシフィックホテル1960年代後半.jpg
パシフィックホテル茅ヶ崎1965.jpg
おまけ2
 今年もいつもの夏のように、大きなカブトムシが下落合の木々を飛びまわっている。
カブトムシ.jpg

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サンフランシスコ人

「画面が鮮明になった『裏窓』を観ていたのだが、アパートの壁面に飾られた報道写真の1枚に、思わず目を奪われてしまった....」

『裏窓』.......懐かしいですね....

「戦後は写真誌のカメラマンとして契約しているのかもしれない....」

米軍専属のカメラマンは、2024年にも居るはずです....


by サンフランシスコ人 (2024-08-14 01:42) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
室内の壁に架けられている写真類を総合しますと、太平洋戦争末期は従軍カメラマンとして、戦後はその経験から米軍の演習を撮影したり、事故現場や秘境などを撮影する報道カメラマンとして、写真専門誌と契約していた……というような人物像ですね。
by ChinchikoPapa (2024-08-14 10:25) 

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。萬鉄五郎は、確か東京美術学校で片多徳郎と同期生でしたね。その当時の美校は黒田清輝の影響力が強すぎて、片多徳郎と萬鉄五郎はかなり反発していたようです。萬鉄五郎が落合地域に転居していたら、どういう人間関係が広がっていたのか興味深いですね。ところで、ヒッチコックの映画に映り込んだ烏帽子岩の写真を見つけるとは凄いですね。観察力が半端ないです。
by pinkich (2024-08-16 21:12) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
もし、萬鉄五郎がもう少し長生きして下落合にアトリエをかまえていたら、片多徳郎とは親しく交流したかもしれないですね。しかも、片多徳郎アトリエと二瓶等アトリエは、ほぼ東西の1本道でつながり徒歩数分の距離です。また、美校の1学年下には牧野虎雄や熊岡美彦が、1学年上には小寺健吉がいましたので、興味深いエピソードが生まれていた可能性が大だと思います。
『裏窓』の烏帽子岩は、デジタル・リマスタリングのおかげですね。
by ChinchikoPapa (2024-08-17 10:40) 

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。萬鉄五郎と片多徳郎の交流については、大分県立美術館作成の片多徳郎展の図録に、片多徳郎による萬の追悼文が掲載されており、その中で語られていますね。画風は真逆でしたが、萬が上京した際は、片多邸に泊まり夜を徹して語り合ったようです。片多にとって萬の描く裸婦は、理解できなかったけれど、それでも嫌いではなかったとのこと。二人が夜を徹してなにを語り合ったのか興味深いですね。
by pinkich (2024-09-07 20:20) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
ほんとうに、文展・帝展の優等生のような片多徳郎と、当時の画壇反逆児的な印象が強い萬鉄五郎とでは表現が水と油ですが、いったい何をそんなに話すことがあったのでしょう。あまり聞いたことはありませんが、岩手の萬鉄五郎も酒好きだったとすれば、メインは夜を徹しての「酒」で、話は「肴」だったのかもしれませんが。w 
by ChinchikoPapa (2024-09-07 21:45) 

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