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長崎ダットが原の快進社DAT自動車工場。 [気になるエトセトラ]

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 今年(2024年)の夏、小川薫様Click!アルバムClick!から引用された写真類を中心に、日刊自動車新聞の中島公司編集委員による、ダット乗合自動車Click!の記事が連載された。それに刺激され、わたしももう少し東長崎駅の北口一帯に拡がる、地元の住民たちからは“ダットが原”と呼ばれていた長崎村西原3922番地(登記上は同番地だが、厳密には工場は3923番地で3922番地はダット自動車工場の社員寄宿舎の位置)の、快進社(Kwaishinsha Motor Car Company,Ltd.)によるダット自動車工場について書いてみたい。
 米国デトロイトで、ガソリンエンジンによる自動車産業の未来に気づき、農商務省の海外実業練習生として留学からもどった橋本増治郎は、さまざまな製造現場を転々としながら、快進社自動車工業の設立へ向けて事業を収斂させていく。その過程では、快進社の起ち上げ時に資金の提供や社屋・工場敷地の斡旋などで世話になる男爵・田健治郎をはじめ、親友となった青山禄郎、鉱業所の社長だった竹内明太郎などに出会っている。
 1911年(明治44)の時点で、出資額は田が2,000円、青山が2,500円、竹内が2,500円、そして橋本自身が4,700円の計11,700円となった。物価指数をめやすに単純に換算すると、いまの貨幣価値でいえば約5千万円ほどが集まったことになるが、当時の国民の所得水準を加味すると、現代ではおよそ1億円弱ぐらいの感覚だろうか。これを元手に、橋本は渋谷町麻布広尾88番地(現・渋谷区広尾5丁目)に快進社を設立している。当初、会社はオフィスというよりは設計・製造の研究所+町工場然としたものであり、いわゆるベンチャーのガレージ・メーカーに近い姿だったろう。
 それまでの日本社会は、鹿鳴館時代そのままに「舶来品が高級で一番」の感覚が染みついており、自動車は米国のフォードやGMが主流だった。そのような市場に向け、部品にいたるまですべてが国産で、4気筒・15馬力、時速33kmの独自設計による自動車の開発をめざしている。だが、開発は挫折に次ぐ挫折の連続で、1913年(大正2)にようやく完成した1号車は、エンジンがV型2気筒で10馬力にとどまった。同年に開催された「東京大正博覧会」には、出資してくれた田・青山・竹内の頭文字をとり、「DAT自動車」と命名して出品している。もちろん、DATは「脱兎」にもからめたネーミングだった。
 1916年(大正5)、橋本は当初の開発計画だった水冷4気筒で15馬力のエンジン、33km/時のスピードで走るダット41型の開発に成功する。同年、米国における自動車生産台数は160万台を超えていたが、それに対抗できる国産車が1台ようやく完成したにすぎなかった。ダット41型は、あくまでもガレージメーカーが手づくりで製造した1台の国産車にすぎず、大量生産への道は遠かった。しかも、当時の自動車でさえ必要部品は5,000点もあり、それら部品製造の品質向上も大きな課題だった。
 橋本増治郎は自動車だけでは食べていけず、この時期には竹内明太郎の依頼により石川県小松にあった小松鉄工所(のち小松製作所Click!)の所長も兼務している。その給与で、なんとか快進社の開発事業を継続しながら、1918年(大正7)に株式会社快進社を設立し、同時にダット41型の本格的な量産に向け工場敷地を探すことになった。
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 その様子を、2017年(平成29)に三樹書房より出版の、下風憲治・著/片山豊・監修『ダットサンの忘れえぬ7人―設立と発展に関わった男たち―』から引用してみよう。
  
 橋本は大正七(一九一八)年「株式会社快進社」を設立した。場所は現在の西武池袋線・東長崎駅北側の一帯六〇〇〇坪、東京府北豊島郡長崎村三九二二番地。武蔵野の面影を残しており、土地の人はこの一帯を「ダットが原」と呼んだ。資本金は六〇万円。株主は橋本増治郎、田篤、田艇吉(健治郎の兄)、青山禄郎、青山伊佐男、竹内明太郎。「小松製作所の幹部社員」白石多士郎、田中哲四郎、吉岡八二郎、松本俊吉、各務良幸、「早稲田大学教授」の山本忠興、中村康之助、岩井興助、「快進社の技師と工場長」の小林栄司と倉垣知也など、九一名の出資者が集まった。
  
 長崎村西原一帯の土地6,000坪を提供したのは、白石基礎工業の社長だった白石多士郎で、竹内明太郎の孫にあたる人物だ。白石の名前は、関東大震災Click!のあとの両国橋Click!蔵前橋Click!厩橋Click!駒形橋Click!などの復興・再建で、(城)下町Click!では有名だ。また、高田町字高田1417番地(現・豊島区高田2丁目)のオール電化の家Click!に住んだ、早大理工学部の教授・山本忠興Click!が出資しているのも興味深い。
 ダット自動車工場は、武蔵野鉄道の東長崎駅を北口で降りた西側一帯で、原は北西側を流れる旧・千川上水Click!までつづいている立地だった。工場の建坪は600坪あり、機械工場から仕上工場まであったが、当時はライン生産ではないため、1台1台が手づくり生産に近い工程だった。また、工場周辺の広い「ダットが原」を活用して、テスト走行をする試運転環路までが設置されている。ダット自動車の部品を、すべて国産製造でまかなうため、専門工作機械を20台以上も導入し、橋本は純国産自動車の製造にこだわった。
 1918年(大正7)に「軍用自動車補助法」が施行され、陸軍のおもにトラックを開発すると政府から製造補助金(1台あたり3,000円まで)が支給されることになった。これは、いつか海軍の「大型優秀船建造助成」Click!でも触れたが、この制度を利用すると大型の貨客船を建造する場合、海軍から少なからぬ補助金が支給された。だが、戦時になるとこれら大型貨客船は海軍に徴収され、空母などに改装されたヒモつきの助成金だった。軍用自動車補助法も同様で、戦時には陸軍が兵站の輸送にトラックを徴用するという条件が存在していた。
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 経営を軌道に乗せるため、快進社のダット自動車工場ではダット41型保護トラックを開発することになる。だが、陸軍にダット41型自動車をベースとしたトラックを持ちこむと、ボルトやナットが陸軍の制式と合わないため不合格になった。陸軍のナット・ボルトの制式は特殊なものだったため、快進社の橋本はさっそくこれに異議を唱えた。広く販売されている市販品のボルト・ナットが、自動車やトラックの修理に利用できなければ意味がないとし、陸軍に制式の変更を迫った。それから2年後の1920年(大正9)に、陸軍はようやく橋本の主張を認めトラックに使用されているボルト・ナットを制式に採用し、ダット41型保護トラックは軍用自動車補助法の検定に合格している。
 ちょうど同じころ、ダット41型保護トラックを改装したダット41型応用乗合自動車改装車も生産を開始した。大正後期から昭和初期にかけ、バスガール上原とし様Click!が勤務し目白通りを走るダット乗合自動車Click!の初期型車体は、このダット41型応用乗合自動車改装車Click!だったとみられる。また、2年後の1922年(大正11)に上野で開催された「平和記念東京博覧会」で、ダット41型自動車は東京府金牌を受賞している。このような華々しい業績にもかかわらず、快進社=ダット自動車工場の経営は困難の連続だった。工員の給与が足りなくなると、橋本は子どもたちの貯金まで借りて給料日に支払っている。
 その困窮する様子を、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 ある時、退職工員が退職金の不満を訴えてきたという。橋本は「私の家庭に貴君の家以上に贅沢な衣類や調度品があったら、何品でも良いから自由に持ち帰ってくれ」と応答したので「私の思慮が浅うございました。成功してください」と涙ながらに帰ったという。/橋本家の生活信条は「簡素第一」で慎ましいものだった。とえ夫人は工場員の制服だけでなく、子供達の洋服やズック靴をシンガーミシンで縫い繕った。四男三女をもうけ、清貧そのものの生活の中にも、精神的な豊かさを感じさせる独自の生き方があった。
  
 夫妻とも長身で洋装が日常だったため、子どもたちが入学した大正期の長崎尋常小学校(現・長崎小学校)では、「外人の子」としていじめられている。
 1926年(大正15)、困窮する快進社に大阪の実用自動車との合併話が持ちこまれている。仲介したのは陸軍で、実用自動車もまた製品が売れずに経営危機にみまわれていた。同年9月に両社は合併し、社名をダット自動車製造に変更している。日本におけるフォードとGMのシェアが98%という、米国車の圧倒的な植民地的市場をにらみながらの再出発だった。
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 少し前、(城)下町の番町で生まれた貫井冨美子Click!について書いたが、彼女に「東京から来たって顔は絶対にしないで」と頼んだ夫Click!は、米国へ自動車設計を勉強しに留学し、帰国後は自動車工場に勤務している。その勤め先は、近くのダット自動車工場ではなかったろうか。彼の落合町葛ヶ谷132番地(西落合1丁目132番地)の自宅から、長崎村西原3922番地までは1,000m、徒歩10分ほどの距離だ。彼は早大理工学部を卒業しているが、快進社の出資者に同学部教授・山本忠興らの名前が見えるので、可能性が高いように思えるのだ。

◆写真上:長崎村西原3922番地に建設された、快進社・ダット自動車工場の記念写真。
◆写真中上は、麻布広尾88番地で1913年(大正2)に完成したダット1号車。は、1918年(大正7)に竣工した長崎のダット自動車工場。は、1921年(大正10)に作成された快進社事業案内カタログ。「Nagasaki-mura,Ochiai,Tokyo,Nippon」=日本(国)・東京(府)・落合・長崎村という、不可思議な住所が記載されている。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみるダット自動車工場と社員寄宿舎。中上は、ダット41型自動車とダット41型保護トラックが写る大正期のダット自動車工場。中下は、同工場があった“ダットが原”の現状。は、陸軍の規定に合格する1922年(大正11)に同工場で撮影されたダット41型保護トラック。
◆写真下は、1922年(大正11)ごろ撮影のダット41型保護トラックを改造したダット41型応用乗合自動車改装車。は、1931年(昭和6)ごろに作成された「ダットソン号」カタログ。のちに「ソン」は「損」を連想させるとして、「ダットサン」に改名されている。下左は、2017年(平成29)に出版された下風憲治・著/片山豊・監修『ダットサンの忘れえぬ7人―設立と発展に関わった男たち―』(三樹書房)。下右は、少し古いが1995年(平成7)に出版された『歴史を読みなおす24/自動車が走った・技術と日本人』(朝日新聞社)。

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