気になる加賀藩前田家上屋敷の椿山古墳。 [気になるエトセトラ]
少し前、下落合の丘上を大正期に発掘調査した大里雄吉の記事Click!に、東京帝国大学のキャンパスにあった「椿山古墳」が登場していた。もちろん、江戸期から大正期にかけ同学キャンパスは加賀藩前田家上屋敷(明治以降は前田邸)であり、玄室の石材とみられる切石が出土している同古墳は、屋敷庭園の「築山」または「見晴らし台」(江戸後期には「本郷富士」)にされていたとみられる。武蔵野文化協会の会員だった安倍叔(おそらく学生)という人物が、同古墳を簡易調査しており気になったので、きょうは東京帝大キャンパスにあった椿山古墳について少し追いかけてみたい。
これまで、大名屋敷の庭園にあった築山が、実は古墳期の前方後円墳や円墳であった事例は、拙サイトでも数多くご紹介してきている。たとえば、新宿駅西口にあたる美濃高須藩の松平家下屋敷の庭園築山にされていた新宿角筈古墳(仮)Click!をはじめ、水戸徳川家上屋敷(後楽園)にある大きめな小町塚古墳Click!(現存)、土岐美濃守の下屋敷の庭園にあった亀塚古墳Click!(現存)、尾張徳川家の下屋敷(戸山荘)だった戸山荘庭園の羨道や玄室が露出した古墳群Click!、大名屋敷ではないが寛永寺Click!境内の築山にされていた摺鉢山古墳Click!(現存)をはじめとする古墳群など、多くの拙記事に登場している。
また、東京帝大の椿山古墳は、江戸期の富士講Click!により「本郷富士」に仕立てられており、明治期に入ってからも周辺一帯は富士町と呼ばれていた。拙サイトでは、富士塚にされていた古墳もいくつかご紹介しており、落合地域の周辺でいえば上落合の落合富士Click!にされていた大塚浅間古墳Click!や、高田富士Click!にされており玄室石材の多くが水稲荷社Click!の本殿裏に保存されている早稲田大学キャンパスの富塚古墳Click!、江古田富士にされていた江古田浅間古墳Click!(現存)などが挙げられる。
さて、東京帝大キャンパスの椿山古墳について、東京都教育庁社会教育部文化課の記録には、どのように記載されているのかというと、たとえば1985年(昭和60)に都教育庁から出版された『都心部の遺跡-貝塚・古墳・江戸 東京都心部遺跡分布調査報告-』によれば、本郷台地の上部に築造されており、「円墳?」とクエスチョンマークが付されている。なぜなら、同古墳の南側は明治期の前田邸として造成されており、前方部が削られた前方後円墳とも解釈できるからだ。同大学の経済学部校舎(現・赤門総合研究棟)の建設時に湮滅されており、破壊時には玄室の石材とみられる切石(房州石Click!かどうかは不明)が出土しているが、江戸期か明治期に盗掘にあったものか副葬品は記録されていない。
余談だが、東京都教育庁社会教育部文化課が刊行した『都心部の遺跡-貝塚・古墳・江戸 東京都心部遺跡分布調査報告-』には、古墳期についていえば、すでに寺社や各種施設、あるいは住宅地化などにより湮滅してしまった古墳や、古墳の墳丘と思われる遺跡なども含めて広く記録されており、都市部に存在した古墳(とその疑いが濃厚な小山や丘陵)を調べるには、基本的な情報を提供してくれるベーシックな資料だろう。早くからの都市開発で石棺や副葬品、埴輪片、羨道・玄室の石材などが散逸し確認できない事例も含め、江戸期からの資料も踏まえながら記述しているとみられる。
同書には、椿山古墳について「5千分の1東京図に墳丘が認められる」と書かれているが、これは1883年(明治16)に作成された「五千分一東京図測量原図」のことを指しているのだろう。同測量原図を参照すると、前田家上屋敷の正門(赤門)Click!を入ってすぐ南側(右手)に、直径が30~40mほどの椿山古墳(後円部?)が確認できる。前方部があったとしても、全長70~80mほどだろうか。いまの東大キャンパスでいうと、東大の赤門総合研究棟(経済学研究科棟含む)あたりだ。赤門を入って右手(南側)にあった、明治期の前田邸が昭和初期に解体され移転すると、医学部や懐徳館などが建設されているが、それまでの前田邸母家の南側にも、まるで双子のような瓢箪型の突起がふたつ採取されている。これも、明治期の前田邸の南側にあたる庭園築山にされていた、小型の前方後円墳×2基なのかもしれない。
椿山古墳の山頂には、富士権現の祠が奉られていたようだ。いまでも、東大キャンパスの南側にある狭い敷地に、墳丘から移された富士浅間社が残っている。当時の様子を、1940年(昭和15)に東京帝大庶務課から出版された『懐徳館の由来』から引用してみよう。
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同丘<椿山古墳>上に富士神社の小祠が前田家の氏神として祀られてあつたが、前田家が敷地移転の際、これを町会に譲り、町会の有志によつて今尚祭祀を続けられて居る。懐徳館の庭の一部を割いた一角に祀られて居る富士浅間神社といふのが即ちこれである。この丘地が富士権現丘地と呼ばれるに至つたのは、此の社があつた所から出てゐるものであらう。現在では椿山と称へられて本学の一名所となつているのみでなく椿山古墳として原史時代遺蹟の一に数へにれて居る。(指定外史蹟名勝天然記念物・原史時代遺蹟・昭和十一年四月二日発行、東京市公報第二六八五号所載)<カッコ内引用者註>
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椿山古墳は、1885年(明治18)に坪井正五郎Click!が調査をしたが、このときは富士権現に向かう石段を少し掘り下げただけで遺物は発見できなかった。玄室の石材とみられる、「切石」が多く発見されるのは、椿山を崩した後世のことだ。
また、「五千分一東京図測量原図」には、旧・前田家上屋敷の心字池(現・三四郎池Click!)の西側に椿山古墳よりも山頂が高く、直径も60mを超えそうで規模も大きめな円形の丘が採取されている。同地図では「楢」山と記載されているが、その渦巻き状の螺旋形をした丘のかたちから、江戸期より庭園の螺山(さざえやま)とされていた丘だろう。現在のキャンパスでは、文学部3号館や総合図書館のあるあたりだ。
同地図では、囲いの中に円形のように描かれているが、こちらも南側を当時の校舎で大きく削りとられており、もともとは前方部が削られた100m超の中型前方後円墳だったのかもしれない。現在は墳丘が崩され、中央通り(西側)や弓道場(南側)になっているが、その片鱗は心字池に隣接した西側の森に多少は残っているだろうか。
螺山(楢山)について、前出の『懐徳館の由来』よりつづけて引用してみよう。
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心字池の西側の丘上(略)にもう一つの丘があつた。螺山と呼ばれ、四十米近くの相当に高い丘であつた。前田侯が此の丘の上で江戸中を展望した所だと云はれる。育徳園心字池を掘つた土を盛り上げて副産物として出来た丘だと云はれる。金沢兼六公園の栄螺山を型取つたもので、螺旋状の路を上りつめると、富士山は勿論、品川の海までも一瞳の中に眺められたものであつた。この螺山は明治二十三、四年頃迄はあつたが、其後敷地を拡張する必要上、取崩されてしまつた。(カッコ内引用者註)
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ここでは、尾張徳川家の下屋敷だった戸山庭園のケースと、同じような事例を見ることができる。戸山庭園では、「琵琶湖」に見立てる池を掘った土砂で「箱根山」Click!を築いたとされているが、もともとあった丘状の突起へさらに掘削した土砂を盛りかぶせて、より高度のある丘(箱根山は約45m)を造成したのではないかと疑われているからだ。もともとあった丘状の突起とは、もちろん古墳の墳丘が想定されている。箱根山の場合は、ふたつの丘状突起の上へ新たに土砂がかぶせられているとみられる。
螺山は、前田家上屋敷の見晴らし台にされていたようだが、上野の寛永寺境内にあった摺鉢山古墳Click!もまた、上野公園内で見晴らし台にされていた事蹟が想起される。見晴らし台にする際は、後円部を大きく削って丘上を平らにしているが、墳丘を削る以前はやはり30~40mほどの高度があったとみられ、ちょうど前田家の螺山と同じぐらいの規模だろう。上野山の摺鉢山古墳(前方後円墳)は現存しているが、前田家の螺山のほうは椿山古墳とは異なり、なんら調査されることなく明治中期には破壊されてしまった。
また、上記の文中で明らかに誤りなのは、兼六園の栄螺山は1837年(天保8)に築造されており、本郷の前田家にあった螺山は江戸前期(あるいはそれ以前)から存在しているので、金沢兼六園の栄螺山のほうが本郷の螺山をコピーして模したものだろう。1997年(平成9)に執筆された西村公宏の論文『近代日本高等教育機関におけるランドスケープ成立に関する研究』では、螺山消滅はもう少しあとの時代とされている。
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また、明治32(1899)年頃に、サザエ(栄螺)山は消滅し、生理・医化学教室の建設が進められており、明治36(1903)年頃には池のある中庭が整備されている。
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1929年(昭和4)に前田邸が駒場の東京帝大農学部跡地へと転居移転Click!する際、庭園の南端(現在の懐徳館から医学部3号館あたり)にあった、ふたつの瓢箪型突起の湮滅については記録が残っていないので、おそらくなんら調査もされずに破壊されているようだ。
こうして、本郷台地の丘上にあった加賀藩前田家の広い上屋敷内を見てくると、椿山古墳のみならず基盤が古墳とみられる螺山や双子の瓢箪型突起に限らず、早くから東京帝大の下になってしまった敷地には、数多くの古墳があったのではないかと想像できるのだ。
◆写真上:前田家上屋敷の正門(赤門)を入って、すぐ右手(南側)にあった椿山古墳。全景は入らなかったのか、5分の3ほどの墳丘がとらえられている。
◆写真中上:上は、正門(赤門)の冠木と門戸。中は、東京大学の赤門総合研究棟で椿山古墳は画面の右手にあった。下左は、1940年(昭和15)に出版された『懐徳館の由来』(東京帝大庶務課)。下右は、1985年(昭和60)に出版された『都心部の遺跡-貝塚・古墳・江戸 東京都心部遺跡分布調査報告-』(東京都教育庁社会教育部文化課)。
◆写真中下:上は、1883年(明治16)に作成された「五千分一東京図測量原図」。下は、1902年(明治35)に作成された「本郷区全図」で螺山が崩されている。
◆写真下:上は、東大キャンパスに南接して残る富士浅間社。中は、本郷富士塚の記念碑。下は、東大の南端につづくレンガ塀で、双子の瓢箪状突起は塀内の右手にあった。
★おまけ
江戸前期に冬の江戸市中へ出まわった、ミカンの原種を手に入れた。左側に置いたいまの紀州ミカンに比べると、小ぶりなユズと見まちがえるほどのサイズだ。紀伊国屋文左衛門が紀州から江戸へ回航していた当時のミカンは、江戸後期の品種改良がなされる以前のもので、このような形態をしていたのだろう。風味は現代のミカンとあまり変わらず、ひと口で食べられてしまうが、種がたくさんあるので食べたあとがたいへんだ。戦前まで、ミカンの北限は神奈川の湘南・二宮といわれており、子どものころは静岡ミカンと並び地元のミカンはよく食べたが、現在は新潟あるいは福島がミカンの北限生産地といわれている。
江戸前期に冬の江戸市中へ出まわった、ミカンの原種を手に入れた。左側に置いたいまの紀州ミカンに比べると、小ぶりなユズと見まちがえるほどのサイズだ。紀伊国屋文左衛門が紀州から江戸へ回航していた当時のミカンは、江戸後期の品種改良がなされる以前のもので、このような形態をしていたのだろう。風味は現代のミカンとあまり変わらず、ひと口で食べられてしまうが、種がたくさんあるので食べたあとがたいへんだ。戦前まで、ミカンの北限は神奈川の湘南・二宮といわれており、子どものころは静岡ミカンと並び地元のミカンはよく食べたが、現在は新潟あるいは福島がミカンの北限生産地といわれている。
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