下落合を描いた画家たち・林武。(5) [気になる下落合]
林武Click!は、1926年(大正15)9月に予定された第13回二科展に向け、目白文化村Click!を描いた『文化村風景』Click!を制作している。正確には、文化村の内部を描いたものではなく、第一文化村の東端に隣接して建つ旧・箱根土地本社Click!(当時は中央生命保険倶楽部)を、南側の「不動園」Click!からほぼ北を向いて描いたものだ。
『文化村風景』には、右寄りにレンガ造り2階建ての旧・箱根土地の本社ビル(所有企業が変わり外壁が塗装しなおされているとみられる)が描かれ、その向こう側には二間道路をはさみ、第一文化村の北側に建ち並んでいた第二府営住宅Click!へとつづく家並みが描かれている。時期的にみて、林武が上落合716番地Click!のアトリエから長崎村4095番地Click!へと転居したあとの仕事で、彼は自邸のすぐ南側を横切る目白通りを南にわたって、500mほど離れた『文化村風景』を写生しに下落合へやってきているのだろう。
その6年後、1932年(昭和7)に林武は再び目白文化村を訪れて、今度は文化村の家並みを写生している。このとき、彼はとうに長崎のアトリエを離れ、井荻町荻窪918番地へ転居していたころだろう。同年、彼は日本風景版画会から10月に誕生する、新たな淀橋区(現・新宿区の一部)の地域らしい風景を3点写生するよう頼まれている。また、それらの風景画へ400字以内の短い随筆を添えることが、依頼された仕事の内容だった。10月の東京35区制Click!に向けた、同会が出版する予定の『大東京百景』に掲載するためだ。
その3点の風景画のうち、『目白文化村』と題するスケッチが残されている。(冒頭作品) 中央やや右寄りには、西洋館とみられるL字型に近い形状をした2階家が描かれ、画面の左手にはファサードがまるで自由学園明日館Click!のような、ライト風の大きな建物(2階家の高さがある)が描かれている。これら建物の敷地は、できるだけ地面からの湿気を遠ざけるため土が高く盛られ、それを支える大谷石の擁壁が築かれている。大正期に開発された、目白文化村の住宅にみられる典型的な姿をしている。
家々の間を通る道路は、奥から手前へと、建物の間を抜けて左折していく道筋とが描かれている。また、手前から右奥に通じる道路は、奥にいくにしたがいやや上りの傾斜がついているように見え、緩傾斜の坂道のような風情をしている。かなり幅が広めなので、おそらく道路は2本とも三間道路ではないかと想定できる。そして、2本の道路が丁字型に合流する地点では、4~5人の小さな子どもたちが遊んでいる。
スケッチを眺めていて、林武が目白文化村のどこを描いたのかがほどなく想定できたけれど、画家の視点がかなり高めな位置にあるのを不思議に感じた。描かれている2階家の窓辺と、大差ない視点からスケッチされているように見える。もっとも、画家の眼差しは自由自在であり、道路から眺めた風景でも上空から見ればこう見えるというように、いくらでも想像しながら視点を変えて描けるのは、安藤広重Click!の連作「名所江戸百景」Click!のうち鳥瞰する『深川洲崎十万坪』の時代から変わらない。
さて、『目白文化村』の下に添えられた、林武のショートエッセイから引用してみよう。
▼
理想的郊外生活にれ憧た。(ママ:憧れた、)プチブルインテリ連が南面の小高い絶好の丘を落合に見付けて、貧乏人建てる不可(べからず)と住宅の標準も定めて、文化村と称する一部を設け、その頃帝国ホテルを建てゝ馬鹿に有名になつた。(ママ:、)ライト式の模造を矢鱈に建て列べた。日本成金時代の遺物であり、資本主義の片鱗であり、日本文化の所産であり、又新東京郊外発展の先駆でもある。何でも箱根土地会社がなんかの企業で(ママ)、その後これに関するものが今日に至るまで、新東京各地に散在し出した。この一廓の入口にその会社の事務所の大きな建物があつたが、今ではそれが病院となつて居るのが皮肉である。/且つ草茫々なる売地がまだ所々にある。(カッコ内引用者註)
▲
「日本成金時代」と書いているのは、大正末から昭和初期の比較的景気がよかった時代のことで、この文章が書かれた1932年(昭和7)は金融恐慌から世界大恐慌をへて、世間は不景気のまっただ中にあった。いわゆる「大学は出たけれど」、就職口がどこにもない時代だった。バブル景気が遠く去り、恒常的な不況がつづく近年の様相とどこか似ている。その状況を打破するために、軍部と各財閥(コンツェルン)が結託して中国での戦線を拡げ植民地を拡大していく、絵に描いたような帝国主義の時代だった。
林武は勘ちがいをしているようだが、箱根土地本社ビルの「大きな建物」は駿豆鉄道の元・代表取締役であり、堤康次郎Click!とは経営および政界での盟友だった、中央生命保険の専務取締役・佐藤重遠が譲りうけ、「中央生命保険倶楽部」として運用していた。佐藤重遠は1923年(大正12)4月、下落合の高台に目白学園(旧・研心学園)Click!を創設して初代理事長に就任している。林武は、「中央生命保険」という名称を医療機関と取りちがえたか、あるいは二間道路をへだてた本社ビルの斜向かい、下落合1388番地の「竹俣医院」の看板を、ビルの看板と見まちがえたかしたのではないだろうか。
さて、林武の描画ポイントをほどなく推定できたのは、画面左手に描かれた「ライト式の模造」建築の存在だった。彼もエッセイで意識的に触れていることから、左手の建物を意図的に画面に入れて描いたのだろう。林武は、この建物を目白文化村の住宅のひとつと考えたのかもしれないが、もともとこの建物には管理人はともかく住民は暮らしていなかったはずだ。よく見ると、建物の前には「賈地(売地)」と書かれた目立つ看板が立てられている。「売家」ではなく「売地」としているところに、この建物の特殊性が垣間見える。
箱根土地は、1922年(大正11)に目白文化村の第一文化村を販売する際、文化施設のひとつとして住民の誰もが利用できる「文化村倶楽部」の存在をうたっている。下落合1502番地=落合第一府営住宅16号に住む、建築家・河野伝(傳)Click!による設計だろう。文化村内の住民たちによって結成された、多彩なクラブやサークルClick!の活動で利用できる、いわば社交場のような施設だった。現代でいえば、地域センターや公民館のような施設だ。だが、目白文化村の販売が終了し、1925年(大正14)に箱根土地本社が国立Click!へ移転すると、しばらくは以前と同様に「文化村倶楽部」として使われていたようだが、そのうち箱根土地が第一文化村の宅地の一部として売りだしている。
左手の「ライト式の模造」建築が、「売家」ではなくことさら「売地」とされているのは、屋内がクラブやサークルの活動に適した構造や室割りはしていても、人が生活できるようには設計されていなかったからだ。すなわち、文化村倶楽部の建物解体を前提とした、「売地」看板を立てていたのではないかとみられる。この敷地が売れ、大きな高橋邸が建設されるのは時代がずっと下ったのちのことだ。
もうひとつ、林武がスケッチをしている高い描画位置のテーマがある。位置的に考えれば、彼は旧・箱根土地本社の南庭(不動園)の西端あたりから、ほぼ真北を向いて描いていることになる。『文化村風景』(1926年)の描画ポイントから、西北西へわずか35mほど移動した地点に林武は立っていることになる。だが、この場所は旧・箱根土地本社の庭園内であり、高い視点を得られるような住宅は建っていない。
ところが、ひとつだけ思いあたる構造物が、目白文化村の販売当初からこの場所に建設されている。目白駅から目白文化村まで、現地見学の顧客を乗せてピストン輸送していた、フォード製の送迎乗合自動車(送迎バス)を収容する大型車庫だ。林武が『目白文化村』を描いた1932年(昭和7)現在、とうに車庫としては使われていなかっただろうが、建物はそのまま残っていたのではないか。念のために、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照してみると、防火建築の車庫は解体されずそのまま残っていたのが確認できる。1945年(昭和20)4月2日の空中写真でさえ、それらしき姿が見てとれる。
林武は、6年前にタブローを仕上げた『文化村風景』の記憶を頼りに、久しぶりに下落合の目白文化村へとやってきた。箱根土地本社の庭園だった不動園は、郊外遊園地Click!と同様に誰でも入れて園内を散策できるよう、開設当初から今日の公園・遊園のような造りになっていた。彼は、かつての描画ポイントに立って中央生命保険倶楽部の建物を眺めたが、どこか荒んだ雰囲気を漂わせていただろう。同社は、昭和に入ると経営が急速に悪化し、保養施設の整備・補修までは手がまわらなかったと思われる。翌1933年(昭和8)になると、同社は昭和生命保険にあっさり吸収・合併されている。
林武は、不動園内をそのまま西北西へ少し歩くと、使われていない廃墟のような送迎バスの車庫が建っているのを見つけた。彼は、横手に取りつけられた落ち葉だらけの錆びた鉄階段を上り、乗務員の休憩室だったらしい廃墟を抜けると、コンクリート仕上げの平面に近い屋根上にでた。スケッチブックを拡げると、ほぼ真北を向きながら手早く第一文化村の風景を写し取っていく。すぐ左手の目前には、「売地」の看板が立つ誰も住んでいない大きな「ライト式の模造」建築があり、彼はそれへ皮肉な眼差しを向けながら筆を進めていく。
左手に建っているのは下落合3丁目1328番地の文化村倶楽部、正面の西洋館は同1329番地の占部邸、二間道路とテニスコートのスペースを空けてやや遠めに描かれている屋根は、同1340番地の穂積邸ないしは第一文化村外れの家並みということになるのだろう。
◆写真上:1932年(昭和7)に描かれた、林武によるスケッチ『目白文化村』。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)制作の林武『文化村風景』。6年後のスケッチ『目白文化村』の描画ポイントは、同じ不動園内の画面左手で直近の位置だ。中は、林武(左)と1932年(昭和7)出版の『大東京百景』(日本風景版画会/右)。下は、スケッチ『目白文化村』の「売地」看板が立てられた「ライト式の模造」建築の庭先。
◆写真中下:上は、1922年(大正11)ごろ不動園にあった池の端から撮影された文化村倶楽部の正面。右手(北側)に張りだした屋根は、前谷戸の埋め立てと三間道路の敷設でほどなく撤去されている。中は、1923年(大正12)7月に撮影された前谷戸東部の埋め立てが完了した文化村倶楽部の北側面で、背後に見えている洋館は第一文化村の末高邸。下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる林武の描画ポイントと画角。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画位置と周辺。中は、1945年(昭和20)4月2日の同所。下は、同所の現状で背後右側が後世まで残ったバス車庫跡。
★おまけ1
箱根土地が制作した目白文化村の絵はがきClick!にみる、文化村倶楽部の前に横づけされた送迎バス。フォード社製の大型バスで、写真ではバスの後尾が見えている。車庫は文化村倶楽部の向かい側右手にあり、背後に繁る森は箱根土地本社の庭園「不動園」。
★おまけ2
1966年(昭和41)に覇王樹出版から刊行された歌集『硬質』より。
朝夕の通いに慣れて見るものか 目白文化村の坂のコスモス 宮下安太郎
2024-11-09 23:59
読んだ!(22)
コメント(0)
コメント 0