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第1次滞仏作品をつぶした『下落合風景』。 [気になる下落合]

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 これまで、佐伯祐三Click!『下落合風景』シリーズClick!に関連し、その出来が気に入らず上から別の画面で塗りつぶし、改めて描かれたとみられる『わしのアトリエ(仮)』Click!『小学生(仮)』Click!の2作品をご紹介してきた。だが、下層の絵が塗りつぶされて描かれた『下落合風景』作品はほかにもある。
 1926年(大正15)秋に記録された「制作メモ」Click!に残る、20号の『洗濯物のある風景』Click!は、下層に隠れた画面の存在が明らかだ。しかも同作のキャンバス裏には、第1次滞仏のときに制作した『煙突のある風景』Click!(20号)が描かれている。つまり、佐伯は第1次滞仏から持ち帰ったキャンバスの裏(表?)に、連作『下落合風景』のひとつ、中井御霊社Click!の下にあたる下落合4丁目2158~2159番地あたりの『洗濯物のある風景』を描いていることになる。
 換言すれば、『煙突のある風景』の裏面(ないしは表面)に描かれた、『洗濯物のある風景』の下層に眠る画面は第1次渡仏作品か、あるいは同作より以前に描かれた『下落合風景』などの可能性があるということだ。では、『洗濯物のある風景』の画面に残された痕跡から、それがどのような作品だったのかをたどって類推してみよう。
 同作の画面を観察すると、どんよりとした広い空の両側のスペースにまず違和感をおぼえる。明らかに、下層に描かれた画面の名残りが見てとれ、凸凹状に盛られた油絵の具の痕跡が見てとれる。画面の右側には、なにやら電柱のような柱状のものが描かれ、何本かのタテの線が走り、左側にはいくつかのタテヨコの線が交叉したフォルムを確認できる。左側上部の太い線は、なにやら神社の屋根で見かける堅魚木(かつおぎ)のような形状をしているが、それにしてはかたちが不揃いで一定していない。その下には、絵の具が厚塗りされた小さな円弧状のものがふたつ見え、その周囲にはタテに描かれた線が何本も上下に走っている。
 当初、隠れている下層の画面は『下落合風景』の1作で、『わしのアトリエ(仮)』や『小学生(仮)』と同様に、その出来が気に入らず佐伯が別の『下落合風景』を上から塗りつぶしてしまったのかと考えた。だが、『洗濯物のある風景』の画面から透けて見える下層の絵は、同キャンバスをタテにしてもヨコにしても、逆さまにしても当時の下落合の風景に思いあたる場所はない。しかも、同作が描かれたのは1926年(大正15)9月21日であり、それ以前に制作された『下落合風景』の作品点数を考慮すれば、下落合の風景ではない画面である可能性のほうが高そうだ。
 キャンバスをタテにし、左側の痕跡を下にすると、なんとなく鳥居のようなフォルムが見えるので、またしても曾宮一念アトリエClick!の前にある大六天Click!あたりを描いた、1926年(大正15)8月以前から描かれている諏訪谷シリーズClick!の1作かとも考えたが、それでは画面の上部に横たわることになってしまう、建物の梁のような形状の説明がつかない。また、キャンバスを横にし画面右側の柱状のものが電柱だとすれば、その途中に巻かれた看板のようなものの正体が不明だ。
 しかも、佐伯が電柱の表面をこのような質感で描いた作品は、ほかに1点も存在していない。絵の具の厚塗りで表現されているのは、木製の物体の表面ではなく、明らかに石かコンクリートによる構造物を連想させるものだ。また、右側の痕跡を電柱とすれば、左側に描かれているのはなんらかの建築物か樹木などになるはずだが、描かれた線の痕跡をいくらたどっても、それらのイメージは浮かんでこない。神社の堅魚木のようなかたちを、テラスにある藤棚の天井部分や、建築途上にある住宅の骨組みなどに見立てても、具体的な姿が想定できないのだ。
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煙突のある風景1924頃.jpg
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 そこで、一度『下落合風景』からいっさい離れ、佐伯祐三の画集や図録を片っ端からめくりながら、第1次滞仏作品群を参照してみることにした。すると、『洗濯物のある風景』の下層に描かれている絵の“部品”とみられるかたちが、いくつかの作品から次々と見つかった。それを説明するためには、同画面をタテにしなければならない。
 まず、上に描かれている建物の梁のような棒状のものは、パリのアパルトマンや商店などに多い、番地や商店名を刻むプレートを貼りつけた、建物ないしは商店の入口の上部だろう。その下にも、何本かの横線が確認できるが、石ないしはコンクリートでできた建物の入口に設置された、ドアの木枠部なのかもしれない。第1次滞仏作品で、それに似た表現は『ピエール・デュメニル』(1925年)をはじめ、『ブランジュリー』(同)、『パリの街角』(同)などでも見ることができる。
 画面の下部に見えているフォルムは、どうやらそのアパルトマンか商店の入口に向かってつづく、短い階段のように見える。階段の両側には、日本では“ささら板”と表現されるような、手すりよりもかなり低い石製かコンクリート製の側桁が設置されているようだ。この階段は、少なくとも4~5段はあり、その上にアパルトマンなど建物のドアか商店の入口が設置されているのだろう。このような短い階段つきの建物あるいは商店は、第1次滞仏時の『レ・ジュ・ド・ノエル』(1925年)をはじめ、『パリ風景(壁)』(同)、『村役場』(同)、『クラマールの教会』(同)などで目にすることができる。
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 そして、その建物の入口に向かって階段を上っているのは、どうやら長めのスカートないしはコートを着た女性のようだ。絵の具を厚塗りしている、ふたつの円状の痕跡は、階段を踏みしめている女性が履くハイヒールのかかとのように見える。少し風があるのか、スカートないしはコートの裾が左側へなびいているようだ。このように空がまったく描かれず、建物へかなり近接した画面は第1次滞仏時の佐伯作品では少ないが、『靴屋(コルドヌリ)』(1925年)や『絵具屋(クルール・エ・ヴェルニ)』(同)、『ピエルー・デメニル』(同)など、商店の入口を描いたものが何点か残されている。
 パリの街角を歩く女性の表現はといえば、第1次滞仏作品では随所に見ることができる。たとえば、『リュ・デュ・シャトーの歩道』(1925年)をはじめ、『アントレ・ド・リュ・デュ・シャトー』(同)、『リュ・デュ・シャトー』(同)、『パリ雪景』(同)、『パリ15区街』(同)、『運送屋(カミオン)』(同)、『リュ・ブランシオン』(同)、『酒場(オ・カーヴ・ブルー)』(同)、『食料品店』(同)、『ガレージ』(同)などだが、その中には女性を真うしろから描いた作品も少なからず存在している。
 そのほか、『洗濯物のある風景』に描かれた空の中央にあたる部分や、下落合の西端に残された古い農家や手前の妙正寺川の土手に隠れ、下層に描かれたパリの街角とみられる風景は判然としない。なにか佐伯の眼を惹くような看板でもあり、それを薄塗りでスケッチしたために、ほとんど痕跡が残らなくなってしまったのだろうか。
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 佐伯が、せっかく持ち帰った第1次滞仏作品を塗りつぶし、なぜ『洗濯物のある風景』を描いたのかは不明だが、画面いっぱいにとらえた建物入口の構図が気に入らず、もう少しパースのきいた奥ゆきのある構図の作品を残したかったのだろうか? あるいは、1924年(大正13)から翌年にかけ、表現や手法が急激に変化しつづけていた時期なので、初期に描いた画面がどうしても気に入らなくなり、上から『洗濯物のある風景』で塗りつぶしてしまったものだろうか。

◆写真上:1926年(大正15)9月21日制作とみられる、佐伯祐三『洗濯物のある風景』。
◆写真中上は、『洗濯物のある風景』をタテにした構図(上)と裏面に描かれた1924年(大正13)ごろの佐伯祐三『煙突のある風景』(下)。は、『洗濯物のある風景』をタテにした上部に描かれた下層画面の痕跡。は、1925年(大正14)制作の佐伯祐三『ピエール・デュメニル』に描かれたドア上の「HOTEL」プレート。
◆写真中下は、画面下部に描かれた下層画の痕跡。は、1925年(大正14)制作の佐伯祐三『レ・ジュ・ド・ノエル』に描かれた建物入口への階段。
◆写真下は、『洗濯物のある風景』の下層に想定できる全体構図。は、1925年(大正14)制作の佐伯祐三『ガレージ』に描かれたうしろ姿の女性。

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続・ほとんど人が歩いていない鎌倉。 [気になるエトセトラ]

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 以前、1955年(昭和30)ごろに撮影された、鎌倉の街Click!の写真をご紹介したことがあった。それは、わたしが子どものころに歩いた静かなたたずまいを見せる鎌倉と、大差ない風情でとても懐かしかったので、つい記事を書いてしまった。先ごろ、引っ越し作業をしていたら、わたしが小学校の低学年のころに出かけた鎌倉の写真類……、というか子どものころのアルバムが大量に出てきたので、すべてを参照している時間はないものの、少し鎌倉関連の写真を見つくろってご紹介したい。
 大量に出てきたアルバムをざっと概観すると、東京都内を除いて近隣地域のみに限れば神奈川県Click!内の撮影が圧倒的に多い。横浜をはじめ鎌倉、平塚、大磯、二宮、小田原、横須賀などの市街地や、箱根、足柄、大山、丹沢Click!、三浦半島などの山々だ。この中で、鎌倉の占める割合は相対的に大きい。以前にも書いたけれど、親父の仕事の都合Click!で平塚に住んでいたときは、毎週か隔週の週末には鎌倉あるいは三浦半島へ出かけていた時期がある。北鎌倉に、母方の親戚が住んでいたせいもあったのだろう。家のすぐ近く、海岸線を走るユーホー道路Click!(遊歩道路=国道134号線)から神奈中バス(神奈川中央交通)に乗れば、当時のユーホー道路はクルマがガラ空きだったので30分前後でスムーズに鎌倉へ到着することができた。
 撮影された時期の多くは、以前ご紹介した写真類の約10年後、1965年(昭和40)の少し前あたりの休日のタイムスタンプが多いが、いずれの写真にもほとんど人が写っていないのが、今日から見れば不思議な光景だ。まるで時空がズレた、北村薫が描く無人のパラレルワールドへ迷いこんでしまったかのように、いまでは国内外を問わず観光客でごったがえしている長谷寺の、閑散としている様子がとらえられている。さすがに、修学旅行の観光バスが立ち寄る、高徳院(鎌倉大仏)も近い有名スポットなので、道路は舗装されているが、門をくぐる数人の観光客しか見られない。
 長谷寺の北側にある光則寺は、未舗装の坂を上らなければならないし、当時は観光スポット化もしてなかったので、まずはよほどの神社仏閣ヲタクでない限り誰も訪れなかった。同様に、長谷寺の南から歩いていく極楽寺坂切通しも、小学生のわたしと母親のふたりが歩くだけで、人の姿がまったくない。(冒頭写真) 舗装されて間もないのだろう、切通し坂の路面がアスファルトではなくコンクリートで、新しい感じがする。向こうから、懐かしい幌つきのオート三輪がブルブルと、頼りないエンジン音を響かせながらやってくるのが見える。小動(こゆるぎ)岬の腰越漁港に上がった相模湾の魚を、鎌倉市街の料理屋へ運ぶ魚屋のオート三輪だろうか。
 途中の権五郎社(御霊社)Click!にも誰もいなければ、目的地の極楽寺も人っ子ひとりいない。わたしが登って住職に叱られた、極楽寺境内にあるサルスベリClick!の写真がようやく出てきたので、アルバム発見の記念に掲載しておきたい。小学生がつい登りたい誘惑にかられる、ちょうどいい背丈と枝ぶりをしていたのがおわかりいただけるだろう。
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光則寺19650330.jpg
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 目を鎌倉市街の北側、鎌倉アルプス(天園ハイキングコース)や覚園寺のほうへ向けてみると、現在は住宅で埋めつくされてしまった、山々へ切れこむ大小の谷(やつ)に拓かれた水田や畑で遊ぶ、小学校低学年のわたしが写っている。なにやら水田から走って逃げているので、ヤマカガシにでも追いかけられているのかもしれない。また、住宅街の広めな道路を撮影した写真もあるが、茅葺き屋根の家があちこちに残り、もちろん道路は舗装されていない。風が強い日に鎌倉を歩くと、海からの砂と土ぼこりとで、髪や洋服がザラザラになったのを憶えている。路上には人影が見えるが、もちろん近所に住む大人や子どもたちで観光客ではない。たまに挨拶したり道を訊ねたりすると、軽いハイキングのようないでたち(今日でいうなら街歩きの装い)をしたわたしたちを見て、「あなたたち、こんなところで何してるの?」という怪訝な顔をされた。広めな道路は、覚園寺から南へ少し歩いた、源頼朝の墓Click!がある近くだろうか。
 覚園寺も百八やぐらClick!も、もちろん誰もいないし路面も舗装されていない。このあたりは水田も多く、特に百八やぐらのある山の斜面一帯はマムシの巣だったので、地元の人以外はめったに入りこまなかった。もっとも、いまでも十王岩から大平山、そして瑞泉寺のある二階堂ヶ谷(やつ)まで抜ける鎌倉アルプス越え(天園ハイキングコース)は、ふつうの観光客はなかなか訪れない縦走コースだが、先日歩いていたら中国の山ガールたちに出会った。なんだかわからないが、中国の若い女子たち向けのサイトで、あまり人に出会わない美しい鎌倉の天園ハイキングコースが紹介されているのかもしれない。同ハイキングコースは起伏が激しく絶壁(ほぼ垂直登攀のザイル場)もあり、距離もけっこうあるので市街地でヒールをはいて暮らしている女子にはきつく、山ガールに最適なコースだろう。アジアやヨーロッパを問わず、このごろ海外から訪日する観光客は、非常にマニアックなスポットを楽しんでいてビックリすることがある。
 また、アルバムの中でも面白い写真は、鎌倉の隣りにある江ノ島で1964年(昭和39)10月11日(日曜日)、つまり東京オリンピック開会式の翌日に撮影された、江ノ島ヨットハーバーとその周辺の情景だ。そこには、同大会のディンギーレースに出場予定の日本チームが、艇への最後のメンテナンスに余念のない様子がとらえられている。そのほか、竣工して間もないクラブハウスや、ヨットハーバーのあちこちの情景が撮影されているが、家族の写真がメインなので割愛したい。この日は、江ノ島水族館にも立ち寄っており、イルカのショーを見学しているが、日曜日だというのに観客がまばらでガラガラだ。
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 わたしは、この日のことをよく憶えている。前日に新宿の国立競技場で、東京オリンピック1964の開会式が開催されたから印象深いのではない。その開会式を見られずに、母親にひどく怒られたからだ。10月1日の昼すぎ、わたしは海岸の松林で友だちと遊んでいて、クロマツの枝を右目の瞳に突き刺した。一瞬で視界が白濁し、風景が濃霧でおおわれたようになった。急いで家にもどって母親に報告すると、さっそく眼科医に連れていかれたのだが、その日の午後3時ごろから予定されていた、東京オリンピックの開会式をゆっくりTVで観ようと楽しみにしていた彼女から、こっぴどく叱られた。開会式の様子は、眼科医の待合室に置かれた小さな赤いTVの中継画面で観るハメになり、母親のため息が止まらなかったのを憶えている。「だから男の子は、いつもなにするかわからないからイヤなのよ」と、わたしの右目よりも開会式が大事な母親Click!だった。w
 つまり、その翌日の日曜日に、オリンピックの会場のひとつである江ノ島ヨットハーバーへ遊びに出かけているので、クラブハウスも江ノ島水族館のイルカショーも、相模湾に浮かんだ船からの風景も、江ノ島弁天の社(やしろ)や洞窟も、お土産に買った大きなサザエも、右目にできた瞳の傷のために、みんな白く濁って見えていたから印象深いのだ。眼科医は、目を洗ったあと消毒用の目薬を出してくれただけで、特に眼帯をする必要もないでしょう……と、お気楽な様子でいっていたけれど、このあと1週間ぐらいは風景に霧がかかったような視界だった。
 アルバムを眺めていると、当時の鎌倉のほこりっぽい空気感や潮風の匂い、夏なら無数のセミの鳴き声や案外けわしい山々の細い尾根道、波乗りClick!(サーフィンとはいわない)のお兄ちゃんお姉ちゃんたち、随所に口を開ける“やぐら”Click!やとぐろを巻くマムシたちなど、さまざまな思い出が一気に押し寄せてくる。「そういえば、長さが4m近くもあるアオダイショウの抜け殻が発見されたのも、天園ハイキングコースの終点・瑞泉寺の裏山にある貝吹き地蔵あたりだったな」……などと、時間を忘れ思い出にひたっていると1日がアッという間にすぎてしまうので、きょうはこれぐらいに。
 北鎌倉の写真も大量に出てきたが、こちらはさらに輪をかけて人が誰も歩いていない。北鎌倉の駅から、建長寺とは逆方向に歩いて10分ほどのところに、戦前から母方の祖父の妹が住んでいたので、幼稚園に通うころから何度かその家に立ち寄った憶えがあるけれど、いまとなっては住所の記憶もおぼろげでハッキリしない。それらしい住宅の写真もアルバムに貼られているが、いまでは街並みがさま変わりしているので、いくらGoogleのストリートビューで探してもわからなくなってしまった。
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 確か母方の親戚の家は、『海街diary』(監督・是枝裕和Click!/2015年)のロケが行われた古民家「北鎌倉アガサッホ」のある、小袋谷川の小橋をわたった光照寺の伽藍が見える台山のあたり、古い映画では『麦秋』(監督・小津安二郎Click!/1951年)の最初のころ、北鎌倉駅を出た横須賀線が大船方面へ向けて走る遠景シーンをとらえた、手前にカメラのすえられている山の斜面あたりだったと思うのだが……。その家からは、横須賀線や北鎌倉駅をはさみ円覚寺のある山が見えていたのを憶えている。もし時間ができれば、今度はひっそりと静まり返った、北鎌倉の写真類をチョイスし改めてご紹介したい。

◆写真上:1965年(昭和40)3月30日の極楽寺坂切通し。歩いているのは小学生のわたしと母親だけで、向こうから幌をつけた懐かしいオート三輪がやってくる。ちょうど、『稲村ジェーン』Click!(監督・桑田佳祐/1990年)の鎌倉とシンクロする時代だ。
◆写真中上からへ、山門をくぐる数人の観光客しかいない長谷寺と無人の光則寺。やはり誰もいない権五郎社(御霊社)と極楽寺境内のサルスベリ(左手)。
◆写真中下からへ、1964年(昭和39)4月25日撮影の天園ハイキングコースから眺めたビルのほとんど見えない鎌倉市街。参道も舗装されておらず、誰もいない茅葺き屋根の覚園寺。鎌倉の山々に入りこんだ谷(やつ)で、おそらくヤマカガシの“襲撃”から逃げているわたしだが、いまでは住宅街の下になってしまった。おそらく源頼朝の墓近くで、茅葺き住宅の残る未舗装の道路を歩いているのは地元の親子。片瀬海岸の遊覧船か江ノ島ヨットハーバーのクルーザーに乗り、海上から眺めた藤沢の片瀬海岸。右手には江ノ島大橋が見え、その向こうに見える山は鎌倉と藤沢の境にある片瀬山の瀧口寺。
◆写真下からへ、1964年(昭和39)10月11日撮影の数日後にひかえた東京オリンピック1964で行われる、ディンギーレースの準備に余念がない日本チームの選手とスタッフ。同日撮影の江ノ島ヨットハーバーと、東京オリンピック開会式の翌日なので観光客が多いクラブハウス。観客があまりいない江ノ島水族館のイルカショー。これらの風景を、前日に瞳を傷つけたわたしは半分“霧中”の視界で見ていた。

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「塔ノ部屋」から矢田津世子への手紙。 [気になる下落合]

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 1936年(昭和11)3月1日、東京では4日前に降った大雪があちこちの日陰に残っていた。前日の2月29日(同年はうるう年)までつづいた陸軍皇道派Click!のクーデター、いわゆる二二六事件Click!はあらかた終息していたが、東京の街角にはあわただし気な落ち着かない暗い空気が、そのまま居座ったように残っていた。この日、本郷の菊富士ホテルClick!に男がひとり転居してきている。坂口安吾だ。
 帝大生だった友人の記憶によれば、坂口安吾は大八車Click!かリヤカーに布団や本、着るものなどを積んで菊富士ホテルの前につけた。そして、めずらしく空き室になっていた50番室、つまり屋上の「塔ノ部屋」と呼ばれた眺めのいいペントハウスもどきの、実は同ホテルではもっとも貧弱な部屋に、友人に手伝ってもらいながら荷物を運びあげている。この塔ノ部屋について、近藤富枝『本郷菊富士ホテル』(講談社)から引用してみよう。
  
 塔の部屋は正式には五十番と呼ばれていた。大正三年建築された新館三階の、さらに上に聳える物見の部屋で、特別狭い階段を上っていく。これを西側の台から遠く眺めると、地下も含め四階建の本館上に塔のようにそびえて見えるところから、塔の部屋といつか呼びならわされてきた。/この部屋は、南と東に大小とりまぜて四つの西洋窓があり、三畳ほどの広さの板の間につづいて、およそ四畳ほどの押し入れがついているという、変った構造だった。その板の間には粗末なじゅうたんがしいてあり、鉄製ベッドと机と椅子が置かれてあり、もうそれだけで部屋はいっぱいになってしまっていた。五尺七寸の身長を持つ安吾には、ずいぶんきゅうくつな広さであっただろう。
  
 坂口安吾が菊富士ホテルへやってくる5年前、1931年(昭和6)の秋、下落合1470番地の第三文化村Click!に建っていた目白会館Click!に住む矢田津世子Click!は、時事新報社(のち中外商業新報社に転職)の記者をしていた和田日出吉とつき合いはじめている。兄の矢田不二郎に反抗するため、彼女はわざと既婚の和田とこれみよがしに交際していたようだ。翌1932年(昭和7)になると、転勤先だった名古屋から兄・不二郎と母親が東京へもどり、3人は下落合4丁目1986番地(現・中井2丁目)に家を借りて転居している。同年8月、25歳の矢田津世子Click!は2つ年上の坂口安吾と初めて知り合った。
 坂口安吾は、ひと目で彼女を気に入りアプローチをしたようだが、和田日出吉との交際を知ると少なからず落胆している。それでも、ふたりは同人誌などの会合で出会うと、盛んに文学について語り合い、急速に親しくなっていった。翌1933年(昭和8)に矢田津世子が戸塚署の特高Click!に逮捕され、10日間の留置Click!のあと身体を壊して自宅にもどると、坂口安吾は下落合へ見舞いに訪れている。
 実はこのふたり、矢田家の親戚が新潟で鉄工所を経営しており、地元の政治家の家柄だった坂口家とは親密に交際していた関係で、両家から結婚が前提の交際を強く奨められていた……という経緯もあったりする。恋する坂口安吾が苦しんだのは、矢田津世子が和田日出吉との不倫をやめないことと、特高からマークされていることだったようだ。また、和田が妻と別れ矢田津世子と結婚しようとすると、かんじんの津世子自身が妻との離婚を許さないという、和田との関係には複雑な想いもからんでいたらしい。このころ、安吾は母親から矢田津世子について問われると、「結婚はもう止めた」と答えている。
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 さらに、苦しむ坂口安吾のもとには、彼女についての悪評が文学仲間を通じて伝わってきた。下落合の作家仲間や訪れた新聞・雑誌記者たちに、あることないこと矢田津世子の悪評を流していたのは、このサイトをお読みの方ならすぐに察しがつくだろう。鎮痛剤ミグレニンの中毒になり、兄に連れられ鳥取に帰郷した上落合842番地の尾崎翠Click!を、さっそく死んだことにして「殺して」まわり、東京の出版社から鳥取へ原稿依頼がいかないようにしたのと同一人物、もちろん林芙美子Click!だ。自分より優れているとみた、特に「女流作家」について悪評のもとを“ウラ取り”でたどっていくと、たいがいいき着く先の林芙美子は、もはや病的で気味が悪い。
 林芙美子は、矢田津世子から読んでみてくれと渡された作品を、押し入れの中に隠してそのまま「行方不明」Click!にするなど、さんざん嫌がらせを繰り返しているが、このときは彼女を「妾の子」で、新聞記者の和田日出吉と不倫しているのは文壇に「原稿を売りこむため」だとふれまわっていたらしい。もちろん、「妾の子」は真っ赤なウソで、のちの証言から津世子は和田へ「原稿を売りこ」んだこともなかった。そもそも和田は、社会派ないしは経済畑の記者であり、文学界とはほとんど縁もコネもなかった。
 さまざまな経緯のあと、矢田津世子をいったんはあきらめた坂口安吾だが、菊富士ホテルへとやってくる少し前から、彼女との文通は再開していた。50番室こと塔ノ部屋へ引っ越した1936年(昭和11)3月1日の当日、安吾はさっそく彼女に手紙を書いている。
  
 御手紙ありがとうございました。矢口にいて始め二日は何も知りませんでしたが、東京へでてみて物情騒然たる革命派騒ぎに呆れました。今日、左記へ転居しました。/本郷菊坂町八二/菊富士ホテル(電話小石川六九〇三)/僕の部屋は塔の上です。兪々屋根裏におさまった自分に、いささか苦笑を感じています。/まだ道順をよくわきまえませんので、どういう風に御案内していいか分りませんが、本郷三丁目からは近いところで、女子美術学校から一町と離れていないようです。どうぞ遊びにいらして下さい。お待ちしています。/仕事完全にできません。でも今日から改めてやりなおしの心算なんです。/御身体大切に。立派なお仕事をして下さい。
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 矢田津世子Click!は、すでに名を広く知られた高名な「女流作家」であり、この年は代表作となる『神楽坂』(人民文庫および改造社/1936年)の連作を執筆している最中で、押しも押されもせぬ文壇の位置にいた。坂口安吾は、同人誌『桜』の時代から彼女とともに歩みはじめたはずだったが、文学的な嗜好やめざす方向性のちがいはともあれ、この時点で彼は矢田津世子の遠い背中を見ている感覚だったろう。
 手紙に「どうぞ遊びにいらして下さい。お待ちしています。」と社交辞令的に書いたら、矢田津世子は下落合からほんとうに菊富士ホテルの坂口が「時計塔」と書く塔ノ部屋へ遊びにきたので、彼は驚愕しただろう。1998年(平成10)に筑摩書房から出版された「坂口安吾全集」第6巻所収の、『三十歳』から引用してみよう。
  
 なぜなら、私は矢田津世子に再会した一週ほどの後には、二人のツナガリはその激しい愛情を打ち開けあったというだけで、それ以上どうすることもできないらしいということを感じはじめていたからであった。(中略) 私は時計塔の殺風景な三畳に、非常に部屋に不似合いに坐っている常識的で根は良妻型の有名な女流作家を見て見ぬようにヒソヒソと見すくめている。(中略) この女流作家の凡庸な良識が最も怖れているのは、私の貧困、私の無能力ということなのだ。殺風景なこの時計塔と、そこに猿のように住む私の現実を怖れているのだ。/彼女は私の才能をあるいは信じているかも知れぬ。又、宿命的な何かによって、狂気にちかい恋心をたしかに私にいだいているかも知れない。/然し、彼女をひきとめている力がある。彼女の真実の眼も心も、私のすむこの現実に定着して、それが実際の評価の規準となっている。
  
 なんだか妙に見透かしたような文章だが、ずいぶん時代がたってしまってからの、総括的な安吾の文章であることに留意しなければならないだろう。『三十歳』には、事実誤認や年月の誤りなどの誤記憶があちこちにみられる。
 ちなみに1936年(昭和11)という年は、のちに大岡昇平Click!が書くことになる『花影』のモデルとなった坂本睦子を、小林秀雄に長谷川泰子を奪われて傷心の中原中也Click!と坂口安吾が“恋の鞘当て”ののち愛人にしていたか、あるいは彼女と別れた直後だったかの、きわどい微妙な時期にあたる。安吾と別れた坂本睦子は、今度は小林秀雄から求婚されることになるが、もうドロドロでぐちゃぐちゃの、わけがわからない文学畑の人々の経緯は、書く気にはなれないので、他所の物語……。
 同年6月17日、坂口安吾は矢田津世子と本郷3丁目のレストランでフランス料理を食べ、塔ノ部屋に誘ってたった一度だけのキスをした。そして同日の夜に、絶縁の手紙を矢田津世子へ送りつけている。以来、1944年(昭和19)3月に津世子が37歳で死去するまで、ふたりは二度と逢わなかった。
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 和田日出吉との関係について、矢田津世子の友人のひとりは、「和田さんとはずいぶん長い交際だった。津世子さんは悩んでいたようすだったが、親しい仲でも、自分の恋愛については一言も語らないのが津世子さん流だった」(近藤富枝『花蔭の人』/1978年)と証言している。和田日出吉はその後、妻と離婚して独身となったが、矢田津世子が下落合で死去したことであきらめがついたのか、1944年(昭和19)に20も年下だった26歳の従妹と再婚している。従妹は松竹で女優をしており、戦後に下落合を舞台にした『お茶漬の味』Click!(監督・小津安二郎/1952年)に主演する木暮実千代Click!だった。

◆写真上:菊富士ホテル跡(正面)の西側にある、長泉寺境内のバッケ(崖地)Click!
◆写真中上は、菊富士ホテル跡の現状。は、菊富士ホテル新館の東側壁面。は、岡田三郎助Click!が主宰していた女子美術学校跡の現状。
◆写真中下は、矢田津世子()と2歳年上の坂口安吾()。は、1935年(昭和10)作成の「火保図」にみる菊富士ホテル。ここでも「火保図」は、建物の形状を誤採取している。は、1940年(昭和15)の空中写真にみる菊富士ホテル。
◆写真下は、菊富士ホテル新館南側のバッケで塔ノ部屋(50番室)はこの真上にあった。は、同ホテルの西側に隣接する長泉寺の山門。は、宮沢賢治や樋口一葉の旧居跡のある菊坂沿いの谷間から南の丘へと上がるバッケ階段。

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ラムネ玉宝珠の「池袋の神様」岸本可賀美。 [気になる下落合]

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 中村彝Click!へ結核治癒の祈祷を行なった、「至誠殿」の「巣鴨の神様」こと山田つるClick!と混同されたのが、詐欺で収監・起訴された「天然教」の「池袋の神様」こと岸本可賀美だ。山田つるは、オオクニヌシ(大黒天)の神託を伝え、おもに病気を治す「神通力」を発揮する巫女すなわち女性なのに対し、名前からしてまぎらわしいのだが岸本可賀美は「千里眼」を駆使する占い師であり男だった。
 「池袋の神様」こと岸本可賀美は、「透視」を行なう占い用の水晶玉「神水如意宝珠」(実はラムネのビー玉)を用いて、さまざまなものを発見する超能力者で、池袋駅の西側、東京府の豊島師範学校Click!に隣接した敷地に「神苑神殿」を設立して佐田彦大神(別名サルタヒコ)を祀り、失せ物探しや金塊・宝物の隠し場所、鉱脈の有無などを占って当てるのがメインの“仕事”だった。したがって、岡崎キイClick!が中村彝の結核平癒を願って連れていったのは、ほぼまちがいなく「巣鴨の神様」=山田つるのほうであって、同じ北豊島郡巣鴨村に居住していた「池袋の神様」=岸本可賀美のほうではないだろう。
 中村彝の伝記では、いつしかこのふたりが混同されて記述されるようになり、「巣鴨の神様」(女性)に祈祷してもらっているにもかかわらず、いつの間にか詐欺で捕まり「神水如意宝珠」がラムネ玉だったことが暴露された、「池袋の神様」(男性)の顛末で終わるようになってしまった。つまり、「巣鴨の神様」=山田つるのいかがわしさを強調するために(実際いかがわしいのだがw)、さらにうさん臭い「池袋の神様」=岸本可賀美のエピソードを“接ぎ木”して、山田つるを貶めるエピソードとして架空の物語を創作してしまった……ということなのだろう。この創作を行なったのが誰かはハッキリと規定できないが、中村彝が存命中の1924年(大正13)9月に新光社から出版された、『心霊現象の科学』の著者・小熊虎之助Click!あたりがいちばん怪しいだろうか?
 「池袋の神様」こと岸本可賀美は1916年(大正5)12月12日の午後、詐欺(騙取)の容疑で逮捕され東京監獄に収監されている。そのときの様子を、1916年(大正5)12月13日に発行された読売新聞の記事から引用してみよう。
  
 神様収監さる/池袋伏魔殿の主
 茨城県結城の城址に一億万円(ママ)の金塊ありとの神託を得たりとて 深川区佐賀町熊倉良助に多額の出資を為さしめたるを始めとし 神託を以て世人を迷はし巨額の金を騙取したる府下豊多摩郡高田村池袋(ママ)天然社々長岸本可賀美(四八)は 東京地方裁判所に於て小幡検事の係にて取調中のところ 十二日午後八時三輪予審判事の令状を以て東京監獄に収監されたり
  
 記者は、池袋地域の所在地を「豊多摩郡高田村池袋」などとしているが、もちろん北豊島郡巣鴨村(大字)池袋(字)中原(のち西巣鴨町池袋)の誤りだ。「巣鴨の神様」こと山田つるの記事(誤・伊勢神道のアマテラス→正・出雲神道のオオクニヌシ)でも気になったけれど、読売新聞は“ウラ取り”や校正が甘いのか、誤報や事実誤認の記事が多い。
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 同記事は、常陸の結城城の城跡に多額の金塊が眠っているのを、岸本可賀美が水晶玉(神水如意宝珠)を用いて「透視」をした結果、深川佐賀町の米穀問屋・熊倉良助をはじめ、日本橋区弥生町の諸田清次郎、芝区芝口の古着屋商・須崎すゞ、神田区神保町の古川きんなどから「天然教」の活動費のための多額の資金を募り、総額約15万円(現在の価値で約4億6千万円)を騙取したために検挙されたことを伝えたものだ。ほどなく、「神水如意宝珠」がラムネ玉(ビー玉)であったことが東京帝大の地質学教室による鑑定で判明し、「池袋の神様」こと岸本可賀美は東京地裁へ起訴された。
 池袋駅西口の豊島師範学校近くにあった、岸本可賀美の「天然教社」(神苑神殿)には一般の信者ばかりでなく、華族や政治家たちも多く出入りして占ってもらったらしく、中でも子爵・水野直(貴族院議員)の入れこみようは半端ではなかったようだ。そのため、岸本可賀美の逮捕・起訴は政界スキャンダルがらみでも取りあげられ、当時の新聞や雑誌の紙誌面をにぎわせている。特に水野直は、熱狂的に「池袋の神様」を信奉したせいか、周囲からは精神に異常をきたしたと思われ、宮内大臣が「天然教」の「神苑神殿」を調査する騒ぎにまで発展している。
 1923年(大正12)12月7日発行の、東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 (水野直は)仍つて例の天然教社に帰依し其の教主岸本可賀美なるものの処へ日参したものだ、此の天然教なるものは今日の大本教なぞと同巧異曲の一般世間からは一種の邪教視されて居たもので、其の教理はどんなものであつたか知らぬが、当時我が帝都に外国から飛行機の闖来する事を予言し盛んに国民の愛国的精神を説いて居たものである。水野はすつかり之に這入つて了つて、当時の内閣総理大臣大隈重信や陸海軍大臣などの処へ出掛けて真面目になつて天然教社の御先棒を勤めたものである。◇之れが為め水野は気が狂れたのではないかと親友等が心配し結局天然教の如何なるものかを確かめに、時の宮内大臣波多野敬直が態々天然教社を見に行つた始末、其の結果天然教は一邪教に過ぎぬと云ふ結論に達し以後断然水野に近寄らせぬ事にした、斯くて水野は慰安を求めた宗教にも失敗したので其の後学習院長との衝突を表向きの理由として遂に議員をも辞職し鎌倉の別邸に隠遁するに至つた。(カッコ内引用者註)
  
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 「天然教」の内実を、宮内大臣がわざわざ確認しに出かけているのも、いまだ官僚主義的で硬直化した政府に変質していない、大正初期の匂いを強く感じるエピソードだが、いったい水野直は行政内でどのような言動を繰り返していたのだろう。
 「池袋の神様」こと岸本可賀美は、約15万円の巨額を騙取した起訴事実に対し、東京地裁の法廷でどのような弁明をしていたのだろうか。1917年(大正6)7月16日に開かれた弁護側による被告人質問を参照すると、すべて信者がみずから進んで財産や家屋を「天然教」へ寄進・寄贈したのであって、自分から寄付を要求したことは一度もない……と答えている。この日の公判では、弁護人が新たな被告側の証人として岸一太医学博士と秋山海軍少将、それに寄付者のひとりで元信者の諸田清次郎を申請しているが、諸田のみの証人尋問が許可されただけで、ほかの承認申請は却下されている。
 岸本可賀美の弁明は、この手の新興宗教をめぐるトラブルではごくありがちなものだが、ついでに「神苑神殿」を訪れた“有名人”をあえて証人として指名し、自身の権威づけとともに、いわず語らず「なにをしゃべるかわからねえぞ」という、「天然教」に関わった人々への無言の圧力を加えているようにも見える。ついでに、「神水如意宝珠」がラムネのビー玉だったことについて、彼は「知らなかった」と答えている。岸本可賀美は、4人もの弁護士を雇って「無罪」をめざしたが、騙取の目的は明らかだとして懲役6年の実刑判決を受けている。
 告発者のひとり、深川佐賀町の米穀問屋・熊倉良助は茨城県の結城に出かけ、実際に人夫を雇って「池袋の神様」のお告げどおり結城城址を掘り返している。現地に着いた彼は、金塊の発掘を前に、結城の町民へ紅白の餅を大量に配って景気づけをしたが、掘れども掘れどもなにも出てこなかった。この“被害事件”は、「埋蔵金塊」に目がくらんだカネの亡者が、エセ宗教でボロもうけをたくらんだカネの亡者を訴えた、どっちもどっちのようなケースのようにも見える。
 その後、「池袋の神様」こと岸本可賀美をめぐる「天然教」や、「神苑神殿」あるいは「神水如意宝珠」といったワードは、すっかりマスコミから姿を消しているので、おそらく岸本が逮捕された時点で「天然教」は解散、「神苑神殿」も解体(被害者たちへの賠償がらみだったかもしれない)されているのだろう。
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 1926年(昭和元)12月に作成された「西巣鴨町西部事情明細図」を見ると、池袋駅西口の府立豊島師範学校の近辺には、もはや「天然教社」のネームを見つけることはできない。ただし、同師範学校のすぐ西側には、「岸本」姓の住宅が何軒か採取されている。

◆写真上:池袋駅西口の豊島師範学校の跡地で、同校に近接して「池袋の神様」こと岸本可賀美の「天然教社」および「神苑神殿」があった。
◆写真中上は、1924年(大正13)に出版された小熊虎之助『心霊現象の科学』(新光社/)と1974年(昭和49)に出た新版の同書(芙蓉書房/)。は、明らかに「巣鴨の神様」こと山田つると「池袋の神様」こと岸本加賀美を混同している記述。これがもとで、その後に出版された中村彝関連のほぼすべての資料が誤っていくのだろう。は、1916年(大正5)12月13日発行の岸本可賀美の逮捕を伝える読売新聞。
◆写真中下は、1917年(大正6)7月17日に発行された東京地裁での公判の様子を伝える読売新聞記事。は、明治末に池袋停車場の西側へ開校した東京府立豊島師範学校。は、昭和初期にほぼ同じ位置から撮影された豊島師範学校(奥)。
◆写真下は、1926年(昭和元)作成の「西巣鴨町西部事情明細図」に採取された豊島師範学校とその周辺。は、「天然教」にのめりこんでいた貴族院議員(当時)の水野直()と、同教の実態を調査した宮内大臣(当時)の波多野敬直()。は、「天然教」と貴族院との政界スキャンダルを総括する1923年(大正12)12月7日発行の東京朝日新聞。

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第一文化村の梶野邸を拝見する。(下) [気になる下落合]

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 梶野邸を設計したのは、目白文化村Click!でも事例が多い住民自身、すなわち末高邸Click!と同様に梶野龍三自身だが、そのコンセプトは明快だ。1926年(大正15)に実業之日本社から発行された「婦人世界」5月号より、つづけて引用してみよう。
  
 小学校の二人のお子さんと梶野氏夫妻と、それに女中一人のほんとうの家族的なお宅で、別に応接間と云ふやうなものもなく、お居間が応接室を兼ねると云つた風になつて居ります。氏は全然建築には素人でありますが、なかなか専門家以上に建築に関する識見をお持ちになつて居りますので、いろいろと新しい試みが取りいれられ、ほんとうに気持のよい住宅であります。
  
 冒頭の写真は、梶野邸を南北のセンター通りを間にはさみ、東側の空き地から撮影した同邸の全体像だ。手前の空き地の左隣り、すなわち南側には前回の記事Click!にも登場していた数学者の小平邦彦邸(1925年築)が建っている。ちなみに、手前の空き地は現在も駐車場になっていて住宅が建っていないが、わたしの学生時代はまったく逆で、梶野邸跡の敷地がずっと空き地のままだった記憶がある。
 梶野邸の左(南)隣りには、下見板張りの洋風建築らしい渡辺邸が見えているが、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には記載がないことから、おそらく同年の春にはいまだ建築中で転居前だったとみられる。梶野邸と同様に、この新築だった渡辺邸もまた昭和期に入ると、なぜかすぐに解体され新たに小木原(?)邸が建設されている。
 写真の左端に写る車庫の前には、梶野龍三が所有するクルマのヘッドランプや前輪、ボンネット部が見えているが、このクルマが停められている通りが目白文化村の南北を走るセンター通り(三間道路)だ。もちろん、市街地の道路のような舗装はされておらず、大雨が降れば一面ぬかるんでクルマの走行はもちろん(タイヤがスリップして泥沼から抜けだせない事例が多かっただろう)、人々が通行するのもたいへんだった。ずいぶん以前に、佐々木邦の『文化村の喜劇』で描かれる、雨の日の「発クツ調査」Click!をご紹介しているが、近衛町Click!相馬閏二邸Click!アビラ村Click!林唯一アトリエClick!には、泥だらけになった靴を洗うために、玄関ポーチへ専用の靴洗い場を設置していたケースもあるほどだ。つづけて、同誌の『住宅の新しき試み』より引用してみよう。
  
 目白文化村はいろいろの点から云つて東京近郊の田園都市として最も理想的な所であります。種々の様式の文化住宅が立ち並んで居りますが、その中に梶野氏の住宅は一異彩を放つて居ります。何の様式にも囚はれない自由な氏の設計が面白いではありませんか。氏は自動車の愛用者で自ら運転もし、写真のやうに左方に車庫も設けられてあります。
  
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 さて、梶野邸の玄関を入ると、1階には床面にコルクを張りフランス風の出窓を備えた居間(8畳サイズ)がある。居間は南に面しており、その隣りがカーテンで仕切られた子供部屋(6畳サイズ)になっている。子供部屋は、寄木細工の床を採用したやはり洋間で、子どもたちが広く遊べるよう必要に応じてカーテンの開け閉めをしていた。来客のときは、境界にあるカーテンを閉めて子供部屋を隠すしかけになっている。
 また、子供部屋の南側には広めのサンルームが設置されていて、陽当たりがよく暖かな室内には鉢植えの観葉植物などが置かれていた。下落合に建てられた文化住宅にサンルームが多いのは、空気が澄んだ郊外生活をすることで、病気にかかりにくい体質や体力を獲得すること、すなわち健康増進が一大テーマだったからだ。大正の中期、東京の市街地における結核患者数Click!は10万人をゆうに超えていた。日本の人口6千万人のうち、統計で判明しているだけでも2%が結核に罹患している時代だった。
 梶野邸の2階は、1階とは正反対に畳を敷いた日本間なのだが、建物の窓や壁は洋風のままなので、洋間に畳を敷いて並べている疑似「日本間」だったようだ。いわば、体育館に柔道用の畳を並べたような趣きだったらしい。特に、カーテンの下がった洋風の窓が日本間らしくないので、窓際に各部屋へ通う廊下を設置して日本間と窓辺をへだて、障子か襖を立てれば洋風の窓が隠れるような設計をしている。それでも洋風の意匠は消えないので、あくまでも日本間の気分が味わえる空間という趣向だったようだ。
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 「婦人世界」に掲載された梶野邸の紹介は、あと洗面所とトイレのみとなっている。特に同誌の記者が注目したのは、トイレや洗面所が当時の一般的な住宅には見られないほど、明るくて開放的だったからだ。同誌から、つづけて引用してみよう。
  
 便所。正面の細長い小窓は、夜間開放してあつても盗賊が侵入する事が出来ないやうに小さく作つたもので、臭気を防ぐ為めに開放的になつて居ります。そしてその窓の硝子は赫い銅色の硝子で、降雨や曇天でも常に太陽の光りが射しているやうな感じを与へます。
  ▲
 最先端の文化村といえども、すべての住宅が浄化槽を備えた水洗トイレだったわけではなく、昔ながらの汲みとり便所のお宅も併存していた。だから、臭いを逃がす空気抜きや換気扇Click!(当時は換気用電気扇風機と呼ばれていた)など、臭気を消すためのさまざまな工夫がなされている。梶野邸は、トイレや洗面所を住宅の陽が当たらない片隅につくるのではなく、日光がとどき換気のいい場所に設置しているのが新しい。
 梶野邸の外壁や、各部屋の内壁が何色をしていたのかは、特に記載がないので不明だ。建物の1階外壁は、下見板張りのようなのでモノクロ写真の濃い色から推定すると、焦げ茶色(あるいはクレオソートClick!塗布色)にホワイトの窓枠だったと思われるが、2階の東側外壁に塗られた明るい色がわからない。クリームかベージュ、あるいは卵色の薄い黄味がかったペンキで塗られていると美しいだろうか。屋根は、瓦が葺かれているようには見えず、おそらくスレート葺きだろう。上記のカラーリングからすると、しぶいオレンジかモスグリーンの屋根が似合いそうだ。
 内壁は、1階の洋間と2階の日本間とでは、色味が異なっていたようだ。おそらく壁紙を貼っているのだろう、1階はやや明るめの壁紙で、2階は濃いめのやや落ち着いた色合いの壁紙を採用しているのだろう。トイレと洗面所にも、腰高の白いタイル張りの上に濃い色の壁紙、またはペンキが塗られているようだ。
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 先述したように、1926年(大正15)に竣工した梶野龍三邸は、それからわずか数年ののちに解体され、1932年(昭和7)にはすでに桜井安右衛門が同敷地に新邸を建てて住んでいた。昭和の最初期、ちょうど金融恐慌や大恐慌をはさんで住民がめまぐるしく入れ替わり、建てたばかりの邸が壊されているケースは目白文化村に限らず、目白駅に近い近衛町Click!に建っていた小林盈一邸Click!の事例でも見ることができる。
                                   <了>

◆写真上:1926年(大正15)発行の、「婦人世界」5月号に掲載された梶野龍三邸全景。
◆写真中上は、1925年(大正14)現在の「目白文化村分譲地地割図」(第一・第二文化村)にみる梶野龍三邸。は、梶野邸跡の現状。は、梶野邸に設置された車庫と大正期の自家用車。当時は人気が高かった、米国のT型フォードだろうか。
◆写真中下は、梶野邸1階の居間(左側)と子供部屋(右側)で奥がサンルーム。が、同邸2階の日本間から見た廊下。は、同邸の手洗い所と便所。
◆写真下は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された梶野邸跡に建つ桜井邸。は、1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲の8日前に偵察機F13Click!から撮影された桜井邸とその周辺。第二府営住宅と第一文化村北部は罹災しているように見えるが、桜井邸の周辺は焼け残っている。このあと、5月25日夜半の空襲で炎上しているのだろう。は、戦後の1947年(昭和)に撮影された桜井邸とその周辺。

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第一文化村の梶野邸を拝見する。(上) [気になる下落合]

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 目白文化村Click!には、販売当初と今日とでは各文化村エリアのとらえ方が異なる、面白い現象がみられる。1922年(大正11)に販売された「目白文化村」エリア(いまだ第一文化村とは表現されていない)と、1923年(大正12)に販売がスタートした「第二文化村」エリアとの間に、今日的に見るなら大きなズレや齟齬が存在しているのだ。きょうは、これまでややこしいし不明なので取りあげずにきた、各文化村のエリア規定の変遷について、わたしの勝手な想像もまじえながら書いてみたい。
 すなわち、第二文化村の開発・販売をスタートした1923年(大正12)の時点で、箱根土地Click!はすでに販売済みの「目白文化村」エリアのことを初めて「第一文化村」と呼称するようになったのだろう。今回、ご紹介する第一文化村の梶野龍三邸の敷地、すなわち下落合(4丁目)1605番地は、1923年(大正12)の時点では当初「第二文化村」として販売されている。ところが現在、文化村弁天(厳島社)の斜向かいにある同邸の敷地を、地元では誰も「第二文化村」などとは呼ばない。第一文化村の中心地に位置する、「第二文化村へと抜ける」南北のセンター通り沿いのエリアなのだ。
 梶野邸はもちろん、1923年(大正12)に販売されたさらに西側のエリア、渡辺邸Click!井門邸Click!のあるエリアもまた第一文化村であり、今日の地元では誰も「第二文化村」とは呼ばない。また、1923年(大正12)の夏に大量の土砂が運びこまれ新たに開発・販売されている、箱根土地本社ビルClick!の西側に隣接した前谷戸の埋め立て造成地Click!もまた、いまでは第一文化村エリアであり、お住まいの方々も含めて誰も「第二文化村」ではなく、第一文化村と認識している。
 目白文化村にお住まいの方はもちろん、下落合にお住まいの方々なら想像がつくと思われるのだが……、そうなのだ、1922年(大正11)に販売された「目白文化村」(第一文化村とは呼称していない)のみを、「第一文化村」と規定してしまったら、同村にはわずか37棟(神谷邸Click!は敷地を3つ購入しているので実質は34棟)しか住宅がないことになってしまう。逆に、「第二文化村」として販売されたエリアの住宅を、すべてそのまま第二文化村と呼称しつづけたとすれば、100棟を超える住宅が「第二文化村」となってしまい、販売時期から規定すれば当初の第一文化村(1922年現在)を、「第二文化村」(1923年現在)の家々が包囲するようなレイアウトになってしまう。
 つまり、どこかの時点で「目白文化村」(=第一文化村/1922年現在)と「第二文化村」(1923年現在)の開発名あるいは販売時の名称を再度とらえ直し、改めて各文化村の境界を規定しなおすプロセスがあったとみられるのだ。それは、ディベロッパーである箱根土地が、本社を国立へ移転する1925年(大正14)のタイミングで行なったものか、昭和期に入ると目につくようになる、目白文化村ならではの邸番号Click!をふったころに再構成された境界意識(エリア感覚)なのか、あるいは地元の自治会や購買組合、あるいは1940年(昭和15)前後に防空のために結成された防護団Click!などが実施した、昭和期に入ってからのエリア規定か、さらには戦災で両村の多くが焼けてしまった戦後のことなのかは不明だけれど、少なくとも戦前からお住まいの方の中にも、今日と同様のエリア分けをされる方がいらっしゃるので、「第一文化村」と「第二文化村」とのエリア規定の変遷は、少なくとも戦前からはじまっていたとみるのが妥当だろう。
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 また、「第二文化村」のみの具体的で明確な箱根土地による分譲地割り図を確認できないことも、第一文化村と第二文化村との“境界”を曖昧にする要因のひとつになっているのかもしれない。先の「目白文化村」(1922年販売)をはじめ、「第三文化村」(1924年販売)および「第四文化村」(1925年販売)のみの明確な分譲地割り図は存在している。だが今日、『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』(住宅総合研究財団/1989年)などで、「第二文化村分譲地地割図」として公開されている図面には、1922年(大正11)に販売された当初の「目白文化村」(あと追いで「第一文化村」と呼称することになる)、および前谷戸を埋め立て新たに造成された箱根土地本社の西側に隣接する埋立地が含まれており、その境界が明確化されておらずに曖昧だ。
 今日では第一文化村エリアの梶野龍三邸は、販売とほぼ同時に敷地を購入し、1926年(大正15)の春には、すでに車庫つきの邸が竣工している。1923年(大正12)の販売時点での梶野邸敷地は、当初「第二文化村」として販売されていたのだ。1926年(大正15)に実業之日本社から発行された、「婦人世界」5月号に掲載の『住宅の新しい試み』から引用してみよう。
  
 梶野龍三氏の住宅
 氏は東京市芝区南佐久間町に開業せられて居る医師であります。写真は市街目白第二文化村の氏の住宅であります。この住宅は氏が自ら試みられた設計通り建てられたものであります。只今までの住宅は多くはお客本位の住宅であつた事を遺憾とせられて、本当の家族本位の住宅を建てられたのであります。
  
 取材を受けた梶野龍三自身は、おそらく箱根土地による「第二文化村分譲地販売」というフレーズを受け、自身の邸敷地について「第二文化村の土地を買った」と認識していた様子がわかる。だが、梶野龍三はわずか数年で転居してしまい(昭和初期の大恐慌の影響だろうか?)、昭和に入ってからすぐに内務省社会局事務官の桜井安右衛門が、築数年の梶野邸を解体し新たに自邸を建てて引っ越してくる。彼が自身の邸敷地を、「第二文化村」だと認識していたかどうかはさだかでない。
 また、1991年(平成3)に日本評論社から出版された『目白文化村』のコラム欄では、数学者の小平邦彦がインタビューに答え、「大正一四年九月、小学生の時に第二文化村に越してきました」と答えているのが興味深い。小平邸は、神谷邸Click!から西へ2軒め隣り、南北のセンター通り(三間道路)をはさんだ梶野邸のすぐ斜向かいにあたる、同じ下落合1605番地の邸だ。すなわち、大正時代に土地を箱根土地から直接購入した住民は、当初、自邸のエリアを「第二文化村」だと認識していた様子がわかる。
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 それが、先述したなんらかのきっかけ(エリア分けの理由)を契機に、初期の目白文化村(1922年現在)の範囲とされていた第一文化村が「拡大」し、前谷戸を埋め立てて1923年(大正12)の夏に販売がスタートしている新たな造成地(第二文化村分譲地または第一文化村追加分譲地のどちらかは不明)と同様の感覚で、同エリアが第一文化村の「追加分譲地」的な認識に変化していったのではないだろうか。
 そしてもうひとつ、ついに買収に応じることなく、強引な土地収用をつづける箱根土地とは最後まで対立Click!しつづけた、初期の第一文化村の南に拡がる宇田川邸の敷地の存在も、どこかで大きく影響しているのかもしれない。宇田川様Click!の敷地一帯の北側を東西に横切るのが、初期第一文化村の南辺の境界線であり、この境界線をそのまま西へ延ばしてセンター通りを越え、オバケ道Click!のカーブに沿って目白文化村を南北に分ければ、箱根土地に残る分譲資料や初期の住民証言とはまったく別に、ほぼ現在の地元で認識されている第一文化村と第二文化村のエリア概念に合致するからだ。目白文化村の開発全体がフィックスしたのち、改めて南北を分けるこの“宇田川ライン”に着目した住民、あるいは地元の組織や団体はなかっただろうか。
 さらに、箱根土地の社宅建設予定地とされていた、第二文化村の北側に拡がる広い空き地、すなわち第二文化村の水道タンクClick!があった北側の下落合1650番地(のち下落合4丁目1647番地)一帯が、昭和期に入ると第二文化村の追加分譲地として販売される。そこへは、目白文化村でも最大級の邸宅だった安本邸や水野邸などが建設されているが(戦後は下落合教会・下落合みどり幼稚園Click!)、この販売事例により第二文化村は目白文化村の“南側”という心象が強く形成されたのかもしれない。そして同時に、第一文化村は目白文化村の“北側一帯”という印象を、さらに高めたのかもしれない。
 さて、梶野邸の南側にある庭園の隅には、大正期の文化村としてもめずらしい自家用車の車庫が設置されており、梶野医師は南佐久間町(現・西新橋1丁目)の医院までクルマで出勤していたとみられる。当時の住宅の建て方としては、地面からの湿気を避けるために舗装されていない道路面から、住宅敷地を大谷石やコンクリートの縁石を設け、できるだけカサ上げして造成するのが一般的だった。したがって、戦後ならともかく道路面と水平に設置されている車庫はめずらしい光景だ。
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 梶野龍三邸には、訪問客を前提とした応接間あるいは客間が存在していない。なによりも家族や子どもたちの快適な居住性を優先して追求した設計は、遠藤新建築創作所Click!の仕事による下落合806番地の小林邸Click!へと通じる、現代住宅とほとんど変わらない設計コンセプトなのだが、その詳細については、また次につづく物語で……。
                               <つづく>

◆写真上:1926年(大正15)春に撮影された、竣工間もない梶野龍三邸の東側壁面。
◆写真中上は、1922年(大正11)に作成された最初期の「目白文化村分譲地地割図」で、第一文化村の呼称は存在していない。(『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』より) は、第二文化村分譲時期の1923年(大正12)の夏に埋め立てられた箱根土地西側の前谷戸部。は、埋立造成地の現状と前谷戸の谷間へと下りる西端の階段。
◆写真中下は、1923年(大正12)作成の「第二文化村分譲地地割図」だが、初期の第一文化村および前谷戸の埋立分譲地も描きこまれているため境界規定がない。(同上より) は、1936年(昭和11)の空中写真を用いた今日の目白文化村概念。は、南から北を写したセンター通り(三間道路)で、梶野邸は突きあたりの左手にあった。
◆写真下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる梶野邸。は、1936年(昭和11)の写真にみる桜井邸(元・梶野邸)。建物の形状が変わっており、『落合町誌』(1932年)にはすでに桜井安右衛門が収録されているため、梶野邸は竣工から数年で解体されたとみられる。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる桜井邸。

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下落合を描いた画家たち・曾宮一念。(5) [気になる下落合]

曾宮一念「落合風景」1921.jpg
 大正中期の落合地域を描いた絵画作品は、本格的な宅地開発が行われる以前の風景Click!なので、描画場所の特定がきわめてむずかしい。描かれているモチーフは、田畑や耕地整理を待つ原っぱ(空き地)、農家、森林、ポツンポツンと建ちはじめた郊外住宅などで、現代につながる目標物がほとんど存在しないからだ。
 また、目白崖線の丘上を描いた風景だったりすると、平坦な地面が多いため地形的な特徴もつかみにくく、どこを描いたのかがさらにわからなくなる。田畑のままで、宅地化を前提とした耕地整理がなされていないと、農作業に使われた畦道や農道がそのまま描かれており、現代につづく道筋の形状が未整備のため、場所を想定することが非常に困難になる。それでも、小島善太郎Click!『下落合風景(仮)』Click!のように、特徴的な地形や明治以前からの街道筋を描いていれば、現代からでもピンとくる場所を想起できるが、単に草原や森林を描いただけでは見当もつかない。
 冒頭の画面は、1921年(大正10)に曾宮一念Click!が描いた『落合風景』だが、どこを描いたのかがよくわからない作品だ。同年の4月、曾宮一念は念願のアトリエClick!下落合623番地Click!に建てて、淀橋町柏木128番地Click!から引っ越してきているので、同作は転居早々に描かれたことになる。前年の暮れに描かれた『落合風景』Click!(1920年)のように、特徴的な建物(メーヤー館Click!)がモチーフに入っていればすぐに描画ポイントを特定することができるが、道もなにもない草原と樹々をとらえただけの画面では、手がかりがつかみにくくわからない。画面のような風景は、当時の下落合ではあちこちで見られただろう。
 なんだか画面上に雪か、植物の綿帽子が降りそそいでいるような表現が描かれているけれど、木々の枝葉が紅葉しかかっているので秋の落ち葉だろうか?(あるいは油彩画面に付着したカビの跡だろうか) 画面を左右に横ぎる並木のような樹木の下には、細い小径が通っていそうな風情だ。画面中央のやや右手に描かれている赤いフォルムは、紅葉した樹木なのか西洋館の屋根なのかが、茫洋とした表現でいまひとつハッキリしない。陽射しの具合から、どうやら手前、つまり画家の背後が南のようだ。
 当時の下落合は、目白駅の近くと目白通り(清戸道Click!)沿いの江戸期から発達した「椎名町」Click!を除き、草地や畑地が拡がる家々がまばらな光景だった。だから、家々が描かれているとすればかなり絞りこめるのだが、もし中央右手に表現されている赤いフォルムが建物の屋根だとすれば、当時の曾宮一念の生活やアトリエ周辺の環境を考慮すると、1ヶ所だけ思いあたる描画場所がある。それは、落合遊園地Click!(のち東邦電力による近衛新町Click!宅地開発Click!林泉園Click!と命名)の谷戸をはさみ、南から北を向いてサクラ並木が繁る道筋の中村彝アトリエClick!を描いたものではないだろうか。
曾宮一念「落合風景」1921想定.jpg
落合遊園地1923.jpg
曾宮一念「落合風景」1936.jpg
 手前の樹木3本の向こう側には、やや草原のスペースがあるように見えるが、その先には窪地(小さな谷戸)があると想定しても、あながち不自然な描写には感じられない。濃いグリーンに塗られた樹木は、落合遊園地(林泉園)の谷戸に生えている樹木の上部であり、崖地の影になっている部分が濃く塗られている……とも解釈できる表現だ。そして、その向こう側に明るい色で描かれた樹木が、谷戸の北側に通う小径のサクラ並木だと解釈することができそうだ。
 『落合風景』の描画ポイントを規定するとすれば、落合遊園地(林泉園)南側の下落合387番地にあたる草原から、谷戸をはさんで5年前に建てられた中村彝アトリエを含む、下落合463~465番地界隈をとらえているように見える。当時の1/10,000地形図を確認すると、谷戸に面したこの一画にはわずか3棟の家しか採取されていない。下落合464番地の中村彝アトリエと、画面の右手にあたる下落合463番地に建てられていた2棟の住宅(1棟は物置小屋?)だ。ただし、画面では手前右側の樹木にさえぎられて、下落合463番地に建っていた2棟の屋根は見えない。
 『落合風景』の描画ポイントとみられる位置、すなわち下落合387番地の一画に立とうとしても、現在は住宅が建ち並ぶ真ん中なので不可能だ。また、同ポイントからは家々の屋根が視界をさえぎり、中村彝アトリエを見とおすこともできない。同作が制作された当時の地図、あるいは古い空中写真から画面の情景を想像してみるしかなさそうだ。
中村彝アトリエ屋根.JPG
曾宮一念描画ポイント.jpg
曾宮一念1923.jpg
 もう1点、1920年(大正9)に制作された曾宮一念『風景』という作品がある。いかにも、本格的な宅地開発が進む前の東京郊外という風情だが、同年に曾宮はいまだ下落合に転居してきていない。したがって、転居前に住んでいた淀橋町柏木128番地(現・西新宿8丁目)の借家周辺で見られた風景なのかもしれない。
 落葉した樹木の様子や、ススキのように背丈の高い枯れた草叢が描かれており、おそらく同年の晩秋から冬にかけて制作されたものだろう。西日と思われる黄色い陽射しと、描かれた家々が並ぶ屋根の主棟の向きから推測すると、やはり画家の背後が南側のようだ。右手には、右へとカーブする道が描かれており、畑地の向こう側に建てられた住宅群の左手は、地形がやや下がっているように見える。また、右端には長い生垣と屋敷林がつづいているので、その内側には大きな農家か屋敷が建っていそうだ。
 1920年(大正9)現在の下落合で、このような地形や道筋、さらに家々の配置をわたしは知らない。ひょっとすると、曾宮一念は自身のアトリエを建設する予定地を下見にきて、その周辺の風景を描いているのか?……とも想像したが、道筋や家々の配置、地形などが微妙に異なり一致する場所が見つからない。あるいは、聖母坂の建設で消えてしまった住宅街の一画だろうか?
 当時の淀橋町柏木もまた、畑地が残るこのような風景が随所に拡がっていただろう。新宿駅と山手線をはさみ、大正中期に東口は急速に拓けていったが、西側は街道沿いや淀橋浄水場Click!の周辺を除き農地や空き地、雑木林などが散在する風情のままだった。曾宮一念が一時的に住んでいた柏木128番地は、中央線の大久保駅に近い位置であり、当時はまだあちこちに田畑が残るような風景だったろう。
曾宮一念「風景」1920.jpg
下落合東部1918.jpg
曾宮一念(写生中).jpg
 東京西部の郊外、山手線の西側一帯に拓けた多くの街々は、関東大震災Click!から少しあとの時代、大正末から昭和初期にかけて、それぞれの街がもつ特色が少しずつ形成されはじめている。したがって、それ以前の風景は東京市の近郊に拡がる農村風景で、どこも似たり寄ったりの風情をしていた。1920年(大正9)前後に曾宮一念が写した風景は、急速に変貌をとげる直前の、過渡的な東京近郊の様子を的確にとらえ表現している。

◆写真上:下落合に転居早々の、1921年(大正10)に描かれた曾宮一念『落合風景』。
◆写真中上は、『落合風景』に描かれている風景やモチーフの推定。は、1923年(大正12)に作成された1/10,000地形図にみる推定描画ポイント。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる描画ポイント。
◆写真中下は、中村彝アトリエの赤い屋根だが建設当初はもう少しオレンジに近い赤だったろうか。は、『落合風景』が描かれた描画ポイントあたりの現状。中村彝アトリエは、突きあたりにある谷戸の向こう側やや右手のサクラ並木沿いに建っている。は、1923年(大正12)に下落合のアトリエで撮影された曾宮一念。
◆写真下は、下落合の描画場所に心あたりがない1920年(大正9)制作の曾宮一念『風景』。は、田畑や草原、森林、などが随所に拡がる1918年(大正7)現在の下落合東部。は、昭和初期に撮影されたとみられる野外写生中の曾宮一念。

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中村彝と「巣鴨の神様」山田つる。(下) [気になる下落合]

至誠殿への道.JPG
 山田つるClick!が、どのようにして「神通力」にめざめたのかは、実際に目撃した第三者がいないので委細は不明だが、夫の山田勝太郎によれば、医者も見離した難病に苦しめられ病臥を繰り返していた中、突然「神霊」のお告げを受けて、「身を清めてから死にたい」と夫に別れを告げたころからはじまる。医者から、余命わずかといわれたのがショックだったのか、半ば自暴自棄のような精神状態でもあったようだ。
 1918年(大正7)に太卜出版から刊行された竹齋山人『仙神伝授魔法神通力』によれば、山田つるは「深山の神霊」へ病気平癒を祈願するために、真冬の雪が降り積もった「霊山」(社殿が奉られた北国の山のようだが、どこの山かは特定していない)へ登り、道に迷って危うく遭難しかかる。崖地の雪庇を踏みぬいて渓谷へ転落し、雪解けがはじまった渓流に全身が浸かってしまい、濡れねずみになって意識を失ったまま凍死しかかるが、もともと生命を捨てて自暴自棄になりながら冬山に登っているので、意識をとりもどすと再び山頂の社殿めざして歩きはじめた。
 すると、しばらくしてどこからか「再攀せば安全なる道を発見すべし」という声が響きわたり、その声を頼りに上っていくと、やがて頂上にある社殿にたどり着いた。以来、彼女は「自己心神の統一」ができるようになり、物体の「透視」や「千里眼」の能力を備えるようになった……ということらしい。明らかに、体温が急速に奪われる冬山の遭難時に起きがちな、幻視幻聴症状の一種だと思われるが、下山して巣鴨庚申塚にもどってきたときは、すでに「神がかり」になっていて、端からは異様に見える言動をするようになっていたという。以降毎日、夜に水垢離をつづけていると自身の病気も快方に向かい、しだいに「神通力」を発揮するようになったということらしい。
 山田つるのもとには、大勢の弟子たちが集まったが、その中には著名人たちも多く含まれていた。どこか岡田虎二郎Click!による「静坐会」Click!の活動にも似ているが、その様子を1916年(大正5)9月27日の東京朝日新聞より引用してみよう。
  
 此神様の弟子三千人とは話半分に聞いても大した者(ママ)だが、周囲に四五人の使徒のような高弟があつて、其下ツ葉の弟子連の中には小山内薫、生田長江、沼波瓊音、栗原古城、広瀬哲士、阿部秀助、山田耕作、諸口十九などの人々がある、いづれも神様を礼拝する時は感極まつて踊り出す、其姿の珍妙な事は話にならない、岡田三郎助君も此程小山内君に勧められて神様を拝みに行き聾を癒して貰つたといふ▼中にも沼波君の熱心は大したもので今は雑誌の方も潰せば一切の生活の道を犠牲にして朝から晩まで神様の家に入り浸りの姿である、此間福来博士が沼波君を訪れると夕立が来た 「傘を持つて来なかつた」と博士が心配するのを沼波君は「お帰りになる時雨を晴らせて上げます」と云つたが、果して博士が帰りかけると、雨はカラリと上つたと当人の自慢話、それから先頃電燈料を払はないかして電線を切られた、すると「アンナ物はなくとも点火して見せる」と云つてそれ以来神通力で電燈を点けて居るといふ話もある
  
 「ほっといても、雨はいつか降ったり止んだりするだろ!」とか、「おまえは電気ウナギみたいなやつだな!」とか、ヤマダClick!のようなツッコミを不用意に入れてはいけない。本人たちは、いたって大マジメなのだ。
仙神伝授魔法神通力1918.jpg 仙神伝授魔法神通力1918山田つる.jpg
小山内薫.jpg 岡田三郎助.jpg
 記事に書かれている小山内薫Click!は、「事故物件」や「化け物屋敷」ばかりを引き当てて転居を繰り返していたが、もともと「心霊(神霊)現象」には興味があったのだろう。また、福来博士とは目白にやってきた超能力者・御船千鶴子Click!の記事で登場している、東京帝大の福来友吉Click!のことだ。
 小山内薫は、1916年(大正5)6月3日から、帝劇で新劇場の初回公演を行っているが客がほとんど集まらず、どうやら“拝み”の「巣鴨の神様」頼みになっていたらしい。当時の小山内薫の様子と、「巣鴨の神様」への奉納劇について、1961年(昭和36)に青蛙房から出版された戸板康二『対談日本新劇史』より引用してみよう。インタビューに答えているのは、当時は新劇の俳優で映画監督もこなした田中栄三だ。
  
 それから間もなく七月になりまして、暑い日でしたが巣鴨の神様の至誠殿に一周年記念のお祭りがありました。富士の裾野の方に神様の本体をたずねて、みんなが御幣を持って行ったんです。御幣が風になびく方向に行ったら、須走の百姓家の庭にある物置の中へ導かれた。その物置の中に大黒様が八体あったんで、それを頂いて帰って来た。その時の仮装をして一周年のお祭りをしたわけですね。芝居や踊りを奉納するというわけで、小山内先生のおやじで、私の客、諸口の娘で、チェーホフの『犬』(結婚申込)をやったんですよ。(中略) 小山内先生も隠し芸の「夕ぐれ」を踊りましたよ。(中略) そのころ新劇場は失敗してお金がないころなんで、小山内先生もちっともお金がないんですよ。玄関の畳の下をあけたら五十銭銀貨が出来たから巣鴨の神様へ行こう、という時代でした。昼間至誠殿でやった小山内先生の講話の時には「何事もあなた任せの年の暮」の句を引いていろいろ話をしていられました。
  
 貧乏な演劇青年、しかも日本に入ってきて間もない新劇をめざしていた青年たちが、まったく集客できずに「巣鴨の神様」頼みだった当時の様子がわかって面白い。このとき演じられたのは、チェーホフの『犬』のほかスティーブンスンの『失踪商人(ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件)』だったという。
 「至誠殿」に集合していた画家や作家、演劇人、歌人などの様子を見ると、岡田虎二郎が主宰する「静坐会」に凝っていた相馬黒光(良)Click!の、新宿中村屋Click!のとある時代を見ているようだ。36歳か42歳か年齢が不詳の、ちょっと垢抜けて艶っぽかったらしい山田つるは、その「神通力」や「千里眼」「透視」の能力はともかく、多くの人を惹きつけ集めることができる魅力は備えていたようだ。
 もともと山田家は資産があって裕福だったらしく、山田つるは「神通力」を使いながら貧しい病人は無償で「治療」したり、「千里眼」を使って失せモノや未来を「透視」してやったりしていたのも、多くの人々から信用された要因らしい。病気の「治療」法とは、病人を正座させ意識を集中させてから御幣を振りかざして祈祷を加えるというようなもので、電車賃や俥代が払えない貧者には俥をかってタダで「往診」までしていた。
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 おそらく、中村彝Click!も「至誠殿」の床に座らせられ、山田つるが唱える祈祷の言霊を聞きながら、御幣の祓いを受けていたのだろうが、結核菌を殺す「治療」が無償だったかどうかまではさたがでない。貧しい小山内薫ら演劇青年たちは、おそらく無償で……というか、「至誠殿」で「巣鴨の神様」から食事をふるまわれるなど、持ちだしで面倒をみてもらっていたようだ。
 弟子のひとりで、電気ウナギのように自家発電ができるらしい省エネでエコな沼波瓊音は、読売新聞の記者に「仕て始めて感得されるので語るものでない、末世と悲しんだ此世にかやうな光明をなげられ人生至高の境に行く路の開かれたるを喜ぶ」(1916年6月10日朝刊)と語り、また東京朝日新聞の記者には「太陽もけさうと思へば必ず消せる」(1916年9月27日朝刊)などと語っているので、どうやら山田つるの能力は修行を重ねれば弟子たちにも相伝するらしい。
 だが、天理教の中山みきや大本教の出口なほが、その後、大きな教団として成長していった……というか、事業戦略としてのマーケティングやプロモーションが上手で、組織を大規模化していった「女神」たちに比べ、「巣鴨の神様」こと山田つるは、あくまでも個人による私的な「治療」や「施術」の域を出ず、また夫の山田勝太郎とはのちに別居して巣鴨から田端へ転居してしまったため、「教団」としてのまとまりや組織化ができないうちに、彼女のブームは下火になってしまったように見える。
 「巣鴨の神様」が、田端へ転居しているのが興味深い。彼女が主柱にすえていたのはオオクニヌシ(=オオナムチ=大黒天)であり、同神は「北辰」、すなわち北極星あるいは北斗七星の象徴でもあるからだ。先の「今⽇も⽇暮⾥富⼠⾒坂」さんClick!によれば、転居先は大正末の電話帳で北豊島郡瀧野川町田端171番地(現・田端3丁目)ということだが、この位置は千代田城の天守跡からほぼ正確に真北の方角にあたる。おそらく田端でも、彼女は細々と「神通力」を発揮しつづけていたのではないかと思われるが、それから「田端の神様」が出現することはなかった。
 また、巣鴨庚申塚660番地の「至誠殿」があったとみられる跡地には、1927年(昭和2)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」を参照すると、「星道会」という宗教団体らしい名称の本部が置かれている。これが、大正期の後半から昭和初期にかけ山田勝太郎が主宰していた「巣鴨の神様」の、のちの姿ではないか……と想像がふくらむ。
 「至誠殿」跡の取材では、地元で生まれ育った庚申塚大日堂(山田夫妻宅に隣接)の方に、山田つるや「至誠殿」のことをうかがってみたが、大正末の「星道会」も含めてすでにご存じではなかった。庚申塚の地元では、「巣鴨の神様」の山田つるも「星道会」の建物も、戦争前後には早々に忘れ去られたようだ。
西巣鴨町東部事情明細図1927.jpg
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 1916年(大正5)の夏、東京各地ではコレラが大流行していた。山田つるのもとへは、コレラの患者も訪れたらしく、コレラ菌を殺す祈祷なども行われていたようだ。結核よりもはるかに症状が激烈な、体内のコレラ菌を殺せて快癒させられるなら、中村彝の体内に巣くう結核菌などたちどころに殺せるのではないか……と、大江戸の「コロリ」時代の安政期生まれだった岡崎キイが考えたとしても、無理からぬことだったかもしれない。
                                <了>

◆写真上:「至誠殿」があったとみられる場所へ向かう、大正時代からつづく道。中村彝も岡崎キイに連れられて、この道を「至誠殿」まで歩いたのだろう。
◆写真中上は、1918年(大正7)に出版された竹齋山人『仙神伝授魔法神通力』(太卜出版)と山田つるの解説ページ。は、熱心な「巣鴨の神様」信者だった小山内薫()と、山田つるに難聴を治してもらった岡田三郎助()。
◆写真中下上左は、1921年(大正10)発行の「婦人世界」1月号に掲載された石橋臥波『女神様列伝』。ちなみに「巣鴨の神様」は巫女であり、ときに不治の患者や下層階級を慰める「女神」だが、逮捕された「池袋の神様」こと岸本加賀美は占い師であり男性だ。上右は、「至誠殿」についての証言が語られた1961年(昭和36)出版の戸塚康二『対談日本新劇史』(早川書房版)。は、奉納新劇や奉納踊りの様子を伝える1916年(大正5)9月10日発行の読売新聞。は、「至誠殿」周囲の現状。
◆写真下は、1927年(昭和2)作成の「西巣鴨町東部事情明細図」に掲載された「星道会本部」(星道会館)。なお、赤い点線で囲んだ鳥居マークは庚申塚大日堂(寺院)で「卍」マークが正しい。は、アトリエのテラスに座る岡崎キイと病臥する中村彝。

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中村彝と「巣鴨の神様」山田つる。(上) [気になる下落合]

至誠殿跡.JPG
 以前、中村彝Click!の結核治療にからめて、巫女の系譜と思われる「巣鴨の神様」Click!や、関東地方に多い三峰社の御師Click!、あるいは御嶽社Click!とみられる修験者のことを書いたことがある。その記事に対し、「今日も日暮里富士見坂」さんClick!からごていねいなリプライをいただき、中村彝に関する主要著作のほとんどが、「巣鴨の神様」=山田つると「池袋の神様」=岸本可賀美とを混同している旨、ご教示をいただいた。
 確かに、古い著作では中村彝『藝術の無限感』(岩波書店/1926年:重版以降の記述か?)そのものをはじめ、小熊虎之助Click!の『心霊現象の科学』(芙蓉書房/1974年版・元版:新光社/1924年)、米倉守『中村彝―運命の図像―』(日動出版/1983年)、鈴木秀枝『中村彝』(木耳社/1989年)、あるいは鈴木良三Click!による著作など、中村彝に関するほとんどの書籍で、のちに「巣鴨の神様」=山田つるは逮捕され、祈祷に使われた水晶玉(神水如意宝珠)はラムネのビー玉だったことが判明した……というようなことが書かれているが、これは1916年(大正5)12月12日に東京監獄へ収監された「池袋の神様」=岸本可賀美のことであって、「巣鴨の神様」=山田つるのことではない。
 しかも、中村彝の多くの年譜では、彝が「巣鴨の神様」のもとへ出かけたのは、1917年(大正6)の春(3月ごろ)となっており、「池袋の神様」こと岸本可賀美が逮捕され水晶玉(如意宝珠)がラムネのビー玉だと暴露されたのが、前年の1916年(大正5)12月なので、これでは逮捕され収監中であり、東京地裁で公判中の「池袋の神様」のもとへ、中村彝は結核の平癒祈祷ため東京監獄へ面会しに出かけたことになってしまう。
 中村彝が岡崎キイClick!の勧めで、結核の奇蹟的な治癒を祈念しに出かけたのは、北豊島郡巣鴨村(大字)巣鴨(字)庚申塚660番地(1918年より西巣鴨町)にあった「至誠殿」の山田つる(巣鴨の神様)のもとであって、山田つるは「池袋の神様」こと岸本可賀美とはなんら関連がないし逮捕されてもいない。中村彝が、山田つるのもとへ出かけたころの様子を、身近にいた鈴木良三の証言から引用してみよう。1977年(昭和52)に中央公論美術出版から刊行された、鈴木良三『中村彝の周辺』より。
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 落合は方角が悪いといって、一時雑司ヶ谷の方へ引越させたのもキイの昔堅気(ママ:昔気質)の押しの強さからだし、落合へ帰ってから直ぐアトリエに風呂桶をすえ、杉っ葉を沢山つめて水を満し、日中まだ肌寒いのに彝さんを水浴させ、傍らのふとんに寝かせるという荒療治を実行させたりしたのも、迷信ばかりではないようで、せっかく訪ねて来た客に面会謝絶を喰わせても、変な行者や、神がかりの祈祷者は案外容易に受け入れてあやしげなまじないをさせたのも、キイの強引なすすめに従わせたためであった。/彝さんにとっては病気が治るためならと思ってキイに従ったのであろうが、他から見ると馬鹿馬鹿しい限りであった。
  
 小熊虎之助の証言、あるいは梶山公平『夭折の画家 中村彝』(学陽書房/1988年)で抜粋された引用文によれば、「巣鴨の神様と称する巫女の所へ精神療法を受けに行ったこともあった」と書いてあるので、わざわざ目白駅から山手線に乗って大塚駅で降り、敷設されたばかりの王子電車(現・都電荒川線)に乗り換えて、巣鴨庚申塚の「至誠殿」まで出かけているのだろう。おそらく、岡崎キイが付き添っていったと思われる。
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 「巣鴨の神様」こと山田つるが、忽然と巣鴨庚申塚にあった明治女学校の跡地に出現したのは、明治末ないしは大正の初めごろのことだ。山田つるが、神託を伝える巫女として仕えていたのは、富士山麓の須走で偶然に見つけたといわれる、出雲神のオオクニヌシ(大黒天)像だった。彼女は、それを「至誠殿」と名づけた社に奉っては、さまざまな「神通力」や「奇蹟」、「千里眼」などの能力を発揮している。
 特に不治の病を治す力に長けていて、東京はおろか関東各地から「患者」を集めては祈祷によって治療していたらしい。そのせいか、数年もたつころには山田つるを師と仰ぐ弟子が、3,000人を数えるまでになったといわれている。当時の様子を、1916年(大正5)9月27日に発行された、東京朝日新聞の朝刊から引用してみよう。
  
 文士連巣鴨の神様信心
 神様と云ふのは鉱山師の女房で御神体は金と縁のない大黒様
 大塚の電車終点から五六町行つた巣鴨庚申塚に不思議なものが現れて迷信に凝り固まつた善男善女を集め繁盛比類無い有様である、近くにはあの気狂病院がある為かも知れないが、一体あの辺は妙な処で、先年「無我の愛」の一団がお籠りした苦行堂もたしかあの界隈にあつた、これは丁度その近くで「巣鴨の神様」と云へば巣鴨界隈で知らぬ人はない、躄や聾やめつかちなどが其御利益に依つて癒して貰はうものと日夜門前市を為す盛況である▼神様は鉱山師山田勝太郎の妻鶴子(四十二)と云ふ一寸垢抜けのした女 当人は口を緘して前身の秘密を語らないが、何れは水商売をして来たそれしやの果らしい、当人の話に依ると二三年前の一夜神託があつて東海道の或る田舎から捜し出して来たといふ大黒天の像を座敷内の神殿に祀つて、至誠殿と名付けて居る、鶴子は日夜其礼拝に余念なく、気が向かねば一間に引籠つたきりで幾日も夫にさへ顔を合せないが如何にして神通力を得たものか、それからといふもの透視もすれば躄も癒す、一寸した病人を癒した話などは腐る程あるらしい
  
 巣鴨庚申塚660番地にあった「至誠殿」は、1909年(明治42)に閉校した明治女学校の敷地西側、明治末から大正初期にかけて同女学校の運動場跡の一画とみられる地所を開発したらしい、新興住宅地の中にあった。
 1909年(明治43)年に作成された1/10,000地形図には、いまだ明治女学校が採取されているが、王子電車の軌道と庚申塚電停は描かれていない。1916年(大正4)作成の同地図になると、王子電車が描かれて周辺の宅地化が進んでいるのが見てとれる。ただし、巣鴨庚申塚660番地界隈の様子はそれほど変わっているようには見えない。あたりには明治女学校の跡地である原っぱが拡がり、その中にポツンと山田夫妻宅、つまり「至誠殿」を含む建物があったことになる。
 山田宅の様子について、1916年(大正5)6月10日発行の読売新聞朝刊に、記者の訪問記が掲載されているので引用してみよう。ちなみに、同記事では祭神をアマテラスと誤記しているが、同年の9月10日の同紙記事で「大国主(オオクニヌシ)」と訂正している。出雲系と新たな伊勢系の神をとりちがえるとは、日本の神に対する基礎知識が訪問記者に欠如していたとしか思えないが、その点を含みおいて参照いただきたい。
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 奇蹟を行ふ婦人/巣鴨至誠殿の神様として知られる
 如何なる難病も根治する、又、どんな深刻な煩悶も立ち処に解決する、そればかりでなく此世にあり得べからざる奇蹟をも示すといふ一婦人が現れたがその指導を受けてゐる人々のなかでは沼波瓊音、野上八重子(ママ:野上弥生子)、広瀬哲士等の文士諸氏のほか真面目に熱烈に人生問題に就て苦しんで居る多くの△知名の人があり、近々幸田露伴氏も来らんといふ事であります、大教主と仰がるゝ此婦人は如何なる人で如何なる事を説くのであらうかと巣鴨庚申塚に訪れました。至誠殿は?と聞くと「あゝあの神様の家ですか」と教へて呉れる、広い野原を前にした洋館の主人、山田勝太郎氏夫人鶴子(三十六)さんがその人です。洋館に続いた日本造の建物が加持をする処である、正面には天照皇大神(ママ)を恭しく祭り人々はその前の広間に正座し、夫人に姿勢などを直して貰つてゐるが、丁度岡田式静座と同様に躰を震動させて居りました。
  
 東京朝日新聞と読売新聞とでは、山田つるの年齢が6つもちがっているが、「神様」なので自在に年もとれば若返りもできたのかもしれない。w
 中村彝が下落合にアトリエを建設して、谷中初音町3丁目12番地から下落合464番地へ転居してきたのは1916年(大正5)8月20日、そして身のまわりの世話を焼く岡崎キイ(当時58歳)がアトリエに入ったのが8月末だった。したがって、彼女は同年9月10日の読売新聞、ないしは9月27日の東京朝日新聞に掲載された「巣鴨の神様」の記事をアトリエで読んで、急に彝を巣鴨庚申塚の「至誠殿」へと連れだしているのではないだろうか。
 この時期、中村彝は宮崎モデル紹介所Click!から通ってきていた「お島」Click!をモデルに、ほぼ全身像の『裸体』(40号)を仕上げている。だが、サイズの大きなキャンバスに向かい無理をしたせいか、9月の下旬に入ると喀血がつづき、10月になると寝こむことが多くなった。そのせいで、志賀潔医師が実施していたワクチン療法にも通えなくなるほど体力を消耗している。この病状の悪化には、無理を押して電車に乗り、巣鴨庚申塚へと外出した疲労も重なっているのかもしれない。
 そして、同年の12月12日に「池袋の神様」こと、巣鴨村(大字)池袋(字)中原に住んでいた岸本可賀美が逮捕されている。すなわち、その収監記事を読んだ中村彝自身か岡崎キイ、あるいは彝の身近にいた誰かが「巣鴨村」の文字のみに目をとめて、「巣鴨の神様」が逮捕されたと誤読し、先の岸本可賀美がらみで暴露されたラムネのビー玉の話へとつなげている可能性が高い。
 ・北豊島郡巣鴨村(大字)巣鴨(字)庚申塚 至誠殿の「巣鴨の神様」こと山田つる
 ・北豊島郡巣鴨村(大字)池袋(字)中原 天然教社の「池袋の神様」こと岸本可賀美
中村彝「裸体」191608.jpg
明治女学校跡.JPG
 「至誠殿」の山田つること「巣鴨の神様」はその後も“健在”で、1921年(大正10)に実業之日本社から発行された「婦人世界」1月号に収録の石橋臥波『女神様列伝』でも、天理教の中山みきや大本教の出口なほなどと並び、彼女の現況も紹介されている。次回は、山田つるが「神がかり」になった経緯や、さまざまな「奇蹟」の詳細をご紹介したい。
                              <つづく>

◆写真上:明治女学校跡の一画にあたる、山田つるの「至誠殿」があった巣鴨庚申塚660番地あたりの現状。右寄りに見えている石碑は、「明治女学校之址」の記念碑。
◆写真中上は、2003年(平成15)開催の『中村彝の全貌』展図録の年譜より、山田つると岸本可賀美を混同している記述。「巣鴨の神様」は、祈祷に水晶玉(ビー玉)は使っていないし逮捕されてもいない。『藝術の無限感』P450から引用とあるが、初版および第5版の同書では確認できない。は、明治女学校の校舎。は、1909年(明治42)と1916年(大正5)の1/10,000地形図にみる明治女学校と巣鴨庚申塚660番地の位置関係。
◆写真中下は、下落合に竣工したばかりの中村彝アトリエの前庭で、イスに座る岡崎キイと後列中央の中村彝。中村彝の隣りは、中原悌二郎(左)と長谷部英一(右)。は、1916年(大正5)9月27日発行の東京朝日新聞に掲載された「巣鴨の神様」記事。は、1916年(大正5)6月10日発行の読売新聞に掲載された「巣鴨の神様」記事。
◆写真下は、1916年(大正5)8月制作の宮崎モデル紹介所の馴染みモデル“お島”を描いた中村彝『裸体』。は、広大だった明治女学校跡地の現状。

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佐伯は落合第一小学校の校舎を描いている。 [気になる下落合]

佐伯祐三「白い壁の家」1926頃.jpg
 少し前に佐伯祐三Click!『セメントの坪(ヘイ)』Click!の画面下層にある、画家自身のアトリエを描いたとみられる、1926年(大正15)の8月以前に制作された『わしのアトリエ(仮)』Click!をご紹介した。同作は、「下落合風景」シリーズの第1作かもしれないのだが、実はほかにも疑わしい画面がいくつかある。
 その画面は、佐伯祐三のアトリエからわずか西へ100mほど、道路わきに大谷石蓋による共同溝が設置された第三文化村Click!の街角から、排煙する目白通りに近い菊の湯Click!の煙突を遠景に描いた、めずらしく空が晴れわたった『下落合風景』Click!だ。2005年(平成17)に練馬区立美術館で開催された「佐伯祐三―芸術家への道―」展では、『白い壁の家(下落合風景)』という追題がふられた作品だ。同作は個人蔵のため、展覧会に出品されることはきわめてめずらしい。画集では、1968年(昭和43)に講談社から刊行された『佐伯祐三全画集』のみに収録されている。
 『下落合風景(白い壁の家)』は、佐伯が1926年(大正15)の秋に書き残した「制作メモ」Click!の、いずれの作品にも該当しない。同作のキャンバスは45.8×61.2(12号P)で、「制作メモ」の画面サイズがいずれも一致しないのと、東京中央気象台の記録による快晴の日に描かれた「制作メモ」のタイトルと、同作の画面内容ともまったく合致していない。すなわち、同作に描かれた樹々(特にケヤキの変色)や道端の草が茶色く枯れている様子から、同年の晩秋あたりの作品ではないかと想定している。
 さて、同作の画面を眺めた方は、すぐ上部の広いスペースへ描かれた空の部分に違和感をおぼえるのではないだろうか。空の下半分が、なにやら別の色合いでモヤモヤしており、空の右側にもなにかを塗りつぶしたような、幅の広いハケの跡が明らかに見てとれる。しかも、空の下のモヤモヤは、上からブルーの絵の具を重ねてははいるが薄塗りで、どうやらグリーン系の絵の具で描かれたとみられる、なんらかのフォルムが透けて見える。同作の画面を高精細スキャニングして、さまざまな角度から仔細に観察すると、そこには思いがけないかたちが浮かびあがってくる。
 徐々に見えてくるのは、奥(右手)に向かってパースのきいた、細長いがかなり大きな建物だ。右へいくにしたがって細くなる、長い屋根と思われるかたちの下部には、窓の桟がタテヨコにたくさんついた窓枠が、奥に向かって幅をせばめながら連なっているように見える。画面をそのまま素直に観察すれば、その建物の途中には、なにやらタテにまっすぐ四角ばった煙突のような突起物があるようだ。そして、その突起物の向こう側(右手)には、再び桟枠の多い大きめな窓が奥へと連なっているように見える。
 描かれたのが1926年(大正15)だとすれば、これに合致する建築の風景は下落合でたった1ヶ所しか存在しない。しかも、佐伯はもう少しあとの時期に、この建物のある南側の斜面から西側を向き、雪が降ったあとににぎわう目白文化村の“スキー場”Click!、すなわち『雪景色』Click!(1927年ごろ)を描いている。佐伯は、工事が進む建設中だった落合第一小学校(以下 落一小学校)の新校舎、すなわち建設の真っ最中だった同校の西側ウィングの校舎を、いまだ建設されていない講堂(体育館)の側から描いている可能性が高い。
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 落一小学校の新校舎+講堂は、佐伯が二度めのフランスへと旅立ってしまったあと、1927年(昭和2)10月に竣工しているが、同校では関東大震災Click!の直後から急増しつづける生徒への対応と、各地へ散らばった仮校舎での不便な学習環境を少しでも早く解消するために、教室の入る校舎の建設を最優先していた。したがって、学校全体が完成するのは1927年(昭和2)10月だが、それ以前から建設を終えた新校舎へ順次生徒を入れはじめ、授業を行っていたと考えられる。そして、工事の最終フェーズに残されたのが、校庭の南側に位置する講堂だった。
 佐伯が、『白い壁の家』の下層に眠る画面を描いているのが1926年(大正15)と想定できるのは、1927年(昭和2)になると講堂の基礎工事がはじまり、佐伯の描画ポイントには立てないから、すなわちイーゼルを立てて眺められた風景が講堂の建設でふさがれてしまうからだ。この講堂の基礎工事は、おそらく1927年(昭和2)の早い時期にスタートしているとみられ、同年の春(おそらく5月)に描かれた松下春雄Click!『下落合風景』Click!では、1階部分のコンクリート支柱がようやくできあがっているのを見てとることができる。したがって、佐伯が落一小学校の新しい西ウィング校舎を描けたのは、1926年(大正15)の年内だと思われるのだ。
 なお、講堂の南側にかよう前谷戸(不動谷)Click!へと下る斜面を大きく崖状に削り、講堂下にプールが造成されるのは、1936年(昭和11)7月になってからのことだ。目白文化村を中心とした、地元の自治組織「廿日会」が資金を募り、同小学校へ子どもたちが喜ぶプールを寄贈している。
 ところで、『白い壁の家』は先述のように、かなり秋の深まりを感じさせる画面であり、1926年(大正15)9月15日から10月23日までの「制作メモ」の記録からは季節的にも、キャンバスのサイズ的にも外れる作品だ。したがって、それ以前に制作していた作品を塗りつぶし、改めて『白い壁の家』を制作しているとすれば、「制作メモ」に記されたタイトルのキャンバスを再利用している可能性がある。
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 そのような観点から「制作メモ」を見直すと、同年10月12日に『小学生』というタイトルがあることに気づく。第二文化村の益満邸のテニスコートを描いた『テニス』Click!(10月11日)、落一小学校の生徒を描いたとみられる『小学生』(10月12日)、落一小学校のすぐ西側、第一文化村の南に隣接した宇田川邸の敷地一帯を描いた『風のある日』Click!(10月13日)、第二文化村の水道タンクを描いた『タンク』Click!(10月14日)、そして第二文化村の外れにあたる三間道路を描いた『アビラ村の道』Click!(10月15日)と、落一小学校から第二文化村までの道沿いを5日間連続して描いていた時期だ。距離にすれば、落一小学校から第二文化村の外れまで、わずか500mにすぎない。ほぼ同じ道沿いを描きつづけた一連のタイトルの中で、仕上がりが気に入らなかった『小学生』(10月12日)をつぶして、『白い壁の家』を描いてはいないだろうか。
 『小学生』は15号のキャンバスサイズだが、小さめな木枠(12号P相当)に張りなおして用いているのかもしれない。そう考えると、佐伯の画面にしては上部に描かれている空の幅があまりに狭すぎてバランスが悪いのも、なんとなく説明がつきそうな気がするのだ。もし、『白い壁の家』の下に塗りこめられてしまった画面が、10月12日制作の『小学生』だったとすれば、新築の校舎や蒼々と繁った生け垣あるいは樹木の緑を背景に、すでに新校舎で授業を受けていた落一小学校の生徒たちを手前にとらえて描いているのだろう。つまり、『白い壁の家』のコンクリート塀がまぶしい第三文化村の新海邸や、いかにも文化村っぽい風情の加藤邸、あるいはその前の二間道路には、講堂の建設が間近に迫った空き地で遊ぶ小学生が、何人か塗りつぶされている可能性がある。
 さらに、こんな推測も成り立つ。10月12日に制作した『小学生』は、当初、落合第一小学校の教師をしていた隣家の青柳辰代Click!へプレゼントする予定であり約束だった。ところが、その仕上がりがまったく気に入らなかった佐伯は、急きょ前日の12月11日に描いていた『テニス』を贈ったのではないだろうか。その後、同作は佐伯の頒布会でも売られずアトリエに放置され、しばらくたったあと上から『下落合風景(白い壁の家)』が描かれている……、そんな感触が強くするのだ。
 『白い壁の家』は現存しているので、ぜひ実際の画面を細かく観察してみたいものだ。2005年(平成17)の「佐伯祐三―芸術家への道―」展で、わたしは実際に同作を目にしているはずだが、画面の下層にまで当時は意識がまわらなかった。
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佐伯の足跡1936.jpg
佐伯の描画ポイント1947.jpg
 同作の“下絵”にも名前がないと引用に困るので、『あのな~、メンタイClick!がいつか通う尋常小学校な~、隣りん青柳の奥さんから新築工事中や聞いとったさかい、いっぺん見といたろ思て出かけたらな~、おっちゃん絵描きなん? うちの父ちゃんも絵描きやねんで~ゆう面白(おもろ)くてなれこい、けったいな小学生がおったんでな~、つい写生してしもたわ。……て、なんで東京山手の小学生が大阪弁しゃべっとんねん!……そやねん。(仮)』では長すぎるので、いちおう『小学生(仮)』としておきたい。w

◆写真上:1926年(大正15)ごろに制作された、佐伯祐三『下落合風景(白い壁の家)』。
◆写真中上は、同作の空の部分に確認できる下層に描かれていたとみられる建物の形状。は、1932年(昭和7)撮影の新築なった落合第一小学校。
◆写真中下は、空の部分の拡大と確認できるタテ線とヨコ線が交叉した描線。は、1950年代に撮影された落合第一小学校の旧・木造校舎。
◆写真下は、1927年(昭和2)5月ごろに描かれた松下春雄『下落合風景』。落一小を西側(箱根土地不動園)から見た風景で、講堂1階部のコンクリート支柱ができあがりつつある。中上は、松下春雄が1929年(昭和4)5月24日に描画ポイントから撮影した落一小学校の校舎と講堂。(左手) 中下は、1926年(大正15)の10月11日から15日まで佐伯がたどった足跡と『下落合風景』の描画ポイント。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる佐伯祐三の『小学生(仮)』と『雪景色』(1927年ごろ)の描画ポイント。

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