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明治末の銀座を回顧する佐伯米子。 [気になる下落合]

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 これまで、日本橋の隣接地域である京橋区は尾張町(銀座)で生まれ育った岸田劉生Click!が書く、子ども時代を回想したエッセイをご紹介Click!したことがある。いかにも、江戸東京の男の子らしい少年時代をすごしていたようだが、男子ではなく銀座で生まれた女子がすごした子どものころの情景は、どのようなものだったのだろうか?
 1955年(昭和30)発行の「婦人之友」7月号(婦人之友社Click!)に、銀座4丁目9番地の池田象牙店Click!で生まれ育った佐伯米子(池田米子)Click!が、子ども時代を回想したエッセイを寄せている。そこには、明治末の銀座4丁目に並んでいた店舗のイラストが描かれているが、9番地角地の山崎洋服店(旧・中央新聞社)の店舗から同14番地の京屋時計店まで、わずか8軒の店舗しか描かれていない。子ども時代の記憶なので、印象に残らない店は記憶から抜け落ちたのだろうが、実際には山崎洋服店から京屋時計店までには、池田象牙店を含め17軒の店舗が並んでいたはずだ。
 以下、佐伯米子のイラスト化された記憶と、実際の店舗とを比較してみよう。
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 このあと、池田象牙店は銀座4丁目から新橋駅近くの土橋南詰めClick!(二葉町4番地)に移転するのだけれど、それにしても山崎洋服店から寄席「銀座亭」のある新道(じんみち)Click!まで、実際には14店舗もレンガの商店建築が並んでいたのに、6店舗しか描かないのは彼女が子どもだったとはいえ、いくらなんでも忘れすぎだろう。(爆!)
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 銀座の子どもたちに流行ったのは、やはり岸田劉生と同様に色とりどりのしんこ細工Click!だったようだ。1955年(昭和30)の「婦人之友」7月号より、佐伯米子『私の遭遇したさまざまの場合[第一回]/銀座の子』から引用してみよう。
  
 昔はしんこやさんがありました。薄い小さい木の板の上に、きれいな色しんこを、絵の具を並べたように、何色も、そら豆位の大きさに、つまんで、ちよんちよんと、置き、隅の方に、ビンツケの油をちよつと、添えてありました。そんなのが、いくつも出来て売つておりました。この油をさきに、手にすりこみ、しんこが、つかないようにしてから、いろいろなものを作るのですが、たいがいの子は、お団子をこしらえたりして、おままごとのようなことを致しましたが、私は中庭のけんねんじ垣から、枝をぬいてきて、その枯枝に、赤い花や、緑の葉をつけたり下に鉢を作つて植えたり致しました。
  
 しんこ屋が店を出すのは、月に3回ほどある銀座出世地蔵の縁日に限られていたようで、境内にはたくさんの露天商が見世を並べていたようだ。植木屋や金魚屋、ほうずき屋、おもちゃ屋、葡萄餅屋、豆屋、飴屋、見世物小屋などが、夕方から夜にかけカンテラの灯をともして賑やかだったのだろう。彼女は女中に連れられ、夜店に出かけるのを楽しみにしていたらしい。現在でも銀座三越の屋上には、小さな銀座出世地蔵堂と三圍社Click!が並んでおり、縁日になると前の広場には多くの露店が見世を拡げるのだろう。
 佐伯米子が子どものころ、この地蔵堂の入口には、いつも尺八を吹く盲目の“おこも”がいて、家人とともに参詣すると必ず銅貨をめぐんでいたらしい。母親から、銅貨を「なげてやつてはいけません」といわれ、必ずそっと手わたすようにしていたという。
 彼女は、実家の店内でもよく遊んでいたようだが(のちに彫刻家となる店員の陽咸二Click!とも親しくなっただろう)、横浜の支店に象牙の荷がとどくと店内はとたんに繁忙期となり、店では邪魔にされて追いだされた。そんなときには、隣りの出頭たばこ店に遊びにいっては、きれいな外国の葉巻やタバコのパッケージに見とれていたらしい。同誌から、つづけて佐伯米子のエッセイを引用してみよう。
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東京亰橋区銀座附近戸別一覧図1902.jpg
京屋時計店1900ごろ.jpg
  
 そのお店の中央に真鍮の大火鉢が置いてあり、そのそばに坐つて、むつかしい葉巻の名前をみなおぼえてしまいました。そのたばこの中に、ピースと同型位の、それはそれはきれいな箱の西洋たばこが何種類もありました。その中に、美くしい色刷りの西洋婦人の顔が、トランプのように一枚ずつ、必ず入つているタバコがありました。そのカードを虎どん(同店の小僧)達から貰うのが、うれしうございました。/パイプに詰めるコナタバコの、ボタン色の袋入りや、日本タバコの名もおぼえ、小僧さん等と一緒になつて、品物をお客様に渡し、お金を受けとると、/『ありがと、オワイ、イス』/と節をつけていうのがお得意になりました。/ところが、まもなく、これを家へ来る人にみつけられて、『米子さんはお隣りでタバコを売つておりますよ。』といいつけられてしまいまして、家から迎えにこられてしまいました。(カッコ内引用者註)
  
 佐伯米子が絵に興味をおぼえ、川合玉堂の画塾に通うきっかけとなったのは、子どものころに見た色とりどりのしんこ細工や、外国タバコのおしゃれなパッケージデザインなどの原風景だったかもしれない。出頭たばこ店の小僧たちと仲よくなり、海外タバコを見せてもらったり遊んでもらうために、彼女はおもちゃやお伽噺本をせっせとタバコ屋へ運んでいたようだ。
 足を傷めたあと、入院先の帝大病院の池からすくって帰ったオタマジャクシを育てていたところ、庭で1匹残らずカエルになって姿を消してしまい、悔しくて泣きだし女中を困らせたりもしている。典型的な(城)下町Click!の“お嬢様”生活だが、3月の雛祭りも蔵から運び出された多くの雛人形の箱をめぐり、大騒ぎだったようだ。池田家では、姉妹で個別の豪華な雛人形をもっており、その飾りつけが終わると雪洞に灯を入れ、桃の花に白酒と“お豆いり”(雛あられ)をそなえた。3月3日には、友だちを招いて「赤の御飯と白味噌のおみおつけ、きんとんなど」を食べて遊んだらしい。
 足を悪くして飛びまわれなくなった佐伯米子は、店舗裏の路地から自宅にやってくる人物や、近くの店から漂ってくる香りを楽しみにしていた。
  
 この露地(ママ)へは、飴やのおばあさんが、かたから箱をさげ、手拭でよしわらかぶりをして人形をもつて飴を売りに来るのがおりました。文楽の人形のように手足を動かして、おかめのような、可愛いい顔の人形を躍らせながら、おばあさんが何か歌いました。帰りに飴を置いて行きました。そのおばあさんが格子戸を入つてくるのがたのしみでした。/この住居の、隣家が木村屋のパンの工場になつていまして、いつもパンを焼くよいにおいがして、頭も顔も真白く粉をつけた職工さんが、多(ママ)ぜい働いていました。
  
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 女子らしく色やかたち、匂いなどに敏感で細かく憶えているところが、岸田劉生が回顧する少年時代の銀座と大きく異なる点だろうか。劉生のエッセイに、木村屋のあんパンは登場しなかったと思うが、佐伯米子はきっと女中にねだって食べていただろう。

◆写真上:銀座4丁目の三越屋上にある、銀座出世地蔵尊(手前)と三圍社(奥)の境内。
◆写真中上:1955年(昭和30)に「婦人之友」へ、佐伯米子が思い出しながら描いた銀座4丁目界隈のイラスト。8店舗が描かれているが、実際は17店舗が並んでいた。
◆写真中下は、いまでも目を惹く鮮やかなしんこ細工。は、1902年(明治)に作成された「東京亰橋区銀座附近戸別一覧図」にみる池田象牙店。は、佐伯米子が明治末の少女時代に目にしていた京橋時計店(右下)あたりの街並み。
◆写真下は、東京女学館1年生()と女学生時代の池田米子()。は、昭和初期の写真()と1953年(昭和28)に佐伯アトリエで撮影された佐伯米子()。は、新橋の二葉町4番地に移転したあとの池田象牙店(左手の瓦屋根)。

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