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 以前、このサイトで“黒メガネの旦那”こと、石黒敬七Click!のコレクションを記事にしたことがある。雑多な珍奇コレクションの中には、幕末や明治期に国内外で撮られた古写真、あるいは古いカメラなども含まれているのだが、古写真のコレクションでは子息である石黒敬章コレクションのほうが、父親よりもはるかに充実しているだろう。
 石黒コレクションの中には、明治期に撮影された空中写真も含まれている。でも、明治期の空中写真は飛行機からの撮影ではなく、気球に乗ったカメラマンが地上へカメラを向けて撮影したものだ。明治から大正期にかけ、気球は単に博覧会などのアトラクションとして楽しんだり、気象観測用に活用されるばかりでなく、軍事的な用途でも重要視Click!されはじめていた。それは、遠方の敵陣を偵察したり、大砲の着弾位置を観察したりするのに用いられている。大正期には、海軍の軍艦(おもに戦艦)の着弾観測用にも導入され、のちに水偵のカタパルトが設置される艦尾から気球が上げられている艦艇写真が数多く残っている。
 気球は飛行機の発達とともに、第2次世界大戦ではあまり用いられなくなったが、ヨーロッパでは空襲に備えた防空気球として使われつづけた。特にイギリスでは、低空でやってくるドイツ軍の爆撃機の侵入妨害用として、戦争末期まで現役で使用されている。日本では敗戦間際のころ、気球に近いものとして和紙とこんにゃくでバルーンを作り、爆弾を吊り下げた「風船爆弾」を米国西海岸へ向け、千葉や茨城、福島の海岸線から盛んに飛ばしていた。
 偏西風(発案者は「神風」と呼んでいたそうだ)のジェット気流にのせて飛ばすのだが、偶然性へ全面依存する作戦とも呼べない計画で、勤労動員の女学生たちへヒロポン(覚せい剤)を飲ませてまで、陸軍は風船爆弾の製造を昼夜の別なくつづけた。理工系の親父は戦時中、なにかの機会にその存在を知ったらしく、明治政府以来の大日本帝国のおしまいも近い「ふせん(不戦)爆弾だ」と苦笑していたらしい。1945年(昭和20)4月まで9,300個も飛ばされた風船爆弾のうち、カナダと米国、そしてメキシコの西海岸へ到達したのが361個。そのうち、オレゴン州の森の中に落ちていた不発弾で、ピクニックにきていた20代の女性と5人の子どもたちが、誤って触れて爆死している。この6人が、第2次世界大戦中に米国本土で犠牲になった最初で最後の民間人だった。
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銀座丸の内方面.jpg
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 さて、明治期に東京上空へ揚げられていた気球は、築地にあった海軍大学校のものだ。海軍省の技師だった市岡太次郎が、1904年(明治37)に気球へ乗りこみ試験的に東京市街を撮影したものだろう。この4枚の写真が、日本で初の空中写真といわれている。当時、日本はロシアと日露戦争のまっ最中で、海軍大学校でテストされた気球はすぐに旅順へ偵察用として運ばれているが、このときはうまく敵情偵察に利用できなかったらしい。
 4枚の写真を観察すると、いろいろ面白い風景が見えてくる。地上からはお馴染みの明治の東京風景が、空中から撮影されることでまた別の顔を見せてくれるのだ。まず、写真①には和風建築になる前の、西洋館の歌舞伎座が写っている。歌舞伎座の裏(北東)には、三十間堀に沿って天狗煙草で有名な岩谷商会のビルが見える。目を北側へ向けると、日本橋とつながる銀座尾張町4丁目の中央通り(旧・東海道)交差点には服部時計店Click!が見え、北東の角には京屋時計店の時計塔Click!が建っている。そして、服部時計店の真ん前、南西から数えて2つめの屋根が、新橋の土橋南詰めへ移転する前の池田米子(佐伯米子Click!)の実家である池田象牙店だ。
 丸の内方面を眺めると、いまだ三菱ヶ原の面影が色濃く、気球のロープにかかって東京府庁や三菱のレンガビルがいくつか見えている。東海道線は新橋駅(のち汐留駅)止まりで、東京駅はいまだ存在していない。ここに写っている風景の大半は、江戸期には千代田城の城内(外濠内)だったところで、千代田城がいかに巨大な城郭だったかが実感としてわかる写真だ。しかも、この写真には地平線に近いエリアまで含めても、千代田城全体の3分の1ほどしか写っていない。
有楽町日比谷方面.jpg
江木写真館塔.jpg 鹿鳴館帝国ホテル.jpg
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新橋停車場.jpg 愛宕塔お化け銀杏.jpg 
 写真②には、銀座西部から新橋、日比谷にかけての街並みが写っている。手前の堀は、上の写真からつづく三十間堀だが、写真の左下で新橋川へと合流している。その新橋川を上流(西)へたどると、突き当り土橋の脇に江木写真館Click!のレンガでできた尖塔Click!がすでに建っている。関東大震災Click!で崩壊してしまう塔だが、明治中期には浅草の凌雲閣(十二階)と愛宕山の愛宕塔と並び、東京三大塔のひとつに数えられていた。江木写真館の向こう側には、まさに工事中の東海道線が見えており、レンガの新橋高架Click!が建設中だ。
 できたばかりの日比谷公園は、樹木が低くてほとんど原っぱのようだが、その手前には上空から眺めた貴重な建築が並んでいる。日本勧業銀行の隣りには、華族会館(旧・鹿鳴館)が見えている。空中から眺めた鹿鳴館は、おそらくこの写真だけだろう。その鹿鳴館の右手前には、初代の帝国ホテルが写っている。日比谷公園の西側には、司法省や大審院、海軍省などの大きな建物が建っているが、この中で司法省の建物のみが、法務省として現在でもそのまま使用されている。
 写真③では、上空から眺めた東海道線の終点、新橋停車場Click!と駅前広場の風情がめずらしい。新橋駅の上では、新しい新橋駅の建設が進んでいるのが見える。写真の左上には愛宕山Click!が写っており、その山頂には江木写真館や凌雲閣(十二階)とならぶ三塔のひとつ、愛宕館の愛宕塔が白く見える。また、愛宕山の手前には、江戸期から「お化け銀杏」と呼ばれた巨大なイチョウの樹がとらえられている。この写真の右上が新宿方面だが、地平線が霞んでよく見えない。現在、同じ空中位置から新宿方面を眺めると高層ビルが林立しているのだろうが、この時代ではいまだ森や林、田畑や原っぱばかりの典型的な東京郊外の風景だったろう。
浜松町芝方面.jpg
愛宕塔.jpg 東京駅.jpg
 写真④は、浜離宮(手前)と芝離宮(中央左)が中心で、遠景には芝から三田、品川方面が写っている。芝離宮の左手には大きなガスタンクが見えているが、この位置が現在の東京ガス本社ビルのある地点だ。海岸沿いにある品川駅は遠くて見えないが、東海道線でもっとも早く造られた駅は、上の写真に見える新橋駅ではなく品川駅だ。新橋停車場が完成する前、すでに品川駅から横浜まで汽車の試運転がスタートしている。
 貴重な石黒コレクションは、これまで高額な大判写真集に収められていたのだが、今年の5月にようやく2巻に分けた『明治の東京写真』(角川学芸出版)として廉価版が発売された。発売と同時に、地域の図書館などでも収蔵されたと思われるので、興味がおありの方はご参照いただきたい。

◆写真上:明治の空中写真に写った建物で、いまだ現役の司法省(現・法務省)レンガ建築。
◆写真中上・中下は、風船爆弾の機密試験をする女学生。は、米空軍に撮影された風船爆弾。は、海軍省の技師・市岡太次郎が、1904年(明治37)に海軍大学校の気球へ乗りこんで撮影した、石黒敬章コレクションの貴重な空中写真。
◆写真下:同じく、明治期の千代田城周辺をパノラマ撮影した空中写真。下左は、東京三大塔のひとつで愛宕山の愛宕塔。下右は、そろそろ姿を見せはじめた祖父母や両親には馴染みの東京駅。