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「たべて見たいと思つたよ」の安倍能成。 [気になる下落合]

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 夏目漱石Click!の弟子だった松根東洋城が、1915年(大正4)に創刊した俳句誌に「渋柿」というのがある。現在も存続している創刊104年の非常に息の長い雑誌だが、安倍能成Click!は同誌に16回にわたって『下落合より』と題したエッセイを執筆している。戦時中の1942年(昭和17)の「渋柿」10月号から、1945年(昭和20)の「渋柿」2月号までの、2年半にわたる連載だった。
 1945年(昭和20)の「渋柿」4月号から、突然『駒場より』とタイトルを変更しているのは、下落合の自邸が同年4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失Click!しているからだ。その後、避難先である地域名を次々ととって、『経堂より』(同年10月号)から『代田一丁目より』(同年12月)と変わり、戦後の落ち着いたところで下落合へともどっている。『下落合より』は、すべての文章が戦時中に書かれているが、日常のさまざまな描写の間には、安倍能成の人柄や性格を知るうえで興味深い記述が多い。
 『下落合より』(全16回)は、戦後すぐの1946年(昭和21)に白日書院から出版された安倍能成『戦中戦後』に収録された。その中に、彼の「東京郊外」観とでもいうべき文章があるので、1948年(昭和18)の『下落合より(三)』から少し長いが引用してみよう。
  
 併しそれよりも途中車の中でつくづく感じたことは、東京の郊外が大東京市になつて一層汚くなつたことである。大きなアスファルト道路、それもごく粗製のが到る処に出来て、その両側に歯の抜けたやうに家が立つて居る。粗末な洋風とも何ともつかぬ家の間に貧弱な畑が残つて居る。かと思ふと実にごたごたと猥雑に固まつた汚い商店街が横丁にある。今までは草の茂つた里川だつた所がコンクリートに固められて趣を失ひ、昔の木橋に代つてこれも粗末なコンクリートの橋がかかつて居る。(中略) 東京近郊の武蔵野の村落の好もしい風景が破壊されて、場末的な新開地的な殺風景な粗末極まる都会的風景は、まだその新開地的な性格をさへ定めるに至つて居ない。これは好んで「大」を冠したがる地方の都会に於いても皆同じであるが、東京はその点に於いて実に模範的都市である。東京がかうした破壊と粗末な生命の短い建設とをやめて、一国の首都としての充実と調和とを得るのはいつの時であらうかといふことは、空襲の災禍を覚悟せねばならぬ今日の危局の下にも、やはり考へずには居られなかつた。
  
 この文章でも、安倍能成は平然と英語(敵性語Click!)をつかっている。そして、1943年(昭和18)1月の時点で、明確に米軍による空襲の惨禍を予感している。
 同文は、知人の告別式に出席するために、池上本門寺を訪れた際の感想を書いている文章の一節だ。1932年(昭和7)に、東京15区が35区Click!「大東京市」Click!になったことで、郊外へ郊外へと拡がりつづける住宅街を、クルマで道々観察しての感想なのだろう。おそらく、安倍能成が初めて下落合に自邸を建設した大正期には、同じような風景が目白駅の周辺から下落合にかけて拡がっていたにちがいない。しかも、当時の道路は舗装などされておらず、安倍能成は靴を泥だらけにしながら第一高等学校(現・東大教養学部)へ通勤していただろう。
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 その通勤先の一高では、軍部からの圧力と生徒の主体性を尊重する教育とのはざまで、板ばさみになるような日々がつづいていた。しかも、勤労動員により劣悪な環境の工場で病死した生徒について、「名誉の奉仕報国」といわんばかりに「軍雇員」として「賜金」を給付するという軍部に対し、「誤つて死なしめた」と怒りを隠さない。1944年(昭和19)9月13日に書かれた、『下落合より(七)』から引用してみよう。
  
 十時前に登校して全校体操に立ちあふ。この頃の気候のせゐも手伝つてか、今日は非常に数が少ない。生徒の自覚に待つて居てはいけない、といふ声が周囲からはやかましい。自発性を殺さない緊張と統制との困難を思ひ、今日も少し憂鬱になる。(中略) 二時に陸軍被服廠の課長が来て、この間勤務奉仕の途中に病を得てその後なくなつた生徒を、軍雇員に命じ、殉職者としての賜金の沙汰を伝達するのに立ち合ふ。当人が無理をするほど義務心の旺盛な真面目な青年だつたことには、感心しても足りない気がするが、しかしこの好青年を誤つて死なしめた遺憾の方が遥かに大きい。当人父親から母親の悲嘆、弟の落胆の話などを聞くとこの感は愈々切である。
  
 一高の生徒たちは、「小学生じゃあるまいし、なんで朝っぱらから軍人の前で体操しなきゃならねえんだよ」と反発し、ほとんど出席しなかった様子がわかる。
 安倍能成は、日米開戦の当初から敗戦は必至と自覚しているので、軍部からの圧力を「教育の論理」でゆるゆると押し返しながら、なんとか生徒たちを守り生きのびさせようとしている様子がうかがえる。当時、軍部からの要請に対してあからさまに「やかましい」とか、勤労動員において「誤つて死なしめた」と書いて発表した文章を、公開しない個人の戦時日記レベルならともかく、わたしはほかに知らない。
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 陰に陽に軍部へ抵抗をつづけた安倍能成だが、空腹には勝てなかったようだ。以前、肖像画を描いてもらえるというので、1944年(昭和19)に安井曾太郎Click!アトリエClick!へ100回ほど通いつづけたエピソードClick!をご紹介Click!したが、それはアトリエで用意される昼食や、おやつに出される甘いもの(お菓子)が楽しみだったからだ。当時、食糧はすべて戦時配給制になり、腹いっぱい食べることはおろか、1日に三度の食事にありつけるかどうかも不安な時代だった。特に砂糖は貴重品で、安井アトリエで毎回出される甘いおやつに、食いしん坊の安倍能成はウキウキしながら通った様子が記録されている。
 空腹をかかえて原稿用紙に向かい、つい本音のラフな結びで書いてしまったユーモラスなエッセイも残っている。1944年(昭和19)12月13日の夜、夕食後に書かれたとみられる『下落合より(十五)』から引用してみよう。
  
 電車の中では本を読まぬことにして以来久しいのだが、ゴーゴリは竟にその禁を破らせてしまつた。ニ三日前にも乗合を待つて居る間に「馬車」を読み了つて、「肖像画」を三分の一ほどの所まで読みかけ、主人公の青年画家の心境に夢中になつて居る所へ、やつと江戸川行が来た。時計を見ると五十分立つて居たわけだ。ゴーゴリは天才だ。(中略) たゞ感じたことの一つには、小ロシヤなるウクライナ人は実によく喰らふ、殊に小説の中に現はれる地主階級は、自分が御馳走を喰ふことと人に喰はすこととに生存の意義を画して居るらしい、といふことがあつた。時節柄小生も彼等の午餐や晩餐によばれて、肉饅頭だとか仔豚の丸煮だとか凝乳をつけた団子だとかを、たらふくたべて見たいと思つたよ。
  
 文中の「乗合」は乗合自動車Click!=バスのことであり、「江戸川」は葛飾地域の江戸川Click!のことではなく、1966年(昭和41)まで江戸川と呼ばれた神田川に架かる江戸川橋Click!のことだ。安倍能成は、第二文化村から北へ歩いて目白通りへと抜け、文化村前停留所からバスに乗って都電(1943年より東京都)の走る江戸川橋へと向かっている。
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 最初は、いつものように時局への感想や身辺の出来事を、ロシア文学の作品群にからめて書くのかなと思いきや、最後には「たべて見たいと思つたよ」などとしゃべり言葉で終える、謹厳実直で学術的な安倍能成の文章もまた、わたしはほかに知らない。

◆写真上:下落合4丁目1665番地(現・中落合4丁目)の、第二文化村にあった安倍能成邸前の三間道路。安倍邸は三間道路を突き当たった左側の角で、右側手前に見えている大谷石の縁石や築垣は石橋湛山邸Click!の敷地。
◆写真中上上左は、戦後すぐの1946年(昭和21)に白日書院から出版され『下落合より』シリーズ計16編が収録された安倍能成『戦中戦後』。敗戦直後の物資不足で紙質が極端に悪いせいか、ページの変色や一部欠損が進んでいる。上右は、「神話」や「感情」ではなく「科学」と「論理」が教育の基盤だと映像で訴える1946年(昭和21)の安倍能成。は、内田祥三と清水幸重の設計による第一高等学校本館(現・東大教養学部)。
◆写真中下は、下落合4丁目1665番地にあった安倍能成邸跡の現状。は、晩年に住んでいた下落合3丁目1724番地(現・中井2丁目)の安倍能成邸跡の現状。は、東大駒場キャンパスに残る一高時代の講堂(900番教室)。
◆写真下は、同キャンパスに残る一高時代の特設高等科(101号館)。は、1966年(昭和41)3月14日発行の落合新聞に掲載された夏目漱石の記念碑除幕式での安倍能成。漱石の弟子だった安倍能成は、喜久井町夏目坂に建立された記念碑の揮毫を担当した。

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