SSブログ

長崎仲町の旧家を描く片多徳郎。 [気になるエトセトラ]

片多徳郎「風景」1934.jpg
 いのは画廊Click!を通じてpinkichさんよりいただいた、片多徳郎Click!の“絶作”といわれる『郊外の春』(1934年)の描画ポイントを探すのに手こずってしまった。同作は戦災で失われたのか、現在は行方不明のままモノクロ画像しか残されていないのも、手こずった要因のひとつだ。描画場所が落合地域なら、画面の地形や道路のかたち、家々の様子などを見れば、すぐに「あそこだ!」と見当がつくが、落合地域から離れると土地勘が薄れるせいか、年代を追って地形図と空中写真、事情明細図などとにらめっこすることになる。特に長崎地域の南部はともかく、北部の土地勘はほとんどないに等しい。
 おそらく前年の秋にスケッチされ、翌1934年(昭和9)の自死する直前に仕上げられたとみられる片多徳郎『郊外の春』は、長崎地域を描いたものだという子息の証言があるようだ。確かに、1934年(昭和9)当時の落合地域(新たな葛ヶ谷→西落合を含む)で、このような風景にピンとくる場所はもはや存在していない。1935年(昭和10)前後の落合地域は急速に住宅街化が進み、地元の大農家は大地主に変貌していて、画面のような大農家然とした風情は数えるほどしか残っていない。1936年(昭和11)に撮影された空中写真で確認しても、落合地域の旧家はいずれも濃い屋敷森に囲まれた大邸宅に住んでおり、画面のような風情はすでに失われている。
 そこで、片多徳郎Click!が晩年に住んでいた長崎東町1丁目1377番地(旧・長崎町1377番地)から、画道具を抱えて歩いていけそうなエリアをすべて考慮し、長崎町(現在の千早町、千川、要町、高松などすべて含む)ばかりでなく、板橋区の板橋町3・4丁目、野方Click!と同様に荒玉水道Click!水道塔Click!が目立った大谷口町、向原町まで含めて考えてみることにした。参照したのは、各時代の1/10,000地形図をはじめ1926年(大正15)の「長崎町事情明細図」、空襲をあまり受けていない地域なので1936年(昭和11)から1948年(昭和23)までの各年代を追った空中写真などだ。なお、旧・西巣鴨町だった池袋1~7丁目はすでに市街地化が進んでいて、概観しただけでも1932年(昭和7)の時点でさえ、もはや画面のような風景の場所は見られないので除外している。
 片多徳郎の『郊外の春』について、山下鐡之輔は『酒中から得た寶玉』という文章で次のように書いている。1988年(昭和63)に大分県立芸術会館から刊行された、「片多徳郎展 大正洋画壇を駆け抜けた異才』図録収録の同文から引用してみよう。
  
 それは彼が逝って満中陰の佛事の晩であつたと思ふ。佛前の右側に六号の秋の郊外の風景が画架に架けて飾つてあつた。最初は漫然と見ただけであまり気に止めなかつたが、後でつくづくと眺めてゐるうちに、これは実に大したものだといふ感じがして来たのであつた。/これは全く従来の片多君のものとは大変趣の異つたものである それは実に修業を積んだ坊さんに逢つた様な感じ、而も仲々頭を使つたもので小さいが力の充実したものである。正直なところ僕は始(ママ)めて片多君の純粋な魂にふれた様な気がした。令息達の話に依ればこれは本人も大得意で携へて帰つて「これを以て如何んとなす……」と言つて皆なに見せてとてもいゝ気持になつて酒を呑み始めたといふ事である。こんな境地に迄鍛えられてゐた彼に今更乍ら残念に想ふ次第である。
  
千早4丁目(戦後すぐ).jpg
野口義恵「東長崎の駅から」1935頃.jpg
田嶋鉄五郎邸1926.jpg
 さて、片多徳郎の『郊外の春』から読みとれる描画ポイントの条件は、以下の6つだ。
 ①地元の旧家らしい大農家のかまえで、屋敷には高めの塀がめぐらしてある。
 ②屋敷内にはケヤキとみられる大樹が生え、手前は畑地か空き地になっている。
 ③地形がやや左下りで、建物は丘上とみられる場所に建っている。
 ④光線の射し方から、画家の背後または左手が南の可能性が高い。
 ⑤旧家の南(ないしは西)に接した宅地には、モダンな住宅が建設されはじめている。
 ⑥旧家の塀に沿って、小路ないしは道路のある可能性が高い。
 この6条件に合う大農家(旧家)が、長崎地域とその周辺域にあるかどうか、丸1日かけてシラミつぶしに探してみた。すると、たった1軒だけ上記の6条件を満たす、地元の旧家を見つけることができた。この大きな住宅は、長崎地域のおもに北部に展開する、おそらく江戸期からつづく旧家・田嶋家一族の邸宅のひとつだ。片多徳郎は、東側の畑地ないしは空き地にイーゼルを立て、午前中ないしは昼近い陽の当たる田嶋鉄五郎邸(鉄二郎?/以下鉄五郎で記述)をモチーフに、西南西の方角を向いて描いている。
 田嶋鉄五郎邸は、長崎仲町2丁目3605番地(旧・長崎町3605番地)にあり、同町2丁目にあった立教大学運動場(現・都立千早高校)の南約230mほどのところに位置している。片多徳郎のアトリエ(長崎東町1丁目1377番地)から直線距離で800mと少し、道を歩いても1.2kmほどで、寄り道をせずにゆっくりめに歩いても20分ほどでたどり着ける距離だ。また、椎名町駅から武蔵野鉄道に乗って隣りの東長崎駅で降りれば、駅から直線距離で440m、道を歩いても600mほどで徒歩6~7分だったろう。現在の住所でいえば、豊島区千早3丁目13番地ということになる。
 田嶋鉄五郎邸は、1/10,000地形図の記号によれば敷地が塀で四方を囲まれており、1936年(昭和11)の空中写真で確認すると敷地の南東すみには、大きなケヤキとみられる樹木が繁っているのが見える。同邸は、標高36.25mの等高線が丸く描かれた、豊島台一帯のピークのひとつと思われる丘上西側の一画に敷地がかかり、地形は千川上水が流れる南西側(画面の左手)に向かってゆるやかに下がっている。田嶋邸の南側は、すでに耕地整理が終わり、大正末の時点からすでに住宅が建設されはじめている。また、同邸の塀に沿って、東南北側には畦道の名残りのような小路が刻まれ、西隣りの桑原邸+田嶋邸(長崎仲町2丁目3628番地)の敷地との間には道路が通っている。
田嶋鉄五郎邸1932.jpg
田嶋鉄五郎邸1936.jpg
田嶋鉄五郎邸1947.jpg
 片多徳郎はアトリエをあとにすると、のちに長崎アトリエ村のひとつ「桜ヶ丘パルテノン」Click!が建設される東西道を西に向かって歩みを進め、長崎町の旧字名で西原と呼ばれたあたりから右へ折れてまっすぐ北上していった。当時は、周辺の田畑の耕地整理が終わったばかりで、あたりには元・田畑だった空き地が一面に拡がる抜けのいい風景だったろう。北へ向かって歩けば、田嶋鉄五郎邸の大ケヤキは遠くからでも望見できたかもしれない。それを目印に歩いていくと、やがてモダンな住宅(平沢要邸)が建っている北側に、古めかしい土塀の旧家が姿を現した。片多徳郎は、念のために表札を確認すると「ここも田嶋さんちか」……とつぶやいたかもしれない。
 画家は、田島鉄五郎邸の東側に拡がる畑地ないしは空き地に入りこみ、ケヤキの大樹が画面中央やや左に位置し、南側に建設されたばかりで陽が当たり、白く輝くモダンな平沢邸の切妻が入るよう、西南西を向いてキャンバスに向かっているとみられる。田嶋邸内の大きな建物である2棟の黒々とした瓦屋根が描かれ、邸の向こう側には弁護士だった桑原信雄邸のシャレた住宅や、おそらく田嶋鉄五郎の近しい血縁なのだろう、同じくもうひとつの田嶋邸の屋根が見えている。ひょっとすると、道路をはさみ田嶋家の広い敷地に建つ弁護士の桑原邸は、同家の娘婿なのかもしれない。
 片多徳郎が、椎名町駅から電車に乗り東長崎駅Click!で降りて歩けば、道順はもっと単純になる。北口駅前の道を、まっすぐ北へと歩いて少し東側(右手)へ折れれば、周囲が「田嶋」の表札を掲げた大屋敷だらけの一帯に出る。耕地整理を終えた空き地が拡がる風景の中で、ことのほか画家の目を強く惹いたのは、田嶋鉄五郎邸の大ケヤキだったのではないだろうか。この大ケヤキは、戦時中の物資不足による供出でも伐られることなく残り、戦後の空中写真でもハッキリと確認することができる。実は田嶋邸敷地の北側にも、濃密なケヤキとみられる屋敷林が繁っているのだが、画家は南東側にポツンと1本だけ離れてそびえる大ケヤキに、強い画因をおぼえたのだろう。
 驚いたことに、田嶋鉄五郎邸の敷地には、現在でも旧家とみられる大きな邸が濃い屋敷林に囲まれて建っている。敷地の南東すみにあった大ケヤキは、1963年(昭和38)以前に伐られてすでに存在しないが、屋敷林の中は片多徳郎が描いた当時の風情をとどめているのだろう。また、西隣りだった桑原邸+田嶋邸の敷地は、屋敷林の一部がそのまま保存され、豊島区の「小鳥がさえずる公園」になっている。
田嶋鉄五郎邸1950頃.jpg
田嶋鉄太郎邸1963.jpg
田嶋鉄太郎邸1975.jpg
最後に余談だが、長崎町(村)の中部から北部にかけての大農家であり、長崎地域でもトップクラスの大地主だったはずの田嶋家一族が、『長崎町誌』Click!にはただのひとりも登場していない。それ自体が非常に不可解かつ異様な状況だが、同町誌は地勢や事蹟、史蹟の紹介ばかりでなく、人物紹介も非常に恣意的で偏向していたのではないだろうか。

◆写真上:自死する数ヶ月前、1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『郊外の春』。
◆写真中上は、戦後すぐのころに撮影された田嶋鉄五郎邸のある長崎仲町2丁目の北側に位置する千川町2丁目(現・千早4丁目)の風景。モチーフを探して付近を散策した片多徳郎も、これと同じような光景を見ながら歩いただろう。は、1935年(昭和10)ごろに長崎アトリエ村の洋画家・野口義恵がスケッチした『東長崎の駅から』。は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる田嶋鉄五郎邸。
◆写真中下は、1932年(昭和7)作成の1/10,000地形図にみる田嶋鉄五郎邸。は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真にみる同邸。
◆写真下は、1950年(昭和25)ごろ撮影された、のちに千早児童館が建設される空き地。(洗濯物が干された敷地一帯) 偶然に撮影されたものだが、同敷地は田嶋鉄五郎邸の北側敷地の一部にあたる。なお、戦前の風景写真はいずれも『失われた耕地-豊島の農業-』(豊島区立郷土資料館/1987年)より。は、1963年(昭和38)と1975年(昭和50)の空中写真にみる同邸。大ケヤキは伐採され、庭が畑になっているのがわかる。

読んだ!(18)  コメント(43) 
共通テーマ:地域