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やはり存在した目白文化村絵はがきシリーズ。 [気になる下落合]

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 わたしの手もとには、初期の第一文化村のほぼ全景を撮影した、もっとも知られている目白文化村Click!絵はがきClick!が2枚と、第一文化村の神谷邸と北東側に隣接する敷地に建てられた箱根土地のモデルハウスとみられる西洋館が写る絵はがきClick!が1枚の、計3枚がある。いずれも人着がほどこされたカラー絵はがきで、発送された時期や宛先の住所などから、箱根土地がどのようなマーケティングをベースにDMを展開していたかを類推した記事Click!も書いていた。
 また、目白文化村の風景を写した写真が2種あることから、さらにDM用に印刷された同様の絵はがきがシリーズで存在するのではないか?……という記事も書いている。その推測は、やはり当たっていたのだ。人着による鮮やかなカラー絵はがきではないが、モノクロの絵はがきが複数制作されていた。しかも、モノクロ絵はがきのうちの2枚は、第一文化村に建つ邸の室内を写したもので、応接間とキッチンが撮影されている。そのうちの1枚が、永井外吉邸の応接間をとらえた冒頭の写真だ。
 わたしはうかつにも、この3種の絵はがきが収録された本を、14年ほど前に入手して読んでいたにもかかわらず、うっかり見落としていた。その書籍とは、2002年(平成14)に河出書房新社から出版された内田青蔵『消えたモダン東京』だ。当時、目白文化村を調べはじめたばかりで、次々と関連する書籍や資料に目を通していたため、気づかずに読み飛ばしていたらしい。なんとも情けないことに、先日、蔵書の整理をしていたときにパラパラめくっていて気づいたしだいだ。
 永井博・永井外吉邸は、1923年(大正12)に埋め立てClick!が完了した第一文化村の前谷戸の北寄りに建っていた邸宅だ。永井外吉は堤康次郎Click!の妹と結婚し、1920年(大正9)に箱根土地が設立されると監査役に就任している役員のひとりだ。また、上落合136番地に東京護謨が設立された際は、実質的な事業責任者として経営役員に送りこまれている。永井外吉が箱根土地の経営陣だったせいで、邸内の写真を撮らせてツール(DM)を作成し、販促プロモーションに利用したのだろう。
 永井外吉について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』から引用してみよう。
  
 東京護謨(株)取締役 永井外吉 下落合一,六〇一
 石川県士族永井孝一氏の二男にして拓務大臣永井柳太郎氏の従弟である、(ママ) 明治二十二年十月の出生、同二十七年家督を相続す。郷学を卒へるや直に業界に入り前掲会社の外、嘗ては駿豆鉄道箱根土地(ママ)、東京土地各会社の重役たりしことあり。家庭夫人ふさ子は拓務政務次官堤康次郎氏の令妹である。
  
 下落合4丁目1601番地(現・中落合3丁目)の永井邸は、第一文化村の北辺の二間道路に面している。清水多嘉示Click!が、1935年(昭和10)前後にその二間道路上で撮影した写真Click!でいうと、撮影者の背後40mほどのところに大きな永井邸が建っていたはずだ。初期の永井邸の竣工は、1989年(平成元)に出版された『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』に掲載された、「目白第二文化村分譲地割図/1/1.800版」から想定すると、1923年(大正12)中あるいは翌年にかけての早い時期だったとみられる。第一文化村では神谷卓夫邸とならび、かなり大きな西洋館だった。
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 ところが、おそらく当初の世帯主である永井博が死去したものか、永井外吉は大正末に既存の邸を解体して、さらに大きな邸へとリニューアルしているとみられ、この絵はがきの写真はリニューアル後、つまり昭和初期に竣工した邸内をとらえている可能性がある。その根拠は、箱根土地が当初制作した「目白第二文化村分譲地割図/1/1.800版」に採取されている家のかたちと、同じく『「目白文化村」に関する総合的研究(2)』に収録された同邸の平面図とが、まったく一致しないからだ。
 また、目白文化村の空中写真にとらえられた永井邸、あるいは1938年(昭和13)に作成された「火保図」に収録の永井邸は、前者の大正期作成の地割図に描かれた邸のかたちとは異なっているが、後者の平面図とはよく一致している。さらに、1926年(大正15)に制作された佐伯祐三の『下落合風景』Click!では、永井邸のあるはずの位置が空き地になっており、なんらかの看板が建てられているので(「永井邸建設予定地」とでも書かれていただろうか)、同作は旧・永井博邸が解体されたあと新たな永井外吉邸が建てられるまでの、その刹那の情景をとらえている可能性が高いことだ。
 昭和初期まで、つまり箱根土地本社が下落合から次の開発地域である国立Click!へ移転(1925年12月)してしまったあとまで、目白文化村のDM用絵はがきが制作されていたとすれば、なかなか売れなかった深い谷間の第四文化村Click!や、第二文化村の北側に予定されていた箱根土地の社宅建設敷地Click!の処分(第二文化村の追加分譲販売)とからめた、販促ツールづくりの一環ととらえることもできる。
 さて、冒頭写真の応接間は、永井外吉邸の南東側に突きでた位置に設置されており、窓からは南側の庭が眺められただろう。また、南面に設置された両開きのガラス張りドアから、ポーチや庭へと出ることができた。写真は、応接間の北西側にあった入口から、南東側を向いて撮影されたものだろう。南からの強い陽射しでハレーションを起しているが、画面左奥のドアが開いているので、肉眼では庭先が見えていたはずだ。また、暖炉がわりに置いてあるのは電気ストーブのようで、目白文化村にかなり遅れてガス管が引かれる以前に撮影されたものと思われる。
 これは目白文化村に限らないが、下落合の中部から西部にかけてはガス管の敷設が遅れ、その間、ストーブなどの暖房機器や台所の調理器具は電気製品が主流だったため、月々の電気代がかなり高額になって困ったというお話をうかがっている。
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文化村絵はがき2表19230522.jpg
 永井邸のもう1枚は、台所をとらえたものだ。やはりガスがいまだ引かれておらず、鍋釜は白いタイルを貼った竈で、湯は電気コンロで沸かしていたようだ。女中部屋も近い、奥の廊下の壁には古い壁かけ電話が見えているので、やはり文化村に電話が急速に普及しはじめた昭和初期に撮影されたものだろう。先の応接間もそうだが、台所も実際に使われている状態をほぼそのまま撮影しているので、このモノクロ絵はがき2葉は「文化村の暮らし」というようなコンセプトのもと、顧客へよりリアルな目白文化村での生活をアピールする目的で作られたものだろうか。
 絵はがき2枚の写真は、タテヨコの比率が異なっているが、これは『消えたモダン東京』に掲載する際、レイアウトに合わせ写真がトリミングされているのだろう。手もとにある目白文化村絵はがき(人着カラー)と比較してみると、永井邸の応接間を撮影した冒頭写真の比率が、既存のカラー絵はがきとほぼ同じ比率になっている。
 さて、もう1枚のモノクロ絵はがきは、永井邸の南西80mのところに建っていた第一文化村の神谷卓男邸Click!(下落合3丁目1328番地)を写したものだ。この写真も、同書に掲載するにあたりトリミングがほどこされ、絵はがきの比率とは異なっている。ライト風の神谷邸は、南東に向いた門前から北西の母家を撮影しており、換気をしているのか窓の仕様が細かく観察できてめずらしい。
 同じ第一文化村の中村正俊邸Click!と同様に、フランク・ロイド・ライトClick!の弟子である河野伝による設計と推定されているが、目白文化村が建設されたとき河野伝は箱根土地の設計部に勤務していた。したがって、箱根土地社内の設計チームが手がけた作品として、既存の人着カラー絵はがきの神谷邸とともに、販促にはもってこいの“商材”だったのではないだろうか。ちなみに、もうすぐ復元される三角屋根の国立駅舎も、箱根土地の河野伝が設計したといわれている。
 絵はがきの主人・神谷卓男は、東邦電力Click!の常務取締役をつとめていたが、『落合町誌』の「人物事業編」には収録されていない。なお、姻戚だとみられる東邦電力の理事兼秘書役の神谷啓三も、下落合367番地の林泉園住宅地Click!に住んでいたが、こちらは『落合町誌』に収録されている。以下、同誌から引用してみよう。
  
 東邦電力株式会社理事兼秘書役 神谷啓三 下落合三六七
 愛知県人神谷庄兵衛氏の令弟にして明治二十三年二月を以て出生、大正十一年分家を創立す、是先大正四年東京帝国大学政治科を卒業し爾来業界に入り現時東邦電力会社理事兼秘書役たる傍ら永楽殖産会社監査役たり、夫人甲代子は同郷松井藤一郎氏の令姉である。
  
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近衛邸応接室.jpg
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 箱根土地による目白文化村は、第一文化村(1922年)、第二文化村(1923年)、第三文化村(1924年)、第四文化村(1925年)、そして第二文化村追加分譲(大正末~昭和初期)と5回にわたり販売されている。(勝巳商店地所部による1940年の「目白文化村」Click!販売は除く) そのつど、新聞には販売広告が出稿され、販促プロモーションが行なわれたとみられるので、DM用に制作された絵はがきも、まだまだ存在する可能性がありそうだ。

◆写真上:モノクロの目白文化村絵はがきの1枚で、第一文化村の永井外吉邸応接間。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる永井外吉邸。同事情明細図の作成時は、旧・永井博邸のままだったかもしれない。は、1936年(昭和11)と1941年(昭和16)の空中写真にみる新たな永井邸。
◆写真中下は、目白文化村絵はがきの1枚で永井邸の台所。電話機の手前に、スーツ姿の人物の半身がブレて写っているが永井外吉本人だろうか。は、同じく絵はがきでトリミングされた神谷卓男邸。は、神谷邸を写したカラーの同絵はがき。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる第一文化村の永井外吉邸と神谷卓男邸。は、近衛町Click!の北側に竣工した近衛文麿邸Click!(下落合436番地)の応接間。は、アビラ村Click!に建っていた島津源吉邸Click!(下落合2095番地)の台所。当時は輸入品が主流で高価だった電気レンジに電気コンロ、電気冷蔵庫、換気扇、そして電気炊飯器と、ガス管が敷設されていないため“オール電化”のキッチンだった。

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