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安倍能成が証言する第二文化村空襲。 [気になる下落合]

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 以前、目白文化村Click!は第二文化村の振り子坂Click!沿い、下落合3丁目1724番地(現・中井2丁目)に住んでいた星野剛男の戦時日記Click!をご紹介したことがある。1945年(昭和20)4月13日夜半の、第1次山手空襲Click!前後の状況を記録した貴重な資料だ。今回は、同じ第二文化村の下落合4丁目1665番地(現・中落合4丁目)に住んでいた、安倍能成Click!の証言をご紹介したい。
 安倍能成Click!は、罹災した直後に東京朝日新聞のインタビューに答えて空襲の様子を語り、1ヶ月後には「週刊朝日」にその後の所感をエッセイに発表している。それらの文章には、政府をストレートに批判した表現や、敗戦後の日本を展望するようなニュアンスの文章が見られるのだが、安倍能成は幸運にも特高Click!憲兵隊Click!に逮捕されることはなかった。もう少し時期が早ければ、確実に検閲にひっかかり当局からマークされていただろうが、東京大空襲Click!を経験しサクラが散ったばかりの1945年(昭和20)春ごろには、特高も憲兵隊も取り締まりの機能が衰えるかマヒしはじめ、政府自体もまったく余力を失っていたのだろう。それでも、安倍能成の周囲には筆禍による弾圧を懸念した友人たちから、心配する声がとどけられている。
 1945年(昭和20)4月13日の夜半、安倍能成は家族とともに空襲がはじまった東側の高田馬場駅方面や、南の新宿から東中野駅方面を眺めていた。当初、川沿いの工業地域や鉄道駅がねらわれていると判断したのだろう、自身の家が爆撃されるとは思ってもみなかったようだ。ところが、空襲から1時間ほどすると、おそらく妙正寺川沿いを爆撃したB29の大編隊は、第二文化村上空で焼夷弾をバラまきはじめた。当夜の様子を、空襲直後に東京新聞へ掲載された安倍能成『戦災にあひて』から、少し長いが引用してみよう。
  
 四月十三日夜の爆撃で私の家は全焼した。時刻は十二時頃だつたかと思ふ。これより前南の空と東の空とはぱつと紅くなつて盛んに燃え立つて居たが、時を移さず自分の家に弾が落ちて来るとは思ひまうけなかつた。油脂焼夷弾であらう。ぼろつぎのやうなものが庭一面に燃えて、一時にけしの花の盛りを見るやうであつたが、家の中が燃え出したので、家族三人は家に上つて消防に努めた。(中略) 燃えるカーテンを引きちぎつたり、ドアに着く火に水をかけたりして防火に努めたが、その内二階の天井に穴が開いて猛火が燃え下つて来たので、これはだめだと思つて避難を始めてぐるりと見ると、近隣の四五軒、向ふの一軒も盛んに火を吹いて燃えて居る。/一軒おいて隣のO氏の前を通ると、家の方はあきらめて頻りに防空壕に土をかけて居た。それを少し手伝つたが、その時既に疲れを覚えて居た。近くの神社の下の防空壕に避難する前、今一度我が家の側にいつて見たところ、もう屋根は落ちて柱が盛んに燃えて居た。/防空壕の入口には人が一ぱいでとてもはひれぬかと思つたが、おしわけてはひつて見ると、実に長い壕で奥の方には殆ど人が稀な位であつた。空襲警報解除をきいて三時頃家の側にいつて見ると、朝鮮から帰つて建てた書庫の壁だけが残つて、書物はなほ盛んに燃えて居た。
  
 読まれた方もお気づきのように、安倍能成は「カーテン」や「ドア」などの英語(敵性語Click!)をふつうに用いて文章を書いている。
 数年前であれば、とたんに検閲でひっかかり筆者は特高からマークされるか、近くの憲兵隊詰所に呼びだされて恫喝されるような状況だったはずだ。だが、安倍能成は同時期のエッセイでもそうだが、英語を平然と織りまぜながら文章を新聞や雑誌に発表している。このあたりも、周囲の友人たちが心配したゆえんだろうが、おそらく敗戦が近いことを重々承知していた彼は、当局の反応や取り締まりのゆるみ具合を、発表する文章から推し量っていたのではないだろうか?
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 上記の文章の中で、「一軒おいて隣のO氏」とは安倍邸から西へ2軒め、しばらく空き地がつづいていた敷地へ、日米開戦の前後に家を建てたばかりの大内邸のことだろう。もともと、第二文化村の販売時には山川家の敷地だった区画は、かなり長期にわたって空き地の状態がつづき、日米戦がはじまるころに大内家が大きめな西洋館を新築して転居してきているとみられる。
 「近くの神社の下の防空壕」とは、下落合の御霊社Click!(現在は中井御霊社Click!と呼ばれる)が建つ丘上の急斜面に掘られた大規模な防空壕のことだ。文章から、おそらく数百人は収容できそうな地域の大型防空壕Click!だったようだが、第一文化村の文化村秋艸堂Click!にいた会津八一Click!も、空襲時にはここへ避難してきている。また、「朝鮮から帰つて」とあるのは、5年ほど前まで京城帝国大学に赴任して教授をつとめていたからで、この文章を書いている1945年(昭和20)の時点では、駒場の第一高等学校(現・東京大学教養学部)の校長をつとめていた。
 この空襲で、安倍邸は全焼してしまうが、火が入らないようコンクリートで囲った書庫の壁のみが焼け残った。書庫に保管されていた膨大な書物も、また2階東角の書斎にあった多くの書籍や資料類も、すべてが灰となってしまった。燃え残った書庫の四角い壁は、1947年(昭和22)の空中写真でもハッキリと確認することができる。
 安倍能成は、明確に敗戦を前提とし意識している文章を、今度は「週刊朝日」同年5月12日号に発表している。『罹災のあとさき』から、最後の部分を引用してみよう。
  
 私の焼け去つたものに対する愛惜はスツパリと断ち切られてはゐない。しかし私はこの現実に即してどうか力強く生きたい念願を持つてゐる。日本人は今始めてほんたうの戦争をし、ほんたうの困難にあつてゐる。この戦争は日本人をたゝき直す戦争である。私自身も若しかくしてたゝき直されれば有難いと思つてゐる。
  
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 「日本人をたたき直す」とは、どこで道を踏みまちがえたのかを明確に認識し、大日本帝国に蔓延していた文字どおりの「亡国」思想を「たたき直す」、絶好の機会となる戦争だと位置づけている。また、それを防げなかった自身のふがいなさも、「たたき直」したいと宣言している。安倍能成の、戦前からの言動や主張の文脈を知悉していた人々にしてみれば、明らかに敗戦後の「たたき直」し=再出発を見すえた文章であることは明白だったろう。だからこそ友人たちは、当局の弾圧を危惧する声を寄せたのだ。
 そして1945年(昭和20)8月21日、敗戦からわずか6日後の毎日新聞に、『強く踏み切れ』と題して次のような檄文を書いている。
  
 日本は負けた、世界を相手にして負けた。今の日本人にとつて何より重要なことは、この負けたといふ事実、敗戦国である実相を、わるびれず、男らしく、武士らしく、認識することである。この正直な真実の認識からこそ、新しい日本の総ての新しい出発は始まるのである。このことを好い加減にごまかしては、日本人の今後の生活は全く好い加減なものになり、本当の正しい起ち上りも打開も出来るはずはない。
  
 安倍能成が危惧したように、大本営が撤退を「転進」とごまかしたのと同様、敗戦を「終戦」と曖昧化する「男らしく」ない現象がすぐにも表面化している。被占領国の被害をできるだけ小さく見積もり、中には「なかったこと」にしたがる、矜持もなく「武士らしく」もない卑怯な言動が、ほどなく出現している。21世紀になり、「世界を相手にして負けた」戦争などまるでなかったかのように、破産・破滅した大日本帝国の「亡国」思想のまま、70年以上も思考を停止した人々が跳梁跋扈しはじめ、「非国民」などという愚劣で没主体的な言葉を平然とつかう人間まで出現するにいたった。
 安倍能成は哲学者として、また国家を滅ぼした政府の官学の一隅に身を置いていた教育者として、「この戦争が如何にして起つたか、この戦争に何故に敗れたかとの原因を諦観して、これを適正に真実に国民に、殊に今後の日本を背負ふべき青年に知らせることが、生きた具体的教育の重要基調でなければならぬ」(『強く踏み切れ』)と書いている。
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 わたしの高校時代は、プリント資料まで用意して近現代史の授業が熱心に行われていたが、今日では近現代史を教えるのは「時間切れ」で「試験に出ない」からパスされることが多いそうだ。翌1946年(昭和21)に文部大臣に就任する安倍能成が聞いたら、よじのぼった箪笥の上Click!で「山上の訓」どころではなく、真っ逆さまに転げ落ちるだろう。

◆写真上:1944年(昭和19)に制作された、安井曾太郎Click!『安倍能成像』(部分)。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる第二文化村の安倍能成邸。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる安倍邸。安倍邸の2軒西隣りの敷地が、のちに大内邸が建設される空き地。
◆写真中下は、1941年(昭和16)に陸軍が斜めフカンから撮影した第二文化村と安倍邸。は、第1次山手空襲で焼失するわずか11日前の1945年(昭和20)4月2日に、F13偵察機Click!から撮影された安倍能成邸の最後の姿。
◆写真下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる安倍邸の焼け跡。敷地の北側には、焼け残った書庫のコンクリート壁が見てとれる。は、安倍能成の死去をトップで伝える1966年(昭和41)7月3日発行の落合新聞。このときは、すでに下落合4丁目1665番地の邸を息子に譲り、安倍能成は下落合3丁目1367番地(現・中落合4丁目1番地)の新居Click!へ引っ越していた。安倍邸へ弔問に訪れた皇太子夫妻(当時)の背後に見えているのは、工事がスタートしている十三間通りClick!(新目白通り)。

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