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大川(隅田川)の河口に浮かぶ白い手。 [気になる神田川]

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 大川(隅田川)Click!が東京湾へと注ぐ台場の河口付近あたりを、吃水が浅い屋形船やクルーザー、プレジャーボートなどで航行していると、水面から白い手が出て舟べりをつかむという怪談を、わたしは子どものころから聞いていた。
 初めて聞いたのは、明治座Click!帰りにでも親たちとともに屋形船で天ぷら料理を食べた、小学校高学年のころだったろう。このとき利用した屋形は、かろうじて営業をつづけていた柳橋Click!小松屋Click!の舟だったと記憶している。当時、船宿は次々に廃業し、残っていたのはいまでは佃煮も売っている小松屋ぐらいだったろうか。そのころ、船宿の井筒屋や田中屋も営業をつづけていたかどうかは憶えていない。おそらく、小松屋は先祖代々の“ご用達”の船宿で、猪牙や屋形を手軽に利用していたのだろう。いまほど、屋形船のサイズも大型ではなく、モーターの馬力もそれほど出なかったし、船内の座敷も狭かったので船頭や給仕たちとの距離も近かった。1960年代の後半、藍染めのハチマキをした船頭のじいさんが、いまだ煙管(キセル)で刻みを吸っていた時代だ。
 そもそも、1960年代の後半から1970年代にかけ、屋形を商売にする大川(隅田川)から河口の東京湾(江戸湾)をめぐる船宿は激減していた。もちろん、当時はピークを迎えていた生活排水が流入する河川の汚濁による悪臭が、大川とその周辺の街々をおおっていた時代で、特に1964年(昭和39)の東京オリンピック以降は街々の破壊(小林信彦Click!のいう“町殺し”Click!)が急速に進み、「とても人が住めんとこじゃねえやな。郊外へ引(し)っ越すわ」と、あちこちでいわれていた時期と重なる。
 ここでいう「郊外」Click!とは、山手線の西側に設置された駅々周辺のことで、(城)下町Click!神田明神社Click!日枝権現社Click!に属する氏子町のすぐ外周域、行政区画でいえば東京15区Click!の西側に隣接する、「東京へいってくら」Click!のエリアのことだ。そこには、戦前からの武蔵野の面影とともに、東京五輪1964で関東大震災Click!の防災インフラがつぶされることもなく、またスモッグClick!が都心よりはまだ薄く、高速道路が縦横に走る騒音も聞こえない、緑の濃い静かな住宅街が形成されていた。
 いまでこそ、神田川Click!日本橋川Click!はもちろん、大川の水質は大きく改善Click!され(ひょっとするとパリ五輪競技が行なわれたセーヌ川よりもキレイかもしれない)、あの悪臭の汚濁時代はなんだったのかと不可思議に感じるほどだが、子どものころ屋形に乗ると海に抜けるまで、大川の悪臭はついてまわった。だから、食事をするのは悪臭が薄れた東京湾に出てからで、大川を上下しているときは景色を眺めるだけだった。
 もっとも、当時の屋形はいまよりも小型で、東京湾に出ると波の高い日はけっこう揺れた。わたしの家族は、舟に強かったので酔うことはなかったが、大川の悪臭には閉口した。わたしが子どものころ、屋形を乗り合いではなく1艘チャーターすると10万円だったが、いまでは舟のサイズにもよるが20万円以上はするようだ。もっとも、この価格設定は最近の外国人観光客をめあてにしたものだろうか。当時は、柳橋芸者が絶滅Click!していたため呼ぶことなどできなかったけれど、いまでは柳橋かどうかは不明だが芸妓・芸人を呼べるようだ。でも、ちゃんと線道Click!清元Click!小唄・端唄Click!、踊りなど江戸東京の伝統的な座敷を勤められる子たちかどうかは、はなはだ疑問なのだが……。
 さて、白い手の怪談は、親父と船頭たちとの世間話の中に混じっていたのか、そのとき同席していた親戚や乗客との会話の中で語られたものか、あるいは屋形を下りて帰宅してから聞かされたものかは憶えていないのでハッキリしない。少なくとも、お客が二度と利用したくなくなるような話を、船頭や給仕の女性がしたとは思えないので、おそらく乗り合いのお客の話か帰宅してからの親父の話だったのだろう。
 屋形船じたいが、非日常的な乗り物だったせいか、水面から現れる白い手が舟べりをつかんで離さないという幽霊譚は、どこか別の世界の出来事、いま風にいえば出所が不明な都市伝説のたぐいのように感じて、あまり身近な怖さには感じなかったように思う。ただし、水面からニュッと突きだされる白い手の印象は、大人になるまでずっと強く残っていた。
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 そんな大川の、昔から語り継がれた怪談を思いだしたのは、気の進まない屋形船での宴会へ人数あわせで呼ばれ、つまらない時間をすごした平山夢明の怪談からだ。著者は、屋形がまっすぐ船宿へ帰らず河口を大まわりしたのを不可解に感じた。2011年(平成23)に角川春樹事務所から出版された『怖い本9』収録、「屋形船にて」から少し引用してみよう。
  
 船頭は短く刈り込んだ白髪頭をガリガリと引っ掻くと煙草に火を点けた。/暗い水面から明るい街の明かりを眺めるのは、妙な気分だ。/俺はそこ(屋形の屋根)に上がってみて初めて自分が船に乗っているんだという感じがした。/「なんで大回りしたの」/「うん、まあ、サービスだね」/「でも長く走れば、その分、油代もかさむでしょうに」/「まあな」/「でも、大したことないのか」/「そんなことはないけどな……仕方がないんだ。しきたりだから」/「しきたり?」/すると船頭がちょっと考え込むような顔をしてから「あんたならいいか」と云った。「さっき手をかけられちまったんだよ」/「て?」/「ああ、手だよ」船頭は煙草を持つ手をひらひらさせた。「船べりに手を掛けられたんだ」/俺は意味がわからなかった。/「川ってのは山と同じで古いもんだし、因果なもんだよ。だから俺らにはいろいろと言い伝えもあるし、守らなくちゃならないこともある」(カッコ内引用者註)
  
 舟べりに白い手をかけた亡者が、わたしが子どものころに聞いた怪談話を含め、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!で猛火に追われ、大川に飛びこんだ人々Click!の誰かと想像するのはたやすい。だが、船頭が「古い」「因果」で「しきたり」という表現をしているのが、さらに古い時代からの伝承であることをうかがわせる。
 では、1923年(大正12)9月1日の関東大震災の犠牲者か、それともさらに古い明治期や江戸期の大火事、大地震、橋の崩落Click!などで犠牲になった人々なのか、「因果」や「しきたり」になるぐらいだから、明治に入ってからの話ではないのかもしれない。
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 1657年(明暦3)の明暦大火では、10万人が犠牲になったと伝えられるが、その犠牲者の中には火炎の熱さに耐えきれず、大川に飛びこんで溺死した死者も多く含まれる。千代田城Click!の外濠にあたる浅草御門(浅草見附=浅草橋)Click!が焼け落ち、外濠(神田川Click!)へ飛びこんだ人々が大川に流されて溺死した話も、江戸初期から延々と伝わっている。神田川の出口に架かる柳橋は、明暦大火で迫る火災から逃げ場を失い、大川へ飛びこんで大量の溺死者をだした教訓から架けられたのがはじまりと聞いている。
 いずれにしても江戸東京は、特に(城)下町=旧・東京15区は、どこかのWebサイトのようにポツポツと炎アイコンが貼られるような中途半端で生やさしい地域ではなく、生きたくても生きられなかった人々の阿鼻叫喚の声が満ちる、都市や河川・海が丸ごと「事故物件」のような土地がらなのだ。だから、その市街地(陸上)を離れ流されていった人たちの怨嗟が、川や海に宿るのもむべなるかなの地域であり、舟べりをつかむ手が現れて陸(街)へ帰りたがっている怪談を聞いても、なんら不自然さを感じずに「そりゃそうだろうね」と、自然に納得してしまうようなリアリティをおぼえるのだ。
 屋形が警笛を鳴らし、急に減速したのを思い出しながら、著者は船頭の話を聞きつづける。同書収録の「屋形船にて」より、再び少し長いが引用してみよう。
  
 「あそこは減速しちゃいけねえんだ。あの瀬はね。一気に越さないと女が川のなかから手を掛けてくるし、そのまま戻ると船宿まで連れて帰ることになるから、振り落とすには少々遠回りしなくちゃなんないんだ」/船頭は笑っていなかった。何か詰まらない話をしているといった風情で淡々とそう話した。/「女は死んでる?」/すると船頭は俺をじっと見た。/「生きてる女を振り落としたら人殺しだよ。この川はそういう謂れが多いんだ。勿論、無視するのもいるけどね。そういうのは大抵、暫くすると店を畳むね。この商売にはそういう畏れをきちんと感じていなけりゃならない部分があるんだ。なにしろ水の上で売(ばい)を打つってのは天に身を任せて稼がせて貰ってるようなもんだから……あの女も遊女なんだか、戦争で逃げ遅れた人なんだか、はたまたもっともっと昔の古い因縁なんだか、詳しいことは私らも知らない。ただ、舳先を摑まれたら遠回りして捨てる、これは親父の代のそのずっと前からやってることでね」/「見たんですね」/「ああ、あの瀬で前のトロいプレジャーボートが前を横切りやがったんで減速せざるを得なかった。そのとき、白い手が舳先を握るのをカミさんが見たんだ」(カッコ内引用者註)
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 わたしは子ども時代に何度か、大人になってからも4回ほど大川の屋形には乗っているけれど、いまだ舟べりに白い女の手がかかり、航路を遠まわりして帰った憶えはない。いや、わたしが気づかないだけで、天ぷらや刺し身を食いながら談笑する間、船頭が白い手を振り払おうと必死に舵とりをしてたのに、気づかないだけだったのかもしれないのだが。

◆写真上:柳橋の下をくぐりながら、上流の浅草橋(浅草見附)方面を眺める。
◆写真中上は、江戸期から曽々祖父母の世代までが目にしていた1893年(明治26)撮影の柳橋から大橋(両国橋)の眺め。大橋の位置が、現在より40mほど下流に架かっている。は、曽祖父母の世代が目にした大震災前の大橋。は、屋形が舫う柳橋から大橋を眺めた祖父母からわたしまでの世代が目にしている現状。
◆写真中下は、柳橋から浅草橋方面を眺める。中上中下は、柳橋たもとの小松屋の屋形乗り場と店舗。は、浅草橋北詰めの田中屋。
◆写真下は、柳橋から浅草橋を眺めた現状。中上は、黄昏の大川に屋形船が繰りだす。中下は、大橋(両国橋)から見る夜の大川で右端が日本橋中学校Click!(旧・千代田小学校Click!)。は、1960年代までとは異なり夜になるとひっそりとしてしまう柳橋の電飾。

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コメント 2

サンフランシスコ人

料理を食べる目的の屋形船は、韓国や中国にも存在するのでしょうか?
by サンフランシスコ人 (2024-08-17 07:18) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
さあ、両国は訪れたことがないので不明です。ただし、川辺に舟を浮かべて涼をとる習慣は、どこの国でもありそうですね。
by ChinchikoPapa (2024-08-17 10:43) 

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