グリーンコート・スタヂオ・アパートメントを拝見。 [気になる下落合]
聖母坂の下落合2丁目722番地(のち721番地)に建っていた「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」は、以前にも少しご紹介Click!している。当時は「グリンコート」または「グリン・スタヂオ・アパート」と呼ばれ、最先端の設備を備えたモダンアパートClick!だった。二度の山手空襲Click!からも焼け残り、戦後は名称をちぢめて「グリン亭」あるいは「旅館グリン荘」と改名し、1970年(昭和45)ごろまで建っていた。わたしは1974年(昭和49)以降、同アパートの基礎部や地下階の廃墟を目にしている。
このアパートの1室を一時期、林芙美子Click!が借りて仕事部屋に使い、また小説家を廃業宣言した志賀直哉Click!が下落合のアトリエにしていたことをご教示いただいたのは、林芙美子記念館Click!「ざくろの会」の吉川友子様からだ。今回は、「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」(以下ネームが長いので戦前に多い「グリンコート」で表記)の内部を拝見してみよう。ちなみに、1939年(昭和14)に仕事部屋を借りていた林芙美子は、「グリンコート」を「グリン・ハウス」と表現している。
広めの部屋をもつ「グリンコート」が竣工し、入居者の募集を開始したのは1938年(昭和13)の早春あたりからだとみられ、設計は鷲塚誠一で施工は坂本工務所だった。竣工当時の資料によれば、10~14坪の部屋が8室で、「アトリエに通ずる吹抜の大型部屋と独身アパートの三種類」と書かれている。本来の意味からすれば、「スタヂオ・アパートメント」はスタジオやアトリエに使える「ワンルーム」の概念だが、1室の広さが20~25畳大とかなり広く、竣工時の写真から間仕切りされた室もあったようなので、家族連れの利用や事務所、文字どおり写真スタジオなどにも使えそうな仕様だ。基本的には、地下1階・地上2階建てだが、聖母坂沿いに久七坂筋のかよう急斜面に建てられていたため、正面から見ると屋上にも陽当たりのよい部屋がある3階建てのように見える。いま風の表現でいえば、おカネ持ち向けの高級賃貸マンションといったところだろうか。
外装は、モルタル塗りで外壁は淡いグリーンの塗料を、腰壁はダークオリーブ色の塗料を吹きつけたカラーリングで、木製の部分はオリーブ色の、西陽よけの藤棚は白のペンキ塗りという外観だった。屋上は、雨水を逃がす片面が微妙に傾斜のついた平面で、防水機能のあるモルタル仕上げの施工となっている。
聖母坂に面したエントランスは、聖母坂による南北の緩傾斜と、東側の久七坂筋の西向き斜面による急傾斜があるため、玄関に向かって階段を上る設計になっており、壁面はモザイクのタイル張りで、入口の壁にはアパートメント内の案内図や告知票などを貼れる、ガラスカバーつきの掲示板が備えられている。以前にも触れたが、中庭にはスイレンの花が咲く「水蓮プール」と呼ばれた蓮池が設置されていた。
1938年(昭和13)に発行された「建築世界」4月号より、設計者の鷲塚誠一「グリンコート・スタヂオ・アパートメントの設計に就て」から、少し引用してみよう。
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敷地は東京の住宅地である下落合の高台で、六間道路表通と一間半裏通に取囲まれた可成不規則な高低と型ではあつたが集合住宅の設計には反へつて面白い設計が出来るものと想つた。又裏通より二階の各室に外部よりの出入口を設け従来の二割強の廊下階段のスペースを、レンタブル、(ママ:・)スペースに替用し得るし、此の種の営利的建物には適すると思つたが此の設計は条令云々で従来の廊下に変更を余儀無くされた。敷地は多辺型で一九二坪。建物は延坪二三二坪で、地階鉄筋コンクリート造り一九坪、壱階一一五坪、弐階一一五坪である。/東京市の人口密集率、交通、地代、等(ママ)の関係から従来のアパート及び長屋建築の間取りに、音楽家、画家向きの吹抜け、大窓アトリエタイプの部屋、出来得るだけ各室の待遇を均等にすべく苦心した。(カッコ内引用者註)
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この文章からもわかるように、鷲塚誠一は落合地域の特色を意識したものか、設計時から「グリンコート」の住民に音楽家や画家などを想定していたことがわかる。だからこそ、入居者募集の当初から画家(当時、志賀直哉は小説家を廃業していたので画家に分類する)がアトリエとして、作家が仕事部屋として、さらに音楽家でヴァイオリニストの鈴木共子がスタジオとして借りていたのだろう。
米国帰りの鷲塚誠一にしてみれば、欧米に見られるアパートのような仕様で設計したかったと思われるが、自治体の条例や消防法、いろいろな規制、建築主からの注文などで思いどおりには設計できなかったのを、同誌の「グリンコート・スタヂオ・アパートメントの設計に就て」で匂わせている。特に、聖母坂の規制(新たに規定された補助45号線Click!の拡幅工事計画予定)により、表通りに面したデザインや設計が想定とは異なったことにも触れている。室内の様子について、同誌の彼の文章からもう少し引用してみよう。
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室内面積小なる場合は造作書棚とか小食卓等を付加して平均収得を計つた。既存のアパートの各室が概して六畳間を標準として居る今日、地代と建築主の理解と相俟つて八畳間に向上させ、各室の面する庭園も豊富な芝、植込、水蓮プール等を設けた事は居住者にとつては福音である。/従来此種アパートに改良する余地があり乍ら習慣に捉はれ過ぎて改良し得なかつたものは便所であるが、本設計では和風便所の観念を捨てゝ(和風便器を用ひ乍ら)浴場、洗面場、便所の三つを一つのブロツクに収め、清潔、スペースの整理、使用上の便利等に於て実際上充分効果を上げ得たこと、――此の問題は此種建築に限らず住宅等にも適用されるべきものと思ふ。/アパート生活に関連する設備中重要な要素の一つとして戸締が云はれるが、独身アパートに於ける場合と異なり此種家族アパートに於ては一層戸締り方法も複雑になつて来る。その対案としてダツチドアーを使用したのであるが、扉そのものゝ性能と相俟つて所期の目的は達せられた様である。
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米国で暮らした鷲尾誠一としては、洋式便器を設置したかったのだろうが、和式便器にしたのはコストを勘案した建築主との妥協によるものだろうか。浴室やトイレの写真を見ると、座って用を足す洋式便器の設置を前提としたかのような設計になっている。ちなみに、当時の下落合の洋風建築には、かなりの割合で洋式便器が採用されていた。
さて、山手大空襲Click!の延焼をまぬがれ戦災をくぐり抜けた「グリンコート」だが、敗戦直後の様子は残念ながらわからない。敗戦とともに、アパートの名称だった「GREEN COURT STUDIO APARTMENTS」をやめ、「GREEN HOUSE」に改名しているのかもしれず、その名称を林芙美子が戦後に記憶していた可能性もあるだろうか。
1960年(昭和35)作成の「全住宅案内図帳」を参照すると、すでに「グリン亭」という名称に変わっている。今日では料理屋のようなネームだが、このころからアパートを廃業しホテル業(旅館業)へ転換する計画がもち上がっていたのかもしれない。敗戦とともに、所有者が変わっている可能性もありそうだ。1963年(昭和38)の同図では、「旅館グリン荘」と記載されており、宿泊施設になっていたことがわかる。「旅館」という名称から、本来は洋風の板張りだった部屋の多くには、畳が敷かれていたものだろうか。
当時、聖母坂で旅館を運営するメリットとはなんだったのだろう。国際聖母病院Click!へ長期入院・加療が必要な患者の、家族用の宿泊施設として利用されたのだろうか。また、目の前に全農中央鶏卵センターClick!(現・JA全農たまご株式会社)や保谷硝子本社(現・HOYA株式会社)が建設されたため、仕事やビジネス用のホテル代わりに利用されたものだろうか。下落合駅前にあったホテル山楽Click!のように、東京への修学旅行生たちを泊めたとは、建物の仕様や規模からちょっと考えづらいのだが……。
1956年(昭和31)に、筑摩書房が撮影した「グリン亭」の写真が残っている。同社が出版した、『日本文学アルバム/林芙美子』に掲載されたもので、「昭和十四年一月に、家から近いグリン・ハウスに仕事場を持った」というキャプションが添えられている。「家から近い」とあるが、当時、林芙美子は下落合4丁目2133番地Click!の自称“お化け屋敷”Click!に住んでおり、自宅からは少し遠い仕事場だったことがわかる。志賀直哉のアトリエがあったため、それに惹かれて借りていたニュアンスも感じられる。
林芙美子は、五ノ坂下で中ノ道Click!(=下の道Click!/現・中井通り)を東へ450mほど歩き、中井駅から西武線の電車に乗ると2~3分ほどで次の下落合駅に着いた。現在は1分で到着するが、当時の電車はいまほどスピードのでる車両ではなかった。彼女は下落合駅で降りると、西ノ橋Click!をわたってカーブする道なりに、いまだ十三間通りClick!(新目白通り)が存在しない西坂Click!がかよう徳川義恕邸Click!の丘麓にでた。徳川邸の昭和期「静観園」Click!がある斜面を左に見ながら、およそ2~3分で「グリンコート」に着いただろう。もっとも、現在の運行ダイヤほど密ではない当時は、中井駅のホームで電車を待つよりも、そのまま中ノ道を歩いたほうが、1,200m(徒歩12~13分)ほどなので早く着けたかもしれない。
林芙美子が坂を上りはじめると、関東乗合自動車Click!が大きなエンジン音と排気ガスをまき散らし、泥だらけのタイヤをきしませながら、彼女を追い抜いて「国際聖母病院前」停留所、次いでターンテーブルのある坂上の終点「椎名町」停留所Click!へ向け上っていった。
◆写真上:1938年(昭和13)に撮影された、下落合2丁目722番地の「グリンコート・スタヂオ・アパートメント」。背後の突きでた屋根は810番地の鈴木邸。
◆写真中上:上は、同アパートの1階と2階の平面図。中上は、同アパートのエントランス階段部。中下は、薄緑色の外壁と窓。下は、通常より広めな廊下。
◆写真中下:上から下へ、同アパート中庭の水蓮プール、バルコニーと大窓、同じく陽当たりのよい仕様のアトリエ、間仕切りのある部屋、そして便所と浴室。なお、同アパートにあった志賀直哉のアトリエについては、改めて記事にする予定だ。
◆写真下:上は、戦後1947年(昭和22)の空中写真にみる「グリンコート」。中上は、「全住宅案内図帳」の1960年(昭和35)および1963年(昭和38)に記載された「グリン亭」と「旅館グリン荘」。中下は、1956年(昭和31)出版の『日本文学アルバム/林芙美子』(筑摩書房)に掲載された戦後の「グリン亭」。下は、聖母坂に面した同アパート跡の現状。
1970年頃まで建っていたとのことですが、残念ながら
その記憶がなく、建物が取り壊され雑然とした廃墟の
状態が長く続いていた印象が強いです。
こんな便利な敷地になかなか建物が建たないのは
よほど複雑な事情があるのだろうな、と勝手に推測していました。
by NO14Ruggerman (2024-08-29 13:13)
NO14Ruggermanさん、コメントをありがとうございます。
わたしも、1974年に初めて聖母坂界隈を散歩したのですが、すでに基礎と地下室の廃墟のみになっており、上部が駐車場になっていた憶えがあります。北側に坂道をはさんで建っていた、富士臓器製薬(?)の事業所の配管が最初からよく見えていましたので、上部は70年前後には解体されているのではないかと想定しています。ちょうど、1970年の空中写真があればハッキリするのですが、この年は撮影されていないようです。
by ChinchikoPapa (2024-08-29 15:26)