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小西六とオリエンタルが“同舟”する下落合。 [気になる下落合]

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 落合地域では、葛ヶ谷(西落合)のオリエンタル写真工業Click!と、下落合1丁目476番地(現・下落合3丁目)には社長の菊地東陽邸Click!があったことは知られている。だが、1930年(昭和5)には小西六本店の所在地が、下落合3丁目1321番地(現・中落合3丁目)の第一文化村Click!にあり、社長の7代目・杉浦六右衛門が住んでいたとみられるのは、あまり知られていないのではないか。
 戦前の写真工業界では、オリエンタル写真工業の急発展は小西六が脅威を感じるライバルだったはずで、一時的にせよその代表者が同じ町内というのが面白い。いつか、ミツワ石鹸Click!三輪善太郎(善兵衛)邸Click!花王石鹸Click!長瀬富郎邸Click!が下落合の町内で、邸同士が400mほどしか離れていなかった逸話を書いたが、小西六とオリエンタル写真工業もどうやら一時的にせよ、同様に呉越同“町”のケースだったようだ。
 小西六の歴史は、江戸で開業していた米問屋や薬種問屋の時代にまでさかのぼる。初代・杉浦六右衛門は、江戸へやってきて小石川諏訪町で米問屋を営業していたようだが、出身は三河国の吉良だった。上落合に近接して墓所がある、あの吉良上野介Click!の領地だ。その後、1810年(文化7)ごろに6代目・杉浦六右衛門は、日本橋の薬種問屋「小西屋」に奉公に出て、しばらくすると仕事ができたせいか同店を継ぐことになった。小西屋は、小西行長の子孫が開業していた店(たな)だった。
 おそらく、幕末に輸入された写真技術に早くから着目していたのだろう、小西屋を経営していた6代目・杉浦六右衛門は1873年(明治6)に、早くも写真事業の小西本店を麹町に設立している。1882年(明治15)になると、神田や本所、本郷に工場を次々と建設し、写真機とリトグラフ印刷機の製造をスタートしている。このときの事業スローガンは、「写真機と関連製品はすべて国産に」だった。1902年(明治35)になると六桜社を設立し、日本初となる印画紙の生産もはじめている。
 1920年(大正9)には、米国コダック社の独占市場だった日本で、正面から対抗してくる小西本店に興味をおぼえたのか、G.イーストマンが同社を表敬訪問している。翌1921年(大正10)には小西本店を合資会社とし、社名も「小西六本店」と改称した。7代目・杉浦六右衛門の時代になると、1923年(大正12)には代々幡町幡ヶ谷325番地(現・渋谷区本町)に小西写真専門学校(現・東京工芸大学)を設立し、本格的な写真技術者の養成をはじめている。だが、同年9月の関東大震災Click!で小西六は同校を残し、すべての社屋と工場、倉庫にストックしていた全製品を焼失している。
 1924年(大正13)には、日本橋本町2丁目13番地に社屋を再建し、翌年には廉価な普及カメラ「パーレット」を発売している。そして、1929年(昭和4)には「さくらフヰルム」が完成して販売を開始、徐々にコダック社による独占市場に食いこんでいった。1934年(昭和9)には、レントゲン医療用の「さくらXレイフヰルム」や、当時は軍事利用のニーズが高かった「さくら赤外フヰルム」を発売している。当時のエピソードとしては、さくら赤外フィルムを用いて撮影された、富士山の遠景が話題になった。大阪の上空高々度から、朝日新聞社の社機が撮影したもので、1935年(昭和10)12月8日刊の朝日新聞には「大阪から見えた富士山」の見出しで、同フィルムにより撮影された空中写真が掲載されている。
小西六本店(下落合1321)目白文化村1930.jpg
小西写真専門学校媒体広告192401.jpg
小西六媒体広告192412.jpg
さくらフィルム(昭和初期).jpg
 ちょうど同時期に、小西六は日本橋区本町の旧社屋から、日本橋区室町3丁目1番地に新社屋(6階建てビル)を建設して移転している。また、1936年(昭和11)には合資会社「小西六本店」から、株式会社「小西六」に社名を変更し、日本を代表する写真工業メーカーのひとつとして成長していった。このころは、戦前における日本の写真工業メーカーが出そろった時期にあたり、小西六やオリエンタル写真工業、昭和写真工業、旭写真工業、日本写真工業などが市場で覇を競っている。少し遅れて、日本セルロイド写真フィルム部と東洋乾板が合併して富士写真フヰルムも誕生している。その後、戦時合併の時代をへて敗戦後に代表的なメーカーとなる、さくらフィルム、オリエンタルフィルム、富士フィルムの3大メーカーの基盤は、昭和初期のこの時期に形成された。
 また、小西六は盛んに写真コンテストや写真展覧会を開催し、カメラの普及に取り組んでいる。従来は、米国のコダック社やドイツのライカ社、ローライ社などの製品が日本市場を席巻していたが、市民にも手軽に写真が楽しめるよう、日本製の廉価版カメラを発売し普及に注力した。1930年(昭和5)に「さくらフヰルム」の発売記念で実施された、写真コンテストの募集要項を引用してみよう。
  
 さくらフヰルム懸賞写真募集
 小西六本店の工場、六桜社では同工場製造のさくらフヰルムの発売記念大懸賞写真を募集した。/締切 昭和五年五月十日/第一部 引伸印画(カビネ判以上)/イルホード、ブロマイド紙又はウオーム・ブラツク紙(WB紙)に限る/第二部 密着印画(ベスト又は名刺判)印画紙に制限なし/審査員 小野隆太郎 加藤精一 高桑勝雄 威澤玲川 中島鐵吉 福原信三 秋山轍輔 江頭春樹/最高賞/第一部 一等(一名)/百円(副賞ダイアモンド入十八金ピン)/第二部 一等(一名)/五十円(副賞ダイアモンド入十八金ピン)
  
 審査員の多くが、当時の小西写真専門学校における教師陣だったのがわかる。また、副賞の「ダイアモンド入十八金ピン」は、男の応募者を想定したネクタイピンだと思われるが、1924年(大正13)に箱根土地Click!が開催した目白文化村写真懸賞Click!で女性が入選しているように、またベストポケット(コダック社)を散歩にもち歩いていた吉屋信子Click!のように、女性がカメラを手にするのもめずらしくない時代になっていた。
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小西六パール&コニカ.jpg
7代目・杉浦六右衛門.jpg 小西六本社ビル1933.jpg
 さて、当初のテーマにもどろう。1930年(昭和5)前後に小西六は、なぜか本店(本社)所在地を下落合の目白文化村に置いている。同社の社史では麹町から日本橋本町へ、さらに日本橋室町へ本店(本社)が移転している経緯は書かれているが、下落合時代は記録されていない。おそらくそれほど長い期間ではなく数年だったと思われるが、なぜ法務局への登記簿上で本店(本社)を下落合にする必要があったのだろうか。
 おそらく、日本橋区内での移転時、すなわち日本橋室町へ本店(本社)ビルを建設中、一時的に本店(本社)の登記を下落合に変更していたのではないか。もう一度、小西六の本店(本社)移転に関する経緯を整理してみよう。大正期から1930年代はじめまでの所在地は日本橋区本町2丁目13番地→ 1930年(昭和5)には淀橋区下落合3丁目1321番地 目白文化村内→ 1933年(昭和8)以降は日本橋区室町3丁目1番地へ……という流れだ。
 もうひとつの可能性として、本店(本社)の社屋移転とは別に会社組織の再編で、なんらかの必要性が生じて本店(本社)所在地を変更しているのではないか……という推測もありえるだろうか。なんらかの事情が生じて、1930年(昭和5)前後に本社所在地の変更が必要となり、登記簿上で下落合に移しているのかもしれない。だが、なんら実体のない場所へ、本社所在地を登記することなどありえない。したがって、同時期に7代目・杉浦六右衛門の私邸が目白文化村にあったのではないかという推定につながるのだ。
 当時の紳士録や興信録では、7代目・杉浦六右衛門の住所は本社ビル、すなわち日本橋区本町2丁目13番地(~1932年)あるいは日本橋区室町3丁目1番地(1933年~)となっている。確かに、本社内には居住できるスペースがあったのかもしれないが、私邸は別に存在していたのではないか。そう考えると、なんらかの事情で本社所在地を一時的に社長宅の住所へ変更するのは、当時としてはなんら不自然な手続きではない。
 では、第一文化村のどこに杉浦邸があったのだろうか? 結果からいえば、「目白文化村分譲地地割図」および「出前地図(西部版)」Click!の1925年(大正14)現在、「下落合事情明細図」の翌1926年(大正15)現在、そして「火保図」が作成された1938年(昭和13)現在、杉浦邸を発見することができない。けれども、住民名を確認できない下落合1321番地の住宅あるいは敷地が、常に8軒前後も存在している。なお、「目白文化村分譲地地割図」(1925年)には、下落合1328番地に「杉浦久克」という人物が土地を購入しているが、同人は小西六とは関係がなく番地も異なっている。
 住民名が確認できない、この8軒前後の住宅や敷地の中に1930年(昭和5)当時、7代目・杉浦六右衛門の私邸(または社有地)が含まれていたのではないだろうか。目白文化村にお住まいで、小西六の杉浦邸にご記憶のある方がいれば、ご教示いただきたい。
小西六本店販売部1933.jpg
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小西六淀橋工場1950.jpg
 小西六は、1940年(昭和15)に「さくらカラーフヰルム」を発売し、戦後の1950年(昭和25)にはのちのブランドとなる35mmカメラの「コニカ」を発売している。このころから、日本の写真技術は米国をしのぐようになり、小西六の航空カメラや空中写真専用フィルムを米軍が試験採用するなど、“カメラ王国・日本”の基盤が形成されている。だが、今世紀に入りデジタルカメラの急速な普及で同社の製品は衰退し、2003年(平成15)には医療機器や出力機の専門メーカー「コニカミノルタホールディングス」として再出発している。

◆写真上:カメラの普及とともに、大正末から頻繁に開かれるようになった写真展。
◆写真中上は、1930年(昭和5)刊行の「日本映画事業総覧」(国際映画通信社)に掲載された下落合の小西六本店。中上は、1924年(大正13)に制作された小西写真専門学校の生徒募集広告。中下は、1924年(大正13)12月に写真雑誌へ掲載された小西六本店の媒体広告。は、1930年(昭和5)に発売されたさくらフヰルム。
◆写真中下は、1923年(大正12)に幡ヶ谷で開校した小西写真専門学校。中上は、1930年(昭和5)のさくらフヰルム発売を記念して開かれた懸賞写真コンテスト。中下は、同社の主力製品だった「パール」(左)と「コニカ」。下左は、7代目の社長・杉浦六右衛門。下右は、1933年(昭和8)に竣工した日本橋室町の小西六本社ビル。
◆写真下は、1933年(昭和8)撮影の小西六本社ビル内にあった販売部。中上は、小西六の航空カメラで九九式航空写真機(1939年/左)と百式航空写真機(1940年)。中下は、戦前の代表的な写真雑誌だった「カメラ」(アルス/)と「日本写真年鑑」(朝日新聞社/)。「日本写真年鑑」の表紙は、のちのA.ライオン+F.ウルフによるBlueNoteの1500番台ジャケットのようだ。は、戦後まで存続していた新宿の小西六淀橋工場(1950年撮影)。
おまけ
 1958年(昭和33)に、さくらフォトコンテストで入賞した加賀俊男『雨の窓辺』。コニパンSSS(ASA=ISO200)で撮影されており、わたしも愛用したフィルムのひとつ。コニパンはSSおよびSSSともに、ネオパンよりも光がやわらかく感じて好きなフィルムだった。
加賀俊男「雨の窓辺」1958コニパンSSSさくらフォトコンテスト.jpg

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