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手塚緑敏『下落合風景』を再検証する。 [気になる下落合]

手塚緑敏「下落合風景」.jpg
 以前、キャンバスに重ね描きをしたとみられ、絵画の勉強をはじめて間もないころの習作と思われる、手塚緑敏Click!『下落合風景』Click!をご紹介したことがあった。だが、落合地域の情景が、時代ごとにおおよそ見えるようになった現代の眼からは、同作は下落合の風景ではなく、「上落合風景」であることがわかる。下落合のエリアは、画面左手の一部にほんの少ししか見えていない。
 手塚の『下落合風景』は、少し前にご紹介した椿貞雄Click!が描く『美中橋(美仲橋)』Click!の描画ポイントとは、およそ正反対の位置から上落合の風景を描いている。ただし、美仲橋は画面左手の枠外に外れている。そして、周辺に家々が増えていることから、1925年(大正14)に描かれた『美中橋(美仲橋)』のしばらくのち、上落合の耕地整理が進んだ昭和初期ごろの風景だということも想定できる。手塚緑敏は、1930年(昭和5)に上落合850番地Click!にあった尾崎翠Click!の旧宅2階へ、彼女の仲介で林芙美子Click!とともに転居してきているので、ちょうどそのころに描かれたものだろう。
 では、描かれたモチーフをひとつひとつ検証してみよう。まず、射光からも想定できるように、右手が尾根筋に早稲田通りがとおる南側だ。手前に落葉樹が見える平家は、願正寺と境妙寺の境内つづきの斜面に建てられた、上高田316番地の住宅(住民名不詳)だ。この住宅は、二度の山手空襲Click!をくぐり抜け、戦後まで焼け残っていた。右手に見える、緑の屋根と高い煙突を備えた施設は、上落合897番地の落合火葬場(現・落合斎場)Click!だ。そして、火葬場の煙突から少し離れた、やや遠くに描かれた左側の煙突は、落合火葬場の北東並びにあった上落合895番地の銭湯「吾妻湯」(のち「帝国湯」)だ。
 当時もいまも、落合火葬場(落合斎場)は東京博善社が運営しているが、同社を創立したのは木村荘八Click!の父親・木村荘平Click!であることはすでに記事にしている。江戸期からつづく落合火葬場Click!を、東京博善社が経営しはじめる明治期の様子を、1983年(昭和58)に上落合郷土史研究会が刊行した『昔ばなし』(非売品)から引用してみよう。
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 明治の末頃、この火葬場が独立企業となりそれを機会に、今までのような野天焼をやめてカマを造るようにした。こんな計画を知った私たちの祖父たちは、反対か!賛成か!と考えたが結局これを誘致すると言う(ママ)こととなった。その理由は、(1)今まであったし、今度は今までより施設が良くなる。(2)村に税金が入るから……であった。特に当時は、山手通りから以西は人家は無く、畑と山林であり、煙公害も感じなかったし、煙はみんな上高田の方へ飛んで行ってしまっていた、と云う(ママ)ことであった。/現在は株式会社の博善社と言う(ママ)会社であり、落合と町屋で火葬場を経営している。(カッコ内引用者註)
  
 画面に描かれた高い煙突だが、戦後、同施設がリニューアルされて落合斎場となり、煙突が廃止されてからすでに久しい。夏目漱石Click!大杉栄Click!など、歴史教科書に登場するそうそうたる人たちが最期に“利用”した同施設だが、わたしもそのうちお世話になるのだろう。排煙は、みんな「上高田の方へ飛んで行っ」たというのはひどい話のように思えるが、上高田側の地域も人家などほとんどなかった明治時代の話だ。
 手塚緑敏は、願正寺あるいは境妙寺へと向かう参道筋の上り坂、あるいはその斜面から東北東を向いて描いているのがわかる。手前の平家住宅の向こう側(東側)には、谷間を妙正寺川へと注ぐ小川(兼灌漑用水)が流れていたが、左手につづく空き地一帯が、のちに牧成社牧場Click!の放牧地あるいは牧草地となる草原だ。火葬場の煙突と、「吾妻湯」の向こう側に見えている木々は、上落合653番地界隈にあった森で、いまだ住宅が少なかった当時は、ここまで商店街(現・上落合銀座通り)は伸びてきていない。
下落合風景(拡大)1.jpg
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 また、中央に描かれた茶色い煙突状のものは、1929年(昭和4)現在で上落合銀座通り沿いの南側、上落合635番地にあった火の見櫓のように思えるが、画角からするともう少し右手、銭湯「吾妻湯」の煙突寄りでなければ位置的には合致しないことになる。ただし、同火の見櫓は1935年(昭和10)現在の地図では上落合銀座通りの北側、上落合833番地に移設されているようなので、手塚の『下落合風景』が描かれた1930年(昭和5)以降、すでに移設されたあとの風景をとらえているのかもしれない。
 さて、火の見櫓とみられる突起左手のはるか向こうに見える煙突は、上落合の高台にあった上落合436番地の、残念ながら新型コロナ禍の最中の2021年に閉業してしまった銭湯「梅の湯」のものだ。手塚の描画ポイントから眺めると、いまでは目立たなくなってしまった上落合東部の丘陵地帯の様子がよくわかる。この丘陵左手の谷底を流れているのが妙正寺川だ。そして、その対岸に見えている、木々に覆われたひときわ高い丘陵地が、振り子坂Click!六天坂Click!見晴坂Click!などが通う下落合3丁目界隈(現・中落合1丁目)の翠ヶ丘Click!(山手通り=改正道路工事が計画されると樹木が伐採され、「赤土山」と呼ばれることが多くなる)ということになる。
 下落合の丘の手前にポツンと1軒、オレンジ色の屋根とみられる大きな家屋が描かれている。ちょうど、中井駅Click!落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)のかなり手前に位置するあたりだが、最勝寺の屋根には見えず、鋭角な屋根から西洋館のようだ。この位置に見えそうな大きな建物は、上落合810番地に早くから建てられていたアパート「幸静館」の屋根だろうか。換言すれば、このオレンジ色の屋根をもつ西洋館の右手には、2階建ての落合第二尋常小学校や最勝寺の屋根が遠望されてもよさそうなのだが、手塚緑敏は省略しているのかもしれない。あるいは、同西洋館の右手には、なにやら太い平筆の跡が2本横に入っているので、同作は描きかけのまま放置された未完の画面になるのだろうか。
下落合風景1947.jpg
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手塚緑敏1930頃.jpg 手塚緑敏1940頃.jpg
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 手塚緑敏については、林芙美子Click!の連れ合いだったことが書かれるぐらいで、その画業についてはほとんど資料が存在していない。昭和初期の、落合地域に拡がる風景を描いた画家として、あえて拙サイトで取りあげているぐらいのものなのだが、その人物像については妻が怒鳴ろうが浮気をしようがなにもいわないClick!、「温好な性格」の人物というような印象談しか目にしてこなかった。もっとも、林芙美子と結婚してしばらくすると、どうしても絵が売れずに画家をやめてしまったせいもあるのだが、1940年(昭和15)前後に撮影されたとみられる、松本竣介アトリエClick!で歓談する写真も残されており、絵画への興味を完全に失ってしまったわけではなさそうだ。
 もう少し、その人物像について書かれたものがないか探したのだが、林芙美子の死去した直後の1951年(昭和26)に創元社から出版された松村梢風『近代作家伝・下巻』が、彼についてやや詳しく触れているだろうか。同書より、少し引用してみよう。
  
 (林芙美子は)野村(吉哉)と漸く別れて当分独り暮しをしてゐたが、親友平林(たい子)が小堀(甚二)と結婚して幸福になつたのを見て、自分もかうしてはゐられないといふ気持になり、画学生であつた手塚緑敏と正式に結婚した。手塚は長野県下高井郡平岡村の人で、郷里も相当の家で毎月四十円位の送金を受けてゐた。手塚は至極温好で善良な人であつたので、彼女にとつて生涯よい夫となつた。初めは堀の内に借家をして新家庭を営んだ。其の家は四五間あつたので、彼女は其の一間を貸すことにした。(中略) 手塚と結婚してからも生活は苦しかつた。手塚も勿論絵は売れない。博覧会のペンキ画をかきに行つたこともある。(カッコ内引用者註)
  
 手塚緑敏は、いまだ妙正寺川の蛇行を修正する整流化工事で水没していない、上落合850番地の家から画道具を手に外へ出ると、南にかよう三の輪通りClick!をめざして歩いていった。通りの交差点で、借家を紹介してくれた左手(東側)にある上落合842番地の尾崎翠が住む2階家を一瞥したあと、交差点のすぐ右手(西側)にある上落合851番地の今西中通アトリエClick!へ立ち寄っているのかもしれない。
 今西中通Click!もまた、1930年(昭和5)に渋谷道玄坂から同地へ転居して間もない時期だった。以来、近所同士の手塚と今西はしばしば訪ねあっては、画業について語りあったり将棋を指す間がらだった。今西中通は、1933年(昭和8)に林芙美子の『放浪記』が出版されると、出版記念祝いとして同家に『春景色』(25号)をプレゼントしている。また、手塚・林家からは今西の結婚祝いに鉄瓶が贈られている。
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 手塚緑敏が訪ねたアトリエに、今西中通はおめあての女性「フサ」がいる喫茶店に出かけて不在だったかもしれない。手塚は、南へ下って上落合銀座通りへ出ると、落合火葬場のある西の方角へしばらく歩いていった。ほどなく火葬場の前をすぎてまわりこみ、境妙寺や願正寺の山門へ抜けられる坂道を上ると、ちょうど「吾妻湯」と火葬場の煙突がややズレて見える斜面にイーゼルをすえてスケッチをはじめた……そんな情景が浮かぶ作品だ。

◆写真上:1930年(昭和5)すぎの制作とみられる、手塚緑敏『下落合風景(上落合風景)』。
◆写真中上は、同画面の拡大で火葬場と「吾妻湯」の煙突。中上は、同じく遠望する上落合の丘上で開業していた「梅の湯」の煙突。中下は、同じく下落合の丘とアパート「幸静館」とみられる大きな西洋館。は、小川が流れる手前の谷間。
◆写真中下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる描画位置とモチーフ群。中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる画角。中下は、1930年(昭和5)ごろ撮影の手塚緑敏()と、1940年(昭和15)前後に松本竣介アトリエで撮影された同人()。は、1930年(昭和5)ごろ上落合850番地の借家で撮影された手塚緑敏(右)と林芙美子。
◆写真下は、戦後まもなく撮影された上落合850番地。妙正寺川の整流化工事で“水没”し、川中に見える段差の上あたりが850番地の敷地だった。は、上高田第2住宅が建っているので斜面には立てない描画ポイントの現状。は、先ごろ閉業した「梅の湯」。

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コメント 2

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。手塚緑敏の落合風景は、遠景までかなり詳細に描かれているようですね。落五小の屋根や梅の湯の煙突まで描かれていたとは驚きでした。梅の湯は閉店しましたが、煙突はまだ残っているようですね。最近の円安やそれに伴う光熱費の高騰のため、銭湯も経営が大変なのでしょうね。
by pinkich (2024-09-07 21:30) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
たぶん、アパートメント「幸静館」は描かれていますが、落合第二尋常小学校(現・落五小)と大屋根が目立っていたとみられる最勝寺は、省略されて描かれてないと思います。梅の湯さんは、新型コロナ禍で客足が激減したのが響いたものでしょうか、ちょうどパンデミックの1年目に閉業していますね。銭湯が営業をやめると、なんとなく寂しいです。
by ChinchikoPapa (2024-09-07 21:51) 

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