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弦巻川を上流へたどると稲荷山。 [気になる神田川]

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 以前、弦巻川(鶴巻川)の流域に残る地名の「目白」や「金山」、「神田久保」とともに目白不動や幸神社(こうじんしゃ)、金山稲荷などについて、3回連載のまとめ記事Click!を書いたことがあった。池袋の丸池に発し、東の護国寺から大洗堰Click!下の江戸川Click!(1966年より神田川)に向けて流れ下る、弦巻川の中流域一帯に着目したものだが、今回はもう少し上流のエリアへ視界を移して地勢を概観してみたい。
 少し前に、目白界隈に住む人々の記憶に残る雑司ヶ谷異人館Click!の記事を書いたが、その坂下にある弦巻川の河畔に沿った道には、宝城寺と清立院が並んで建立されている。もともと雑司ヶ谷村の飛び地(雑司ヶ谷旭出町)だった地域で、昔から向山と呼ばれた急斜面に寺々は建っている。その丘上の中島御嶽地域には、東京府が開設した雑司ヶ谷旭出町墓地(現・都立雑司が谷霊園)が拡がっている。向山は、丘上から弦巻川の流れに向けて急激に落ちこむバッケ(崖地)Click!地形で、大鍛冶たちのタタラ製鉄Click!にはもってこいの地形だ。ちなみに、丘上の地名である御嶽とは御嶽権現のことであり、金(かね=鉄)や金属を溶かす火の神・カグツチ(迦具土)と結びつく信仰のひとつだ。
 南面する向山の中腹には、由緒由来がこれまで不明でハッキリせず、稲荷にはおなじみのキツネたちが存在しない、白鳥稲荷大明神がひっそりと鎮座している。そして、白鳥稲荷大明神社が建立された斜面に通う坂道は、いまでも昔日のまま「御嶽坂」と呼ばれつづけている。1932年(昭和7)に暗渠化された、弦巻川の跡から向山の斜面を眺めると、現代のひな壇状に整地された住宅や寺々を眺めていても、砂鉄を採集したタタラ製鉄のカンナ(鉄穴・神奈)流しClick!を想像することができる。
 すなわち、白鳥稲荷大明神とは本来が「鋳成大明神」ではなかっただろうか? 地形的に見れば、白鳥稲荷社は目白(のち関口)の目白(=鋼の古語)不動に近接した幸神社(荒神社)や、神田久保の谷間に面した金山稲荷(鐡液鋳成=カナグソ)と酷似した地勢に気づく。音羽から谷間をさかのぼっていった大鍛冶集団が、いや、雑司ヶ谷村西谷戸(現・西池袋)の丸池(成蹊池)Click!から流れを下ったのかもしれないが、この地にも滞在してカンナ流しを行なった……そんな気配が強く漂っているのだ。
 さて、白鳥稲荷大明神社から、さらに弦巻川を400mほど上流へたどると、平安初期の810年(弘仁元)ごろより「稲荷山」と呼ばれてきた丘がある。この稲荷山も、本来はタタラ製鉄による「鋳成山」とよばれていたのではないかとつい疑いたくなるが、実は稲荷山のテーマはそこではない。稲荷山という丘名を山号に用いていたのが、雑司ヶ谷の巨刹である威光寺(のち法明寺と改名)だった。
 法明寺は、平安初期の建立当初の寺名では「稲荷山威光寺」と呼ばれている。そして、後世に寺名の「威光」を山号にしてしまい、改めて寺名を法明寺と呼ぶようになった。また、稲荷山の威光稲荷に安置されていたのは、キツネのいる後世の一般的な社(やしろ)ではなく、法明寺の縁起資料によれば「威光尊天」と呼ばれる仏神で、もともとは鳥居など存在しない威光稲荷の堂宇だったのがわかる。
 このあたりの経緯を、1933年(昭和8)出版の『高田町史』(高田町教育会)から引用してみよう。ちなみに、江戸期の文献とは異なり、神仏分離・廃仏毀釈が行われた明治以降の資料では、威光山法明寺と威光稲荷社(堂)は明確に分離して記録されている。それは、法明寺鬼子母神堂(雑司ヶ谷鬼子母神Click!)の境内にある、明らかに稲荷神が奉られ、鳥居が林立している社(やしろ)のことを、ときに武芳稲荷堂と表現するのと同様のケースだ。
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 法明寺奥庭の小高き山上に、威光稲荷と云ふ一堂がある。祭神は他の稲荷と異り、威光尊天と称へ、今を去る千百余年前、慈覚大師自作の像で、嵯峨天皇の御宇、弘仁元年に勧請し、山号を稲荷山と称へた。後ち威光山と改めて以来、普く善男善女を守護し、又水火災、盗難、剣難、病難を除くとて信仰崇敬される。法明寺縁起には『当山鎮守開運威光尊天』とある。之は仏教の堂宇とすべきか、神社の中に入るべきかと惑ふも、世人は之を神として参拝をして居る。
  
 この記述では、なぜ威光山の山号以前に、同寺が稲荷山と呼ばれていたのか経緯が不明だ。さまざまな文献を参照しても、威光寺(のち法明寺)の裏山が、なぜ稲荷山と呼ばれていたのか、そして、なぜそれが山号に採用されたのかを解説したものは見あたらない。稲荷山の山号が威光山に変わったのは、鎌倉中期に天台宗(真言宗説もあり)だった威光寺を日蓮宗に改宗しているからで、日蓮の弟子である日源が訪れて寺名を山号にし、法明寺へと改名したことにはじまる。
 ところが、明治末まで威光稲荷の小山状の境内には、洞穴の開いていたことが記録されている。記録したのは、付近を散策していた歌人で随筆家の大町桂月だ。与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」に対し、「乱臣なり賊子なり」と評した国粋主義者の大町桂月だが、わたしには彼の書いた江戸東京の習俗を嘲笑する散策文もまったくもって気に入らない。上方落語で、江戸東京の街をことさらバカにして蔑むときにつかう“マクラ”、「伊勢屋に稲荷に犬の糞」と同じような臭気がするからだ。でも、ほかに明治期の記録が見つからないので、1906年(明治39)に大倉書店から出版された大町桂月『東京遊行記』から、しかたがないので引用してみよう。ちなみに、大町桂月は法明寺のことを、一貫して「明法寺」と誤記(わざとかもしれない)しつづけている。
  
 目白停車場より出でゝ、都の方へニ三町も来れば、左の方数町を隔てゝ、森が二つ三つあるを見るべし。その手前の森が鬼子母神堂の在る処にして、次ぎのが、明法寺(ママ:法明寺)の在る処也。/鬼子母神堂の横手より左に一二町ゆけば、仁王門あり。その仁王尊の像は、運慶の作にかゝると称す。その内が、明法寺(ママ)也。祖師堂釈迦堂あり、しめ縄を帯びたる大欅、落雷の為めに半身を失ひて、半身なほ栄えたり。奥に稲荷あり、仏に属して、威光天と称すれども、朱の鳥居の多きこと、羽田の穴守稲荷に次ぐ。祠堂は、改築中也。傍に、穴あり、多く紙片をくゝりつけたるは、穴の中の主に祈るなるべし。東京の愚俗、依然として、狐を拝す。(カッコ内引用者註)
  
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 現在の威光稲荷では埋められたのか、境内には見あたらない小山から洞穴が出現し、明治末の時点まで保存されていたのを記録した貴重な証言だ。ちなみに、1977年(昭和52)に新小説社から出版された中村省三『雑司ヶ谷界隈』には、「いくつもの狐穴」と記録されているが東側の学校建設で埋められてしまい、1992年(平成4)に弘隆社から出版された後藤富郎『雑司が谷と私』では、「洞の入口は二つあった」と書かれている。
 この洞穴が、いつ出現したのかは不明だが、威光稲荷のある小山が狐塚Click!稲荷塚Click!、あるいはもっとさかのぼって旧・山号である稲荷山Click!と称される機縁になっているとすれば、古墳を示唆する重要な証拠のひとつだろう。
 威光稲荷の洞穴が、古墳の羨道あるいは玄室かは不明だが、江戸東京のみならず全国的な江戸期における稲荷信仰のおかげで、狐塚・稲荷塚・稲荷山などの地名・丘名や保存されてきた洞穴が、次々と調査されて古墳であると規定され、古代史を解明する大きな考古学的成果をもたらしてきたのは見逃せない事実だ。今日的にみるなら、あながち「愚俗」とはいい切れないだろう。
 法明寺の本堂は、1923年(大正12)の関東大震災Click!で倒壊し、また1945年(昭和20)の空襲でも焼失している。関東大震災で倒壊したとき、本堂は西へ50mほど移動して再建された。1947年(昭和22)の空中写真を見ると、空襲で焼けた本堂の東側に旧・本堂のあった大きな空き地がとらえられている。この空き地には、戦後に雑司が谷中学校が建設され、現在は南池袋小学校となっている。大震災後の本堂の移動で、参道を含めた周辺の道筋が大きく変わっているのも重要なポイントだろう。
 1922年(大正11)の1/3,000地形図を参照すると、旧・本堂のあった背後の斜面が丘上から丘下にかけて、ちょうど円形にくびれていたのがわかる。このくびれを、前方後円墳のくびれとして仮定し、威光稲荷を後円部の玄室位置(中心点)、狐塚を羨道の一部が露出した位置とすると、稲荷山の南斜面へへばりつくように築造された大型古墳を想定することができる。墳丘の土砂を南斜面に流して、威光寺(のち法明寺)の境内を造成したことになるが、その規模は全長200mほどだろうか。
 また、1947年(昭和22)と翌1948年(昭和23)の空中写真を素直に観察すれば、法明寺の旧・本堂の跡地が明らかに他の境内の土色とは異なり、黒っぽく正円形のフォルムにとらえられている。また、東へつづく古い道筋には、前方部のかたちをなぞったとおぼしき形状を発見することができる。旧本堂跡に後円部があったとすれば、東側に前方部が位置し、その全長は120~130mほどになるだろうか。その場合、威光稲荷の本堂(本殿)が建っている小山と、その北東側にある狐塚は主墳に付属した陪墳Click!×2基(あるいは風化した50m規模の前方後円墳型の陪墳×1基)ということになりそうだ。
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 もうひとつ、法明寺本堂の南側に位置する鬼子母神堂(雑司ヶ谷鬼子母神)も、もともとは前方後円墳だったとする説がある。確かに、本堂が造営された境内をめぐる築垣はいまだ孤状を描いており、東へのびる参道が前方部という想定なのだろう。法明寺の稲荷山と相対するように、雑司ヶ谷鬼子母神の境内は弦巻川をはさんだ南側の段丘に位置しており、その北向き斜面へへばりつくように造営されている。古墳時代の人々が、古墳を築造する候補地として選定するには、確かに見晴らしのいい好適地のように思える。

◆写真上:向山の中腹にある、由緒由来が不明な白鳥稲荷大明神社。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる白鳥稲荷社とその周辺地域。は、元神が出雲・簸川(氷川)の鷲大明神ないしはクシナダヒメの雑司ヶ谷大鳥社(上)と、都電・雑司ヶ谷駅の南側から宝城寺・清立院の方面を向いて撮影したもので手前を流れるのは弦巻川(下)。は、キツネのいない白鳥大明神の拝・本殿。
◆写真中下は、1922年(大正11)の1/3,000地形図にみる弦巻川の谷間に向かいあった稲荷山斜面の法明寺と北向き斜面の雑司ヶ谷鬼子母神。は、1919年(大正8)に撮影された稲荷山の威光稲荷堂(上)と、現在の威光稲荷堂(社)と奥に狐塚のある境内(下2葉)。は、1947~1948年(昭和22~23)に撮影された焼跡の法明寺と周辺域。
◆写真下は、現在の法明寺本堂(右手)と境内。は、金子直德が寛政年間(1789~1801年)に著した『和佳場の小図絵』挿入の絵図より。は、先の写真に想定古墳域を描き入れたもので、威光稲荷と旧・法明寺本堂を各主墳にして描き分けてみた。

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