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「近衛新町」の名称はいつまで使われたか。 [気になる下落合]

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 1922年(大正11)6月17日に、東京土地住宅Click!三宅勘一Click!が下落合東部の「近衛町」Click!の分譲を開始すると、翌6月17日には早くも近衛町の西側に隣接する「近衛新町」Click!の販売もスタートしている。けれども、わずか1ヶ月半後の同年7月29日に、東京土地住宅は近衛新町の分譲を突如中止している。
 その理由は、東邦電力の社長だった松永安左衛門が、近衛新町の分譲地を自邸や役員邸の敷地、および従業員たちの社宅用地として、ほぼすべてを買い占めてしまったからだ。それまで、近衛家が「落合遊園地」Click!と名づけていた、泉や湧水池がある武蔵野の自然がよく保たれた谷戸は、東邦電力によって「林泉園」Click!と名づけられ、同谷戸の南側に形成された東邦電力の関係者宅は「林泉園住宅地」Click!と呼ばれるようになる。
 近衛新町は、分譲開始からわずか43日間で販売を中止したが、その間に現地を見学に訪れた西巣鴨町池袋(現・豊島区池袋)の住民がいた。下野幽波という人は、1922年(大正11)6月22日に下落合の現地を見学しているから、分譲開始からわずか5日後に様子を見にやってきたことになる。おそらく、以前から落合地域の目白文化村Click!や近衛町などの宅地開発に注目し、自邸を建設して転居する計画でも立てていたのだろう。
 下野幽波という人は、ふだんから里謡(俚謡・巷謡・俗謡・端唄など)の創作を趣味としており、帰宅後にさっそく一節詠んでいる。1930年(昭和5)に小春社から出版された、『俚謡正調集成・第35巻/大正十一年前集』の6月22日より、作品を引用してみよう。
  近衛新町目をひく目白、ちょい下見に来る螢
 なんとなく、細竿Click!の音色が聴こえてきそうな調子だが、いかにも武蔵野の自然が色濃く残る近衛新町(と谷戸地形)の風情を写している。おそらく、目白駅Click!から現地を訪れているのか、駅名と下落合に多い野鳥メジロをひっかけ、現地見学(下見)に訪れた自身と、谷戸に多く棲息していた江戸期からのホタルの名所としての「落合蛍」Click!とを重ねて洒落のめしているのだろう。だが、せっかく見学に訪れた下野幽波だが、東邦電力の敷地買い占めで分譲地の入手はかなわなかったと思われる。東京土地住宅も、人手と手間をかけて個別に敷地を販売するよりも、東邦電力にまとめて売ったほうが、同社が陥っていた当時の経営状況から見ても有利だと判断したにちがいない。
 近衛新町の開発は、従来の近衛町のようにイニシャルコストをできるだけかけず、すなわち森林伐採や整地、縁石・擁壁の設置、上下水道・ガスなどの生活インフラを整備せずに三間道路だけを敷設し、敷地が売れるとようやく樹木の伐採や各種整備の作業に入る販売方式とは異なっていた。イニシャルコストを抑えるのは、当時、東京土地住宅の経営状況が悪化しはじめており、銀行から大口の借入れが困難になっていたからだが、すべての整備作業を終えた更地状態で販売し、購入すると翌日から住宅建築が可能だった目白文化村とは大きなちがいであり、セールス上の決定的な不利点でもあった。
 そこで、近衛新町の開発ではあらかじめ宅地にかかる樹林を伐採し、販売広告によれば「道路、下水、水道、電気、瓦斯、倶楽部等の文化的設備」を、「深い研究と周到な用意と」で整えてから分譲を開始したとしている。まさに、箱根土地Click!の広告をそのまま書き写したような表現だ。この中で、目白文化村と同様に町内の住民たちが利用できる「倶楽部」を設置したと書いているけれど、この建物は近衛新町のどこにあったものだろうか。大正期の、おシャレな洋館建築だったと思われる「倶楽部」だが、わたしは近衛新町とその周辺に住む地元の方からも、また東京土地住宅の関連資料からも、この「倶楽部」については見聞きしたことがない。おそらく、のちの東邦電力による林泉園住宅地の開発に呑みこまれてしまったか、あるいは東邦電力が近衛新町を買収した直後に解体されているのだろう。
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 近衛町につづく近衛新町という名称は、いったい誰がネーミングしたのだろうか。下落合の「近衛町(このえまち)」は、学習院の中等部で同窓生だった近衛文麿Click!と三宅勘一が、分譲を決定した段階で相談してつけた名称だろう。もちろん、京都市上京区室町通下長者町下ルの「近衛町(このえちょう)」にちなんでつけていると思われるが、「近衛新町」もまたふたりが打ち合わせをして名称を決めているのではないだろうか。なぜなら、同じ上京区の近衛町(このえちょう)の近くに「近衛新町(このえしんまち)」が江戸時代からあり、文献などにも記録されているのを、近衛文麿Click!や元・記者だった歴史好きな三宅勘一は、あらかじめ知っていた可能性が高いからだ。
 少なくとも江戸中期の正徳年間には、すでに京で近衛新町が成立していた様子が判明している。1714年(正徳4)に、当時の地図には「近衛新町」が登場していた記録が残っていた。1915年(大正4)に平安古考学会から出版された碓井小三郎・編『京都坊目誌・上京之部・乾/上巻之首-五』より、近衛新町が記載された箇所を引用してみよう。
  
 町名起源/不詳正徳四年地図に近衛新町とあり。亦世俗鹿ノ子屋ノ辻子と云ふ。維新前此町は上西陣伊佐町組四町の一也。乃ち古町たり。次下伊佐町。硯屋町之に同し。
  
 江戸期には、「上西陣伊佐町組」のうちの1町であり「古町たり」と記されているので、ひょっとすると江戸期以前からあった町名なのかもしれない。
 さて、一般向けにはわずか43日間しか分譲されなかった下落合の近衛新町だが、当時のリアルタイムに発行・出版された地図や新聞・雑誌・書籍などの資料類には、「近衛新町」のネームがそのまま記載されて残ることとなった。また、それら資料を参照して作成されたのちの記事や論文、地誌などにも、「近衛新町」の名称は登場している。では、いつごろまで近衛新町の呼称は使われつづけたのだろうか。
 結果からいえば、新宿区が出版している史的資料(地図類など)を除けば、1981年(昭和56)に北海道企画出版センターから刊行された、杉山寿栄男・編『日本原始工芸概説』(おそらく1928年版そのままの復刻版)がもっとも新しい書籍ということになる。記録されつづけた下落合の「近衛新町」の記載について、年代順に追って見ていこう。
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 まず、近衛新町を改め林泉園住宅地の開発中に、掘削地から埋蔵文化財が発見されている。おそらく1923年(大正12)に発見され、翌1924年(大正13)2月に吉川弘文館から出版された日本歴史地理学会・編『歴史地理』43号に記録されている。
  落合村下落合近衛新町  土器、黒曜石
 おそらく、縄文遺跡の残滓を発掘している可能性が高そうだが、この発掘調査は1923年(大正12)に行われており、下落合464番地のアトリエにいて、いまだ歩きまわることができた中村彝Click!をはじめ、同アトリエを頻繁に訪問していた曾宮一念Click!ら画家たちにも目撃されているのではないか。彼らが書いたエッセイや書簡などに、遺跡調査の記録はなかったかどうか記憶が曖昧でさだかでない。
 また、同発掘調査が在野の考古学研究家だった大里雄吉によって実施されていることも判明している。1928年(昭和3)に岡書院から出版された東京帝国大学・編『日本石器時代遺物発見地名表 追補第1/訂5版』から引用してみよう。
  落合町 下落合 近衛新町  土器  大里雄吉
 同書は「追補第1/訂5版」とあるので、初版は大正後期に出版されている可能性が高い。また、「落合町」という記載から落合村が町制に移行した1924年(大正13)以降も、継続して発掘調査が実施されていたとみられる。この大里雄吉という人物は、当時の「石器時代遺物発見」の第一人者で、鳥居龍蔵Click!と同様に数多くの埋蔵文化財を調査・研究している。現在の都内に残る旧石器・縄文・弥生・古墳遺跡の多くを、住宅街で埋めつくされる以前に研究している点で、考古学的には非常に重要な人物だ。
 つづいて、同じく1928年(昭和3)の資料にも、近衛新町は登場している。工芸美術研究会から出版された、杉山寿栄男・編『日本原始工芸概説』だ。ただし、同時期の『日本原始工芸概説』には、「落合町下落合林泉園敷地」と表記されている修正版も存在している。
  落合町下落合近衛新町  土器、黒曜石
 また、1935年(昭和10)に東京府が編纂した『東京府史 行政篇/第1巻』にも、近衛新町が登場している。ただし、これは過去の記録をそのまま転載したものだろう。
  落合町下落合  土器、打石斧、磨石斧
  落合町下落合近衛新町  土器、黒曜石
 上の行の「落合町下落合」が、下落合のどのあたりのエリアを指しているのか不明だが、昭和初期にはすでに旧石器時代Click!石斧Click!や、縄文時代とみられる土器類の埋蔵物が多数出土している様子が見てとれる。けれども、当時の歴史学会は弥生期以前の遺物・遺跡について、「皇民化」が行なわれていない「夷族・蛮族」が跋扈していた時代であり、まともに研究するのに値しない歴史学以前の「史前学」などと称して、科学とは無縁な「皇国史観」Click!が支配し、数万年に及ぶ自国の歴史へ「自虐」的に泥を塗りつづけていた時代なので、これらの重要な発見も十分に顧みられず、深い研究がなされることはなかった。
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 その後、先述した1981年(昭和56)に北海道で復刻版『日本原始工芸概説』が出版されるが、実質的には1935年(昭和10)に刊行された『東京府史 行政篇/第1巻』が、「近衛新町」のネームが掲載された最後の記録となるのだろう。しかし、昭和期の資料はいずれも大里雄吉が発掘した過去の記録を、そのまま転写しているとみられ、また昭和初期の地図類には「林泉園」の記載が一般化しており、林泉園住宅の名称が普及していたと思われるので、近衛新町の名称が通用したのは、せいぜい大正末ぐらいまでではなかったろうか。

◆写真上:東邦電力が開発した、林泉園住宅地の合宿所があったあたりの現状。
◆写真中上は、1922年(大正11)6月17日の東京朝日新聞掲載の近衛新町分譲開始広告。は、1925年(大正14)の「豊多摩郡落合町」地図に記載された近衛新町。は、1922年(大正11)7月29日の同紙に掲載の分譲中止広告。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる松永安左衛門邸と林泉園住宅地。は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる同住宅地で、林泉園のエリアは戦災からも焼け残った。
◆写真下は、1979年(昭和54)撮影の空中写真にみる林泉園界隈。わたしの学生時代には、東邦電力が建てた洋館やテラスハウスの建築がいまだに見られた。は、林泉園の湧水源があったあたり。は、林泉園住宅地側から林泉園へ下りられる古い階段。
おまけ
 1923年(大正12)ごろの林泉園住宅地を描いた中村彝『林泉園風景』Click!で、アトリエから110mほど離れた位置にイーゼルをすえ南南西を向いて描いている。スケッチのタイトルは、中村彝会の会長をしていた鈴木良三Click!によりあとから付加されたとみられ、当時はいまだ近衛新町の印象が強かっただろう。
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