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中村彝『庭(風景)』と大里一太郎『ゆかりの園』。 [気になる下落合]

中村鶴「庭」1918頃.jpg
 現在では『風景』と題されている、1918年(大正7)ごろに中村彝Click!が制作した1号F(21.0×16.0cm)の小品がある。個人蔵らしく、展覧会ではあまり見ない作品だが、中村彝アトリエの南にある芝庭から藤棚やテラスの東側を描いたものだ。
 1931年(昭和6)の現在、同作のタイトルは『庭』とされていたが、いつの間にか(戦後か?)『風景』というタイトルに入れ替わった。中村彝が、当初から『庭』というタイトルをつけていたのか、あるいは大正末から昭和期にかけ、同作を所有していた大里一太郎がそう名づけたかは不明だが、彝が自身のアトリエの外観を描いた数少ない1作だ。わたしは、1984年(昭和59)に開かれた神奈川県立美術館と三重県立美術館の、「歿後六十年記念/中村彝展」図録に掲載されたモノクロ画面でしか見たことがなかった。
 庭からアトリエを描いた絵には小品が多く、1916年(昭和5)に下落合464番地へアトリエを建てたあとの数年間、美術商や画廊を通じて希望者に頒布する、いわゆる“売り絵”として描かれた小品だろうか。大正末から昭和期にかけ、『庭』(現在は『風景』)を所有していた大里一太郎は、埼玉県粕壁村(現・春日部市)の豪農兼豪商の出自で、当時は多額納税者として知られていた。また、東京駅前にあたる丸の内に土地を所有していたので、大地主としても知られる人物だった。
 大里自身は東京市麹町区に住んでいたので、粕壁(春日部)での農業や商売は差配や小作人たちに運営させていたのだろう。敗戦とともにGHQから土地を没収される、当時の典型的な不在地主のひとりだった。大里一太郎について、2004年(平成16)に発表された「住宅総合研究財'団研究論文集No.31」収録の、『近代建築における建設会社設計部技術者の研究―大友弘の業績を通じて―』(主査・平山育男/委員・松波秀子)から少し引用してみよう。
  
 大里一太郎は昭和時代初期、埼玉県粕壁で農業を営む多額納税者である一方、丸の内周辺に1,000坪を越える土地を所有した地主で、絵画の収集家でもあった。/大里邸は麹町区中六番地10-7、現在の千代田区四番町に大正15(1926)年12月に建てられたもので、敷地には木造平家建78.9坪の主屋と鉄筋コンクリート造3階建22.5坪の倉が建てられた。設計は<清水組の>技師長田中実の下、主任は大友<弘>と宇佐美善太郎が当たり、家具装飾は高島屋装飾部が関わった。なお、主屋の外観は真壁塗で羽目板張の日本家であったが、客室は楢床板張とする洋間で,暖炉等が設備された。(< >内引用者註)
  
 清水組は今日の清水建設で、同論文は建築士・大友弘の作品について紹介したものだ。大里一太郎が収集した絵画・彫刻・工芸などの美術品は、書かれている「鉄筋コンクリート造3階建22.5坪の倉」に収蔵されていたのだろう。
 3階建ての大きな倉なので、単に作品を保管するだけでなく展示するスペースを設け、コレクションを興味のある訪問者に見せていたのかもしれない。同論文には、麹町中六番地に建っていた大里邸の客室(応接室)をとらえた写真が掲載されているが、絵画の蒐集家だったにもかかわらず、当時は洋風の応接室によく架けられていた洋画作品がまったく見あたらない。おそらく、作品の焼失を怖れた大里は、不燃の倉の中へ所蔵品を収めていたのだろう。また、大里一太郎は中村彝の『エロシェンコ氏の像』Click!を秘蔵しており、東京国立近代美術館へ寄贈したことでも有名だ。おそらく、没落して最後には下落合2丁目707番地(現・中落合2丁目)に住むようになる、今村繁三Click!が手放したのを入手しているのだろう。
大里邸応接室192612.jpg
大里静子像.jpg
大里一太郎「ゆかりの園」1932.jpg 大里一太郎「ゆかりの園」記念.jpg
 わたしが、中村彝の描く『庭(風景)』が大里家の蒐集品だと知ったのは、1932年(昭和7)に大里一太郎から帝国図書館(現・国立国会図書館)へ寄贈された画集『ゆかりの園』(私家版)からだった。日本画・洋画を問わず、同書には同家所蔵の彫刻・工芸作品まで収録されているので、画集というより美術集といったほうが適切かもしれない。洋画は、中村彝のほかに岡田三郎助Click!黒田清輝Click!和田英作Click!石井柏亭Click!中澤弘光Click!藤島武二Click!満谷国四郎Click!南薫造Click!安井曾太郎Click!など下落合ゆかりの画家たちも含めた10人で、合計15作品が高精細な画像でページに貼付されている。また、日本画は9点、彫刻・工芸作品が18点ほど同様に収録されている美術集だ。
 大里一太郎は、大正中期ごろから洋画や日本画を収集しはじめているようなので、おそらく中村彝がいまだ存命だった1924年(大正13)12月以前に、『庭(風景)』を手に入れているのではないだろうか。そして現在の『風景』というタイトルではなく、彝自身から『庭』という画題を聞いている可能性が高いように思う。彼の美術集『ゆかりの園』には、もちろん『庭』というタイトルで収録されている。
 さて、わたしが不可解に感じたのは、大里一太郎の所有するおもな美術品が掲載された同美術集が、大里家のコレクションを広く世に紹介・喧伝するために編纂されたのではなく、亡き妻への個人的な追憶集として自費出版されている点だ。死去した人物への追憶(追悼)集といえば、ふつうは故人の思い出を綴った随筆や、ゆかりの人物たちによる亡き人への追悼・追憶文が掲載される書籍形式が一般的だが、『ゆかりの園』はなぜか大里家が収蔵する美術コレクションの写真集なのだ。
 冒頭には、大里一太郎の筆で「わが妻静子を追憶して/一太郎」と入り、序文は鏡花小史(泉鏡花)Click!が書いている。そして、冒頭には1921年(大正10)9月19日に数えで23歳(満22歳)で死去した、大里一太郎の妻・静子の肖像画(岡田三郎助が着彩したもの)が掲載されており、結婚式の祝い着姿の写真をベースにしたものだ。1932年(昭和7)の出版である追悼の美術集『ゆかりの園』は、妻が死去して11年もたってから刊行されていることに違和感を感じるのはわたしだけではないだろう。そして、作品の解説は東京美術学校の教授になっていた下落合2丁目630番地(現・下落合4丁目)の森田亀之助Click!が担当している。ただし、森田は絵画の解説はせず、歴史的な彫刻・工芸コレクションの説明をしているだけだ。
中村彝「画室の庭」1918頃.jpg
石井柏亭「ナポリの春」.jpg
南薫造「マーガレットとアネモネ」.jpg
満谷国四郎「牛小屋」.jpg
 『ゆかりの園』の冒頭に書かれた、鏡花小史(泉鏡花)の序を少し引用してみよう。
  
 あゝ、いかにせむ、新婦すでに亡きなり。胸を疼んで夭しぬ。伉儷僅かに三年、比翼、翼折け、連理、枝裂けぬ。高髷の綿帽子に、朝霞なほ仄かなるに、世上の風は迅く羅綾の袖を襲へるなりとぞ。新郎、いかにしてか、忍んで、この悲傷に堪へむとする。銷魂、断腸、絶せむとし、狂せむとする幾十廻。ひとり遺子一顆の珠あり。死を生に替へ、生を憧憬に換へつゝも、鬱悶の暗雲、昼夜に低迷するところ、胸裡一脈の光明を山の端の月に照らされしより、面影を芸苑の花に求めむが為に、絵画、彫刻の佳品、陶磁、金鋳の名器を集むること、東西殆ど十年。わが美と、彼が精と、また其の哀切悲恋の至情と相俟つて一堂の美術、工芸の各品。個個みな清韻霊容を備へ、紫の雲も靉靆く、関東の藤の名所の曙に、ゆかりの園、ゆかりの室、ゆかりの台を築き成せり。これを、なき人の紀念のために、一帖に合せ聯ねて、ゆかりの園と云ふといふ。
  
 いかにも泉鏡花Click!らしい一文だが、どうやらこういうことらしい。大里一太郎のもとに19歳で嫁いできた群馬県佐野町(現・佐野市)出身の小林静(子)という女性は、わずか2年余の22歳で急逝している。子どもを残しているので、出産時に母体が想像以上のダメージを受け、罹患していた結核が急激に悪化して死去しているのかもしれない。
 それを嘆き悲しんだ大里一太郎は、気を紛らわせるためにか、にわかに美術品の熱狂的な蒐集をしはじめ、妻の死から10年ほどたった1931年(昭和6)に、手もとにある主要な美術品の写真や画像を掲載した美術集の出版を思い立ち企画した。同年に、岡田三郎助には亡き妻の結婚当時に撮影した写真への着彩を、泉鏡花には序文を、森田亀之助には工芸品の解説原稿を依頼して、1932年(昭和7)の早い時期に私家版として出版。そのうちの1冊を、亡き妻への献呈を添えて帝国図書館へ寄贈した……という経緯のようだ。
 けれども、結婚して間もなく急逝した妻のため、その後10年かけて蒐集した美術品や工芸品を、豪華な美術集にして出版し追悼するというのは、なんとなく意味あいからすると起きた悲劇との間に距離感をおぼえてしまい、追悼や哀悼からは“遠い”行為のように映る。たとえば、生前に妻が愛した絵画や、愛用した工芸品を集めて記念写真集にするなら理解できる。だが、『ゆかりの園』に集められた作品は、すべて妻の死後に蒐集したもので、彼女はこれら美術品の存在をまったく知らない。
 まあ、人それぞれの“傷心”感覚なのだから、驚くほどの大金をはたいて集めた美術品を亡き妻に捧げること、つまり身を切られるほどの経済的な“痛み”を味わうことで、亡き妻への哀切な気持ちや思慕、あるいは妻への贖罪や慰謝に代替するという感覚は、なんとなくわかるような気がしないでもない。けれども、どれだけ心に痛手を受けたのかを、莫大な散財で表現し代替して見せるという行為は、どう考えても18世紀のヨーロッパ王侯貴族的な感覚で野暮な趣味だと、貧乏人のわたしは感じてしまうのだ。
安井曾太郎「ジユニヤ」.jpg
黒田清輝「フランス風景」.jpg
岡田三郎助「コローの池」.jpg
藤島武二「風景」.jpg
 『ゆかりの園』でも中村彝の図録でも、モノクロでしか観たことがない『庭(風景)』だが、カラー画像あるいは実物を観てみたいものだ。アトリエの南面、テラスの白い観音開きドアが開いており、室内に置かれているモノを確かめてみたい気が以前からしている。

◆写真上:『ゆかりの園』に収録された、1918年(大正7)ごろ制作の中村彝『庭(風景)』。
◆写真中上は、1926年(大正15)12月竣工の大里一太郎邸の客室(清水組)。は、写真に岡田三郎助が彩色した『大里静子像』。は、1932年(昭和7)に出版された大里一太郎『ゆかりの園』表紙()と大里一太郎の亡妻への献呈()。
◆写真中下は、1918年(大正7)ごろの同時期に描かれた中村彝『画室の庭』。左手に、当時はアトリエの裏側に建っていた一吉元結工場Click!の屋根の一部が見えている。中上は、『ゆかりの園』収録の石井柏亭『ナポリの春』。中下は、同じく収録の南薫造『マーガレツトとアネモネ』。は、同じく収録の満谷国四郎『牛小屋』。
◆写真下は、同美術集に収録の安井曾太郎『ジユニヤ』。中上は、同じく収録の黒田清輝『フランス風景』。中下は、同じく収録の岡田三郎助『コローの池』。は、同じく収録の藤島武二『風景』。カラー画像が多い中、中村彝『庭』がなぜモノクロなのかは不明。
おまけ
 1926年(大正15)刊行の「芸天」3月号(芸天社)に掲載された、中村彝画室保存会による頒布会員の募集記事。堀進二Click!遠山五郎Click!鶴田吾郎Click!曾宮一念Click!の4名の作品を1口25円で頒布し、売上を中村彝アトリエの保存に還元する計画だった。
中村彝画室保存会192603芸天.jpg

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