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カラーで観察する『セメントの坪(ヘイ)』。 [気になる下落合]

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 とうとう佐伯祐三Click!の「下落合風景」シリーズの1作、『セメントの坪(ヘイ)』Click!が見つかったのか?……と喜ばれた方がいるとすれば、残念ながらちょっとちがう。1927年(昭和2)9月に開催された、第14回二科展の会場で販売された佐伯の来場記念のカラー絵はがきだ。この絵はがきが貴重なのは、画面にほどこされたカラーがおおよそわかるのと同時に、これまで画集や図録などに掲載されていたモノクロ画面よりも、ややキャンバスの範囲が広いことだろう。
 画像を提供してくださったのは、貴重な同絵はがきを所有されていた山本光輝様だ。『セメントの坪(ヘイ)』の絵はがきは、1927年(昭和2)6月に開かれた1930年協会の第2回展でも制作されており、佐伯が二度めの渡仏をする直前に、「Mr.Kojima, Uzo Saeki」のサインをして小島善太郎Click!へプレゼントしているのは、以前にこちらの記事Click!でも取りあげていた。その絵はがきは、モノクロかカラーかがいまとなっては不明だが、二科展の記念絵はがきがカラー印刷だったのは幸いだ。
 佐伯祐三は、第14回二科展へ出品する予定の『セメントの坪(ヘイ)』や『滞船』などの作品4点を、1930年協会のメンバーだった里見勝蔵らに託して、1927年(昭和2)7月末に東京を出発して大阪へ立ち寄り、再びパリをめざしている。したがって、自身の出品作のうち『セメントの坪(ヘイ)』がカラー印刷の記念絵はがきとして同展で売られているのを知ったのは、渡仏後のことだったろうか。それとも第2次渡仏直前に、絵はがきにする画面をみずから同作に指定してから旅立ったものだろうか?
 『セメントの坪(ヘイ)』は、1926年(大正15)8月以前(おそらく8月中)に制作された、佐伯の「下落合風景」シリーズClick!ではもっとも早い時期の作品とみられ、1926年(大正15)9月1日に佐伯アトリエで行われた東京朝日新聞社の記者会見Click!でも、報道写真の背後に同作がとらえられているのがわかる。『セメントの坪(ヘイ)』はその後、関西地方を中心に組織された作品頒布会にも出されず、ずっと10ヶ月間もアトリエで保存されていた様子をみても、佐伯がいかに同作を気に入っていたのかがわかる。翌1927年(昭和2)6月の1930年協会第2回展に同作は初めて展示され、その次に同年9月の第14回二科展にも出品されたという経緯だ。
 さて、画面を細かく観察してみよう。全体的にモノクロ画面ではうかがい知れなかった家並みのディテールや、絵の具のマチエールがわかって興味深い。まず、左端にとらえられた曾宮一念アトリエClick!だが、彼の『夕日の路』Click!では西日に直射されてよくわからなかった外壁の色が、清水多嘉示Click!『風景(仮)』(OP284/OP285)Click!と同様に、下見板張りの壁面が焦げ茶で、窓枠がホワイトに塗られていたことがわかる。その右手に連なる、内藤邸から高嶺邸Click!にかけて久七坂筋Click!沿いの家々も、モノクロの画面に比べればかなりリアルにとらえられている。主棟が南北を向いた内藤邸から南にかけては、空襲による延焼からも焼け残った区画であり、特に高嶺邸はリニューアル前そのままの姿をしており、わたしも学生時代から目にしているのでどこか懐かしい。
 高嶺邸のさらに右手奥(南側)には、電柱の向こう側に細い路地をはさんで灰色屋根の大きめな住宅が見えている。この住宅から南側の区画が、下落合735番地の家々(計13棟)で、1927年(昭和2)に入ると早々に、母屋の大規模なリニューアル工事を実施するため、上落合186番地Click!から転居してくる村山知義・籌子夫妻Click!のアトリエがあった位置だ。前年9月1日に行われた佐伯アトリエの記者会見から半年後、1927年(昭和2)の3月初めに東京朝日新聞社の記者とカメラマンは下落合の村山アトリエを訪問して、「アサヒグラフ」に掲載する村山夫妻の写真を撮影している。
曾宮一念アトリエ.jpg
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セメントの坪(ヘイ)現状.JPG
 また、久七坂筋の家々と諏訪谷へ下りる坂道との間には、大六天Click!の鳥居の上部が見えている。大正期の当時、大六天の鳥居は現在とは逆に北側の道路に面して設置されていた。それは、1925年(大正14)に作成された「出前地図」Click!でも確認することができる。また、当時の諏訪谷は、現在のように谷底までコンクリートの擁壁が垂直に切り立ってはおらず、土の斜面Click!が残されていた。したがって、正面中央の白いコンクリート塀の野村邸は斜面中腹のやや下に建てられており、塀の陰に屋根がスッポリ隠れていて見えない。逆に、右手の2階家は斜面の上部へ取りつくように建てられており、1926年(大正15)の早い時期から開発がスタートした諏訪谷の住宅街は、当初かなり複雑な地割りがなされていたように思われる。
 さて、ここでもう一度、大六天の境内脇にあった、大ケヤキClick!について考えてみよう。樹齢数百年とみられる大ケヤキは戦前から、この画角でいうと曾宮一念アトリエから数えて左から3軒目の住宅の手前、諏訪谷へと下りるスロープの中途に生えていたが、ご覧のように画面にはケヤキらしい大樹は描かれていない。ところが、同じ佐伯祐三が諏訪谷を描いた『曾宮さんの前』Click!には、右隅に谷の西向き急斜面から生えたケヤキらしい大樹が描かれている。また、諏訪谷をアトリエの庭先からとらえた曾宮一念『荒園』にも、左端にケヤキとおぼしき巨木がとらえられている。両作とも、諏訪谷の谷戸の突きあたりに残っていた急斜面から大ケヤキが生えているように見える。
 この大ケヤキは戦後、落雷Click!のために幹が裂け倒木の危険があるので伐り倒されたのだが、わたしが下落合を歩きはじめたころは、すでに切り株だけになっていたように記憶している。毎年、春になると切り株から新芽が伸びていたものの、その後に根ごと掘り返され撤去されてしまい、大谷石の擁壁に空いた大樹の跡はコンクリートで埋められてしまった。諏訪谷が開発された当初、大ケヤキは谷戸の突きあたりの斜面、つまり洗い場Click!の湧水源に生えていたものが、宅地開発が進むにつれて邪魔になり、谷戸の突きあたりに大谷石による垂直の擁壁が築かれるのと同時、すなわち昭和に入ってから早々に大六天境内の脇へと移植されたものだろう。1938年(昭和13)作成の「火保図」では、すでに絶壁状の擁壁表現が描かれており、そのすぐ下には住宅が建設されているので、移植は昭和の最初期に行われているとみられる。
高嶺邸.jpg
高嶺邸.JPG
諏訪谷スロープ.JPG
 画面の手前に、目を向けてみよう。曾宮アトリエの西隣りは空き地のままで、いまだ谷口邸は建設されていない。カラー画面では、谷口邸の住宅敷地を斜めに横切るように、人々が歩いてできた道筋がハッキリと確認できる。この道は正式の道路ではなく、西側の青柳ヶ原Click!を突っ切って諏訪谷へと向かう「けもの道」ならぬ、人間が歩きなれた「ひとの道」だ。正式な道路は、セメント塀に沿ってやや「く」の字に屈曲しながら東西につづくラインで、佐伯が同作を描いたときは、ちょうど道路工事中か工事が終わったばかりの状態だったとみられる。1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には、道筋の付け替えが行われている、まさに工事中の様子が記録されている。
 さて、最後に画面右端に描かれたセメント塀の住宅とは対照的な、やや古びているとみられる2階家について考えてみよう。先述したように、この2階家は諏訪谷の斜面上部に建てられた住宅だが、清水多嘉示が描いた『風景(仮)』(OP284/OP285)にはすでに描かれておらず、別の住宅の“庭”ないしは門からつづくエントランス部になっているように見える。佐伯が描いたセメント塀と、同じ仕様の塀が西へと延長して建設され、諏訪谷の宅地開発計画の一環として、斜面に異なる住宅が新たに建てられているように見える。換言すれば、右端の2階家は諏訪谷の開発計画では解体される予定になっていた、古い住宅のうちの1軒ととらえることができるのだ。
 この諏訪谷の南向き斜面上に建てられた住宅は、1923年(大正12)および1925年(大正14)の陸地測量部Click!が作成した1/10,000地形図では、数軒並んで確認することができるが、1930年(昭和5)の同地図ではすでに異なる表現に変化している。つまり、佐伯祐三が『セメントの坪(ヘイ)』を描いた1926年(大正15)8月あたりから、清水多嘉示が『風景(仮)』(OP284/OP285)の両作を描いたとみられる1930年(昭和5)前後の間のどこかで、斜面上の家々は解体されているとみられるのだ。
 なぜ、こんな些末なことにこだわるのかというと、二度めの渡仏のために佐伯アトリエの留守番(1927年7月末以降)を依頼される直前、大正末から昭和初期にかけ結婚したばかりの鈴木誠Click!が、家族とともに法外に安い家賃で住んでいた“わけあり物件”であり、下落合では名うての「化け物屋敷」の2階家、つまり当時の下落合でも有名な心霊スポットが、この古びた2階建て住宅ではないかと思えるフシが多々あるからだ。
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 すなわち、佐伯祐三はともに友人だった曾宮一念と鈴木誠のアトリエを、左隅と右隅にほんの少しずつ入れながら、『セメントの坪(ヘイ)』を描いている可能性が高いことだ。美校校友会名簿で判明した、当時の鈴木誠の住所とともに、それはまた、次の物語……。

◆写真上:1927年(昭和2)9月に開催の第14回二科展で作成された、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズの1作『セメントの坪(ヘイ)』のカラー記念絵はがき。
◆写真中上は、同作の左端に描かれた曾宮一念アトリエの南西角で、いまだ「寝部屋」は増築されていない。は、1921年(大正10)4月に撮影された竣工直後の曾宮アトリエ。(提供:江崎晴城様) は、できるだけ『セメントの坪(ヘイ)』の画角に近いよう曾宮アトリエ跡の敷地から撮影した同所の現状。(2007年撮影)
◆写真中下は、『セメントの坪(ヘイ)』に描かれた高嶺邸。は、2007年(平成19)まで当時そのままの意匠をとどめていた高嶺邸。は、高嶺邸が見える久七坂筋の尾根道(左)と諏訪谷へ下りるスロープ(右)。中央の樹木が茂ったエリアが大六天の境内で、右手の大谷石で築かれた擁壁には移植された大ケヤキの生えていた跡が見える。
◆写真下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる諏訪谷。曾宮一念アトリエ前の道路が付け替え工事中で、まさに宅地開発の真っ最中の諏訪谷がとらえられている。は、12年後の1938年(昭和13)に作成された「火保図」の諏訪谷一帯と佐伯の描画ポイント。は、1927年(昭和2)6月に開かれた1930年協会第2回展の絵はがきで、佐伯祐三から小島善太郎へあてたサイン入り。

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