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淀橋浄水場の沈澄池で自殺をするな。 [気になる下落合]

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 1955年(昭和30)12月31日の正月をひかえた大晦日、下落合2丁目276番地(ママ)で水道管が破裂する事故が起きている。1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された、『淀橋浄水場史』(非売品)にも収録されるほどの大事故だった。ただし、当時の276番地は2丁目ではなく1丁目なので誤植ではないかとみられるが(2丁目になるのは1971年より)、氷川明神社Click!のすぐ北側に位置する地番だ。
 この大事故は、淀橋浄水場系の水道網から砧上浄水場系の水道網へと補水する、埋設された1,000mm(=1m)管が破裂したもので、大口径の水道管破裂からあたり一帯が水浸しになったのではないだろうか。特に斜面下にあたる氷川社は、境内まで浸水しているのかもしれない。当時の1,000mm管は、1895年(明治28)に鋳造された鉄管をそのまま埋設している地域も多く、翌1956年(昭和31)2月にも、淀橋浄水場から芝給水場に送水する幹線の1,000mm管が破裂事故を起こしている。
 淀橋浄水場Click!がその役目を終えて閉鎖された翌年、1966年(昭和41)に出版された『淀橋浄水場史』には、さまざまな事業経営や設備技術の概説とともに、1898年(明治31)から閉鎖される1965年(昭和40)までに起きた多彩なエピソードが紹介されている。元・浄水場の水道局員たちが綴る文章は、たいがい事業の苦労話や技術系の専門話が多いのだが、中には逸話ばかりを集めたエッセイ風の寄稿も見られる。
 淀橋浄水場の開業からしばらくすると、濾池と沈澄池が鳥たちの楽園になっていた様子が記録されている。新宿地域に飛来する渡り鳥は、新宿御苑Click!と淀橋浄水場が羽を休める格好の水場になっていたらしい。特にカモやコチドリの群れが多く、ときには孵化したヒナたちも見られた。だが、戦時中は食糧難から浄水場のカモに目をつけた猟師が犬を連れて入りこみ、次々と鉄砲で撃ち殺して以来、カモの群れは二度と飛来しなくなったという。また、代田橋の玉川上水から淀橋浄水場までの給水路(約4km)が開渠だった時代は、濾池までアユの大群が入りこみ、それを取り除くために漁をしなければならなかった。獲れたアユは、職員たちが塩焼きにして食べている。
 賭博容疑で、警察の手入れが行われたこともあった。濾池の周辺には、深さ1.5mほどの砂桝・格納桝と呼ばれる凹状の設備があり、夏は直射日光が避けられ冬は寒風が避けられる、場内作業員にとっては休憩場のような場所だった。淀橋浄水場では、作業員のすべてが水道局員ではなく、繁忙期には作業員を200人ほど雇って業務を委託していた。その作業員のうちの数十人が、砂桝・格納桝で花札賭博をしていたらしい。かなり以前から内偵していたらしく、ある日突然、濾池の周辺に警官隊が現われ、その場にいた全員を賭博の現行犯で逮捕したという。東京市の公共機関における摘発だったせいか、監督不行届きということで後始末がたいへんだったようだ。
 また、沈澄池や給水路では、たび重なる入水自殺事件に悩まされている。同書に収録された、粕谷武『模型室のことなど』から引用してみよう。
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 玉川上水路も自殺の場所によく選ばれるが水道局としては大変な迷惑である。それも、わざわざ淀橋まで来て沈澄池や水路に入水する者がかなり多い。敷地が広く監視の目がゆきとどかないから致し方ないが、困ったことである。/沈澄池は深さ4メートル、周囲は垂直なコンクリートの壁で、誤って落ちてもひとりでははいあがれない。よほど水泳が達者でもないと一巻の終りになってしまう。/戦時中、ある青年が入水自殺したことがある。池のふちに履物がならべて置いてあるのを職員が発見し、ただちに入水自殺と判断したので「イカリ」による捜査が開始された。まもなく身体におもりをつけて死んでいるのが発見された。/後で調べたところ、この青年は、父親が昔淀橋浄水場に勤務したことがあり、小学生の頃は、淀橋の公舎で育ったということであった。最近は精神異常になっていたとのことであるが、幼い日の思い出を追って中野あたりから、わざわざ死場所を求めてやって来た淀橋への愛着心には、立合った人々も思わず涙をさそわれた。
  
 当然、そのような事件が起きるたびに、多くの東京市民が利用する飲料水の浄水場で、入水自殺するのは「ケシカラン」という主旨の新聞記事や水道局からの広報が出たが、ほとんど効果はなかったようだ。むしろ、淀橋浄水場の池や水路までいけば入水で死ねると宣伝しているようなもので、自殺志願者はあとを絶たなかった。
 戦時中は、淀橋浄水場に限らずどこの浄水場でも人手不足で維持管理がたいへんだった。淀橋浄水場では、繁忙期には200名の作業員が必要なことは既述したが、男性が兵役や勤労動員でいなくなった戦時には、濾池の能力が日に日に落ちて安全な水道水を給水することができなくなり、やむを得ず陸軍に依頼して兵士を派遣してもらっている。だが、濾池の砂層を形成する担上作業に駆り出された兵士たちは、慣れない作業に疲れ果ててしまい、場長や机上の事務員まで総動員して作業を継続したという。
 戦時中に、淀橋浄水場が地図から“消えた”話は有名だ。戸山ヶ原Click!に林立していた陸軍施設Click!ともども、敵の空爆目標になるのを避けるため、淀橋浄水場は地形図や市街地図から“消滅”している。だが、米軍は空襲の数日前にF13偵察機Click!を爆撃目標の上空に飛ばし、高度1万メートルから最新の情報を入手していたので、いくら地図から消してもなんら効果はなかった。
 たとえば、1940年(昭和15)に作成された1/10,000地形図では、淀橋浄水場はまるで新宿御苑のような、巨大な都市型公園に描きかえられている。また、1941年(昭和16)作成の淀橋区詳細図でも、大きな池が5つほどある崖地と針葉樹林に囲まれた公園として描かれている。双方の地図では、池のかたちや位置がずいぶん異なるので、すぐに「おかしい」と気づかれてしまうレベルの稚拙な改竄だった。
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淀橋浄水場汚砂洗浄作業.jpg
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淀橋浄水場濾池平面図.jpg
 戦争も末期に近づくと、浄水場内のベンチュリーメーターを使って「空襲予知グラフ」というのが作成されている。ベンチュリーメーターとは、水道管の配水量や送水圧力を測定する仕組みで、その水量や圧力が急激に下がれば事故や故障を発見することができる。つまり、爆撃によって水道管が破壊された時期や時間を克明に記録することで、その規則性や周期を割り出し、次の空襲の時期や時間を予測するというわけだ。だが、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で、同浄水場事務所は「空襲予知グラフ」ともどもすべて灰になってしまった。
 淀橋浄水場は、水辺のある広い原っぱに近かったせいかバッタが大量に発生している。戦時中は食糧不足のため、大量に発生したバッタを捕獲して職員たちは飢えをしのいでいた。同書の『模型室のことなど』から、再び引用してみよう。
  
 平和なときには、広い場内にはバッタ類、ヘビ類、鳥類などさまざまなものが共存していたものだが、食糧不足はこれら虫まで手を延ばす結果となってしまった。/当時は、一杯の酒を呑むにも、券を持って行列しなければならず、勿論、酒のさかながあるはずはない。窮すれば通ずで誰かが考え出したのであろう。バッタを獲えて串焼きにし酒のさかなに持参するのが流行した。/このため、休憩時間には場内はバッタとりで大さわぎとなった。たちまち場内のバッタはとりつくされてしまった。/その後、場内からは虫類も殆ど姿を消してしまったほどで、バッタどもも怖ろしい人間に目を付けられたとうらんでいたことだろう。
  
 酒を手に入れる「券」とは、食糧を統制する政府が発行した「配給切符」のことで、すべての食糧は個人が自由に消費できないよう国家が厳しく管理していた。各家庭に配給される「券」がなければ、高価な闇市場で入手するしか方法がなく、その発行もままならない戦争末期になると、国民はいつも飢餓に苦しめられるようになった。
 東京から敗戦の傷跡が目立たなくなりはじめた、1965年(昭和40)3月に淀橋浄水場が廃止になると、東京都の首都圏整備委員会は浄水場の跡地を再開発する、「新宿副都心建設に関する基本方針」をまとめた。そして、浄水場移転跡地処分審議会を設置し、同年7~8月に跡地売却の告知を新聞各紙に掲載している。翌1966年(昭和41)2月に、初めての跡地売却入札が行われたが、まったく人気がなく入札に参加したのはたった2社のみで、しかも両社とも落札できずに不調で終わっている。
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 淀橋浄水場の埋立区画1・4・5号地に、丸の内にあった東京都庁が新庁舎を建設して移転し、淀橋地域(現・新宿地域)が「副都心」から「新都心」と呼ばれるようになるのは、それから25年もたった1991年(平成3)になってからのことだ。

◆写真上:1965年(昭和40)ごろ撮影された、淀橋浄水場沈澄池に飛来するカモの群れ。戦時中の猟師による殺戮を忘れたのか、戦後は再び飛来するようになった。
◆写真中上は、1965年(昭和40)ごろ撮影された淀橋浄水場全景。は、戦後に撮影された同浄水場の正門。は、濾池で行われる汚砂搬出作業。(戦後)
◆写真中下は、すべて“人海戦術”で行われていた濾池の汚砂削り取り作業と汚砂洗浄作業。(戦後) は、沈澄池(上)と濾池(下)の平面図。
◆写真下は、1932年(昭和7/上)と1940年(昭和15/下)の1/10,000地形図にみる淀橋浄水場の表現改竄。は、1935年(昭和10/上)と1941年(昭和16/下)の「淀橋区詳細図」にみる表現改竄。は、1945年(昭和20)5月25日夜半に照明弾で明々と照らされB29の大編隊による空襲を受ける淀橋浄水場。

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