下落合が端緒の資産家令嬢連続誘拐事件。 [気になる下落合]
敗戦後の連合軍が占領する混乱期、落合地域では米軍による政治的な鹿地亘拉致・誘拐事件Click!や、松川事件にからんだとみられる亀井よし子誘拐事件Click!など、キナ臭い誘拐事件や謀略事件が起きていたが、身代金が目的の“純粋”な営利誘拐事件の戦後第1号は、下落合2丁目761番地(現・下落合4丁目)に住む日本帝国工業の専務取締役・清水厚Click!の令嬢誘拐事件だ。同誘拐事件が、のちの「住友令嬢誘拐事件」へと直接つながるのだが、殺人をともなう凶悪犯罪とはやや性格が異なり、また少女たちが犯人をかばうような証言をしているため、「凶悪」とはやや異なる犯人像が印象づけられている。
犯人の樋口芳男は、10代で未成年だった戦時中の1944年(昭和18)にも、松平子爵の女子学習院初等科5年生だった雅子嬢を3日間連れ歩いて逮捕され、判決後に八王子少年刑務所に収監されている。ところが、米軍に予告されていた1945年(昭和20)8月2日の八王子大空襲Click!の直前、7月30日に刑務所から脱走し、敗戦直後に起きた上記の資産家令嬢を次々とねらった誘拐事件で逮捕されるまで逃走をつづけている。
警察が「資産家令嬢連続誘拐事件」と名づけた、その発端となる下落合の清水家の事件について、1974年(昭和49)に神奈川県警察本部から刊行された『神奈川県警察史/下巻』より、「資産家令嬢清水潔子誘拐事件」の資料より引用してみよう。
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樋口芳男が敢行した誘拐事件である。昭和二一年三月十四日午後三時一〇分ごろ、東京女子大(ママ:日本女子大)付属国民学校初等科六年清水潔子(一二歳)を学校の帰途待ち伏せし「私は警察の者だが、あなたはある誘拐団に狙われている。私はあなたのお父さんから頼まれてあなたを守っている」と誘拐し、茨城県那珂郡自連町古徳の実母のもとへ連れこみ、実母には甲府の戦災孤児だといつわり六月一〇日までいた。その後北海道に飛び雨籠郡深川村の養狐場の番人となり、潔子は女事務員として働かせた。しかしこの長い逃避行中、潔子は樋口を“優しい兄さん”として少しも疑わなかった、といわれる。(カッコ内引用者註)
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今日から見れば、警察を名乗った犯人の言葉を容易に信じてしまう、12歳の少女を不可解に感じるかもしれないが、世の中は敗戦直後の騒然とし殺伐とした混乱期であり、資産家の家をねらった強盗や殺人、泥棒事件はめずらしくなく、食糧難により毎日多くの餓死者がでるような状況だった。また、当時の警察官は今日のようにきちんと制服を着ている者は少なく、特に都市部ではその多くが復員兵のようなボロボロのカーキ色をした兵隊服、あるいはくたびれた国民服にゲートルを巻き「警視庁」の腕章姿が多かった。
また、ちまたには空襲で親を失った戦災孤児があふれ、樋口が茨城の村にある実家へ少女を連れ帰り、「戦災孤児を助けた」などといえば、なんら不自然さを感じずに受け入れられるような社会だった。樋口は実家に潔子嬢をあずけ、一度東京へともどり下落合の清水家に連絡をつけて、娘を預かっていると母親を脅し1,000円を払わせている。娘が行方不明になって3日め、清水家では初めてこれが誘拐事件だと知ったのだろう。
同年5月、逃亡先だった北海道の勤務先でも、両親を失った20歳そこそこの男と少女が、就職口を探している「兄妹」というふれこみであれば、詳しい経歴などをチェックすることなく、気の毒に思って雇用したのだろう。樋口がどこかで盗んだものか、「引揚証明書」を持っていたのも“強み”だった。野坂昭如Click!が書いた『火垂るの墓』Click!のような子どもたちが、食べ物を求め各地をさまよい歩いているような時代だった。
北海道でのふたりは牧場の管理事務や、「兄」の樋口は日雇人夫で、「妹」は子守りや掃除婦として働き、函館から札幌、旭川へ転々としている。仕事がなくカネがないとき、樋口は自分の食事は抜いて潔子嬢には必ず食べさせていたという。このころから、本来は被害者であるはずの彼女は、樋口に大きな信頼を寄せるようになった。今日的にいえば、典型的な「ストックホルム症候群」となるのだろうが、屋外などで寝ざるをえない場合は蚊に刺されないよう、ひと晩じゅう就寝中の彼女から蚊を追うなど、犯人の「自己犠牲」をともないながら事件は妙な展開になっていく。
同年8月、逃亡生活が北海道から石川県の金沢へ移ると、さすがに「お父さんから頼まれ」た「警察の者」というのがウソであることに気づき、潔子嬢は樋口へ何度も「ほんとうのことをいつて下さい」と迫っている。樋口はそれに負け、自分が八王子の少年刑務所から脱獄した囚人であること、身代金目的で彼女を誘拐したことをなぜか正直に告白している。ところが、彼女は「ほんとうのことをいつて下さつた」と逆に喜び、別に警察へ駈けこむこともなく、世話になった家の同年代の娘にブローチを買いにでかけている。また、兼六園公園では樋口と並んで記念写真にも収まっている。
8月中、ふたりは京都にでて久世郡の大阪逓信講習所淀分署に勤め、樋口は農業助手として勤務し、潔子嬢は女中として住みこみで働いた。彼女には逃げるチャンスはいくらでもあったろうが、このとき樋口の計画か潔子嬢の提案かは不明だが、下落合の清水家へ身代金要求の手紙をだしている。文面は潔子嬢の筆跡だったが、彼女が脅されて無理やり書かされたとは思えない。以下、神奈川県警の同資料から引用しよう。
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ここで樋口は潔子の実家に身代金一万五〇〇〇円を要求した文書を同女に書かせ、九月二日京都七条郵便局から速達で発送した。潔子の父母は一万五〇〇〇円を用意し、警視庁刑事一〇人に守られて京都に向ったが、ちょっとの油断から樋口に金をまきあげられたうえ逃走された。しかし潔子は無事父母のもとへもどった。樋口はこの長い潔子との生活中同級生の住友邦子の話をきき、第二の犯行を計画したのである。
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9月10日に東本願寺で、母親による身代金の受けわたしが行なわれたが、警視庁の刑事たちは犯人を刺激するのを危惧した母親にまかれて現場にはいなかった。境内に潔子嬢が現れたのでカネを置き、母娘は東本願寺から立ち去っている。樋口は、置かれた1万5,000円を手に入れるとどこかへ姿を消した。潔子嬢を無事に保護したものの、10人も刑事を張りこませながら大失態を演じた面目丸つぶれの警視庁は、彼女がもっていた兼六園での記念写真から、犯人が八王子少年刑務所を脱走した樋口芳男ではないかと見当をつけている。
そのころ樋口は、9月12日に藤沢市辻堂の白百合高女付属国民学校に通う、5年生の少女に声をかけたが怪しまれて失敗。つづけて、潔子嬢から聞きだした元・同級生の住友邦子(12歳)が下校するのを、9月17日に同校の近くで待ちぶせした。樋口に「警察の者だが重大事件が起き、いまあなたは悪い人にねらわれているので守ってあげる」と声をかけられた邦子嬢は、「はい、わかりました」といってすんなり同行している。
彼女があっさり信じてしまったのは、きたる9月23日の三菱財閥の解散を皮きりに、GHQによる財閥解体が進められようとしており、住友財閥の周辺も騒然としていて“重大事件”だらけだったからだ。彼女は大人たちの狼狽ぶりから、まもなくこれまでに経験したことのないような重大事が起こりそうなリアリティを強く感じていたのだろう。神奈川県警は、誘拐を目撃していた友人たちの証言をまとめ、犯人は「年齢が二十四、五歳/身長一・六メートルぐらい/面長で色黒、月形の眉/右目の下に大きな泣き黒子/口元に吹き出物があり、女のような優しい言葉を使う」という特徴をつかんでいる。
9月20日、邦子嬢が誘拐されてから4日めに、下落合の潔子嬢は両親に付き添われて警視庁へ出頭し、犯人の顔には「吹き出物」と「泣き黒子」があったと証言している。同日、警視庁と神奈川県警は樋口芳男を全国に指名手配した。こうして9月23日の朝、岐阜県警中津川署は雑貨商の家に宿泊していた樋口を逮捕し、いっしょだった邦子嬢を保護している。彼女は警察に、初めて映画を観たり果物を買って食べたり変装したりと、いままで経験したことのない1週間でおもしろかったという趣旨の証言を残している。
当時、世間は犯罪であふれており、刑事事件については逮捕から起訴、裁判期間の短縮が司法界の大きな課題だった。樋口が逮捕されてから1ヶ月後、早くも横浜地裁で一審判決が下されている。1963年(昭和38)出版の、『司法沿革誌』(法務省)から引用してみよう。
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十月三十一日 樋口芳男に対する営利誘拐、恐喝、逃走事件の第一審判決(横浜地方裁判所)/被告人は、営利誘拐罪により服役中、刑務所から逃走し、東京都淀橋区下落合帝国工業専務清水厚長女潔子(十三歳)を誘拐し、身代金一万五千円を喝取し、更に、横浜市戸塚区東俣野町住友吉左衛門長女邦子(十二歳)を誘拐して検挙されたもので、被告人に対し懲役十年が言い渡された。
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記者や関係者が詰めかけた傍聴席には、江戸川乱歩Click!の姿が目撃されている。
樋口は千葉刑務所に収監されたが、3日後に新憲法公布で恩赦となり、服役は9年3ヶ月に減刑されている。また、6年後の1952年(昭和27)には講和条約の恩赦で7年6ヶ月に減刑され、刑務所では模範囚だったものか刑期満了以前の1954年(昭和29)1月に仮釈放されている。服役中に学んだ自動車運転の技術を活かし、ドライバーになって家庭を作ることをめざしたようだが、1961年(昭和36)に窃盗の疑いで再び警視庁築地署に逮捕されている。
◆写真上:七曲坂Click!の上、下落合2丁目761番地にあった清水厚邸跡の現状。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合の清水厚邸。中は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同邸。下は、事件の翌年1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同邸。
◆写真中下:上は、1946年(昭和21)9月23日の読売新聞に掲載された金沢市兼六園を散歩するふたりの記念写真。中は、令嬢誘拐事件を記録した神奈川県警の捜査資料。下は、1946年(昭和21)9月23日に岐阜県中津川で逮捕された樋口芳男。
◆写真下:上は、事件発生後に刑事たちが詰める横浜市の住友吉左衛門邸の玄関前。下は、1946年(昭和21)10月31日に横浜地裁で一審判決を受ける樋口芳男。
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