下落合を描いた画家たち・林武。(4) [気になる下落合]
1922年(大正11)の暮れ、あるいは1923年(大正12)の早期に、洋画家・小林和作Click!の勧誘で林重義Click!アトリエ近くに転居した林武Click!は、しばらくすると『落合風景』Click!(厳密には特定できていないが)や『文化村風景』Click!など、周辺の風景画を制作しはじめている。ふたりとも寺斉橋Click!の近く、以前から住んでいた林重義アトリエは上落合725番地、新たに転居してきた林武アトリエは上落合716番地だった。
アトリエといっても、いわゆる北側に採光窓のあるアトリエ建築などではなく、田畑が拡がり上落合の東部から耕地整理が進むような環境で、地主が建てた古い住宅か農家によるにわかづくりの貸家を画室にしたものだろう。当時は寺斉橋の北側に中井駅Click!は存在せず、西武鉄道の敷設計画Click!は起点を目白駅Click!にするか高田馬場駅Click!にするかで揺れていた時代だ。1924年(大正13)9月までの敷設計画では、西武線の起点(終点)は目白駅Click!であり、高田馬場駅を起点とする認可が下りるのは、「西武鉄道村山線延長敷設免許申請書<訂正追申>」が提出された同年9月以降のことだ。
林武が住んだ上落合716番地だが、耕地整理や区画整理が進むなかで番地変更が随所で行われた時期と重なっている。1923年(大正12)当時、同番地は寺斉橋を下落合側から南へわたるとすぐ左手が716番地だった。そのまま南へ境界筋(裏路地)を100mほど進むと、右手に林重義アトリエがあるという筋向いの位置関係だった。この私道だったとみられる裏路地(もともとは畦道?)が、寺斉橋をわたるとそのまま南へ直進する現在の道筋になるのは、昭和期に入ってからのことだ。また、上落合716番地も昭和期に入ると妙正寺川沿いのやや東へと移動しており、従来の位置は上落合711番地に変更されている。
林武が上落合716番地で暮らしていたころ、寺斉橋をわたって進む道路(表道)は、すぐに西側へ大きく屈曲していた。そして、道を20mほど西へ進むと田畑の灌漑用水にぶつかり、今度は用水路沿いに南へ90度屈曲して、現在の上落合郵便局Click!へと向かう道筋へと合流していた。つまり、寺斉橋の南詰め10mほどの位置から、そのまま屈曲せずに南へ進む60mほどの位置までが、昭和期に敷設された新たな道筋ということになる。わかりにくいので現在の目標物でいうと、寺斉橋の南にあるパン工房「サンメリー」の南角あたりから、地下鉄大江戸線・中井駅ぐらいまでの間が、昭和初期に新設された道筋だ。
だが、大正期は「サンメリー」の南角あたりから西へ屈曲する道が20mほどつづき、南北に流れる灌漑用水へぶつかると、道路は左(南)へ90度折れて用水路沿いを南下し、大江戸線・中井駅あたりで現在の道筋へと合流していたことになる。灌漑用水が残る当時、林武の『落合風景』に描かれたように、周辺はいまだ田園風景の面影を色濃く残しており、水田や畑の中に東京電燈谷村線Click!の高圧線鉄塔Click!がポツポツと連なっているような風情だった。このあたり、大正期の地図を見れば歴然としているのだが、当時の番地変更も重なって多少ややこしいテーマだ。
林武が1923年(大正12)に制作したタブローに、『道』と題する作品がある。(冒頭写真/AI着色) 作品が現存するかどうかは不明だが、展覧会の図録用に撮影されたものかモノクロ写真が残されている。きょうのテーマは、同作に描かれた突きあたりが左へ折れ曲がる道路が、やや冗長気味に上述した、寺斉橋をわたり西へ屈曲した20mほどの短い道筋ではないか?……と、想定できるたたずまいがあるので細かく観察してみたい。
まず、気象は晴天であり、電柱や家々の影が右手に伸びているので、画面の左手が南側かそれに近い方角なのは明白だ。AI着色による色彩の再現なので、どこまでが正確なのかは不明だが、左手前の麦畑のように描かれた草原が黄色みを帯びているので、季節は麦秋、すなわち初夏に近い時期だろうか。電柱の影が長いことから、まだ夏ではなく春か晩春の季節のようにも思える。また、左手前の草地が畑ではなく雑草が繁る原っぱだとすれば、季節は正反対の秋あるいは晩秋ということになるだろうか。ただし、樹木は青々Click!としているので、秋色の気配はあまり感じられないのだが。
畑または原っぱの向こうには、赤いトタン屋根とみられる住宅が描かれている。農家のようにも見えるし、田畑の一部をつぶして地主が建てた安普請の貸家のようにも見える。この住宅をまわりこむように、手前からつづく道路は左手、つまり南側へ大きく屈曲している。突きあたりには、白いなんらかの標識のような杭が打ちこまれ、その先は暗い溝のような表現で描かれているのがわかる。
画面の右手につづく小崖は、自然のものではなく明らかに人工的に盛られた様子がわかる。1段目の基盤を造成し、2段目から3段目へと段階的に土を積みあげて固めた様子が歴然としている。しかも、2段目には土留めとみられる多数の棒杭が打ちこまれている。住宅敷地なら、このような3段階に土を積みあげて多くの土留めを打ちこむ面倒な造作はしないだろう。また、3段目の上部は平坦ではなくやや盛りあがっているようにも見え、なんらかの敷地というよりは土手と表現したほうがふさわしい構造をしている。
これら画面に描かれた光景や風情を総合すると、大正後期の上落合でこれに見あう描画ポイントは、ほぼ1ヶ所に集約されてくる。林武がイーゼルを立てているのは、自身のアトリエがある寺斉橋南詰めのやや西側、上落合719番地の北側の路上で西を向いて描いていることになる。左手に見えている家屋は、上落合719番地の農家あるいは住宅であり、道路の突きあたりは妙正寺川から引かれた、南北に伸びる灌漑用水の溝だ。そして、溝の端に打ちこまれた白い杭は、通行人に道路が90度折れ曲がっていることを示唆する、つまり道端に路面を照らす街路灯など存在しなかった当時、暗闇で通行人が灌漑用水路へ不用意に落ちこまないよう、注意をうながす標識の意味があったのだろう。
暗く描かれた灌漑用水路の向こう側には、麦秋の畑だろうか、それとも耕地整理を終えた草原だろうか、黄色い地面の連続が見えている。妙正寺川沿いにつづいていた、田圃または畑地の表現であり、その上に緑が繁るこんもりとした盛りあがりは目白崖線の連なりだろう。この道路に立つ画家の位置から見えていた下落合の丘は、丘陵が南へせり出した五ノ坂Click!から六ノ坂Click!あたりだったはずだ。画家が向いた視線の背後、右手すぐのところには寺斉橋が架かり、真うしろには自身が住むアトリエがあったはずだ。
落合地域にお住まいの方なら、もうお気づきだと思う。画面右手の頑丈に造られた、人工的な小崖=土手の向こう側には妙正寺川が流れており、この3段に組みあげられた盛り土は大雨のたびに氾濫を繰り返す、同河川沿いに築かれていた古い河原土手、すなわち農地や宅地、道路などを洪水から防ぐために築造された堤防だろう。だからこそ、数多くの棒杭(おそらく松材)を打ちこんで、より法面を補強する必要があったのだ。
もうひとつ、当時の地図を見ていると面白いことに気がつく。道路の突きあたりを南北に流れていた灌漑用水路は、この道路奥の位置で二又に分かれ、東側へと分岐した流れは寺斉橋の南側で再び地上に顏をだす。すなわち、この道路右寄りの下あるいは右手の堤防にかかる地下には、暗渠化された灌漑用水路が流れているということだ。道路奥の用水路が、やや手前に切れこんで描かれているように見えるのは、開渠から土管の暗渠へと入りこむ用水路の分岐点を写しているとみられるのだ。
用水路の暗渠化は、すでに明治末には行なわれていたが、この位置へ妙正寺川の堤防を築くのと、寺斉橋の南詰めにあたる用水路の暗渠化とは、セットで実施された工事だったのかもしれない。妙正寺川と並行するように、東へ向かう用水路は途中で別の用水路と合流すると、そのまま東へ向かう流路と妙正寺川へ注ぐ流路とで再び分岐していく。ちなみに、建設ラッシュを迎える昭和初期になると、これらの用水路はすべて埋め立てられ、その多くは現代につながる道路として使われるようになる。
1923年(大正12)のとある日、幹子夫人Click!に尻をたたかれて(あるいはツネられてw)、昼下がりに画道具を抱え写生にでた林武は、目の前に架かる寺斉橋南詰めのすぐ西側、屈曲を繰り返す道筋に画因をおぼえた。期せずして岸田劉生Click!の『道路と土手と塀』をちょっとだけ想起させる構図だが、彼は草土社の作品の中では、どちらかといえば中川一政Click!の表現に惹かれていた。林武は、自宅の門をでて10mもいかない路上に、画道具を肩から下ろしてイーゼルを立てると、パースのきいた西を向いてキャンバスに向かいはじめた。
2時間ほど描いたところで、背後にある自宅の門の引き戸をガラガラと開け、幹子夫人Click!が買い物かごを提げてでてきた。目の前で写生する夫を見つけると、画面をのぞきこみながら「ちょっと、不精で安易すぎない? せっかく写生をするなら、もっとこの辺をあちこち散策しながら、いろいろなモチーフを見つけて選ぶべきだわ」といった。妻のいうことは、これまでの経験則からみてたいてい的確で正しい。明日はもう少し遠出をしてみようか、下落合の丘上で開発されている目白文化村Click!とやらでものぞいてみるか……と、林武は歩いていく幹子夫人のうしろ姿を見送ると、再びキャンバスに向かいはじめた。
◆写真上:1923年(大正12)に制作された、上落合時代の林武『道』(AI着色)。
◆写真中上:上は、1911年(明治44)の「落合村市街図」にみる上落合716番地界隈。中上は、1925年(大正14)の「落合町市街図」にみる描画ポイント。中下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる屈曲道。下は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる同所。駅前となり、急激な宅地化と区画整理で道筋も変わりつつある。
◆写真中下:上は、『道』の左手に建つ住宅の拡大。中は、『道』の突きあたりに見える溝と白い標識の拡大。下は、『道』の右手に描かれた土手の拡大。
◆写真下:上は、1922年(大正11)制作の第9回二科展に入選した林武『樹間の道』。中は、1928年(昭和3)制作の同『郊外風景』。下は、戦後に撮影された制作中の林武(AI着色)。
「アトリエといっても.....地主が建てた古い住宅か農家によるにわかづくりの貸家を画室にしたものだろう....」
なるほど....(下落合に)多数の洋画家が(物理的に)住居可能な理由を知りました....
by サンフランシスコ人 (2024-09-19 06:21)
サンフランシスコ人 さん、コメントをありがとうございます。
ここでは頻繁に登場していますが、画家である夏目利政がアトリエの借家を下落合各地に建てるときは、いちおうアトリエ付き住宅を建てていたのでしょうが、単に下落合の借家へ転居してきた画家たちは、光線が安定した北側の部屋かなにかを画室にしていたのでしょうね。
by ChinchikoPapa (2024-09-19 10:26)