出版人より印刷技術者として高名な今井直一。 [気になる下落合]
落合地域で東京美術学校Click!を卒業した人物というと、たいがいが画家や彫刻家などの美術関係者だ。だが、美術分野とはあまり関係のない領域で活躍した人物も住んでいる。1919年(大正8)に東京美術学校美術部の製版科を卒業し、当初はなんの興味も湧かなかった印刷の活字に着目し、そのデザイン美に注力した今井直一だ。
今井直一は、出版界では美校卒で活字デザインのオーソリティというよりも、三省堂の社長として教科書や参考書、多彩な辞書類を刊行した出版人としての印象のほうが強いだろうか。以前、下落合3丁目1986番地(現・中井2丁目)で旺文社Click!を創立した赤尾好夫Click!について書いたが、三省堂も同様に子どものころから学生時代までお世話になった、教科書や参考書、辞書類の出版社としての記憶がほとんどだ。
彼は、1951年(昭和26)に神田神保町にあった三省堂の社長に就任しているが、1963年(昭和38)に同社顧問として死去するまでの間に企画され出版された辞書類は、その後も版を重ねてわたしも手にしている。岩波の『広辞苑』に対抗して出版された『辞海』をはじめ、『新クラウン英和辞典』、『デイリーコンサイス英和辞典』、『三省堂国語辞典』などは、みんな彼が社長だった時代の仕事だ。また、1968年(昭和43)に刊行された『クラウン百科事典』も、編纂計画は彼の時代からスタートしていたのではないか。
今井直一は戦後、目白学園Click!の北側、下落合4丁目2247番地(現・中井2丁目)に住んでいた。ちょうど、落合分水(千川分水)Click!が妙正寺川へと流れ落ちていた、西落合との境界にあたる丘上だ。戦前は、牛込区早稲田鶴巻町8番地に住んでおり、東京市本郷生まれの彼はずいぶん以前から、市街地の西北方面に土地勘があったのかもしれない。彼は、1919年(大正8)に東京美術学校を卒業しているが、同期の洋画家には拙サイトでは頻出するおなじみの里見勝蔵Click!をはじめ、武井武雄Click!や宮坂勝Click!などがおり、同窓の画家たちがアトリエをかまえた落合地域の風情も、以前から知っていたとみられる。
彼は美校を卒業後、1920年(大正9)2月に農商務省が募集していた海外実業練習生として、米国のニューヨークへ派遣されている。当初は、美校で学んだプロセス製版やグラビア印刷の研究が目的だったが、当時の三省堂社長だった亀井寅雄の依頼で、活字彫刻機による彫刻技術の研究や習得も留学目的のひとつとなった。
当時、活字彫刻機の最先端メーカーだった米国ATF社が製造していた、ペイトン母型彫刻機に関する技術や操作を学び、のちに同社の活字彫刻機を日本へ輸入している。だが、ペイトン母型彫刻機はあくまでもローマ字(英語)を彫刻するのに適した製品であり、日本語(ひらがな・カタカナ・漢字)の新たな読みやすい文字をデザインし、同機を用いて活字に彫刻する技術は、まったく別の高い熟練を要する大仕事だったろう。
1922年(大正11)8月に帰国すると、今井直一はすぐに三省堂へ入社し、さっそく新たな活字の創作に取り組んでいる。また、活字の大きさを表現するのに既存の号数制ではなく、ポイント制(明朝体)を発案して各サイズの活字を制作している。当時の様子を、1949年(昭和24)に印刷学会出版部から刊行された、今井直一『書物と活字』より引用してみよう。
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学校を出るとすぐ、プロセスものや、グラビアがやってみたくて、当時、農商務省の海外実業練習生というのがあり、それに応募してあこがれのアメリカに渡った。ニューヨークで印刷工場めぐりをやっている時、たまたま三省堂社長の亀井寅雄氏に会って、活版の重要性をきかされた。/写真製版方面にはみんな注目しているが、活版についてはほとんどかえり見る者がない。美しい、立派な書物を印刷するには、絶対に優れた活字が必要だ。このしごとに一生を打込んでみる気はないか、こういわれた。それから三十年ちかい歳月が流れた。いつか私の生活から、活字は切りはなせない存在になっている。
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以来、彼は一貫して三省堂に勤務し、活字と活版の技術研究と進化に専念している。戦前戦後を通じ、同社で刊行される書籍や辞書・事典類は、読みやすく工夫された独自デザインの文字による活版印刷で製作された。特に、ペイトン母型彫刻機とインディア用紙の組み合わせで、従来は判が大きく分厚くて重量のあるのが普通だった、ページ数の多い辞書・事典類の小型軽量化に成功し、同技術は三省堂の出版物に限らず、出版業界の全体に多大な影響を与えている。もちろん、今日の各種デバイスに表示される多彩な日本語フォントのデザインにも、大きな影響を与えつづけているだろう。
今井直一の『書物と活字』は、単に活字製造に関する技術やノウハウの本ではなく、ロゼッタストーンやアッシリア粘土板、パピルス印刷など古代文字にはじまる活字の歴史を通史で概説し、同技術を日本語(ひらがな・カタカナ・漢字)へどのようにカスタマイズしていったか、あるいは日本語の活字を製造する際、それぞれの文字をどのようなデザインで工夫すれば、多くの人々に安心感・安定感を与え、視認しやすく読みやすい印刷物になるのかをわかりやすく解説した秀逸な本だ。
たとえば、「品」という漢字は下部の2つ並んだ、本来は同サイズの「ロ」のうち、右下の「ロ」の横幅をやや狭くして右端の横棒を若干太くすると、安定感が格段に増すというような、文字のデザインについても具体的に触れている。つまり、「品」という3つの「ロ」をすべて異なるサイズにし、なおかつあえてシメントリーの配置にしないことで、実際の見た目にはかえって左右均衡がとれているように映り、文字自体も引き締まったかたちに感じられるという。
また、漢字に限らずひらがな・カタカナについても、たとえば「ア」という文字は書いた際に筆を一度止める箇所、ハネクチや肩、点などの箇所に変化のある特徴をもたせ、読みやすさを増幅させる工夫がほどこされている。これらの箇所を、少し誇張気味にデザインして活字を製作したほうが、読みやすさが増してちょうどよく感じるそうだ。長期にわたって取り組んだ、このような日本語の活字に関する読みやすさの追究と、オリジナルのデザインや技術の進化が、既存の活字には依存しない三省堂の出版物には、縦横に活かされていた。
戦後、今井直一は取締役から専務取締役、そして1951年(昭和26)に代表取締役社長に就任している。だが、もともと印刷の技術畑ひとすじに歩んできた彼は、神田神保町1丁目1番地の社長室にいるよりも、戦後は三鷹市上連雀990番地にあった三省堂印刷工場の“現場”にいるほうが落ち着いたのではないだろうか。出版界に多大な業績を残したということで、彼は1956年(昭和31)に第4回野間賞を、1961年(昭和36)には印刷文化賞を受賞した。また、晩年には日本印刷学会の会長に就任している。
印刷文字は永久不変ではなく、時代ごとにその姿を変えていく。戦前と戦後では、印刷文字のデザインやかたちが、ずいぶん異なることに気づく。今井直一は敗戦後、新たに生まれる文字は従来の束縛から解き放たれ、自由でなければならないとしている。そして、日本の活字文化の建て直しが必要だとも説く。同書より、つづけて引用してみよう。
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印刷技術の上にも、ずい分いろいろのことがあった。世の中も変った。しかし活字はほとんど変っていない。変る必要のないほど、もともと完全なものだったというのではむろんない。といってこのみちの改善は、実に容易ならぬことなのである。たとえば活字の規格、それもごく原則的なものをたてようとしても、なかなかむずかしく、かりに規格ができたとしても、その実現には長年月を要し、はたして全般的に完全に行われるかどうか、見通しがつかないというのが、いつわらぬところであろう。/しかし立派な活字を作れという声は、以前から絶えずきくところ、まことに「よい活字」は作りたいものである。ひと口によい活字、立派な活字というが、その条件にはいろいろあって、なかなか簡単にはいえない。だが、せんじつめれば「美しい、読みよい活字」ということにつきると思う。
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活字のデザインや、その読みやすさや視認性の高さの追究に生涯を費やした技術者としては、万人にうける普遍的で「美しい、読みよい活字」はこれだと一概に規定できない、エンジニアとしてすごした苦労人の言葉がにじみでているような一文だ。
古代からつづく活字文化だが、森林の保護やSDGsによる紙への印刷が年々減りつづけている現状を見たら、今井直一はなにを思うだろうか。文字はデジタルソースとなり、それをベースに表示させるフォント依存になり、さらにそれを表示させるには当該フォントを実装したデバイス依存となった今日、彼は「美しい、読みよい」明朝・ゴシックフォントのオリジナルデザインの開発に注力するのではないか、そんな姿を強く感じさせる人物だ。
◆写真上:下落合4丁目2247番地にあった、今井直一邸跡の現状(右手)。
◆写真中上:上は、今井直一が導入したベントン母型彫刻機(ATF社製)。中上は、明治初期創業の三省堂書店と混同しがちだが、彼が入社したのは書店ではなく1915年(大正4)に分岐した別法人で出版社だ(同社沿革より)。中下は、同社の代表的な辞書で『新クラウン英和辞典』(左)と『三省堂国語辞典』(右)。下は、家に残る1961年(昭和36)初版発行で1968年(昭和43)第3刷の『新クラウン和英辞典』のページ。使われている活字には、今井直一のこだわりによる長年の研究成果が活かされているのだろう。
◆写真中下:上は、三省堂の亀井寅雄(左)と今井直一(右)。中上は、1949年(昭和24)に出版された今井直一『書物と活字』(印刷学会出版部)の表紙と奥付。中下・下は、「美しい、読みよい」活字を製作するための設計デザインにおける工夫例。
◆写真下:上は、1957年(昭和32)の空中写真にみる今井邸。中は、1951年(昭和26)撮影の三省堂三鷹工場。下は、1961年(昭和36)に印刷文化賞を受賞する今井直一。
2024-09-25 23:59
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コメント(4)
「『新クラウン英和辞典』、『デイリーコンサイス英和辞典』、『三省堂国語辞典』....」
大変懐かしいです...
「東京美術学校Click!を卒業した人物というと、たいがいが画家や彫刻家などの美術関係者....」
(サンフランシスコの)エアビーアンドビー社 (Airbnb, Inc.).......共同創業者兼CEO(最高経営責任者)のブライアン・チェスキーは東海岸の美術学校を卒業している...
by サンフランシスコ人 (2024-09-25 00:51)
サンフランシスコ人さん、コメントをありがとうございます。
美校を卒業したのに、美術分野とはほとんど関係のない職業に就いている方はけっこういますね。こちらで何度かご紹介している島津一郎も、美校を卒業したあとしばらくは画家でしたが、のちに島津製作所を経営しています。
by ChinchikoPapa (2024-09-25 10:28)
私は高校生の頃は英語がとても苦手で、偏差値40代前半だったのですが、浪人して予備校に入ってから、とある先生の授業が面白くて必死について行った結果、なんとか早稲田に入学することが出来ました。
その合格をその先生に報告したら、その先生からサイン入りの新クラウン英和辞典第4版をいただきました。
実はその先生、クラウンの筆者の一人だったのでした。
(東洋大学教授石村基先生)
by skekhtehuacso (2024-09-25 21:57)
skekhtehuacsoさん、コメントをありがとうございます。
それは、ステキな経験をされましたね。わたしも高校時代は英語にウンザリしましたが、大学ではフランス語の課題図書でもっとヒドイめに遭いました。教え方のうまい、いい先生がいたら授業も楽しく、やる気が出ていたのかもしれませんが、暗記の繰り返しでは嫌になってしまいますね。いまも手もとにありますけれど、和英辞典は三省堂の「新クラウン」でしたが、なぜか英和辞典は研究社の「新英和中辞典」でした。なぜクラウンで揃えなかったのか不明ですが、誰かに奨められたような気もします。
by ChinchikoPapa (2024-09-25 23:10)