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第一寮棟で暮らした学生たち。(下) [気になる下落合]

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 学習院昭和寮Click!が解体されはじめてから、わたしは何度か日立目白クラブの周辺を訪れているが、先日はテニスコートの西側に繁っていた竹林の伐採に遭遇した。崖上の竹林は、秋の夕陽を受けると黄金色に輝いて美しく、それが消滅してしまったことは非常に残念でならない。それにしても、どこまで緑ゆたかな目白崖線の景観を破壊し、灰色のビルを建設すれば気が済むのだろうか? ちなみに、東京23区における集合住宅の空き室戸数は、477,100室(2018年現在)といわれている。
 昭和寮で暮らした学生たちのプロフィールを、前回Click!につづいてご紹介しよう。
 ◎第七室 文二乙 MM君
 北大農学部をめざす、「大明神」と呼ばれていた学生。明朗な性格だったようで、独特な方言を話すこともあって親しみやすく、著者はつき合いやすかったらしい。流行のスポーツが好きで、いろいろな種目に手をだしては楽しんでいたようだ。
  
 大のスポーツマンです。凡そスポーツと名のつくあらゆるものに、手は仮令すぐ、引くにしろ兎に角一応は出します。今じやラグビーと柔道にはなくてならない、本院スポーツ界の最尖端を走る君です。先日の乗馬会で君の立派な額の様なカツプを取つて来ました。コリコリした筋肉の塊ですが、人は至つて善良ですから安心して交際が出来ます。
  
 ◎第八室 文三丙 MI君
 昭和寮一の秀才で、「若きオヂーチヤン」というあだ名をもらっている学生。アテネ・フランセへ隔日に通い、フランス語に堪能で外交官をめざしている。寮誌が発行された年度の夏休みには、仏領ベトナムのサイゴンへ外遊していた。だが、時局柄からこれからの外交は知識ばかりでなく、国事多難から胆力が必要だとアドバイスしている。
  
 長岡(半)博士の言を拝借するならば、『小銃から出来た人間でなく、大砲から出来た人間』になる事が必要じやないかと思ひます。余り頭のよい人は先が見えすぎて手が出せず、時には口をポカンと開いている人がより偉大な結果を生む事は決して少い例ではありませんから。併し学習院は昭和寮は将来の君に期する処蓋し大なるものがあるでせう。
  
 ◎第九室 理三甲 BN君
 内気な性格で、「熊さん」とあだ名された大人しい学生。第一寮の委員を引き受けているが、関わっていたスポーツはみんな止めてしまい、東大農学部をめざして勉強中だ。ひがな1日、寮室ですごすことが多いようで、多少引きこもりの気がありそう。
  
 東南の一隅に巣を食ひ、人々称して熊さんと云ひますが、気立は至つておだやかですから、決して逃げる必要はありません。非社交的な、内気な性質です。鬚の中から顔と目玉が見えると云つた方がより適切かも知れません。
  
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 ◎第十室 文三乙 MN君
 14名の寮生の中では、いちばん紹介の文章ボリュームが多い学生なので、よほど特徴のある性格か独特なクセをもっていたのだろう。「土人」というあだ名で、学習院の中等部時代はスポーツをやっていたが、身体を壊してからは哲学書にのめりこみ、ドイツ語が堪能だった。それでも高等部では、水泳とスキーだけはつづけていたらしい。「♪羊群声なく牧舎に帰り」の寮歌で有名な北大で、自然科学を専攻しようと勉強中のようだ。
  
 鬚に於ては前住人に一日の長ある君、何等装飾のないその部屋の物語る通り、全く質朴純真な真理の追求者です。鏡の如き透徹せる尖い頭脳と強固な意志の人格者です。土人、土人で尊敬されてゐます。その名のよつて来る所、多分表皮のPigmentが人一倍発達してゐる為なんでせう。
  
 ◎第十一室 文一甲 UT君
 世の中の苦労をまったく知らず、童顔で明るいボンボン的な性格から第一寮の人気者だった学生。理系に進んでいたが、途中で文系に進路変更しためずらしい学生で、急に経済学が勉強したくなったようだ。水上部(ボート部)に属し、かつてスカルでは日本ジュニアスカル選手権のタイトル保持者だった。新たに流行りのラグビーをはじめたが、過酷でケガの多いスポーツなので実家がかなり心配している様子だ。
  
 第六室の住人の様に半狂乱的真剣味こそありませんが、よく漫遊に出掛けます。ルーズヴルト(ママ)の言葉を借りるならば、『生活の義務を行する』ことを忘れて『生活の歓喜のみを味』つてゐるんじゃないでせうか。
  
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 ◎第十二室 文一丙 SY君
 兄も学習院だったが、兄が卒業したあとすぐに入寮してきた弟の学生。兄は滑舌が悪かったのか、話していてもフカフカとなにをいっているのか聞きとりにくかったが、弟は「発音は案外明瞭」と書かれている。陸上競技の選手で、なにかと女子たちにもてたので「若き異性の渇望の的」と書かれている。「爆弾三勇士」Click!がブームになっているころで、SY君は学習院陸上の「競技部三勇士」のひとりに選ばれている。1932年(昭和7)の全国中学陸上大会で、優勝旗を受けとる大役をつとめた。
  
 文学的才能を豊富に具へて、『輔仁会雑誌』『昭和』等に創作やカットをドシドシ投稿される万事が器用な君です。学問に運動に黙々として独自の途を開拓されてゐます。寮の為、部の為今後君の御奮闘を期待して止みません。
  
 ◎第十三室 文一甲 KK君
 朝鮮からの留学生で、かなりの淋しがり屋だったようだ。まだ、入寮して1年とたっておらず、なかなか学習院や昭和寮の生活になじめない様子が書かれている。「寮の為融和をはかる事が目下の急務」とあるので、昭和寮では孤立しがちだったのだろうか。「朝鮮を双肩に担つて立つてください」と、最後には励まされている。
  
 玄界灘を遥々越えて今春入学された君です。目指すは赤門法学部とか。今から決心物凄く馬力を掛けてゐます。兎角ダレ勝な高等科でその志は見あげたものです。でも余り外出し過ぎやしませんか? テニス、ピンポンがお得意です。私もよくお相手仰せつかりますが大抵にペチヤンコに負けてしまひます。
  
 ◎第十四室 理二乙 TS君
 「トノサマ」というあだ名の、東大電気科をめざす学生。小さい体格だが、野球やボート競技もこなすスポーツマンだった。第三室のMK君とともに、読書室主任を引き受けている。健康に気をつかう性格だったのか、第一寮でもっとも早起きだった。
  
 当寮で一番大きくない人です。電気工事の大家で芝居の照明係としてなくてはならぬ君です。でも此の頃は可愛い少年助手が出来たと喜んでゐます。将来は東大電気科専攻になるそうですが、やはり理科二年は苦労の種らしいです。
  
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 これらの学生たちが、その後、どのような人生を歩んだのかは氏名がイニシャルなのでたどれないが、各分野で成功した人もいただろう。だが、日米戦争が間にはさまっているので、中には1945年(昭和20)8月を迎えることなく死亡した人もいるかもしれない。
                                 <了>

◆写真上:夕陽を受けると輝いた、テニスコート西側の竹林を伐採する建設業者。
◆写真中・下:解体前に撮影しておいた、学習院昭和寮のいろいろなスナップ類。の3葉は、夕陽があたると美しく黄金色に映えていた竹林と昭和寮の雑木林、そして上空から眺めた解体中の昭和寮跡で第一寮の残骸が本館裏に見えている。(Google Earthより)

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