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東京郊外にあった「遊園地」の系譜。 [気になる下落合]

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 明治期の後半から大正期にかけ、東京の郊外には「遊園地」が各地に造られた。ここでいう「遊園地」とは、今日でいう多種多様なアトラクションやゲーム、パビリオンなどが設置されイベントが開かれる、いわゆる遊園地のことではない。
 その名称のとおり「庭園を回遊する地」のことで、特に乗り物や遊具、展示館などは存在しなかった。現代風にいえば、整備された森林公園ないしは緑地庭園といったところだろうか。施設や整備が豪華で、手入れがいきとどいた大規模な遊園地は有料のところもあったが、むしろ現在の公園と同様に無料で誰もが気軽に利用できた施設も少なくなかった。経営主体も、地域一帯に広い土地を所有する地主が敷地の一画を活用した例や、広大な華族屋敷の一部を開放したもの、将来の宅地開発を見こんだディベロッパーが集客目的で開園したもの、参詣者でにぎわう寺社境内の一部を庭園化したもの、地域の自治体が設置したものなど形態もさまざまだった。
 「遊園地」の元祖型は、早くも江戸期の後半(大江戸時代)から郊外各地で見られていた。オオシマザクラとエドヒガンザクラを掛けあわせソメイヨシノClick!を産みだした、江戸の植木職人たちが大勢集まって住み、幕末に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンによれば、ロンドン王立植物園を凌駕する「世界最大のフラワーセンター」だった染井地区(現・駒込地域)をはじめ、ウメやキク、ショウブ、ツツジなどを屋敷の庭園や畑地に隣接して植え、季節になると観光客に見せていた「花屋敷」Click!あるいは「〇〇(花の名前)屋敷」の系譜など、明治以降に「遊園地」へと直結していく素地は、すでに大江戸(おえど)Click!の郊外で早くから育まれていた。
 落合地域にも、そのような遊園地がいくつか存在していた。たとえば明治期の下落合でいうと、近衛篤麿邸Click!の敷地内にあった谷戸の湧水源を整備し、庭園のような風情に仕立てて開放した「落合遊園地」Click!が挙げられる。牛込区馬場下町41番地(現・新宿区馬場下町)に下宿していた若山牧水Click!が、散歩がてら下落合を訪れて『東京の郊外を想ふ』に記録している庭園だ。
 東京土地住宅Click!「近衛町」Click!につづき、1923年(大正12)に落合遊園地を含む一帯を「近衛新町」Click!として販売したが、そのほとんどの敷地を東邦電力Click!が買い占め、のちに「落合遊園地」改め「林泉園」Click!と名づけた谷戸の湧水源だ。中村彝Click!は、1916年(大正5)に「落合遊園地」の北側にアトリエを建設したが、死去する1年ほど前、1923年(大正12)ごろから名称が「林泉園」Click!に変わり、社宅の西洋館群Click!やテニスコートなどが造られるのを庭先から眺めながら、晩年をすごしていただろう。
 また、下落合の中部では、箱根土地Click!堤康次郎Click!落合府営住宅Click!の土地を東京府に寄付したあと、その南側に「不動園」Click!という遊園地を開発している。落合遊園地と同様に谷戸地形を活用した遊園地で、府営住宅の住民たちへ憩いの場を提供するような趣向だったが、もちろん不動園は郊外への「人寄せ」プロモーションの一環だったとみられ、ほどなく同園は解体され1922年(大正11)より目白文化村Click!の建設がスタートしている。不動園の様子や、それが壊される過程を第二府営住宅に住んでいた目白中学校の生徒Click!が観察して、学内誌に記録を残している。
 箱根土地は、不動園を解体して文化村住宅地に整地したあと、下落合1340番地の本社ビルClick!建設とともに、その南側に造園した庭を改めて「不動園」Click!と名づけ、文化村をはじめ周辺の住民に開放している。また、前谷戸の弁天社Click!がある北西側の湧水地も、昭和初期までは遊園地風の風情(弁天社裏の谷戸にはモモの樹林が植えられていたようだ)を残して、周辺の住民に開放していた。第一文化村の北側、下落合1385番地にアトリエをかまえていた松下春雄Click!が、弁天池のほとりで遊び長女・彩子様Click!を抱っこしている写真Click!が残されている。
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松下春雄「文化村入口」1925.jpg
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華洲園(大正期).jpg
 上落合の近くには、小滝台の上に四季折々の花々を咲かせる、明治期に造られた華洲園Click!(御花畑)があった。街道(現・早稲田通り)を越え、バッケ(崖地)Click!に通う急坂を上ると丘上が開け、広大な花畑が拡がっていた。この郊外遊園地もまた、大正期に入ると宅地造成が開始され、周辺でも名うての高級住宅街に変貌している。
 近隣住民たちや観光客に開放されていた、これらの郊外遊園地は昭和期に入るとその多くが住宅街となり、現在ではほとんど残されていないが、その雰囲気を感じとることができる「遊園地」(というか今日では「公園」や「庭園」と呼称される)は、明治期から大正期にかけて東京郊外だったエリアで、いまでもかろうじて見ることができる。落合地域の近くでは、大正初期に造られた新井薬師遊園(のち新井薬師公園)が、当時の遊園地にもっとも近い風情を残しているだろうか。
 新井薬師遊園は、妙正寺川へと下る新井薬師の北北西側に展開する丘の斜面と、麓全体を包括した敷地で、いまでは中野通りに南北を分断されているが、新井薬師境内の緑地も加えるとかなり広めな公園となる。明治期からつづいた遊園地の特徴として、広場があり一画には花々が植えられ、築山や斜面には武蔵野の雑木林が繁り、湧水源を含む谷間には池ないしは泉が形成されている……という“お約束”の風景と、同園はよく一致している。1914年(大正3)開園と、明治期からつづく遊園地ではないものの、本来は新井薬師の境内だった敷地を遊園地化して、参詣者や周辺の住民たちへ開放したものだ。
 現在の新井薬師公園は、1934年(昭和9)に改めて公園として整備されたあとの姿だが、江戸期には梅照院(新井薬師)の修行場でもあった経緯から、大正期の風情はより“自然公園”に近い趣きだったのではないかと想定できる。現在は、斜面には雑木林に囲まれた広場や児童館、児童遊園などが設置され、麓には妙正寺川へと注ぐ湧水源のひとつだったとみられる“ひょうたん池”(小規模化したとみられる)が残されているが、いずれも昭和期の公園化とともに本来の姿とはかなり異なっているのではないだろうか。
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 その旧・新井薬師遊園を取材していたら、気になる地形を見つけてしまった。当初は、郊外遊園地らしく斜面に盛り土をし、築山に見立てて木や花を植えたのだろうと考えていたが、家にもどって各時代の空中写真を検証すると、この築山がどうやら戦後すぐのころまで“鍵穴”のかたちをしているのに気がついた。特に、一帯が空襲を受けた戦後の焼け跡写真を観察すると、地面の色が異なり鍵穴のフォルムが浮きでて見えるようだ。全長は60m前後で、それほど大きな規模のフォルムではない。確かに地形的にも、谷間へ向けた見晴らしのいい斜面に位置しており、古代人が古墳を築造するにはもってこいの場所だ。念のため、周辺で発掘された古墳期の集落跡がないかどうか確認したが、地元の新井地域でも、また隣接する沼袋地域Click!でも古墳期の住居跡が発見されている。
 残念ながら、新井薬師公園の発掘記録は見あたらないが、水戸徳川家の上屋敷庭園だった後楽園古墳や上野公園の摺鉢山古墳Click!、三田の土岐美濃守の下屋敷庭園だった亀塚古墳Click!、新宿駅西口の松平摂津守下屋敷庭園にあった新宿角筈古墳(仮)Click!などと同様に、大名庭園や公園を造園する際に築山としてそのまま墳丘が利用された前方後円墳の残滓ではないだろうか。また、丘上にあたる新井薬師の境内自体も、もともとはどのような敷地の形状をしていたのかに興味をひかれる。
 昭和期に入ると、東京郊外の小規模な遊園地は次々と姿を消すか、大規模な遊園地はアトラクションやゲーム、パビリオンを備えた新しい呼称としての“遊園地”に変貌していったけれど、新井薬師のケースは遊園地から公園へとスイッチしたために、大正期の風情をなんとか想像することができるめずらしい事例だ。また、戦後もしばらくたつと遊具のある一般的な公園とは別に、本来の意味での「遊園地」に近い風情の施設が、再び自然公園や緑地庭園として整備されるようになってきた。
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延寿東流庭園.JPG
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 下落合でいえば、規模は小さいが第二文化村の島峰徹Click!邸の跡地に造られた「延寿東流庭園」Click!や、下落合の南側に接した上戸塚地域にある「藤兵衛公園」などが該当するだろうか。明治期から大正期にかけての郊外遊園地に比べれば面積や規模がかなり小さいので、さすがに丘や斜面などは存在しないけれど、小流れがあって池があり樹木が繁茂している風情は、100年前を模した「ミニ遊園地」とでもいうべき存在といえるだろう。

◆写真上:新井薬師公園の斜面に見られる、現在は40mほどが残る“ふくらみ”部分。
◆写真中上は、1935年(昭和10)に撮影された林泉園。(提供:堀尾慶治様Click!) は、1925年(大正14)制作の松下春雄『文化村入口』に描かれた箱根土地本社前の庭園「不動園」と、第一文化村の谷戸にあった弁天池で遊ぶ松下春雄。(提供:山本彩子様) は、大正初期に撮影された小滝台の華洲園(御花畑)。
◆写真中下は、公園として再整備された直後の1936年(昭和11)に撮影された新井薬師公園。は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された新井薬師公園。は、戦後の1948年(昭和23)の空中写真にみる鍵穴状のフォルム。
◆写真下は、丘麓にある新井薬師公園のひょうたん池。中野通りが貫通する、背景左手の斜面から丘上までが新井薬師公園になっている。は、下落合の目白文化村(第二文化村)にあった島峰邸跡に造られた延寿東流庭園。は、上戸塚(現・高田馬場3丁目)の中村邸跡に造られた日本式庭園の藤兵衛公園。
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