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ほんとうに古城のような外観の目白市場。 [気になるエトセトラ]

矢島堅土「目白駅」1932.jpg
 目白駅前に建っていた、戦前の目白市場の写真が見つからない。目白市場の紹介は、戦前の高田町や豊島区の資料類で頻繁に登場するのだが、その外観写真がなかなか発見できないでいる。東京府内でも5本の指に入るほど、デパート並みの大規模な公設市場Click!だった目白市場なので、必ずどこかに写真が残っているはずだ。
 以前、小熊秀雄Click!『目白駅附近』Click!に描かれた目白市場はご紹介していたが、おおざっぱなスケッチであり建物の詳細はわからなかった。だが、もうひとり目白市場を描いた画家がいる。拙サイトでは初登場の、帝展に出品していた矢島堅土だ。1932年(昭和7)の目白駅前を描いたスケッチ『目白駅』(1932年)で、川村学園の校舎の手前に、まるで中世ヨーロッパの古城を思わせる大きな建築物がとらえられている。(冒頭画面)
 また、手前に「荷物あずかり」の看板が見えている目白駅Click!の改札前には、モダンな装いの男女がいきかい、着物姿の人物がひとりもいない。左手には自動車の前部が見え、改札前の横(東側)にはダット乗合自動車Click!が乗客を待ちながら、発車時刻まで停車しているのが見えている。川村女学院Click!の独特な半円形デザインの大窓を備えた第二校舎と、目白市場との間には樹木が見えているが、同女学院の運動場が設置されていたスペースだ。けれども、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を見ると、目白市場と第二校舎の間はこれほど狭くはなく、画家の“望遠眼”による伸縮自在な構成だろう。
 目白市場の上には、同市場の焼却炉とみられる煙突が突きだしており、その左手(西側)の屋上には、東京府市場協会のロゴマークが入った協会旗が掲揚されているのだろう。正円の中に、TM(Tokyo Markets)のイニシャルを重ねてデザインした、誰もが憶えやすいロゴマークだった。当時、東京府による直接間接の公設市場は府内に34館あり、中にはデパートと直接競合するような大規模な市場も建設されている。
 1932年(昭和7)の時点で、もっとも敷地面積が広く建物の規模が大きかったのは、1918年(大正7)2月15日に開設された渋谷市場だ。建坪が326.62坪と広く、館内には30店舗が入居していた。東京府内の最大市場ということで、記念絵はがきなども制作されている。2番目は西巣鴨(池袋)の西巣鴨市場で、250.1坪の敷地に建ち17店舗が開店していた。3番目は青山の248坪の敷地に建っていた青山市場で、28店舗が営業していた。4番目が寺島(墨田区)にあった寺島市場で、207.27坪の敷地に10店舗が開店していた。
 そして5番目に大規模だったのが、1929年(昭和4)10月3日に開業した、建坪200坪の古城のような特異なデザインのビルに、23店舗が入居していた目白市場だ。しかも、1935年(昭和10)の時点で目白市場は、同年12月20に竣工した蒲田市場と並び、最新の設備を備えたもっとも新しい公設市場だった。当時の様子を、1935年(昭和10)に東京毎夕新聞社から刊行された、『大東京の現世』より引用してみよう。
  
 新市部(東京市区部)に於ては蒲田及目白の二市場はその建築様式設備ともに新しく殊に目白市場は省線目白駅前にあり欧州の古城の如き優美なる外観を有し、その内部も全く百貨店(デパート)式に設計せられたる市場である。(カッコ内引用者註)
  
「目白駅」拡大1.jpg
「目白駅」拡大2.jpg
「目白駅」拡大3.jpg
 目白市場は、開設と同時に女性販売員の募集をしたと思われ、その募集広告も残されている。府内にある34ヶ所の市場には、合計約500店舗もの小売店が入居していたが、東京府市場協会で一括して募集をかけていたようだ。ただし、協会直営で新しい目白市場と蒲田市場のみは協会が直接面接して採用し、残りの32市場は募集している店舗の責任者を紹介され、その面接を受けてから採用されていた。
 販売員の募集要項を見ると、小学校または女学校の卒業者で、16歳から19歳ぐらいまでと限定されているのは、デパートガールClick!と同じだ。協会直営の目白市場は身元保証人が必要で、勤務時間は午前9時から午後8時までとなっている。ただし、この勤務時間もデパートと同様で、早番と遅番のローテーションが組まれていたのだろう。面接のあと採用が決まると、1か月前後の見習い期間をへて本採用の販売員となった。
 日給は60~70銭で、現代の貨幣価値にすると382~445円ほどだろうか。時給のまちがいではと思われるかもしれないが、当時の生活必需品の物価や家賃は、現代とは異なり相対的にかなり廉価なため、早番か遅番で月26日勤務したとして15円60銭~18円20銭は、当時、女子の稼ぎとしてはまあまあだったろう。いまだ少数だった、大卒(学士)サラリーマン(男子)の初任給が50円の時代だった。ただし、勤務時間内の休み時間に弁当をとって食べると、日給から10銭が引かれたが弁当持参は自由だった。
 東京府市場協会による当時の募集要項の一部を、1936年(昭和11)に発行された東京女子就職指導会・編のパンフレット『東京女子就職案内』から引用してみよう。
  
 東京府市場協会の監督を受けてゐる日用品市場は全市に三十四ヶ所あり売店の数は約五百ヶ店となつてゐます。/其中(そのうち)目白市場と蒲田市場丈(だ)けは協会の直営でありますが其他は只監督丈けで店の販売員の如きも各其店の所有者が自由に売子を使つてゐると云ふ風でありますから目白と蒲田を除く外の市場で販売員を希望せらるゝ人々は各其市場内の店主と交渉して就職するのであります。(カッコ内引用者註)
  
 矢島堅土が、『目白駅』のスケッチを描いた当時、目白市場は竣工してから3年めであり、館内の店舗はすべて埋まっていたと思われる。また、目白市場のオープンとほぼ同時に開店した、川村女学院の割烹部を中心とした「女学生市場」Click!=女学生たちによる飲食&喫茶店が、周辺の男子たちを数多く集めて大繁盛していたころだろう。
目白市場1936.jpg
目白市場19450402.jpg
東京府市場協会193607.jpg
 また、昭和10年代に入ると、四谷区麹町12丁目16~17番地にあった東京府市場協会では、新聞や雑誌などへ積極的に媒体広告を打ちはじめている。これは、山手線のターミナル駅前に進出しはじめた競合相手のデパートを意識しているとみられるが、デパートの隆盛とともに集客率や売上がこの時期に低減していたのかもしれない。
 その大量広告による露出度アップの成果だろうか、新宿駅に近い淀橋市場Click!では事実、伊勢丹や三越新宿店をしのぐ売上を記録しており、地域の生活に根づいた安心の「公設百貨店」というイメージづくりが成功したかたちだ。東京府市場協会の広告はいずれも似かよったもので、「当協会ハ小売市場ヲ経営スル我ガ国唯一ノ公益法人ニシテ大東京市民ノ生活安定ニ資スルヲ以テ使命トス」というキャッチフレーズが添えられ、以下34ヶ所の市場名がズラリと並ぶレイアウトだった。
 さて、スケッチ『目白駅』を描いた矢島堅土の添えられたキャプションを、1932年(昭和7)に日本風景版画会から出版された、『大東京百景』より引用してみよう。
  
 ローブ、シヤポー、サツク、パラソールと新を競つたのが、ヌーベル・モード欄。/コーンビーフの缶詰と沢庵とを、ハトロン紙か何かにくるんだのが、家庭料理欄。/ヰオリン(ママ:ヴァヰオリン)のケースや、小型のスケツチ箱を下げたのが、趣味欄。/日に焼けた、逞しい二の腕をむき出したのや、ゴルフパンツのムシウ(ムッシュ)と腕を組んだのが、スポーツ欄。等、々、々。/やがて、大東京に抱擁される、現在の、郊外の文化住宅なるものに帰つて行つたり、新らしき女性インテリの製作所たる、(日本)女子大や川村女学院に通ふ、彼女氏等で、此処では如何なるシツクな男性も、てんで眼界には這入らない。/要するに、婦人雑誌を生地で行つたのが、此の目白駅のプラツトフオームである。(カッコ内引用者註)
  
 当時のカタカナ用語をふんだんにつかった、やや皮肉も混じる文章だが、昭和初期に見られた目白駅前の様子を写しておもしろい。「やがて、大東京に抱擁される」と書かれているので、同年10月に東京35区Click!制が施行される以前の文章で、矢島に限らず当時の人々が(城)下町Click!=東京15区に対して、目白駅を「郊外」Click!と認識していたのがわかる。
小島善太郎「哲学堂」1932.jpg
小島善太郎「浅政醤油店前」1932.jpg
小島善太郎「塔の側」1932.jpg
 『大東京百景』には矢島堅土による『(雑司ヶ谷)鬼子母神』や、当時は荏原郡駒沢町555番地にアトリエがあった、独立美術協会Click!小島善太郎Click!も『哲学堂』『浅政醤油店前』『塔の側(宝仙寺)』のスケッチを描いている。それぞれのスケッチには、モチーフとその周辺について書いたキャプションが添えられているが、また機会があればご紹介したい。

◆写真上:1932年(昭和7)の『大東京百景』に描かれた、矢島堅土のスケッチ『目白駅』。
◆写真中上:同スケッチ『目白駅』の部分拡大。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる目白市場。は、1945年(昭和20)4月2日撮影の第1次山手空襲(4月13日夜半)直前の空中写真にみる目白市場。目白市場は、同年5月25日夜半の第2次山手空襲で全焼しているとみられる。は、1936年(昭和11)7月に制作された東京府市場協会の媒体広告。
◆写真下:3点とも1932年(昭和7)出版の『大東京百景』(日本風景版画会)のために描かれた、小島善太郎のスケッチで『哲学堂』()『浅政醤油店前』()『塔の側』()。

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コメント 4

サンフランシスコ人

「目白駅前に建っていた、戦前の目白市場の写真が見つからない....」

古い映画に登場しなかった???

「『大東京百景』(日本風景版画会)のために描かれた....」

東京.....米国では、未だに無名な都市ですが.....


by サンフランシスコ人 (2024-09-10 03:31) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
1934年10月から1945年5月までの、目白駅前を撮影した映画の記憶はないですね。あったとしても、戦災で焼けているのかもしれませんが。
by ChinchikoPapa (2024-09-10 10:10) 

サンフランシスコ人

2週間考えました....目白駅の映画や小説の記憶はないです.....
by サンフランシスコ人 (2024-09-24 07:04) 

ChinchikoPapa

サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
戦前の目白駅が登場する小説は、この地域に住んだ作家による作品に登場していると思いますが、昔の映画というとわたしもまったく知りません。
by ChinchikoPapa (2024-09-24 10:15) 

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