目白文化村で誕生した建設会社「水交組」。 [気になる下落合]
当時の海軍軍人にとっては、青天の霹靂だったろう。1921年(大正10)から翌年にかけ、海軍の将官・士官・下士官・兵の9,032人がいっせいに失職している。軍人ではなく海軍施設の勤労者も含めれば、約1万2,300人余が短期間で失業したことになる。両年の華府(ワシントン)海軍軍縮条約による、予算削減と組織再編によるものだ。
軍縮条約というと、兵器削減(海軍なら艦艇削減)が注目されがちで、それを操艦やメンテするかんじんの人間(士官・兵員・技術者・職人)の削減までは目が向かないようだが、兵器(ハードウェア)を知悉したベテランの将兵や技術者(人材)たちが職場を去ることが、どれほどのダメージかは想像に難くない。1921年(大正10)から翌々1923年(大正12)にかけ、海軍の将官や士官は8,222人から7,828人へと394人の削減、下士官や兵は80,518人から71,880人へと8,638人の削減で、計9,032人の将兵整理となった。
彼らは、一朝一夕には補填できないオペレーターや技術者であり、実績を積んで知識やノウハウを備えたかけがえのない熟練者だったはずだ。当時の様子を、1929年(昭和4)に国際連盟協会が出版した、安富正造『海軍軍縮の注目』から引用してみよう。
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人件費といふのは俸給のみでは無く、雑給及雑費、患者費、教育諸費、志願兵及応召の下士官兵家族扶助金(以下単に扶助金と称す)を合したものであるが、何としても其の基礎は人員に在るから先づ人員問題から着手を要する。/大正十一年七月海軍省公表、同年十一月外務省公表では何れも華府条約軍縮に依る減少人員は士官以下下士官兵を合し約壱萬弐千とのことであつた。
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下落合1642番地(目白文化村19号)に住んでいた、元・海軍中佐で通信隊の幹部だった高山貞三郎も、海軍軍縮条約で失業したひとりだ。
高山は、群馬県の出身で1903年(明治36)に海軍兵学校(第34期)へ入学している。1906年(明治39)に卒業すると、1914年(大正3)には海軍水雷学校の通信科教師に就任し、1916年(大正5)にはトラック島特設無線通信所の所長に転出している。シベリア出兵で、1919年(大正8)には尼港(ニコラエフスク・ナ・アムーレ)海軍無線通信隊長として赴任し、翌1920年(大正9)には千葉県の海軍船橋送信所の所長として勤務している。そして、翌1921年(大正10)には華府海軍軍縮条約により、海軍中佐のまま退役した。
退役した直後、自身の尼港海軍無線通信隊での勤務経験をもとに、尼港事件のあらましを描いた高山貞三郎『尼港秘史/アムールの流血』を自費出版している。海軍を退役したあと、高山は鎌倉の材木座海岸に自邸をもったが、1923年(大正12)の関東大震災Click!で自邸は壊滅し、つづいて相模湾に押し寄せた大津波Click!にも遭遇している。おそらく、この直後に目白文化村(第二文化村)Click!に土地を購入して自邸を新築し、下落合1642番地へ転居してきているとみられる。
それから数年、高山貞三郎は聴講生として早稲田大学に通いながら法律と経済の勉強をし、海軍の退職金を元手に1926年(大正15)1月、住宅建築請負会社「水交組」を目白文化村で設立している。また、以前から親しい間柄だったとみられる、海軍の船匠兵卒で当時は大工の棟梁だった山口徳一と協業し、腕のいい優良な大工を多数抱えることになった。山口家は代々家柄が大工であり、兄弟全員が建築関係の仕事をしていて抱える職人の数も多かった。しかも、山口徳一もまた以前から下落合1605番地(目白文化村131号)に住んでおり、下落合での建築会社の設立は山口が高山に声をかけた可能性が高い。
高山貞三郎が、下落合で建設会社を設立したのは、東京郊外での建築需要を見こしたのかもしれないが、すでに当時の落合地域には建設会社が林立Click!して飽和状態だったのではないか。したがって、実際は海軍の人脈を利用した営業ルートの開拓であり、また海軍施設に関する建築工事の受注をめざしていたとみられる。会社設立の様子を、1926年(大正15)に帝国海軍有終会から発行された「有終」1月号より、その一部を引用してみよう。
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私は退職当時自家の建築上の苦心から、注文者の心理をよく体験しました。住宅建築の第一要件は信頼すべき請負者の選定にあります。我々海軍同士の間にもこれ迄屡々悪仲介者や悪建築家に引懸り、手金を持逃されたり、工事半途で拗棄されたりして、酷い目に遭はされた方が少くありません。殊に現役の方々は忙しかつたり、又は工事半ばで転勤したりして、十分の監督も出来ず、不得止請負者任せになつてしまうことがあります。(中略)『海軍士官から請負師』随分突飛な代り方で、危険のやうに見えますが、提携者が前述の通り昔からの知合で、同じ海軍の飯を頂戴した計りでなく、将来同所に共に永住するものであります。信用と責任とを重んじ、工事一切は誠実に、現場監督も厳重に致しますから、従来の御愛顧に依りまして、何卒御用命の程を相願ひ致します。/尚鎌倉、逗子、横須賀方面へも御通報次第参上致します。
建築請負業 水交組 / 予備役海軍中佐 高山貞三郎
事務所 市外落合町目白文化村十九号 電話(略)
作業場 市外落合町目白文化村百三十一号 / 主任 山口徳一
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この高山邸(水交組)は、第二文化村に建っていた松下邸Click!のすぐ西側、三間通り(センター通り)に面した区画にあり、現在では十三間通り(新目白通り)Click!の南側に位置している敷地だ。また、「作業場」とされた山口邸は、現・第一文化村の西端で地元の住民たちから通称“オバケ道”と呼ばれた道沿い、落合第四府営住宅Click!に隣接して建っていた。両邸は、直線距離で160m余しか離れていない。ちなみに、山口邸は高山邸が建設される以前、1925年(大正14)ごろから目白文化村に建っていたようだ。なお、残念ながら両者とも、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)には掲載されていない。
海軍有終会の「有終」1月号に載せた記事をきっかけに、水交組には続々と仕事が舞いこんだらしく、わずか6ヶ月の間に海軍の軍人邸や官公庁の官吏邸などが竣工、あるいは着工済みとなっている。やはり海軍の関係者が多く、1926年(大正16)の7月現在では、竣工・引き渡し済みが澤田機関中佐邸(千葉市)、田中茂友中佐邸(西荻窪)、外務省官吏邸(国分寺)、宮部大佐邸(西荻窪)の4邸となっている。また、着工済みが山下軍医大佐邸(西荻窪)、川越中佐邸(西荻窪)、久保機関大佐邸(下北沢)の3邸、さらに着工前で設計中の逓信省など官公庁の官吏邸が数軒あったようだ。
同年には、目白文化村内にあった水交組本社や作業場だけでなく、水交組の出張所を青山南町5丁目5番地と下谷区長者町1丁目15番地に設置して、創業からわずか1年足らずの間に事業や組織も拡大していった様子がわかる。水交組の仕事をみると、市街地に近接していた山手線西側の駅々に近いエリアは、すでに既存の建設会社や工務店などによって市場の寡占化が進んでおり、受注した軍人邸や官吏邸がさらに外周域にあたる中央線や小田急線、京王線などの沿線エリアだったことに留意したい。
1926年(大正15)の「有終」7月号で、高山貞三郎はさっそく事業の進捗状況を報告している。同誌より、「御礼旁現況御報道」と題した記事から引用してみよう。
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開業早々皆様の御懇篤なる御後援と御指導によりまして、幸ひ業務も着実に発展して参りました、これも一重に各位の御同情の致す所で、感激の外はありません。(中略) 御建築はどなたにしろ多額の経費を要するものですから、中々重大事であります。簡単に実行に取りかゝりますと、取り返しのつかない失敗を招きます。念には念を入れて御調査をなされ、着手することが肝要であります。/御邸宅の設計、施工、建築材料の相場、選択等につきまして御相談がありますれば、種々の調査材料も整頓して居りますから、何卒ご利用の程願ひます。/借地御希望の方には郊外諸方面の地主に知己がありますから、確実な地所の周旋を致します。方面、地坪、地代の概略を御一報願ひます。
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こうして、順調にスタートしたかに見えた水交組だが、海軍の知己や人脈といってもやはり限りがあり、1930年(昭和5)ごろになると業績がふるわなくなったようだ。おそらく、1927年(昭和2)からはじまった金融恐慌や、つづく世界大恐慌の影響も大きかっただろう。同年以降、高山貞三郎は九段の在郷軍人会本部に勤務している。そして、1940年(昭和15)に予備役招集を受けたのか、上海海軍武官付として勤務し、そのまま敗戦を迎えている。
戦後は、予備役の招集とはいえ現役の海軍軍人だったため、1949年(昭和24)に公職追放になるがほどなく解除された。また、海軍通信隊の同期や戦友たちも数多く戦死しているため、その想い出を綴った『海軍電波追悼集』(1955年)の編集に参画している。
◆写真上:下落合1642番地(目白文化村19号)の水交組・高山貞三郎邸跡(左手)。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる高山貞三郎邸と山口徳一邸。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる両邸。
◆写真中下:上左は、1921年(大正10)出版の高山貞三郎『尼港秘史 アムールの流血』(私家版)。上右は、高山貞三郎が1920年(大正9)に所長をつとめた海軍船橋送信所(1947年撮影)。下は、水交組の作業場とされた山口徳一邸跡(左手)。
◆写真下:1926年(大正15/上)と1927年(昭和2/下)制作の水交組の媒体広告。
そういえば、阿川弘之の『井上成美』に、海軍OBが立ち上げた古鷹商事なる会社が出て来たことをふと思い出しました。
戦前の軍縮と戦後の失業とでは状況が全く異なるでしょうけれど、そういう旧軍の関係者がいわば“武士の商法”として立ち上げた企業、少なからずあったのでしょうか。
by skekhtehuacso (2024-10-24 22:58)
skekhtehuacsoさん、コメントをありがとうございます。
大正後期に起業した退役軍人たちは、昭和期に入ると1932年(昭和7)ぐらいまでつづく金融恐慌から大恐慌で未曽有の不況に遭遇し、ほとんどが廃業に追い込まれているのではないでしょうか。
おそらく、多くの人が海軍の人脈や経験を活用としたのでしょうが、むしろ海軍の存在が消滅してしまった戦後のほうが、既存のコネクションに頼らず当てにせず、まったく別の領域の仕事に転換して成功している人がいそうですね。
by ChinchikoPapa (2024-10-25 00:13)