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なぜ駅名と地名は乖離したがるのか。 [気になるエトセトラ]

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 先日、駅のホームで電車を待っていたら面白い……というか、愕然とする発見をした。西武新宿線の「新井薬師駅」で電車を待ちながら、駄菓子を大人買いしたあとホーム上でぼんやりしていたときのことだった。ここの駅名は「新井薬師駅」ではなく、「新井薬師前駅」が正確な名称だったのに気がついたのだ。(爆!) 帰ってから、さっそく拙サイトの13記事25ヶ所にわたる「新井薬師駅」を、「新井薬師前駅」に訂正した。
 でも、そこで気づいたことだが、勝巳商店地所部Click!が売り出した「新井薬師駅前分譲地」Click!でも、「新井薬師前駅前分譲地」ではなく同駅は「新井薬師駅」と認識されている。そうなのだ、同駅を「新井薬師駅」と認識しているのは、わたしや昭和初期の勝巳商店地所部のみに限らない。新聞に入ってくる日々の折りこみ不動産チラシでも、「新井薬師駅徒歩12分」とか「交通至便! 新井薬師駅より徒歩わずか3分」とか、同駅を「新井薬師駅」と認識している人たちが少なからず存在することに気づく。
 駅名をめぐる、このような面白い錯覚や「あれれっ?」と思うような誤解は、落合地域周辺でも多種多様なエピソードとともに伝承されている。西武池袋線の椎名町駅が、実際に江戸期から「椎名町」Click!と通称で呼ばれていた、長崎村(町)と落合村(町)にまたがる清戸道Click!沿いの街並みから、北へ500mほどズレているのは何度かここでも触れてきた。野方村(町)の江古田(えごた)地域から東北東へ800mほど離れた位置に、西武池袋線の江古田駅がある。同駅の駅名をめぐっては高田馬場駅と同様、大正期に地元からクレームでもついたものか、中野区の江古田(えごた)地域とはいちおう関係のない練馬の江古田(えこだ)駅となっている。
 山手線の目白駅Click!も、小石川村(町)目白(台)の地名位置から西へ1.2kmほどズレている。もともとは、日本鉄道が新長谷寺Click!目白不動尊Click!にちなんでつけた駅名のようなのだが、目白不動は室町末期ないしは江戸時代最初期に、足利から同寺へ勧請したといういわれがあるので、神田上水の大洗堰Click!が施工される以前、つまり江戸期に椿山東麓へ「関口」という町名が誕生する以前から、椿山一帯Click!は「目白」と呼ばれていた可能性が高い。目白駅が設置された当時、目白坂Click!の新長谷寺(目白不動)から同駅までは、直線距離で2.2kmも離れていたことになる。当時、駅が開設された高田地域では、駅名に関して「おかしい」「反対!」「なんだそりゃ?」という声は特に記録・伝承されてはいないものの、あまりの不自然な地名ちがいに徳川義親Click!がつい「高田駅と呼ばれた」……とつぶやいたのも、無理からぬような気がするのだ。
 その「高田」つながりで、ひとつ南の山手線・高田馬場(たかだのばば)駅は、設置当初から波乱ぶくみだった。山手線の駅設置請願運動の中心にいた上戸塚+諏訪町(現・高田馬場1~4丁目界隈)の町内では、具体的な駅名を地元の地名に由来する「諏訪之森」か「上戸塚」と規定して請願を展開していた。ところが、鉄道院は1910年(明治43年)に近くの史蹟である幕府練兵場の「高田馬場(たかたのばば)」を駅名にしてしまった。そのときの様子を、1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』Click!(戸塚町誌刊行会)から、同書では異例の皮肉たっぷりな記述より引用してみよう。
新井薬師駅不動産.jpg
百人町停車場1914.jpg
目白不動鍔塚.JPG
  
 当時新宿、目白間には停車場の設け無く、里人は専ら目白駅を利用する外に余儀なかつたが、明治四十三年九月十五日に至り、町民一致の請願と地主有志の献身的運動により、初めて開駅せられたのが、現在駅の発祥である、之より先駅名を戸塚里民は上戸塚駅と欲し、然らざる者は諏訪之森と申請して、こゝにも地方意識を暴露したが、遂に天降りて高田馬場と名づけられ、本町の存在が爾来著しくユモアー(ママ:ユーモア)さるゝに至つた。(カッコ内引用者註)
  
 確かに、上戸塚にある駅がなんで高田馬場駅なのか、意味不明で「ユモアー」だ。
 これに黙っていなかったのが、幕府の高田馬場(たかたのばば)を抱える下戸塚(現・西早稲田地域)の町内だった。同地域の「里民」たちは、鉄道院へ強力な抗議(それもかなりの)を繰り返したらしい。戸塚村民(町民)が、なんらかの運動や気に入らないことが起きると「力づく」で「手段を選ばない」のは、以前、戸塚町議会の大混乱Click!でもご紹介しているとおりだ。w
 戦前の『戸塚町誌』は、それでも筆をかなり抑えて書いているが、1970年代から地元の町会や古老などに取材して、その伝承などをていねいに書きとめている芳賀善次郎は、1983年(昭和48)に山交社から出版された『新宿の散歩道―その歴史を訪ねて―』では、次のように書きとめている。
  
 この時戸塚町民(ママ)は駅名を「上戸塚」または「諏訪森」(ママ)と要望したが、国鉄(ママ:鉄道院)は「高田馬場」とした。それをきいた戸塚一丁目(現・西早稲田地域のこと)の住民は、馬場跡から遠く離れたこの駅にその名がつくと、馬場跡が駅の近くにあるように間違われるからと猛反対運動を起した。困った鉄道省(ママ:鉄道院)は、窮余の一策、戸塚一丁目の方は「タカタノババ」だが、この駅名は「タカダノババ」だと言いのがれをしてけりがついたという話が残っている。/山手線で、駅所在地名を駅名としないのはここだけである。(カッコ内引用者註)
  
目白貨物駅1935.jpg
目白駅D51通過1954.jpg
上戸塚1910.jpg
 江古田(えこだ)駅もそうだが、高田馬場(たかだのばば)駅も開設当時は地名・地域とはなんの関係もない(とされる)、“架空”の名称のClick!だったことがわかる。鉄道院の担当者は、まさか説明会場の鉄道院席へ踊りこんだ下戸塚の議員ないしは住民から殴り倒され、のちの町議会のような流血騒ぎになってはいないだろうが、相当きつい猛抗議(つるし上げ)を喰ったであろうことは想像にかたくない。
 芳賀善次郎は、「駅所在地名を駅名としないのはここだけ」と書いているけれど、実は「目白」と目白駅のケースでも見たとおり、山手線の駅名はそのほとんどが所在地の本来地名と駅名とがまったく一致していない。高田馬場駅のひとつ南の新大久保駅も、当初はその地名どおりの「百人町停車場」とされて地図にまで駅名が記載・印刷されていたが、のちに「新大久保停車場」と改められた。いちばん近い本来の西大久保地域からでさえ、駅まで700m以上は離れている。
 さらに南の淀橋町角筈にある新宿(しんじゅく)駅も、実際の地名では存在しない駅名だ。旧・四谷区には「新宿(しんしゅく)」の地名はあったが、内藤新宿(しんしゅく)に由来するとこじつけても、江戸期に賑わった甲州街道の内藤新宿の西端である四谷大木戸から、約1.5kmも西へ離れた位置に開設されている。新宿駅は、当初より“新駅の名称”とされていたので、それほど混乱もなくスムーズに受け入れられたようだ。
 いまや、駅名に引きずられて地名変更Click!をしてしまった事例は、下落合の中井駅Click!や高田馬場駅などを例にとるまでもなく、都内のあちこちに存在している。これにより、地域の歴史や風土、史蹟・事蹟、伝統・伝承、人々の物語など広い意味での地域文化が朦朧とモヤモヤ曖昧化し、ひいては営々と培われてきた街々のアイデンティティが東京から棄損され失われていくのは、なんとも惜しくまた切ないことだ。
 近々、高輪に設置される山手線の新駅は、その地名どおりに「高輪駅」になるはずだった。ところが、「高輪ゲートウェイ駅」というわけのわからない駅名になったと聞いている。ICT用語では、GW(ゲートウェイ)ないしはCGW(コネクティッド・ゲートウェイ)は頻繁につかわれる用語だが、なんとなく「現代風」で「グローバル感」があり、「未来志向」で「カッコいい」からという理由で採用したのだろうか? 山手線のネットワーク以外に、いったいどことどこをつなげる“手順”からGWなのだろう?
高田馬場駅1968.jpg
高田馬場駅諏訪町1968.jpg
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 田町駅と品川駅の間にポツンと設置された同駅は、GWはおろかノードにもネットワークスイッチにも、ルータにも、ハブにさえなってやしないじゃないか。ちゃんと、用語の意味を理解して命名しているのだろうか? 「高輪ゲートウェイ駅」などと名づけても、利用者からは「高輪駅」としか呼ばれないのが、いまから目に見えるようだ。

◆写真上「マジですか」Click!と絶句してしまった、新井薬師前駅のネームプレート。
◆写真中上は、新聞の不動産チラシでは当たり前のように使われている「新井薬師駅」。は、1914年(大正3)の大久保町市街図にみる設置当初の「百人町停車場」。は、戦後に目白不動が遷座した金乗院の境内に残る鍔塚Click!。茎櫃が小さく小柄櫃に笄櫃を備えた、大刀用ないしは太刀用の丸鍔(彫りは雲龍か)だったのが判明した。
◆写真中下は、1935年(昭和10)撮影の目白貨物駅に停車する6789機関車。は、1954年(昭和29)に撮影された目白駅を通過中の貨物列車を牽引するD51。は、停車場が設置される直前の1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図。.
◆写真下は、1968年(昭和43)撮影の高田馬場駅で、駅前広場の位置に見える家々は諏訪町の街並み。は、1985年(昭和60)に撮影された高田馬場駅。

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