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淀橋浄水場が機能停止した関東大震災。 [気になるエトセトラ]

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 これまで、東京各地における関東大震災Click!の被害やエピソードをピックアップし、ときどき記事に書いてきたが、中でも落合地域とその周辺域の記事がもっとも多い。下落合のある目白崖線沿いは、武蔵野台地の豊島台と名づけられた丘陵地帯の南域の一部にあたるが、神田川をはさんでさらに南側は、淀橋台(下末吉段丘)という別名で呼ばれている。過去の記事を参照すると、落合地域を中心に豊島台の大震災記録か、あるいは東京市街地(東京15区Click!エリア)の記事が圧倒的に多く、すぐ南側に拡がる淀橋台の記事が意外に少ないのに気づく。
 淀橋台といってもピンとこない方も多いと思うが、町名でいえば戸塚(高田馬場)、早稲田、戸山、大久保(百人町含む)、新宿、千駄ヶ谷、四谷、市ヶ谷、神楽坂、飯田橋など坂道が多い丘陵地の市街のことだ。以前、下落合で出土する化石にからめて、目白崖線沿いと淀橋台における関東ロームの堆積Click!を比較した記事を書いたことがあるが、淀橋台よりも標高が4~5mほど低い目白崖線では、関東ロームの堆積も淀橋台の10m前後に比べ5~8mと相対的に薄く、ロームの下層にある武蔵野礫層Click!から地下水が湧きやすい地形であることがわかる。
 1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災の震動が、淀橋台ではどのようなものであったのかが気になったので調べてみた。きょうは、世界でもっとも利用客が多い(347万人/日)といわれる新宿駅に隣接して建っていた、淀橋浄水場Click!(つまり今日の東京都庁を中心とする新宿駅西口の高層ビル街エリア)が、関東大震災でどのような揺れにみまわれ被害を受けているのかを具体的に検証してみたい。その被害の様子から、豊島台や東京市街地とは異なる淀橋台における震動の特徴が浮かびあがるかもしれない。
 実は、1923年(大正12)に先だつ1921年(大正10)12月8日、淀橋浄水場はすでに地震による被害で大きな事故を起こしていた。この夜間に起きた強震が、関東大震災の予兆となる海洋プレート型の地震か、あるいは東京直下型の活断層による地震なのかは不明だが、早朝5時に和田堀からの取水路(新水路)の一部が決壊して、東京市全域への給水が3日間にわたってストップした。東京の全市断水は1898年(明治31)に浄水場が操業を開始して以来、初めての大事故だった。当時の東京市長だった後藤新平は、3日間の「断水がなお継続したならば往年の米騒動以上の事態をひき起したかもしれない」と、水道復旧後に語っている。しかし、関東大震災の被害はそれどころではなかった。
 その瞬間の様子を、淀橋浄水工場の製図室に勤務していた水道局員が記録している。1966年(昭和41)に東京都水道局から出版された『淀橋浄水場史』(非売品)所収の、山田良実『関東大震災当時の淀橋浄水場』から引用してみよう。
  
 初期微動と云うのであろうか立っている人にはわからない位の、びりびりと形容したいような震動が6~7秒位もあってそれから本格的の震動が始まった。段々それが激しくなってきたので周囲の人達に早く外に出るようにどなった。その人達もその震動の状態をさとったのであろうか一斉に室外へ出ようとしたが、狭い出入口から一度には抜け出ることが出来なかった。そのときは最早相当のゆれ方になっていたので私は窓から飛び出るよう出入口の一団の人にどなった。そして私も最後に窓から飛びだした。私が外に出て6~7米も歩いた時に出入口の車寄が倒潰した。(中略) 傭員詰所前の庭木の間を通り抜けて真直広場に出てみた。そこに汽車の引込線路があり浄水池を隔てて浄水場の煙突が2本左右にゆれていた。左に撓み右に撓む毎に頂上部の煉瓦が壊れて落ちた。私は足を踏張ってただ茫然とそれを見ていた。(中略) 地震は2分間位も揺れ続いたのであろうか漸くにして煙突の煉瓦の壊れ落ちるのも止んで、そこらにだれの人影もみなかった。
  
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淀橋浄水場機関室煙突被害.jpg
 東京の市街地では、いきなり下から突き上げるような震動があって、「突然弾き飛ばされた」「空中に投げ出された」という揺れはじめの証言が圧倒的に多いが、東京郊外の淀橋台に位置する淀橋浄水場では、微妙な初期の微動を感じていたのがわかる。つまり、関東大震災の本震がくる前に、短いながらも異変を察知する余裕があったということだ。これは、厚い関東ロームが堆積した段丘地である淀橋台に特有の揺れなのだろうか、目白崖線のある豊島台ではあまり聞かない証言だ。落合地域やその周辺域では、やはり「いきなり地面が大揺れして跳ね飛ばされた」というような証言が多い。
 この大地震で、淀橋浄水場は浄水場敷地内はもちろん、広範囲にわたって未曽有の被害を受けた。東京市の断続的な断水は4ヶ月後の12月までつづき、応急処置でなんとか平常に回復したのは、それ以降になってからのことだ。まず、和田堀からの取水路が全域にわたって被災し、高い位置を流れる水路では流水があふれて滝のように落下するのが目撃されている。護岸崩壊による単純な決壊ばかりでなく、地盤沈下によって水路そのものが寸断された場所が2ヶ所あった。また、約230ヶ所の亀裂が水路に生じ、いつ決壊してもおかしくない被害が出ている。
 浄水場内の被害では、いちばん東側に位置する沈澄池(1号沈澄池)の側壁が歪み、堤防の一部に亀裂と沈下が生じて満水にできなくなった。また、濾池は全池が損傷し、中には池底(敷=コンクリート構造)に亀裂ができて漏水し、全面補修の必要な濾池もあった。また、6池の池底にも多少の亀裂が生じ、順次修理が必要になった。もっとも被害が大きかったのは浄水池で、水の引入口と引出口および池底のコンクリートはいたるところで亀裂が発生し、本格的な修理はあきらめ応急修理のみを実施している。
 浄水場内の建物(配水施設)の被害も大きかった。6台のポンプと6台のランカシャー式気罐が配列され稼働していたが、うち3台のポンプの500mm送水管、および6台のポンプ送水管から送られた水が合流する1,100mm送水本管が同時に破断し、あふれた大量の水が機関室内に噴出して浸水した。これにより、全ポンプおよび全気罐が停止して稼働不能となった。つまり、淀橋浄水場は東京市内への送水機能をすべて喪失したことになる。
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 また、機関室に付属したレンガ造りの高さ121尺6寸(約37m)の煙突2本は、頂上部の10尺(約3m)ほどが2本とも崩落し、破片が煙突の内部や外側に墜落した。煙突の側面にも縦横の大きな亀裂が入ったが、なんとか倒壊はまぬがれている。煙突の倒壊を防ぐため、応急処置として2本の煙突には太い鉄バンドが巻かれたが、1925年(大正14)に新たな鉄筋コンクリート製の130フィート(約40m)煙突が建設されるまで、倒壊のリスクを抱えたまま2本のレンガ煙突は運用されつづけた。
 淀橋浄水工場Click!の、建屋自体のダメージも深刻だった。ポンプ室(機関室)の壁面には亀裂が走り、建物東西の壁が揺れで外側へ2寸(約6cm)も拡がったため、5トンの移動起重機(クレーン)が桁(ガーダ)もろとも墜落した。幸運だったのは、墜落場所が偶然にポンプとポンプの間だったため、かろうじて機械設備の破壊はまぬがれている。6台のポンプを応急修理し、なんとか稼働できるようになったのは、震災から半月だった9月15日の夜になってからのことだ。だが、いくら水道インフラの中核である淀橋浄水工場が応急修理で機能を回復しても、東京市の広い範囲での断水状態はつづいていた。それから1年近くにわたり、気の遠くなるような作業が水道局員たちを待ちかまえていた。
 東京市内で1,100mmの水道本管や、900mm以下の幹線を含む主要管の破壊地点は計382ヶ所、より細い支管の破裂や漏水、滲水の損傷箇所は無数に存在し、その修理口数だけで259,932ヶ所におよび、膨大な費用と復旧リードタイムを必要とした。1924年(大正13)5月までに、市内で修理した水道管の長さをつなぎ合わせると総延長が379,249間(約448km以上)にもおよぶ。関東大震災による地中・地下の破壊が、いかに凄まじかったがうかがえる数字だ。
 現在、東京の地中・地下には水道管ばかりでなく、ガス管や通信線、地下鉄、地下施設など関東大震災時には存在しなかった、多種多様な社会インフラが縦横に張りめぐらされている。同震災の当時、断水により火災が消火できなかった、あるいは東京市民の飲料水がない、風呂に入れない……どころではないだろう。これらの社会基盤が同様の震動により、いったいどれほどの被害を生じるのか、その復旧にはどれほどのコストやリードタイムを要するのかは、誰も知らない。
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 東京都水道局が出版した『淀橋浄水場史』の中で、『淀橋浄水場の想い出』を書いた塩原彦三郎という方は、当時の淀橋町には大規模な建物や施設、住宅街がなかったから、大きな破壊や混乱は幸いにも起きなかったとしたうえで、「今あのような事態が起きたら、どんな状況が出現するかを想像するときは、肌に粟たつ思いさえする」と書いている。しかも、彼がこの文章を書いたのは、現在のような淀橋浄水場跡地の高層ビル群や複雑な地下鉄網、地下街など存在しない、いまだ1966年(昭和41)の時点でのことだ。

◆写真上:淀橋浄水場跡地の現状で、初期副都心構想とはまったく異なる街になった。
◆写真中上は、関東大震災による淀橋浄水場1号沈澄池の被害状況。は、大正期に撮影された淀橋浄水工場の機関室に並ぶ気罐設備。は、同震災で大きな被害を受けた淀橋浄水工場の機関室に付属する2本のレンガ煙突。
◆写真中下は、同震災による淀橋浄水場全体の被害状況。特に右上の浄水池と、浄水工場内部の被害が甚大だった。は、大正末に撮影された淀橋浄水場の空中写真。は、1925年(大正14)ごろ撮影された建設中のコンクリート煙突。倒壊の怖れがある2本のレンガ煙突は、新たなコンクリート煙突が竣工したのち解体された。
◆写真下は、同震災による送水管(鉄管)の破裂被害。は、水道管の運搬で活躍した淀橋浄水場オリジナルの運搬自動車「マック号」。は、ようやく関東大震災による被害から復興した昭和初期撮影の淀橋浄水場全景。

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