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平塚で記録された関東大震災。 [気になるエトセトラ]

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 以前、1923年(大正12)の9月現在、藤沢町(現・藤沢市)の鵠沼にアトリエをかまえていた岸田劉生Click!が、関東大震災Click!に遭遇した様子をご紹介Click!している。鵠沼の海岸近くは、地面が砂地なので揺れが激しく、岸田家は洋館だったアトリエ部を除き母家全体が倒壊してしまった。また、親たちから江戸安政大地震の伝承を耳にしていたのだろう、劉生は津波の来襲を怖れ、家族を連れて高台へと避難している。
 きょうの記事は、藤沢のもう少し西寄りにある街、湘南海岸の中央にある平塚町(現・平塚市)の関東大震災の様子を見てみたい。ちなみに、神奈川県の大地震被害の検討部会では、東日本大震災の発生を受けて2015年(平成17)に被害予測の全面的な見直しが行われたばかりだ。結果、平塚市はマグニチュード8.5の海溝型地震(相模トラフの震源想定)が発生した場合、最大で9.6mの津波が約6分で海岸域に到達するとした。また、同様の揺れで大磯と二宮では、約3分後に最大で17.1mの津波が到達するとしている。この時間差と津波の高さのちがいは、海底の地形に起因していると思われる。
 馬入川(相模川)と花水川にはさまれた平塚海岸は、海岸線から急に水深が深くなり遊泳禁止に指定されている。だが、大磯や二宮の海岸線は遠浅のため、津波の到達スピードや波の高さが大きく異なるのだろう。つまり、湘南海岸で海水浴場に指定されている海岸は、神奈川県が想定する海溝型の大地震(M8.5)が起きた際、津波の到達時間がきわめて早く、また波高もかなり高いということになる。おそらく、岸田家が住んでいた藤沢町の鵠沼海岸(海水浴場)でも、津波の到達はかなり早かったのではないだろうか。
 関東大震災のとき、平塚では約5kmも内陸にある四之宮の家々まで波が洗ったと伝えられているが、同地域は馬入川(相模川)に近いため、津波で逆流した川の水が堤防からあふれて、住宅を押し流したものだろう。海岸に近いエリア、すなわち平塚駅の南側では、どこまで津波が到達したのかがハッキリしない。なぜなら、大正期は国道1号線が通る駅の北側(旧・平塚宿)が市街の中心であり、いまだ砂丘だらけだった南側にはほとんど人家がなかったからだ。ちなみに、由比ヶ浜近くまで住宅が建っていた鎌倉ケースを例にとれば、坂ノ下にある御霊社ぐらいまで壊滅しているので、少なくとも津波は400~500mほど内陸まで押し寄せているのではないかとみられる。
 では、大震災が起きた瞬間の様子を、1938年(昭和13)に出版された『守山商会二十年史』(非売品)から引用してみよう。この時期、守山商会Click!は平塚町宮の前へ移転してきており、震災の様子は平塚駅のすぐ北側、国道1号線沿いの情景ということになる。
  
 震源地丹沢山とは四里とは距てゝはゐない。勿論朔日休業で寝てゐた(守山)鴻三氏の身体は一米も跳ね飛ばされた。縁側から庭前に三米も突き飛ばされて了つた。地震加藤宜敷の凄い形相で、工場へ匍匐(ころが)りつゝ行くと、女中始め二三士は真に腰が抜けて立つ事が出来ない。煙突は倒れてゐるが幸ひ工場は軽るい屋根であるから倒れる所迄は行つてゐない。付近の家は九割七分迄は将棋倒れになつて阿鼻叫喚の声が暗澹と漲つてゐる。日本に一ツしか無い、海軍の火薬廠の貯蔵庫は、次ぎから次ぎへと天柱も砕けるかと思ふ許りの大音響を立てゝ爆発する。火災は各所から起つた。阿修羅男(守山鴻三)は屋上に駈け上つた。そしてコスモスを根抜(ねこ)ぎにして防火に勉めた。人々には天譴でもこの工場に天祐であつた。風立つと余燼が危険であるから、彼は声を張り揚げて町の人を呼んだ。人々は言ひ合したやうに竹藪の中に逃げて仙台公に縋つてゐる許りで人影を見なかつた。数名の者と町の消防ポンプを持ち出して消火に努めて見たものの、道路は倒壊家屋で進行が出来ない。下の方から押し潰された人の断末魔の声が聴えて来る。(カッコ内引用者註)
  
平塚駅192309.jpg
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平塚小学校(崇善小学校)192309.jpg
 大地震の直後、震源地は相模湾沖ではなく、「丹沢山」というデマが流れていたのがわかる。震源地が内陸部だというデマは、津波に対する危機感を鈍らせて非常に危険だ。
 身体が1mほど飛んだというのは、初期の突き上げるようなタテ揺れで、その直後に縁側から庭先まで3mほど突き飛ばされたのは最初の強烈なヨコ揺れた。本震のヨコ揺れはよほど強烈だったようで、台座に固定されていた露座の鎌倉大仏Click!が、前へ40cmほど弾き飛ばされて傾いているのを見てもわかる。
 このとき、平塚町内では死者476名、全壊家屋4192戸という大きな被害を出していた。また、地面が砂地の地域が多く、液状化現象で地中の砂や水が大量に噴出している。地面の液状化で家や人が呑みこまれたり、幹線道路を含め地割れが随所で起きていた。社史には、倒壊家屋で消防ポンプが進めないと書いてあるが、町内あちこちの道路で地割れが発生し、車両の通行ができなくなった。国道1号線では、馬入川(相模川)に架かる馬入大橋が壊滅し、また東海道線の馬入川鉄橋Click!も崩落している。いまでも、東海道線で馬入川(相模川)をわたると、関東大震災で崩落した旧・馬入川鉄橋のコンクリート橋脚跡を見ることができる。
 地震のあと、大規模な火災が発生しているのは東京や横浜と同様だが、平塚には海軍の火薬廠があったため、火薬庫の大規模な爆発事故も起きている。たまたま9月1日が土曜日だったため、工場に残っていた工員たちも少なかったのだろう。もし大地震が平日に起きていたら、火薬庫の爆発によりもっと深刻な人的被害が生じていたかもしれない。
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花水川192309.jpg
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 その内に例の通り国府津に集金に行つた(守山)謙氏が、汽車は転覆又は火災の為の不通なので、自転車を買つて何回も川や田の中に跳ね飛ばされつゝ飛んで帰つて来た。勿論家族は全滅であらうと覚悟して来たので、一同手を執つて喜び合つた。(中略) 横浜も川崎も、帝都も、紅蓮が炎々天を焦がしてゐる。午前九時頃生家に辿り着いた彼は、そこに全滅した生家と健全であつた両親と弟達とを見出してホツとした。(中略) 雪隠許り造つてゐても仕方が無いので、平塚の工場へ舞ひ戻つて来た。すると汽車は馬入-国府津間、馬入-程ヶ谷間を気息奄々と運転してゐて、東から逃げて来た罹災者の群、西から上つて来る救援者の群が、絡繹蜒々(らくえきえんえん)として物凄い勢である。その人達は食べるに何物も無い。畑には甘藷も大根も最早や一片の残物も無い。買ふ金はあつても濁らぬ飲料水は一滴もない。(カッコ内引用者註)
  
 汽車の転覆とは、隣り町の大磯で地震と同時に起きた東海道線の脱線転覆事故Click!のことだ。自転車で走行中、川や田圃へ跳ね飛ばされるのは大きな余震のせいだろう。東海道線が馬入川(相模川)始点なのは、先述のように馬入川鉄橋が崩落したからであり、程ヶ谷(保土ヶ谷)から先の東へ進めないのは、横浜の市街地が大火災で壊滅Click!していたからだ。この大火災で、横浜の市街地は実に90%以上が焼失している。また、国府津から西へ進めないのは、小田原の手前で酒匂川鉄橋が崩落していたからだ。
 震災から数日後、川崎や横浜方面からの罹災者が、国道1号線を歩いて西へ避難していく様子が記録されている。そこで、「よし来たあの返品されたコーヒー牛乳を売り出せと兄弟は、一挙に何十箱も売つて了つた」……という、以前にご紹介した同社社史Click!の現代ではありえそうもない事業発展の文脈へとつながってくる。
平塚海岸.JPG
二宮付近被害192309.jpg
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 平塚駅は地震で倒壊し、駅員や待合室にいた乗客が下敷きとなり、死者6名重軽傷者数十名を出している。また、もっとも被害が深刻だったのは相模紡績平塚工場の倒壊で、144名もの工員が犠牲になった。死者の中には、多くの女工たちが含まれていたという。

◆写真上:平塚駅から西を眺めた風景で、正面は高麗山から湘南平にかけての大磯丘陵。
◆写真中上は、関東大震災で崩壊した平塚駅ホームの屋根。は、倒壊家屋が目立つ平塚の明石町付近。は、校舎が全壊した平塚小学校(現・崇善小学校)。
◆写真中下は、崩落した花水川(金目川)の堤防。は、地割れで通行できなくなった花水川沿いの道路。は、崩落した国道1号線の馬入大橋。
◆写真下は、平塚海岸から見た三浦半島方面の眺め。突堤の上には江ノ島、先端には烏帽子岩が見えている。は、国府津駅近くの東海道線の惨状。は、鎌倉の津波被災地。由比ヶ浜から押し寄せた津波で、御霊社や江ノ電が走る坂ノ下の住宅地は壊滅した。

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