目白文化村に大江戸定飛脚の頭領家がいた。 [気になる下落合]
内国通運の常務取締役・吉村佐平が、下落合1639番地すなわち第二文化村Click!へ転居してきたのは、1924年(大正13)の春だった。吉村佐平は、同社の社長である吉村甚兵衛の弟で、社内の実務は兄をサポートする弟の吉村佐平が実質的に切り盛りしていた。吉村家は、江戸中期からつづく町飛脚の定飛脚(じょうびきゃく)問屋「和泉屋」の直系子孫であり、明治に入ってからも運輸業をそのまま継承した唯一の定飛脚の家系だ。
定飛脚問屋は、江戸五街道はもちろん日本全国に拡がる街道筋の宿駅に飛脚人足や伝馬(荷をリレーする馬)を置き、運輸のルートを網の目のように張りめぐらして、各地の産品や商品などの荷物や、書状などを配送する役目を負っていた。江戸も後期になると、継飛脚(江戸幕府の御用飛脚)や大名飛脚(各藩の抱え飛脚)の業務も代行で引き受けるようになり、いわば今日の郵便事業とほとんど変わらない役目をはたしている。
定飛脚(町飛脚)の5大問屋(五人組)は、五街道の起点である日本橋Click!に店舗をかまえていたが、吉村家の「和泉屋」も日本橋左内町で営業していた。ちなみに、当時の至急速達便の場合は日本橋から宿駅ごとに伝馬を乗り継ぎ、小荷物や書状の配達を最短78時間で大坂(大阪)まで走り抜けた。また、早便(飛脚)で日本橋から大坂まで7日前後、中便は同じ都市間で25日前後、並便は30日(1ヶ月)ほどで配送されている。
この運輸ネットワークは、明治期に入ってからもそのまま事業を継続しているが、国営の郵便事業を起ちあげようとする明治政府と鋭く対立することになった。薩長政府への反感が渦巻いていた、江戸市内の定飛脚問屋が政府の命令へ素直に従うはずもなく、政府は郵便事業の責任者に旧・幕臣の前島密Click!を任命することになる。これは郵便事業に限らず、薩長政府が企画するさまざまな官営事業への反発や抵抗を少しでも抑制Click!するために、江戸市内に顔がきく(名の知られた)旧・幕閣や旧・幕臣たちを次々と登用せざるをえなくなり、当該の事業を委託・委任していく一例にすぎない。当時の江戸市民にしてみれば、この街の言葉を話さない新参者がどこからか街に入りこんで、やたらカサにきて威張り散らしているとしか映らず、ソッポを向いていたからだ。
明治の近代史というと、政府内のおもに薩長要人の言動(いわゆる「英雄史観」)のみが取りあげられがちだが、実際に社会やそれを支えるインフラを整備し運用していたのは、多くの場合、大江戸からつづく仕組み(社会システム)や企業そのものであり、また旧幕の人材や江戸市民たちだったことは、今日ではより強調されていい史実だろう。
明治政府の郵便事業は、前島密が五人組の定飛脚問屋各店をまわって繰り返し説得を重ねた結果、1874年(明治7)には郵便事業の下請け企業となる陸運元会社の設立に成功している。このとき、同社へは定飛脚問屋の関係者のほとんどが出資しているが、五人組問屋のうち4店が郵便時代の趨勢には商売にならないと営業を停止し、運輸事業から次々と撤退している。だが、当時は半官半民の経営基盤だった陸運元会社を足がかりに、新しい時代の民営による運輸事業を構想していたのが、同社の最大出資者であり定飛脚問屋・和泉屋の頭領だった9代目・吉村甚兵衛だった。したがって、大江戸の和泉屋が屋号を陸運元会社に変更した……というとらえ方もできるかもしれない。
翌1875年(明治8)になると、吉村甚兵衛は陸運元会社を内国通運株式会社(資本金5万円)に改組し、官営ではなく本格的な民間の運輸事業へと乗りだしている。社屋も、日本橋区北新堀河岸へと移転した。だが、社長の9代目・吉村甚兵衛が急死し、跡を襲名するはずの10代目・吉村甚兵衛はまだ幼かったため、和泉屋時代からの佐々木荘助という人物が中継社長として就任している。佐々木社長は、全国の旅館と提携して宿泊客の荷物をとどける旅行運輸網、いわゆる「手ブラ旅行」のネットワークを構築し、内国通運の基盤を固めていった。
だが、ネットワークの急激な全国拡大で赤字が徐々に累積し、佐々木はその責任をとって無配当の株主たちに自刃して謝罪している。当時の経緯を、1912年(明治45)に中央評論社から出版された遠間平一郎『財界一百人』から、少し長いが引用してみよう。
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(会社を継いだ10代目)現社長甚兵衛氏、時に年僅かに十九、弟佐平氏と共に東京高等商業学校(現・一橋大学)に在りしが、佐々木の責を負ふて死するを聞くや、奮然起ちて、会社に入りて庶務を掌(つかさど)り、実弟佐平氏をして神田支店の受付たらしむ、吉村兄弟の会社に於ける夫れ斯くの如し、佐平氏が今や内国通運会社の常務取締役として、運輸界に卓越したる、豈朝夕(あにちょうせき)にして期し得たるものならんや(中略) 内国通運会社は事実上に於ける吉村一家の有する所のものにして、佐々木以下各社長は難局に際し会社経営の任に当ると同時に、吉村家の復興に力(つと)めたりき(中略) 佐平氏、幼少より会社に入り、茲に十数年社務に関与せるを以て、一として知らざるなく通ぜざるはなく、而も温良孝謙能(よ)く人を容れ、最も社交に長す、質、強健ならざるも読書を好み、文学美術音楽の趣味を有(も)ち、時に一中節に欝を遣り、就中(なかんづく)茶道を修めて和敬清寂の風韻を偲ぶ、超俗優雅、真に掬すべきものにあらずや。(カッコ内引用者註)
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この文章からもわかるように、内国通運社の実力者は社長の10代目・吉村甚兵衛ではなく、事業の中心は弟の常務取締役・吉村佐平だったことがうかがえる。事実、さまざまな資料では社長の甚兵衛よりも、弟のほうに多くの紹介スペースが割かれているので、吉村佐平のほうが運輸事業の仕事に向いていたのではないか。
ただし、吉村佐平自身が社長に就くことはなく、あくまでもNo.2の位置で会社の事業を切り盛りしていた。ちなみに、佐平の「佐」は内国通運の発展期に尽力し、赤字転落で責任を感じ自刃した佐々木荘助を記念し、苗字1文字の「佐」をとって改名したものだ。
1928年(昭和3)に、内国通運から国際通運株式会社と社名を変更して業務を拡大すると、吉村佐平は専務取締役に就任しており、運輸の経営と実務に明るい彼の手腕は、運輸業界全体を牽引するまでになっていた。1934年(昭和9)に、当時の主要な企業人を取材した経世社出版部刊行の中島従宜『昭和財界の人物』では、同社の社長ではなく彼が取材を受けている。同書より、「国際通運専務取締役/吉村佐平君」から引用してみよう。
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兎に角、君(吉村佐平)の如き、実務に明るい手腕のある人材に依つて、経験と蘊蓄とを傾けて、之が経営に任じてゐる事は同社(国際通運)の社礎を一層に鞏固にするであらう事は、想察するに難くない。君は又、数個の運送会社に関係してをり、斯界の権威として相当大きな足蹟を残してゐる。今後に於ける君は、国際通運を主体として、大に我国交通界に、雄飛を試むるであらうと思はれるが、君の如き、殆んど幼少時代から、此の道の空気にもまれて人となり、何から何まで通暁する士を以て固めてゐることは、どれだけ国際通運が今後の発展に力強き歩調を辿るであらうかを予想されると共に、一段と強味なるべきを思はしめるものである。(カッコ内引用者註)
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「文学美術音楽の趣味」をもつ吉村佐平が、第二文化村(下落合1639番地)に住んでいたのは、それほど長い期間ではなかったとみられる。「文学美術音楽の趣味」からか、あるいはモダン好みで新しもの好きだったものか、文化村には1924年(大正13)から1927年(昭和2)ごろまで住んでいたと思われる。ひょっとすると、9代目・吉村甚兵衛(父親)が急死さえしなければ、芸術の道へ進みたかったのかもしれない。
下落合1639番地の住所は、のちに小説家の池谷信三郎Click!が住んでいた番地と同じで、彼は1927年(昭和2)9月から住みはじめているから、ひょっとすると池谷信三郎は吉村佐平が建てた住宅を借りて住んでいたのかもしれない。
箱根土地Click!が、1925年(大正14)に作成した「目白文化村分譲地地割図」でも、「内国通運常務取締役/吉村佐平」のネームを確認できる。だが、目白文化村は市街地からは遠く出社がたいへんと感じたものか、その後は麹町区富士見4丁目8番地へ、つづいて赤坂区伝馬町3丁目15番地と東京市の中心部に転居している。余談だが、吉村佐平が住んでいた戦前の自宅が、江戸期の定飛脚にちなんだ赤坂伝馬町というのがおもしろい。
さて、日中戦争が起きると、政府は“戦時輸送”を想定して運輸会社の合同・合併を推進している。国際通運は、同社を中心に周辺の大小の運輸会社を合併し、より大きな運輸企業へと生まれ変わった。1937年(昭和12)に誕生した、大江戸定飛脚から直系の新会社は社名も変更し、国際通運から日本通運株式会社、短縮した呼称を日通(にっつう)に改めている。
「ゆうパック」に統合される前まで、日通の宅配便トラックに描かれたマスコットキャラクターは「ペリカン」だった。でも、大江戸の和泉屋からつづく史的経緯を踏まえれば、別の宅配便業者が採用している「飛脚」こそ、同社にふさわしいキャラクターだったろう。
◆写真上:幕末まで日本橋左内町にあった、大江戸定飛脚問屋「和泉屋」本店。
◆写真中上:上は、安藤広重Click!『東海道五十三次・平塚』(部分)に描かれた走る町飛脚。背後には高麗山Click!が描かれ、花水川に架かる東海道の花水橋Click!も描かれている。中は、明治初期も変わらずに左門町で開業していた和泉屋。下は、内国通運の社長だった10代目・吉村甚兵衛(左)と、実弟で常務取締役の吉村佐平(右)。
◆写真中下:上は、日本橋にあった内国通運本社屋。中は、国際通運の本社が入居していた丸ノ内の郵船ビルヂング。下は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」に記載された下落合1639番地の吉村佐平邸。
◆写真下:上は、1941年(昭和16)制作の日本通運の2色刷り媒体広告。中は、いまや懐かしくなりつつある日本通運のペリカン便を記念した宅配便ミニカーセット(TAKARATOMY)。下は、現在の日本通運が運行するNIPPON EXPRESS(NX)便の輸送トラック。
大変、興味深く拝読いたしました。
江戸時代、町人も飛脚を使うことができたようですが、一般庶民は郵便の様には使うことができたのかどうか気になりました。
> 明治の近代史というと、政府内のおもに薩長要人の言動(いわゆる「英雄史観」)のみが取りあげられがち
歴史を正しく知るためには、英雄史観以外の事実をいかに多く掘り出してゆくか、と言うことが重要だと、改めて感じました。
by アヨアン・イゴカー (2024-11-23 15:33)
アヨアン・イゴカーさん、コメントをありがとうございます。
庶民が利用するとすれば、おカネ持ちでない限りは「並便」だったでしょうね。江戸末期の値段ですが、並便だと文銭で67文(銀1匁)だったようで、酒1升が80文の時代ですから現在の感覚でいうと3,000円ぐらいでしょうか。
次の記事では、歴史学を除くいろいろな分野の視点で、【もし】という仮定を設定すると、マルチバース(パラレルワールド)的な世界や社会がどう見えてくるのか?……みたいな、相変わらずの拙記事を予定しているのですが、歴史学でも解釈しだいではまったく異なる世界が見えてくることもありますね。
by ChinchikoPapa (2024-11-23 16:13)