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上落合郵便局近くの大ケヤキの下で。 [気になる下落合]

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 1930年(昭和5)5月に、詩人・上野壮夫と結婚した作家・小坂多喜子Click!は妙正寺川の北側、葛ヶ谷(のち西落合)の飛び地である御霊下(のち下落合5丁目)で、新婚生活をスタートしているようだ。まったく同じ時期の1930年(昭和5)5月、上落合842番地Click!に転居していた尾崎翠Click!は、知人の林芙美子Click!手塚緑敏Click!夫妻に自身が1928年(昭和3)6月まで松下文子とともに住んでいた、大きく蛇行する妙正寺川の南側にあたる上落合850番地の空き家Click!を紹介している。
 林芙美子・手塚緑敏夫妻は、すぐにこの家へ引っ越してくるが、妙正寺川をはさみ対岸の葛ヶ谷御霊下(北側)に、小坂多喜子と上野壮夫Click!の最初の新婚家庭があったとみられる。もちろん、現在の妙正寺川は1935年(昭和10)前後からスタートした直線整流化工事Click!がほどこされ、蛇行を繰り返していた当時の川筋とは大きく異なっている。上記の林芙美子・手塚緑敏夫妻が暮らした上落合850番地の家は、現在の妙正寺川の川筋では大半が“水没”しており、北岸の家並みや道筋も大きく異なっている。
 林・手塚夫妻が上落合850番地の家を引き払い、1932年(昭和7)に五ノ坂Click!下の下落合2133番地に建っていた、自称“お化け屋敷”Click!と呼んだ大きな西洋館Click!へ転居したのは、『放浪記』がヒットして印税が入ったせいもあるのだろうが、すでに妙正寺川の直線整流化工事が予定されており、いずれ近いうちに立ち退かなければならないのを承知していたからだと推測している。
 さて、妙正寺川をはさみ上落合850番地の林・手塚邸の対岸にあったとみられる小坂多喜子・上野壮夫夫妻の家は、おそらく落合町葛ヶ谷御霊下836番地、ないしは同857番地のどちらかだろう。同地が1932年(昭和7)に下落合5丁目へ編入されたのちも、この地番はそのまま変わっておらず、下落合には2丁目と5丁目とで同時に800番台の地番が並列することになってしまった。1938年(昭和13)作成の「火保図」を参照すると、南岸にある林・手塚夫妻が暮らした上落合850番地の家々は、妙正寺川の工事にひっかかってすでに解体・撤去されているが、工事にはひっかからなかった北岸の家々は、ほぼそのままのかたちで残っているのがわかる。
 2007年(平成19)に図書新聞から出版された、小坂多喜子の次女である堀江朋子の『夢前川』から、当時の様子を引用してみよう。
  
 (中井)駅を降りるとすぐ左手に妙正寺川。そのほとりに新婚の父と母が暮らし、その川を隔てて向かい側に林芙美子が住んでいた。昭和五年頃のことである。その後すぐ二人は、(上落合)郵便局近くの家に移り、林芙美子も他へ移った。その川淵を歩くのは二度めである。十年ほど前の記憶を辿ってみた。佇まいは、殆どかわっていない。小さな民家。古びたアパート、酒場。妙正寺川を挟んで南側は、昭和二十年五月に激しい空爆をうけたが、北側は、キリスト教系の聖母病院があったから、空爆を免れた。父と母が住んだのは妙正寺川の川縁の南側だったろうか、北側だったろうか。(カッコ内引用者註)
  
 川向こうに林芙美子が住んでいたとすれば、まちがいなく北側だったろう。妙正寺川は、当時の川筋とはまったく形状が変わってしまっている。
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 このサイトの記事をお読みの方なら、いくつかの気になる記述にお気づきだろう。落合地域の街並みは、下落合と上落合を問わず1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!と、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!とで、大半が焼失している。著者が書いている国際聖母病院Click!は、4月13日の焼夷弾攻撃に対して必死の消火活動Click!が試みられ(それでも一部焼失はまぬがれなかった)、また戦争末期には同病院をねらった戦闘爆撃機(P51だとみられる)の空爆により、250キロ爆弾の直撃を受けている。
 「キリスト教系の聖母病院があったから、空爆を免れた」は、戦後にGHQのGSないしはG2などの言論工作機関Click!が意図的に流布した、日本を占領しやすくするための結果論的プロパガンダだろう。米軍が公開している米国公文書館Click!の空襲資料には、「病院を避けた」というような指令や命令はどこにも存在していない。特に(城)下町Click!にあった公的病院や入院施設のある大規模な医院は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!でことごとく焼きつくされている。
 さて、このあと小坂多喜子・上野壮夫夫妻はすぐに上落合へ転居している。当時の様子を、1967年(昭和42)に不同調社から発行された「槐」復刊第4号収録の、堀田昇一『わが日わが夢(三) 五、「落合ソヴェト」風土記』より、上掲書から孫引きしてみよう。
  
 中井駅のそばの橋をわたって南の方へいくと、つきあたりに小さい郵便局があり、大きな欅がたっていた。先日そのあたりを歩いてみたら、もう大きな欅の木はきりはらわれて見られなかったが、当時は大きな幹が帝々とそびえたって、あたりの一点景をなしていた。その郵便局の前に、三・一五、四・一六の公判の裁判長であった宮城某という男が住んでいた筈だ。当時は表札をかくし、別の名札をかけていたのではないか、と思う。のちに参議院議員などにもなったようである。
  
 橋は妙正寺川をわたる寺斉橋Click!で、郵便局は上落合665番地の上落合郵便局のことだ。「裁判長であった宮城某」とは、上落合郵便局の向かいの角地に大きな屋敷を建てて住んでいた、裁判官ではなく東京地裁で検事をしていた宮城長五郎のことだ。
宮城長五郎邸1938.jpg
上落合郵便局1938.jpg
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 宮城は治安維持法の策定にも関わっているが、三・一五事件Click!では特高Click!に検挙された「思想犯」を、どしどし起訴して豊多摩刑務所Click!へ送りこんだ弾圧の中心人物のひとりだ。治安維持法が拡大解釈されるにつれ、共産主義者や社会主義者ばかりでなく政府に「異」を唱える人物を、思想や信条を問わず片っ端から弾圧していく。宮城は、上落合の「落合ソヴェト」のまん真ん中に位置する大きな屋敷に住んでいたため、報復を怖れたのか表札を隠していたのだろう。
 1938年(昭和13)作成の「火保図」には、上落合730番地に「宮城」の名が採取されているので、そのころには不安が薄れたのか表札を架けていたと思われる。堀田昇一は「参議院議員」と書いているが、宮城は1942年(昭和17)に死亡しているので貴族院議員の誤りだ。また、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!には、やはり後難を怖れたのか「人物事業編」には掲載されていない。
 落合郵便局の近くに住んだ小坂・上野夫妻の様子を、『夢前川』から引用してみよう。
  
 新宿上落合郵便局。この郵便局はいつ頃からあるのだろうか。窓口の女性に尋ねてみる。少しお待ち下さい、と言って女性は二階に上がった。四、五分ほど待ったろうか。二階から降りてきた女性は、笑顔で大正十三年三月に創設されました、という。父と母が妙正寺川のほとりの新婚の家から移り住んだ家は、やはりこの郵便局の側だ。私は思わず微笑んだ。外ら出てあたりを見回す。付近は民家をそのまま改築したような二階建のアパート、小さな店、床屋、特高に踏み込まれた家はどのあたりか。大きな欅があったと母は書き残しているが、欅は見当たらなかった。
  
 この大ケヤキは、上落合郵便局の南側にある中村家、ないしはさらに南に位置する高山家の大きな邸宅敷地に生えていた屋敷樹だとみられる。同ケヤキは、空襲で焼けたが戦後に息を吹き返し、1970年代まで伐られずに生えていたと思われる。上落合郵便局の周囲は、先の宮城邸もそうだが大邸宅が建ち並ぶ一帯で、改正道路(山手通り)の建設工事Click!はいまだスタートしていない。
 その大ケヤキの近くということは、小坂多喜子・上野壮夫夫妻の2軒めの新婚家庭は、上落合665番地ないしは同667番地の家々のうちのどれかで、上落合666番地の中村家が建設した借家の1軒だった可能性がある。中村邸の南側にある高山彦太郎・松之助邸も、『落合町誌』(1932年)の「人物事業編」によれば一帯の地主だった。
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小林多喜子1933.jpg 堀江朋子「夢前川」2007.jpg
 1932年(昭和7)の秋、小坂・上野夫妻は一時的に阿佐ヶ谷へと転居するが、翌1933年(昭和8)の秋に再び上落合829番地へもどってくる。その短い阿佐ヶ谷時代に、小林多喜二Click!が虐殺される事件に遭遇することになるのだが、それはまた、次の物語……。

◆写真上:上落合665番地(現・上落合2丁目)にある、上落合郵便局の現状。
◆写真中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合850番地の林・手塚邸の位置と対岸の御霊下836・857番地界隈。いずれかの住宅が、小坂多喜子・上野壮夫が新婚早々に住んだ家だろう。は、大半が“水没”した上落合850番地の現状(上)と、対岸の御霊下836・857番地の現状(下)だが実際は川筋が蛇行していたためもう少し北側にずれる。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合郵便局界隈(上)と、1941年(昭和16)に斜めフカンで撮影された空中写真の大ケヤキ周辺(下)。
◆写真中下上・中は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる上落合郵便局とその周辺。は、戦後の1948年(昭和23)の空中写真にみる上落合郵便局周辺。
◆写真下は、大ケヤキが生えていたあたりの現状。下左は、1933年(昭和8)2月20日に撮影された小林多喜二の通夜の席での小坂多喜子と窪川稲子(佐多稲子)Click!。薄暗い室内で、フラッシュはたかれているがシャッタスピードが遅いため、ふたりともブレて写っている。下右は、2007年(平成19)に出版された堀江朋子の『夢前川』(図書新聞)。

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