東京府住宅協会の落合府営住宅を拝見する。 [気になる下落合]
かなり以前から、おもに目白通り沿いに拓かれた落合府営住宅Click!について、拙サイトでは記事にしてきた。そこでは、1922年(大正11)から目白文化村Click!の開発を予定していた箱根土地Click!の堤康次郎Click!が、1920年(大正9)2月に設立された東京府住宅協会Click!に買収した土地の一部を「寄付」している様子も記述している。
だが、落合府営住宅の第一から第四の住宅地の、すべての土地を「寄付」しているわけではない。堤康次郎Click!が「寄付」したのは、第一文化村の北側に位置する一部の敷地だけで、同時に「提供」と書かれている敷地も存在している。「提供」は、タダで進呈する「寄付」とはちがい、地代は発生していたのだろう。事実、東京府が周辺の地主(箱根土地含む)から土地を借りていた様子が記録されている。
中央社會事業協會社會事業研究所が、1922年(大正11)に刊行した紀要「社会事業」6月号には、東京府が運営する東京府府営住宅が落合府営住宅を建設するために、下落合の地主から20年間の契約で1坪あたり3銭の借地料を支払っている事例が報告されている。堤康次郎が「寄付」した土地はごく一部であり、残りは地主(箱根土地含む)との間で借地契約を取り交わしての落合府営住宅の建設だった。
周辺の地主から借り入れた土地が、落合第一府営住宅から落合第四府営住宅までの敷地の、いずれに相当するのかは明確でないが、1920年(大正9)の東京府住宅協会設立とほぼ同時にスタートしている、住宅建設が早かった落合第一・第二府営住宅よりも、その西側あるいは南西側にあたる、やや遅れて住宅建設がはじまった落合第三・第四府営住宅のケースは、当初、ほとんどが地主からの借地だったのではないだろうか。
これらの落合府営住宅は、住宅協会の甲種会員(85%)への分譲による“持ち家”制度が主流であり、賃貸契約による貸家を前提とする乙種会員(15%)は少なかった。そのほか、関東大震災Click!で住宅不足が深刻になると、1軒の家をシェアして利用する“間貸し”制度(丙種会員)が急増することになる。1922年(大正11)の時点で竣工していた府営住宅は、代々幡町笹塚に63戸、落合村下落合に151戸、淀橋町十二社に22戸、世田谷村に140戸だった。当時の様子を、1922年(大正11)に刊行された「社会事業」6月号から引用してみよう。
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下落合の分は三室乃至五室のものゝ外六室(延三十二坪余三十二畳位)及七室(延四十一坪三十八畳位)のものより二階建門構浴室物置もある。本協会の住宅は年賦月賦売渡(最長十五年賦)と普通の貸渡と間貸と三種ある、而して売渡又は貸渡を受けんとする者は協会の会員と為るのである。売渡を受ける者は甲種会員、普通貸渡を受ける者は乙種会員、貸間を使用する者は丙種会員と為る。而して此代金若は使用料は会費として払込むのである。故に住宅の大小及年賦月賦年数の長短に応じて異るのである。而して例へば前記落合分七室の家を十五年間の月賦買受とすれば毎月約六十円を十五年間納める、之を完納すれば家屋の所有権を得る、但敷地は協会が二十箇年の契約にて私人から借りて居るのである(下落合ノ分ハ目下一坪三銭デアル)。
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落合府営住宅は、多くが「六室」から「七室」の甲種会員向け分譲住宅だったので、東京府住宅協会へ月々60円を15年間(「七室」ケース)にわたり納めなければならなかった。また、土地が借地であれば、たとえば「六室」(約32坪)だと約1円/月の地代が発生することになる。現在の貨幣価値に換算すると、61円は約41,000円ほどで安いと感じてしまうが、当時は諸物価がいまと比べて格段に安く、大卒の初任給が50~60円だった時代だ。
落合府営住宅には、管理職クラスの官吏やサラリーマンが多く住み、ある程度暮らしに余裕のある給与所得がなければ、甲種会員になって分譲住宅を手に入れられなかった。拙ブログで、落合府営住宅の住民としてご紹介してきた人々には、官吏やサラリーマンはあまりいないが、いずれも所得が高めな仕事をしている人物が多い。
たとえば、作家で牧師の沖野岩三郎Click!(落合第一府営住宅8号)をはじめ、洋画家の長野新一Click!(第三府営住宅24号)、歌人で国文学者の土屋文明Click!(第一府営住宅20号)、建築家で映像機器コーノトーンの開発者の河野伝Click!(第一府営住宅16号)、洋画家の江藤純平Click!(第三府営住宅24号)、貿易ビジネスで外務省びいきの大里雄吉Click!(第一府営住宅18号)などがいる。また、官吏としては陸軍参謀本部陸地測量部の製図科班長Click!だった若林鶴三郎(第三府営住宅16号)と佐藤武道(第四府営住宅20号)、変わったところでは目白中学校Click!の生徒で、不動園の第一文化村開発を日々観察していた松原公平Click!(第二府営住宅24号/親の職業は不明)などをご紹介している。
甲種会員がほとんどだった落合府営住宅だが、「六室」住宅の平面図が残っている。建物は2階建てで、1階には玄関の間(2畳半)をはじめ、居間(8畳)、茶の間(6畳)、老人室(4畳半)、女中部屋(3畳)、物置(1畳半)、それにトイレが2ヶ所に3畳大の浴室を備えている。2階には、客間(8畳)と次の間(6畳)があり、子どもが生まれた場合はこれらの部屋を活用するのだろう。府営住宅の新しい試みは、1階建ての「三室」住宅から広い2階建ての「七室」住宅まで浴室が設けられており、銭湯にいく必要がなかったところだろうか。また、「六室」「七室」が多かった落合府営住宅には、必ず女中部屋が付属していた。
これらの府営住宅(というか分譲住宅)は、公共機関(東京府)が会員を募集して持ち家を供給するという新しい試みで、のちに類似の事業があちこちで行われるようになる。その様子を、1997年(平成9)に書かれた大月敏雄の論文『集合住宅における経年的住環境運営に関する研究』(東京大学)から、少し引用してみよう。
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東京府住宅協会は、大正9年2月、東京府によって交付された5万円を基金とする財団法人で、政府低利融資として185万2千円を借り入れ、大正11年末に至る7ヵ所512戸の家屋を供給している。他の公益住宅供給が、基本的に建設後に入居者を募集するのに対し、東京府住宅協会の場合は、「会員制」を設けることによって、経営の合理化を図っていた。(中略) 東京府住宅協会では、「分譲住宅」の試みも行われ、賃貸住宅供給に比べてかなり人気が高かった。この成功が、後に内田祥三によって評価され彼の田園都市計画に用いられ、さらには震災後の同潤会による分譲住宅供給へ引き継がれていくのである。
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さて、落合府営住宅を建設するためには、実際にどのような施策が現地で行なわれていたのだろうか。当時の落合村下落合は、いまだ東部の近衛町Click!も中部の目白文化村も、また西部のアビラ村(芸術村)Click!も存在せず、華族たちの別荘地Click!だった明治期の面影を強く残していただろう。したがって、大規模な宅地造成や住宅街を建設するにあたり、近くにある土木建設業の工務店に声をかけて協力を依頼するなどというわけにはいかなかった。周囲は農家の田畑がほとんどで、街が形成されていたのは清戸道Click!(現・目白通り)沿いの、江戸期からつづく椎名町Click!界隈のみだった。
すべての工事は、市街地から専門家たちを呼び寄せ(出張させ)、落合府営住宅の建設予定地に常駐させる必要があった。そのために、東京府住宅協会では建設予定地に「落合府営住宅出張所」を建設し、常に工事関係者を集めて打ち合わせができるよう、また寝泊りができるようにしている。これにより、落合府営住宅の建設ばかりでなく、数年後に建設予定の目白文化村や近衛町の計画を知った建設業者は、続々と落合地域やその周辺域に集合することになった。府営住宅誘致の「寄付」や「提供」がまんまと成功したと、堤康次郎は陰でほくそ笑んでいたかもしれない。
1905年(明治38)ごろ、赤坂区溜池に建設会社を起業した眞瀨佐助という人物は、のち一時期は宮内省内匠寮木工部に勤務していたが、落合府営住宅の計画を知ると同出張所に勤務し、府営住宅の建設が終わると同時に長崎町で建設請負会社を設立している。1930年(昭和5)に帝国興信所から刊行された、『土木建築請負信用録』より引用してみよう。
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眞瀨佐助 建築請負業/営業所 東京府北豊島郡長崎町二一一八番地
(前略)小石川区指ヶ谷町一四六番地建築業越川吉五郎氏の徒弟となり熱心に三ケ年修業の後、明治三十八年七月独立して赤坂区溜池二番地に建築請負を開業したるも同四十三年廃業し宮内省内匠寮木工部に奉職、大正十年一月同省辞職、同年二月東京府建築課に奉職し落合府営住宅出張所詰となりて勤務、同十年五月辞職と同時に独立して現地に斯業を開始し長崎町役場、下谷区入谷町桜井病院を主なる得意先として大工六名を使用して年請負高三万三千円内外を算し技術の優秀を以て知らる。現に長崎町土木建築組合評議員、立憲民政党長崎町幹事である。
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眞瀨佐助と大工チームのおもな実績としては、落合府営住宅の建設・補修をはじめ葉山・箱根・沼津・日光・田母沢など各御用邸の修繕などが挙げられている。ちなみに、長崎町2118番地は武蔵野鉄道の線路も近い、安達牧場Click!の西隣りにあたる区画だ。
このように、1920年(大正9)からスタートする落合府営住宅の建設は、下落合における住宅街の開発の嚆矢となった事業であり、明治期に形成された華族の別荘地から、東京郊外の田園地域における「文化住宅」街へと脱皮する端緒となる事業でもあった。
◆写真上:1945年(昭和20)4月2日にF13Click!によって撮影された、第1次山手空襲Click!(4月13日夜半)直前の落合第一・第二府営住宅最後の姿。第一府営住宅の一部は、改正道路(山手通り)工事のため南側の一部がかなり削られている。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる落合第一・第二府営住宅。中・下は、落合第一・第二府営住宅跡の現状。
◆写真中下:上は、落合府営住宅で多かった2階建て「六室」住宅の平面図。中・下は、「下落合事情明細図」にみる第三府営住宅とその現状。
◆写真下:上・中は、「下落合事情明細図」にみる第四府営住宅とその現状。下は、1921年(大正10)撮影の代々幡町に建設された笹塚府営住宅で「四室」住宅が主流だった。
★おまけ
山手大空襲で第一・第二府営住宅は全滅したが、第三府営住宅はほとんど全域が無傷で、第四府営住宅も南東側の一部を除いてほとんどの住宅が戦災から焼け残った。
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