SSブログ

葛飾北斎のヒーヒー『山満多山』。 [気になるエトセトラ]

水神社.JPG
 本年も、拙サイトをお読みいただきありがとうございました。早いもので16年目に突入していますが、来年もどうぞよろしくお願いいたします。よいお年をお迎えください。
  
 これまで落合地域をはじめ、目白崖線沿いにやってきていた江戸期の画家たち、たとえば安藤広重Click!二代広重Click!三代豊国Click!長谷川雪旦Click!などの仕事をこちらでご紹介してきたが、画狂老人こと葛飾北斎もまた、1804年(享和4)ごろに目白崖線の急坂をヒーヒーいいながら上って作品を残している。
 江戸の版元・蔦屋から1804年(享和4)に出版された、葛飾北斎Click!の絵本狂歌『山満多山(山また山)』全3集だ。本所の市街地生まれの北斎にしてみれば、「じゃあだんじゃねえや、ええ? ヒー、山また山ばっかじゃねえか、ヒーヒー、こんちくしょうめ!」と、仕事とはいえ崖線の急坂を上り下りする切ない悲鳴が聞こえてきそうなタイトルだ。当時の画狂老人・北斎は45歳、江戸期の感覚からすればすでに「老人」と呼ばれる年齢に達していた。今日でいえば、60~70歳ぐらいの感触だろうか。
 北斎は、このあとまだ45年も生きて1849年(嘉永2)に90歳で没しているので、結果的にみればいまだ壮年時代ということになるが、当時の人々にしてみればあと5年も生きられれば十分な、まちがいなく老境と呼ぶにふさわしい年齢にさしかかっていた。同書に掲載された、大原亭炭方の跋文から引用してみよう。
  
 あし引の山の手なる景地さぐり画は 北斎老人が例のふんてをふるはし たはれ歌はおのれ炭方便々館せゝうに相槌して これを撰みついに三ツの冊子となせり これや山姥が山めぐりする心ちぞと なつけてもてる斧の柄のくち走りて巻のしりへに志るすになん
  
 大江戸(おえど)郊外の乃手Click!歩きは、「山姥が山めぐり」するような感じだなどと書いているので、ひょっとすると絵本を描いた北斎から、いっぱい「山姥(やまんば)」や「鬼」、「蛇(じゃ)」Click!などが登場するヒーヒーのグチを聞かされたものかもしれない。跋文を寄せている人物も「炭方」と名のるなど、絵になる景勝地を求めて山歩きしたとはいえ、当時の江戸市民が外周の丘陵地をどのように見ていたのかがわかって面白い。
山満多山表紙裏.jpg
 さて、『山満多山』には北斎による32景が収められている。その中で、落合地域に近い風景を描いた画面が7景ほどある。なお、北斎は付近の風景を描いているのではなく、あくまでもそこにいた人物をモチーフの中心にすえているので、「山また山」にしては「山」そのものの風景は意外に少ない。
 ●第1集……高田馬場/小石川関口の瀧/江戸川の蛍
 ●第2集……目白観月/早稲田関口
 ●第3集……雑司ヶ谷鬼子母神/諏訪の池
 まず、第1集の「高田馬場」から観ていこう。物見遊山(ピクニック)に出かけた女の3人連れが、近くの高台に敷物を拡げて弁当を食べ茶を飲んでいる。おそらく、この高台は幕府練兵場・高田馬場(たかたのばば)Click!の北側にある三島山(現・甘泉園公園)、あるいはバッケ下Click!の地名があった崖上(亨朝院)あたりのピークだろう。持参した遠眼鏡(望遠鏡)で、富士山の見える山々や丘下の風景をながめているのだろう。「ねえ、ちょいと、いまの見たかい?」「見たわよう」「富士見茶家Click!あたりで、ふたりの爺いClick!が水茶屋の若い娘を追っかけてるのさ」「もう、おきゃがれClick!てなもんだわ」「……あっ、しょうもないすけべ爺いが、娘に張り倒されてるのさ」「そらごらんな、ざまぁないね」「……あれあれ、バッケから落っこっちまった。いい齢してさ、ありゃ死んでも治らないね」。空を飛んでいるのはホトトギスだと、添えられた狂歌から知れる。
 ほとゝぎす高田にき啼く初声を けふ野遊びの家産にせん
山満多山「高田馬場」.jpg
 次は、「小石川関口の瀧」だ。神田上水Click!が分岐した少し下流には、幕府が設置した大洗堰Click!があった。3人の男が箕を使い、アユClick!でも獲っているのかへっぴり腰が面白い。小僧を連れた、裕福そうな日傘の女がそれを眺め、長煙管で一服タバコを呑んでいる光景のようだ。女が見物しているので、男たちはことさらアユを捕まえていい格好をしたいのか、それとも近くの料理屋の女主人から頼まれて漁をしているのか、一所懸命に川をさらっている。大洗堰の滝口のためか、水が逆巻いて漁がしにくそうだ。水が澄んだ神田上水つづきの江戸川らしい、夏の涼しげな光景だ。
 魚をとる音は太鼓のとんとはし 川は巴に水もさか巻く
山満多山「小石川関口の瀧」.jpg
 つづいて、「江戸川の蛍」を観てみよう。大洗堰の下流、江戸川沿いの土手に舞うホタルを描いたものだ。もともと早稲田田圃から江戸川の大曲(おおまがり)にかけては、中世まで大きな白鳥池Click!があったエリアなので、あちこちに湿地帯が残っていただろう。武家の奥方と娘、それに犬を連れた足軽の家人が描かれ、夏の宵にホタル狩りをしている。享和年間は、いまだ江戸川がホタル狩りの名所だったが、時代が下るにつれて神田上水の面影橋あたりが名所になり、幕末には落合地域のホタル狩りがブームとなっていく。
 らんぐひの栗のくちてや江戸川の 岸に光れる夏虫の影
 以上が、『山満多山』の第1集に描かれたご近所の風景だ。ここまでが夏の情景で、北斎は汗みどろになりながら山また山を越えてきたのだろう。
山満多山「江戸川の蛍」.jpg
 次に、第2集の「目白観月」を観てみよう。おそらく、椿山(目白山)Click!の丘上か中腹あたりに建っていた家の物干し台から、ふたりの女とひとりの子どもが中秋の名月を眺めている絵だ。右手の斜面下に見えている屋根が、どうやら寺院らしいかたちをしているので、目白坂の中途に建立されていた新長谷寺Click!目白不動堂Click!なのかもしれない。椿山に限らず目白崖線は、南側が急峻な崖地になっている地形が多いので遮るものがなく、江戸市街地まで見わたせる最高のロケーションClick!だったろう。
 鳥の名の目白ときゝて秋の夜の よくもさしたるもち月の影
山満多山「目白観月」.jpg
 同じく第2集には、「早稲田関口」が収録されている。大洗堰の上流、神田上水の南側に拡がる早稲田田圃Click!の情景を写したものだ。ふたりの商家の女に、見世の小僧がひとり付き添っている。女たちを追い抜いた鍬をかつぐ若い農夫が、「姉ちゃんよう、きれいだなぁ、どっからきた?」とでも声をかけたのか、女たちはクスクス笑っているようだ。あるいは、「よう、姉ちゃんよう、そこに肥溜あんべ」とかいって、「あれ、くさっ!」と急いで鼻を押さえているのかもしれない。さらには、手鼻をチーンとかんだ品のない農夫に、女たちが「あれま、ちょいと、やだよう」と呆れているの図だろうか……。とにかく、稲刈りも済んだ秋の穏やかな早稲田田圃の風景だ。
 田の面は碁盤とみゑて関口に 中手おくてもかけて干らん
山満多山「関口土手」.jpg
 次に第3集に収録の、「雑司ヶ谷鬼子母神」から観ていこう。鬼子母神(きしもじん)Click!の境内に置かれた石の仁王像を、男が立ちどまってジッと見つめている。うしろには、参詣にきたのだろう若い娘がふたり、背後から男の様子を眺めている。右側の娘は、なぜか右手を頭に添えている。「ねえ、あの男さ、なにかブツブツ仁王様と話してるよ」「おつむが、いかれちまってんじゃないのかい」「まだ若いだろうにさ、かあいそうにねえ」……とかなんとか、娘たちの会話が聞こえてきそうだけれど、またオバカ物語になるといけないのでこれっきり。描かれている境内の樹木は、ケヤキではなくスギだろうか。
 会式はといへば落葉の錦をも 重ねてみせる雑司ヶ谷道
 「会式」とは、池上本門寺で行われる御会式のことで、晩秋になると池上から雑司ヶ谷まで、団扇太鼓をもった信者たちの万灯練行列Click!が明け方までつづいた。この行列Click!は、昭和初期まで行われていたが、市街化とともに騒音の苦情が増えて中止されている。また、ここで書かれた「雑司ヶ谷道」は、目白崖線の下を通る落合地域の雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)ではなく、江戸の市街地方面から南北に貫く旧・鎌倉街道のことだ。
山満多山「雑司ヶ谷鬼子母神」.jpg
 最後に、真冬の風景を描いた「諏訪の池」を観てみよう。あたりはすっかり冬景色になり、池には氷が張っている。船頭が漕ぎだす池の小舟に乗った3人の女が、氷の砕ける様子を見物して遊んでいる。小さな堂とアカマツがある池畔は、諏訪村(現・高田馬場1丁目の一部)に建立された諏訪社Click!や玄国寺近くの溜池のひとつだろう。添えられた狂歌に「神の恵み」とあるので、諏訪社の北側にあった溜池なのかもしれない。
 みすゞかる諏訪の氷はうすからぬ 神の恵みの厚きみわたり
 信州諏訪湖の“御神渡り”とかけた歌だが、女の投げた石ぐらいでは割れない氷も、池に舟を浮かべた時点でこなごなに砕けただろう。いまでも、厳寒の季節になると下落合の池には氷が張るが、子どもが突っつけば簡単に割れてしまうほど薄い。
山満多山「諏訪の池」.jpg
 さて、葛飾北斎は夏の暑い盛りに目白山界隈を描かされ、涼しくなってからのスケッチはかなり楽だったものの、真冬になってからの写生には山の寒さに震えあがって、再びヒーヒーいいながらやってきたのではないだろうか。『山満多山』を企画し、「さて、じゃ、中島さん、冬の三集も頼みましたよ」と仕事をだしてくれた蔦屋重三郎は、北斎にしてみれば「鬼満多鬼っ!」のクライアントに見えていたのかもしれない。

◆写真上:おそらく北斎も立ち寄っているとみられる、駒塚橋上から眺めた関口芭蕉庵Click!西の胸衝坂(胸突坂)をはさんで隣接する神田上水の水神社(すいじんしゃ)。
◆写真下からへ、『山満多山』(蔦屋/1804年)の第3集表紙裏、第1集に収録された「高田馬場」「小石川関口の瀧」「江戸川の蛍」、第2集に収録された「目白観月」「早稲田関口」、第3集に収録された「雑司ヶ谷鬼子母神」「諏訪の池」。

読んだ!(18)  コメント(31) 
共通テーマ:地域

下落合で誕生した赤尾好夫の旺文社。 [気になる下落合]

赤尾好夫邸跡.JPG
 旺文社というと、中学校の教科別にそろっていた参考書類や、高校時代に親が短期間とってくれていた受験雑誌「蛍雪時代」(ほとんど読みはしなかったが)が思い浮かぶ。あるいは、小学校時代に出版されはじめ、父母やPTAが推薦しそうな有名作ぞろいだった黄緑色の旺文社文庫を思いだす。もっとも、わたしが旺文社文庫で買ったのは、注釈がやたら多かった夏目漱石の作品ただ1冊のみだったのを憶えている。
 もうひとつ、旺文社には有名な「赤尾の豆単」と呼ばれた、大学入試用の『英語基本単語集』というポケットサイズの参考書があったようなのだが、わたしの世代は森一郎の『試験にでる英単語』(青春出版社)を使うのが主流になっていたので、一度も開いてみることはなかった。大学入試によく出る英単語3,800語を選んだ「赤尾の豆単」は、同社の沿革によれば1935年(昭和10)に初出版されているので、親父も高等学校(現在の大学予科)の入試で愛用していたようだ。
 旺文社は当初、「欧文社」という社名だったのだが、日米戦争がはじまった1942年(昭和17)に、敵性語を意味する「欧文」を社名にするとはケシカランと(ほとんどいちゃもんレベルの難癖だ)、軍部からの圧力で社名変更をさせられた経緯がある。敗戦後、「聖母病院」はもとの国際聖母病院Click!へと名前がもどり、「東條靴店」はワシントン靴店Click!へと店名がもとにもどっているが、「欧文社」はもとの社名にはもどることなく旺文社のまま現在にいたっている。
 赤尾好夫が欧文社を創業したのは、1931年(昭和6)に下落合1986番地(のち下落合3丁目1986番地/現・中井2丁目)の自邸内においてだった。以前こちらでもご紹介している、熊倉医院Click!を中心に1935年(昭和10)ごろ撮影された振り子坂沿いの家並みには、山手坂の上にひときわ大きくそびえる西洋館の切妻がとらえられている。それが、広い敷地内に編集部や添削部などのオフィスが建っていた赤尾好夫邸だ。
 わたしが、下落合に赤尾好夫邸と旺文社(欧文社)があったのを知ったのは、それほど昔のことではない。ちょうど同社が創立された翌年、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」に、赤尾好夫の名前が収録されていなかったのだ。それまでは、上記の振り子坂界隈の写真と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」とを見比べながら、山手坂の上には「赤尾」という人が住んでいた巨大な西洋館が建っていたのだな……ぐらいの認識でしかなかった。赤尾好夫と旺文社(欧文社)の存在を知ったのは、下落合における矢田津世子Click!転居先Click!を追いかけている際、「矢田坂」の上を調べているときだった。
 さて、下落合の赤尾邸で創業した欧文社は、翌1932年(昭和7)になると受験生を対象にした欧文社通信添削会を設立し、受験事業の全国展開をスタートしている。また、添削会の展開と同時に機関誌「受験旬報」も定期刊行しはじめるが、これが1941年(昭和16)に「蛍雪時代」と改題される受験雑誌の母体となった。「受験旬報」は、旧制の高等学校や専門学校、大学予科の受験生をターゲットに、月ごとに3回も定期発行されている。
赤尾邸1935頃.jpg
受験旬報194004下旬号.jpg 旺文社通信添削会1940.jpg
受験旬報目次.jpg
 通信添削会が大ヒットし、数多くの受験生会員を全国レベルで獲得することができたのは、試験問題の正誤を単純に添削するだけでなく、赤ペンでていねいに誤りの原因や傾向を書き添え、ときには受験生を励まし鼓舞する言葉までが添えられていたからだという。ていねいな添削をするためには、大勢の添削要員を社内に抱えなければならず、創業時には17名だった添削スタッフはみるみる増えていったようだ。
 ほとんどの社員が、通信添削会の業務にかかりきりで忙殺されてしまうため、「受験旬報」の編集・発行は赤尾好夫ともうひとりのスタッフのふたりだけでまかなっていたらしい。同誌の内容も、巻頭言をはじめ多くの原稿は赤尾自身が執筆しており、その慣習は「蛍雪時代」になっても変わらずにつづいている。1935年(昭和10)には、上記の『英語基本単語集』(赤尾の豆単)と『入学試験問題詳解(全国大学入試問題正解)』の2冊を出版している。そして、1940年(昭和15)には同社初となる『エッセンシャル英和辞典』を出版し、翌1941年(昭和16)には「受験旬報」を受験総合雑誌「蛍雪時代」と改題して、教育出版界にゆるぎない地歩をかためるまでになった。
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、赤尾好夫の自邸つながりでオフィスとみられる別棟が3棟、耐火モルタル造りの母家から離れた社屋とみられる2棟の建物を確認することができる。これらの建築は、増えつづける添削スタッフを収容しオフィスを増やすために、増築に次ぐ増築を繰り返した結果なのだろう。赤尾邸の敷地は、東西南の方角へそれぞれ凸状に張りだす妙な形状をしているが、周囲の住宅敷地を買収しながら社屋を増やしていったのかもしれない。
 赤尾邸内にあった欧文社が、社員たちを邸内では収容しきれなくなり、牛込区横寺町55番地(現・新宿区横寺町55番地)へ新社屋を建てて移転したのはいつなのか、同社のWebサイトをのぞいてもいまひとつハッキリしないが、おそらく1935年(昭和10)すぎあたりではないかと想定している。
受験旬報奥付194005.jpg
蛍雪時代194110.jpg 蛍雪時代194610.jpg
蛍雪時代194310.jpg
 赤尾好夫が受験生に向けた言葉に、有名な「勉強十戒」というのがある。わたしはまったく知らなかったが、1960年代に作られたものだそうで、なんだか「勉強」や「学習」というワードを「仕事」に変えれば、そのまま高度経済成長を支えたモーレツ企業の営業部や、販売部門に貼ってある訓戒スローガンのようだ。
  勉強十戒
 一、学習の計画を立てよう、計画のないところに成功はない。
 二、精神を集中しよう、集中の度合が理解の度合である。
 三、ムダをはぶこう、戦略の第一は時間の配分にある。
 四、勉強法を工夫しよう、工夫なき勉強に能率の向上はない。
 五、自己のペースを守ろう、他をみればスピードはおちる。
 六、断じて途中でやめるな、中断はゼロである。
 七、成功者の言に耳をかたむけよ、暗夜を照らす灯だ。
 八、現状に対し臆病になるな、逃避は敗北だ。
 九、失敗を謙虚に反省しよう、向上のクッションがそこにある。
 十、大胆にして細心であれ、小心と粗放に勝利はない。
 高校時代にはデッサンや絵ばかりを描きつづけ、20年ほど早い「ゆとり世代」を満喫していたわたしには、とてもマネのできない「お勉強」法だ。自身の好きなことであれば、「十戒」でも「二十戒」でも設け、寝食も忘れて集中しがんばるのかもしれないが、退屈な学校の「お勉強」ではカンベンしてほしい。自身にとっての「戒め」は人から与えられるものではなく、18歳にもなれば自らの思考(思想)や性格と照らし合わせ、自らの知見や経験から学びとり設定していくものではないだろうか。
 赤尾好夫は戦時中、軍部に協力し大々的に戦意高揚を煽ったとして、戦後にGHQからパージ(公職追放)を受けているが、旺文社の受験雑誌や参考書、辞書の人気は衰えることはなかった。むしろ、1960年代ごろから激しさを増していった「受験戦争」では、旺文社の本は大学入試には不可欠な参考書や補助教材となっていく。
赤尾好夫.jpg 豆単.jpg
赤尾邸1938.jpg
赤尾好夫邸1936.jpg
赤尾好夫邸1947.jpg
 赤尾好夫が、いつまで下落合3丁目1986番地にいたのかはさだかでないが、二度にわたる空襲でも自宅は被害を受けていないので、戦後まで暮らしていたのではないだろうか。戦後の空中写真でも、その大きな西洋館の屋根や離れ家を確認することができる。

◆写真上:下落合3丁目1986番地の、旺文社(欧文社)=赤尾好夫邸跡。(左手一帯)
◆写真中上は、1935年(昭和10)ごろに撮影された赤尾好夫邸。中左は、1940年(昭和15)に発行された「受験旬報」4月下旬号。中右は、欧文社通信添削会の広告。は、1941年(昭和16)に「蛍雪時代」へ改題直前の「受験旬報」の目次。
◆写真中下は、1940年(昭和15)の「受験旬報」5月下旬号の奥付で、下落合から横寺町55番地へ移転しているのがわかる。中左は、1941年(昭和16)に改題された「蛍雪時代」10月号。中右は、戦後の1946年(昭和21)に発行された「蛍雪時代」10月号。は、敗戦色が濃くなった1943年(昭和18)発行の「蛍雪時代」10月号目次。
◆写真下は、赤尾好夫()と代表的な著作である1935年(昭和10)に初出版の『英語基本単語集』(豆単/)。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」(左が北方向)にみる下落合3丁目1986番地(現・中井2丁目)の赤尾邸。は、1936年(昭和11/)と1947年(昭和22/)の空中写真にみる空襲から焼け残った赤尾邸。
おまけ
現在も残る昭和初期に建設された、欧文社=赤尾好夫邸の斜向かいにあたる和館。
赤尾邸斜向かい.JPG

読んだ!(22)  コメント(31) 
共通テーマ:地域

「サラリーマンが身についたわね」。 [気になる下落合]

上野壮夫1928.jpg
 ずいぶん以前に、花王石鹸とミツワ石鹸の社長宅が、“呉越同舟”のように下落合の町内にあったことをご紹介Click!している。大正期から、花王石鹸の2代目・長瀬富郎邸Click!近衛町Click!の下落合1丁目416番地(現・下落合2丁目)に、ミツワ石鹸の三輪善太郎邸Click!は下落合1丁目350番地(現・下落合3丁目)にそれぞれ建っていた。お互いの社長宅は、直線距離で約450mほどしか離れていない。
 また、長谷川利行Click!の蒐集家でも知られ、ミツワ石鹸の取締役兼宣伝部長だった、「♪ワ、ワ、ワ~輪が3つ」の衣笠静夫Click!も、三輪邸の北側にあたる下落合1丁目360番地に住んでいる。ふたつの会社が面白いのは、ミツワ石鹸が日本橋薬研堀Click!(現・東日本橋)に本社があったのに対し、花王石鹸(長瀬商会)は日本橋馬喰町にあり、お互いの本社も約450mしか離れていなかったことだ。そしてもうひとつ、戦後は花王石鹸の宣伝部長でありクリエイティブディレクターだった人物もまた、落合地域とは深い関係で結ばれている。花王石鹸の商品が次々とヒットし、ミツワ石鹸と覇を競いあっていた当時の宣伝部を牽引していたのは、小坂多喜子Click!の夫である上野壮夫Click!だった。
 上野壮夫が、四谷署の特高Click!に検挙され拷問のすえに「転向」したのは、武田麟太郎Click!が主宰していた「人民文庫」が廃刊する数ヶ月ほど前、1937年(昭和12)秋のことだ。とたんに生活は苦しくなり、小坂多喜子は「人物評論」でいっしょだった大宅壮一Click!に相談し、夫の就職先を世話してもらっている。その就職先が、1938年(昭和13)10月に入社した長瀬商会(花王石鹸)宣伝部だったのだ。
 2代目社長の長瀬富郎は同志社出身で、もともと左翼思想に共感を抱いていたといわれる。花王石鹸には、すでに宣伝部長として歴史学者・服部之総や、本郷教会の牧師で社会主義者の太田英茂、築地小劇場の飛鳥鉄雄らが勤務していた。上野壮夫は、そのような社内環境であまり違和感なく受け入れられた。いや、むしろ居心地がよく上野が敗戦後、1961年(昭和36)まで花王に勤務しつづけられたゆえんだろうか。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』から、長瀬富郎の項目を引用してみよう。
  
 花王石鹸長瀬商会社長  長瀬富郎  下落合四一六
 花王石鹸本舗として世に知られる、長瀬家は岐阜県福岡村の旧家にして代々酒造業を営みし家柄であるが先代富郎夙に上京精励努力して明治二十年日本橋に分家を創立して商業に従事。同二十三年花王石鹸の製造販売を開始今日の業礎を築成せり、当主富郎氏は其三男にして明治三十八年二月を以て出生、同四十四年家督を相続し前名富雄を改め襲名す。同志社大学に学び曩に豪洲南方方面を視察し、更に昭和三年商業視察の為に一ヶ年欧米を漫遊す。夫人房江は山梨県人萩原拳吉氏の三女にて東洋英和女学校の出身である。
  
 上野壮夫は、花王石鹸へ入社後も文学活動をつづけているが、プロレタリア文学からはいちおう足を洗うかたちになった。入社から5年後の1943年(昭和18)12月、仕事の腕を見こまれた上野は、満州の奉天に設立された花王石鹸奉天工場の工場長として赴任することになる。現地では、元プロレタリア詩人で何度も逮捕歴のある活動家がやってくるというので、幹部たちが極度に緊張していたようだが、上野の人なつっこい性格とおおらかさが幸いして、すぐに工場へ溶けこめたようだ。
 敗戦と同時に花王の奉天工場は閉鎖となるが、付近の工場が軒並み周辺の中国人たちによる略奪や破壊に遭うなか、花王の工場は無事だった。それは、上野が日本人と中国人の給与や待遇を平等にしていたため、周辺の住民に花王の評判がよかったことと、彼の交渉力や折衝力=経営手腕が優れていたからだろう。左翼運動のさなかにも、上野はさまざまな責任あるポストに就いて、危機的な状況を何度も切り抜けている。
長瀬富郎邸跡.JPG
長瀬邸.jpg
三輪善太郎邸跡.JPG
 工場に勤務していた社員とその家族たちを全員帰国させ、上野壮夫は工場と設備をすべて中国側に明け渡す手つづきを終えると、家族を連れて敗戦から1年3ヶ月後、1946年(昭和21)11月になってようやく帰国している。そして、翌1947年(昭和)4月に花王本社に復帰し、総務部長と宣伝部長に就いている。この間、花王の分社化や組織の変遷があり、1951年(昭和26)に上野はいったん花王油脂を退社しているが、翌1952年(昭和27)4月に再び花王石鹸へ入社し、コピーワークを中心に宣伝部のクリエイティブディレクターとして、戦後の花王広告を牽引していくことになる。
 中国から引き揚げてきたあと、上野壮夫と小坂多喜子は西武池袋線・江古田の借家に住むが、1949年(昭和24)に高円寺へ家を建てて転居している。花王石鹸で、上野が広告宣伝の責任者として仕事をしていたころの様子を、1997年(平成9)に朝日書林から出版された、堀江朋子『風の詩人-父上野壮夫とその時代-』より引用してみよう。
  
 宣伝部作成室にはデザイナーの奥田政徳、中尾彰、池田真幸、写真家の石川信一などが居た。(中略) 戦後すぐに壮夫がひねり出したキャッチフレーズが「清潔な国民は栄える」というのである。戦後の荒廃と疲弊からの人々の再生を願って書いたものである。キャッチフレーズと書いたが正確に言えばスローガンである。以来このスローガンは花王石鹸の企業理念を表わす標語として使用された。(中略) フェザーシャンプーの広告で、芸大出の新進気鋭のデザイナー天野秀夫氏とともに第二十四回産業デザイン振興運動総理大臣賞、毎日広告賞を受賞する。「髪と若さと」というのがその時のキャッチフレーズである。その後、「ムチャです、大切な髪を石鹸や洗剤で洗うのは……」とか、「男だって使うべきよ」(コピー製作永山十四氏)の広告をくりかえし、フェザーシャンプーはぐんぐん売上げをのばした。特に「ムチャです」というキャッチフレーズは効果絶大で、それまで石鹸や毛糸用洗剤で髪を洗っていた人達があわててフェザーシャンプーで髪を洗い出した。
  
 日本に広くシャンプーの習慣を根づかせたのは、上野壮夫のコピーかもしれない。上野は、新聞広告電通賞や朝日広告賞なども立てつづけに受賞している。
 その後、1961年(昭和36)に花王石鹸を退社(同社顧問に就任)するが、日本広告技術者協議会の会長をはじめ、コピーライターズクラブの会長、日本デザイナー学院の学院長などを歴任し、その間に武蔵野美術大学デザイン科や、中央美術学院、久保田宣伝研究所などの講師や教授も勤めている。広告誌からの原稿依頼も増え、「宣伝会議」「雑誌広告」「ブレーン」などの常連執筆者となっていった。これら多忙な仕事をこなす中で、上野壮夫は文学活動をやめてしまったのだろうか?
長瀬富郎二代.jpg 長瀬商会花王石鹸本社1930.jpg
花王石鹸奉天工場.jpg
花王本社オフィス1960.jpg
花王石鹸広告1957.jpg
 小坂多喜子は、「夫から文学の道を奪ったのはわたしだ」といっていたようだが、彼女のあまり知らないところで、戦前にも増して膨大な詩や小説、エッセイ、評論などが産みだされていた。それらは、メジャーな文芸誌に掲載されることもあれば、「文芸復興」のような同人雑誌に発表されたり、あるいは未発表のまま上野の書斎で眠っていた作品群などがあった。彼の死後も、随筆集や詩集が出版されている。
 1949年(昭和24)5月、新日本文学会から『日本プロレタリア詩集1928~1936』が出版された。上野壮夫の作品は、1932年(昭和7)に書かれた『スパルタクスの道を』が収録されている。同書の前書きは中野重治Click!が担当し、解説は壺井繁治Click!が書いている。この時期、上野壮夫も新日本文学会に参加していたが、すぐに退会している。そのきっかけとなったのは、同会の会合で宮本百合子Click!が放ったひと言だった。
 「上野さん、サラリーマンが身についたわね」。もちろん、プロレタリア文学運動の前線から「転向」して離脱し、花王石鹸に入社したことに対する、たっぷりと皮肉をこめた彼女の言葉だった。もはや、新日本文学会の中に自分の居場所はないと一方的に感じた彼は、このひと言で早々に同会を離脱している。
 堀江朋子のインタビューに、画家で版画家の飯野農夫也は次のように答えている。
  
 「あの当時、文学が“個”に沈みこまなかったのは間違っていなかったと思います。しかし、あれだけの自己犠牲はいったい何だったのだろうと思います。上野壮夫は文学を志して、政治にふれたのです。ですから転向をせまられ、ついには文学者としての筆を折らざるを得なかったことは不運だったと思います。上野壮夫はその無念さと寂しさを生涯もち続けたのではないですか(中略) 私にとって、当時の上野壮夫は中野重治と同等の人でした」(同書より)
  
 上野壮夫は、決して線が細い性格ではなかったと思うのだが、詩人らしく繊細で真面目で傷つきやすい心の襞も備えていた。だから、人の心の中もよく読み通すことができ、そのときどきの状況や環境の正確な把握や、バランスの良い細かな気配りができるため、運動のさなかにも多彩な組織の“長”に推薦されることが多かったのだろう。
  
 その黒い階段を下り / ばらばらの墓石をあつめてみたところで
 夜と霧と / あれら無数の死の意味を / 知ることはもうできやしない
 きみらが流した血の赤土の上に / 三三三メートルの鉄塔が立ち
 電離層からくるかすかな散乱波は / あたかも死者の声に似て慄へてゐるが
 その意味をだれも解くことはできやしない
                   (『墓標』抜粋/「文芸復興」1961年2月)
  
花王石鹸広告1954朝日広告賞.jpg
髪と若さと1957.jpg
上野壮夫1956.jpg 堀江朋子「風の詩人」1997.jpg
 宮本百合子の言葉に、「サラリーマンだって、賃労働で食ってる正真正銘の労働者だろう。労働者が身についてなにが悪い? どういう意味だ、ええ? 小石川のお嬢~さんClick!」と開き直れないところが、詩人・上野壮夫の上野壮夫たるゆえんなのだろう。

◆写真上:1928年(昭和3)に撮られた、全日本無産者芸術連盟(ナップ) 時代の上野壮夫。
◆写真中上は、下落合416番地の長瀬富郎邸跡。は、1937年(昭和12)竣工の長瀬邸(新邸)。は、下落合350~360番地の三輪善太郎邸跡と衣笠静夫邸跡。画面の右手全体が三輪邸跡で、左手前がミツワ石鹸の宣伝部長だった衣笠邸跡。
◆写真中下は、2代目・長瀬富郎()と1930年(昭和5)に撮影された日本橋の花王石鹸長瀬商会本社()。中上は、上野壮夫が1943年(昭和18)に赴任した花王石鹸満州奉天工場。中下は、上野在籍中の1960年(昭和35)に撮影された花王石鹸の本社オフィス。は、1957年(昭和32)に制作された代表的な花王石鹸広告。
◆写真下は、1954年(昭和29)の上野作品で「お肌が よく知っています」広告。は、1957年(昭和32)の上野作品で「髪と若さと」広告。「ムチャです、大切な髪を石鹸や洗剤で洗うのは……」のコピーともども、花王フェザーシャンプーの大ヒットを記録する原動力となった。下左は、1956年(昭和31)に同社宣伝部で撮影された上野壮夫。下右は、1997年(平成9)に出版された堀江朋子『風の詩人』(朝日書林)。

読んだ!(18)  コメント(20) 
共通テーマ:地域

手布と弥勒と僧都(酒と女と坊主)。 [気になるエトセトラ]

国芳「御ぞんじ山くじらかばやき」1831.jpg
 うなぎの蒲焼きが記録されたのは、武州狭山で江戸の最初期に書かれた『料理物語』が初出だとされている。でも、どのような料理法がうなぎの蒲焼きとされていたかは、いまひとつハッキリしない。あと追いの付会で多種多様な説があるけれど、同書には挿画がなかったため、まさにこれだと規定できる事実としての証拠が存在しないのだ。ただし、「江戸前」Click!のうなぎは古く室町期の城下町から有名だったとみられ、今日の蒲焼きと同一の姿をしていた可能性が高い。
 蒲焼きが、現在のものとまったく変わらない姿として確認できるのは、1600年代末の元禄年間に出版された好色本『好色産毛』だとされる。江戸の街中で、うなぎの蒲焼きを商っていた店としては、元禄年間に創業された「大和屋」がいちばん古いことになっている。大和屋は下谷の佛店(ほとけだな)、すなわち現在の東上野(JR上野駅付近)にあった街だ。ただし、うなぎの本場は日本橋から深川にかけてなので、記録された見世は大和屋がもっとも早いとみられるが、それよりも古い蒲焼き屋はすでにどちらかの地域で店開きしていたのかもしれない。
 この下谷佛店の近くには、1700年代の半ばごろから岡場所(私娼窟)が形成されていた。つまり、川柳の「かばやきを食って隣へもぐりこみ」や、「かばやきとばかりですまぬ所なり」に象徴的な、岡場所へ通う前に男が精をつける料理として、うなぎの蒲焼きが注目されていたようだ。この岡場所は、江戸の街では通称「ケコロ」Click!と呼ばれており、うなぎの蒲焼きと同様に濃口醤油ベースの甘辛だれをつけ、串に刺した鶏肉を焼いて精をつけるやき鳥Click!も、この街で生まれたことはすでに記している。
 ケコロの常連客は、大江戸(おえど)の一般市民というよりも、上野山Click!で暮らしていた僧侶が主体だった。当時の上野山には寛永寺Click!ばかりでなく、同寺の別院を含め大小無数の寺々が建立されており、ケコロの岡場所に直近で面していた寺院には、たとえば普門院、常照院、顕性院、明静院、修善院、正法院、一乗院、吉祥院、宝勝院、高岩寺、大久寺、龍泉院、現龍院、寿昌院、養玉院、仙龍寺、蓮華寺などなど数えあげたらキリがない。これらの寺々の住職はもちろん、上野や谷中に展開する多くの寺院の僧職たちが、こぞってケコロに通ってきていただろう。
 江戸期でもっとも古い蒲焼きの図版は、1700年代初頭の享保年間に近藤清春が描いた『江戸名所百人一首』で、深川八幡社の参道にある小見世で蒲焼きを焼いている様子が描かれている。「めいぶつ大かばやき」の行燈が見えるので、おそらく下谷の佛店以前から深川の蒲焼きは名物化していたのではないだろうか。ちなみに、当時の蒲焼きはそのまま精をつけるために食べるか、酒の肴として賞味するのが主流で、「うなぎめし」Click!(うな重やうな丼)の登場は江戸の街で芝居が盛んになったり、料理屋が増えたりするもう少しあとの時代になってからだ。
 もちろん上野山の生臭坊主たちは、破戒をする際には「蒲焼きを食ってからケコロへ女を買ってしけこんでくる」などとはいわず、ひそかに隠語を駆使して岡場所へ出かけていっただろう。ちなみに、うなぎの隠語は「手布(てふ)/山芋」、娼婦は「菩薩」などと呼ばれていた。ほかに、黒潮・親潮にのってやってきた大江戸の魚市場にあがる、活きのいい魚介類は「亡者」あるいは「水梭花(すいさか/すいしゅんか)」などと称して食べている。魚介類でいえば、たとえばアユは「刺刀(さすが)」Click!、タイは「首座」、タコは「惣身」あるいは「天蓋」、カツオは「独鈷(どっこ)」など、ほぼすべての魚介類には隠語が用いられていた。
 「亡者」を食らうなら、酒は「弥勒」または「般若湯」、茶を飲むなら「脇」、餅を食うなら「雲門」、やき鳥(鶏肉)を食うなら「鑽籬菜(さんりさい)」などと称している。ケコロへ繰りだすのに、蒲焼き屋の「手布」ではなく、やき鳥屋で「鑽籬菜」を肴に「弥勒」をひっかけていった坊主たちも少なくないだろう。おそらく、すき焼き屋で鴨肉Click!を、ももんじ屋Click!でアオジシ(カモシカ)やイノシシ、シシ(シカ)の鍋を食っていた坊主もいたにちがいないが、この記事は仏教の隠語がテーマではないのでこれぐらいに。
近藤清春「江戸百人一首」深川八幡参道蒲焼き.jpg
深川かね松.JPG
上野1.JPG
 こういう、堕落・腐敗しきった破戒僧や生臭坊主たちを見ていた江戸市民は、織田信長の比叡山を見る眼差しと同様に強い反感を抱き、冷ややかに眺めていたのはまちがいないだろう。それは、ちまたに残された数多くの狂歌や川柳でも、うかがい知ることができる。これは現代でもつづいており、京都ではめずらしくないことが、東京では冷ややかで怪訝な顔で見られることでも明らかだ。
 夜になると、祇園や先斗町など芸妓やホステスのいる盛り場へ僧衣のまま繰りだす坊主たちが、東京で同じことをして周囲を凍りつかせたエピソードが紹介されている。2015年(平成27)出版の井上章一『京都ぎらい』Click!(朝日新聞社)から引用してみよう。
  
 「夜あそびは、きらいやないですよ。東京でも、よう飲みにいきます。このあいだ、銀座のクラブに、坊さんのかっこしたまま入ったんですわ。そしたら、ホステスもほかの客も、びっくりしたような目で、こっちをながめよる。それで、自分がうっかりしてたことに、気がついた。しもた、ここは京都とちがうんや、東京やったんや、てね」/あとでもふれるが、京都の僧侶が夜あそびででかけるのは、伝統的な花街にかぎらない。ホステスクラブへおもむくこともある。そして、肩や腕もあらわなドレスのお姐さんに、袈裟姿のままじゃれついたりもしてきた。僧服の僧侶たちが、京都のクラブでは、それだけ自然にうけいれられている。そのいでたちで、おどろかれることはない。/しかし、さすがに他の街、たとえば東京あたりでは、僧服姿が異様にうつる。ありえない衣裳として、とらえられる。そして、夜の京都になれすぎた僧侶は、時に京都以外のそんな常識を、失念してしまう。他の街でも、京都流の袈裟姿をあらためず、店の気配をこわばらせることが、おこりうる。
  
 ホステスや客たちの「おどろかれる」「気配をこわばらせる」だけで済んで、この坊主はむしろ幸運だったろう。外来宗教の僧たちが、戦争末期に見せた醜態をよく知る客=(城)下町人Click!が何人かいたら、すぐさま外へ叩きだされたかもしれない。
 それは、別に肉や魚を進んで食し、街の女を買い、芸妓やホステスとたわむれ、平然と酒を飲む破戒僧や生臭坊主の姿に、江戸期からの反感がそのままストレートにつづいていたからではない。1944~1945年(昭和19~20)の戦争末期、東京でもリアルに空襲Click!が予測される状況になったとき、下町にあった寺々では「本山に帰る」あるいは「修行をしてくる」と称し、墓地も本尊のある堂宇も檀家もいっさいがっさい放りだして、出身地へ家族を連れて疎開していった(逃げていった)坊主たちが少なからずいたからだ。
国芳「うちわ絵」.jpg
本所川勇蒲焼.JPG
上野2.JPG
 ふだんから「生死」について語り、「死後の世界」や「生者の悟り」をもっともらしく説教師づらして説く坊主が、いざ自身が生死の淵に立たされたら、仏(ほとけ)に仕える身でありながら死者が眠る墓地や本尊(仏)さえ守ろうともせず、「大江戸(おえど)の恥はかきすて」とばかりサッサと逃げだしていく姿を見せられた“檀家”や周囲の東京市民たちは、怒りを通りこして呆れかえった。
 親父は「敵前逃亡」と称していたけれど、東京にあるあまたの社(やしろ)やキリスト教系の教会では、神職や宣教師(神父や牧師)たちが社殿や教会を「死守」(文字どおり空襲で犠牲になった人たちも少なくない)したのとは、まことに対照的な情景だったのだ。キリスト教系の施設では、「敵国人」Click!と規定されて弾圧され、抑留されたとしても、あえて「信者のそばに」と日本にそのまま残った欧米人も少なくない。それに比べ、同じ外来宗教でも仏教はなんてザマだ……と、親の世代でなくともわたしでさえそう思う。
 人の「生死」について日常的に語り、関連する儀式をつかさどり、その思想を広めようと“したり顔”で説教する坊主が、いざ自身の生命が脅かされたときに見せた宗教者らしからぬ臆面もない醜態は、強い怒りとともに地元の人々(とその子孫)の記憶に残ったわけだ。わたしの家では、親の世代から寺にある先祖代々の墓地を用いず、新たに無宗教墓を手に入れて利用しているが、同じ思いの東京人は少なからず存在しているはずだ。そのような歴史をもつ街で、僧衣のままの坊主が不用意に繁華街のクラブやキャバレーへ繰りだしたりなどしたら、ホステスや客たちが「気配をこわばらせる」ぐらいでは済まなくなりそうなのは、外来者にもおよそ想像がつくだろう。
 1990年代に米国公文書館で公開された資料Click!では、京都が東山の一部のみしか空襲の被害を受けていないのは、「米軍が歴史ある文化都市に配慮したから」などではなく、原爆の投下予定地に新潟や広島、小倉、長崎と並び、京都を含めて街並みを「温存」していたことが明らかになったが、「新型爆弾」の次の目標地が京都だというようなウワサが事前に街中へ流れたとしたら(東京では1944年の暮れから大規模な空襲が予測されていた)、そこにある寺々の坊主たちはどうしただろうか? すべてがそうではないにせよ、「本山へ帰る」「修行をしてくる」と称して、墓地も本尊のある堂宇も檀家も放りだして、逃げていく連中も少なからずいたにちがいない。そして、判明した親族の遺体が目の前にあるにもかかわらず、弔いや葬儀が出せない遺族が大量に生まれていただろう。
国芳「貞操千代の鑑」1843-47.jpg
池之端伊豆栄うな丼.JPG
上野3.JPG
 もっとも、京都に「本山」がある寺院の場合はどうしただろう? 「諸国の寺々へ修行してきますぅ」とか「托鉢せなならん」、「霊山にこもっておのれを磨かなあかん」とか、それでも教義からなんとかいい加減な理由をひねりだして、京都の街から逃げだしたのではないだろうか。「せやけど、なんで修業に家族も連れてかはんの?」と檀家の誰かから訊ねられたら、「……」のまま夜逃げ同然に翌朝には姿を消していたかもしれない。

◆写真上:1831年(天保2)に描かれた、国芳『御ぞんじ山くじらかばやき』(部分)。獣肉を食わせるももんじ屋の隣りに、うなぎの蒲焼き屋が見世をひろげている。
◆写真中上は、享保年間に描かれた近藤清春『江戸名所百人一首』の挿画。富岡八幡社の参道に蒲焼き屋が店開きし、「名物大蒲焼き」として売っている。は、深川「かね松」のうな重。は、上野山にある葵紋入りの堂宇のひとつ。
◆写真中下は、国芳のうちわ絵『江戸前大蒲焼き』(制作年不詳/部分)。は、本所「川勇蒲焼」のうな重。は、不忍池の冬枯れ弁天堂。
◆写真下は、1843~1847年(天保・弘化年間)に制作された国芳『貞操千代の鑑』で、うなぎを食べるのではなく母子の放生会Click!の様子を描いたものだ。は、池之端「伊豆栄」のうな丼。は、上野(寛永寺)の五重塔。この構図の写真を撮影したかったので、上野動物園の入園券を買うハメになった。(爆!) ところで、池之端「伊豆栄」の蒲焼きはなんとかならないものだろうか。「前川」Click!同様に大勢の観光客相手に料理が甘くなったのか、大正期に暖簾分けした高田馬場の伊豆栄よりも泥臭くてマズい。

読んだ!(17)  コメント(20) 
共通テーマ:地域

犬猿の仲だった尾崎一雄と片岡鉄兵。 [気になる下落合]

中井駅.JPG
 落合地域に住んでいた作家の中で、同じ町内にもかかわらず仲が悪かった人たちは少なくない。たとえば、表面上はともかく矢田津世子Click!は、繰り返される林芙美子Click!の子どもじみた稚拙なイヤガラセに辟易していたし、吉屋信子Click!は押し売り同然で買わされたシェパードClick!の仔犬を抱きながら、アルバイトでブリーダーをしていた村山籌子Click!を毛嫌いしていたふしが見られる。また、吉屋信子は足尾鉱毒事件Click!で父親を苦しめつづけた、古河鉱業のブレーン・舟橋了助Click!の息子である舟橋聖一Click!には、やはり多少のわだかまりをもっていたようだ。
 だが、憎悪をむき出しにして常に激しく対立した作家は、尾崎一雄Click!片岡鉄兵Click!のふたり以外にはあまり思い浮かばない。ふたりの対立は、芸術派とプロレタリア派の文学表現をめぐる路線のちがいにとどまらず、もはや感情的で「こいつ、とにかく虫が好かねえんだよな!」のレベルにまでなってしまったようだ。おそらく、双方の言動ばかりでなく、性格からして反りが合わない人間同士だったのだろう。
 尾崎一雄は、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の“なめくじ横丁”Click!に、次に下落合5丁目2069番地(現・中井1丁目)の“もぐら横丁”Click!に住んでいたとき、プロレタリア作家たちとも交流があったので同派の作家たちを毛嫌いしていたわけではなく、片岡鉄兵がとにかく大キライだったのだ。この尾崎一雄の感覚は、わたしもなんとなくわかるような気がする。片岡が書く作品には、どこか“上から目線”の独特なキザったらしい嫌味さと、ことさら都会人を気どる野暮ったい臭みのようなものを感じる。作品ばかりでなく、その性格は現実の生活や言動にも表れていたのではないだろうか。
 このふたりが対照的で面白いのは、早稲田大学を卒業した尾崎一雄が貧乏のどん底にあえぎながら、上落合や下落合の長屋を転々として芸術派の作品を執筆していたのに対し、片岡鉄兵は慶應大学に進みながら中退して結婚し、下落合4丁目1712番地の目白文化村Click!は第二文化村に建っていた、大きな西洋館の片岡元彌邸Click!に住みながら、プロレタリア文学作品を次々と生みだしていたことだ。誰もが「ふつう逆じゃね?」……と思いそうだが、本人たちも表現位置や実生活が“正反対”だと認識していて、よけいにいまいましく感じていたのかもしれない。
 小坂多喜子Click!は、神戸のパルモア英学院を一時的に休学していた1927年(昭和2)、汽船会社でタイピストのアルバイトをしていたが、そのとき故郷が同じ地域の片岡鉄兵と知り合っている。当時の様子を、1986年(昭和61)に出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春』(三信図書)から引用してみよう。
  
 ややしわがれた、なでるような低いやさしい声音、葉巻をこげつくような錯覚を起させる手付で人差指と中指の間に挟み、口にひたと密着させて、細い首をかしげ、眼を細めておいしそうに吸った。だがそういう動作につきまとう何処となく優雅な洗練されたものごしが田舎者の私を魅きつけた。それは私の見知らぬ都会の文化人の匂いだった。/私と片岡鉄兵のかかわりあいは作家と文学少女のありふれた関係といえばいえるが、何よりも郷里が同じだということに強い紐帯感を覚えたことだった。/(中略) 元町の、やや三宮よりの山ノ手に入った小路にあるフランス料理店に私は連れてゆかれた。それは彼が新聞記者時代からのなじみの店らしく、舌びらめのムニエルなどの私が初めて口にするフルコースを、彼は気ぜわしく私の目の前で平げた。私はといえば妙に気おくれがして食欲がなかった。/(中略) 「東京はね、それは非常に多面的なくらしかたのできるところでね、きらくなことこのうえなしですよ、三十円もあれば十分一ヵ月くらせますよ」といった。暗に私に上京をうながしているようにもとれる言葉だった。
  
なめくじ横丁跡.JPG
もぐら横丁跡.JPG
尾崎一雄「もぐら横丁」1952池田書店.jpg 片岡鉄兵「片岡鉄兵集」1929平凡社.jpg
 なるほど、片岡鉄兵はこうやって若い女の子を誘っていたのだな……というのが透けて見えるアプローチだが、まさかその少女にあとで暴露されることになるとは思ってもみなかったろう。そして、小坂多喜子Click!神近市子Click!を頼って家出し上落合で生活をスタートさせるが、目白文化村の片岡鉄兵のもとへ借金しに出かけ、わずか3円ほどしか貸してくれないのに嫌な顔をされている。
 “なめくじ横丁”で隣り同士になり、小坂多喜子が私淑するほど親しくなった尾崎一雄だが、彼女は片岡鉄兵についても悪感情をまったく抱いてはいない。それは、小坂多喜子の文章の端々に感じるし、岡山県鏡野町に片岡鉄兵の文学碑が建立されたとき、ことさら喜んで出かけているのをみても明らかだ。だからこそ、小坂多喜子はふたりをクールに観察できたのではないかと思う。
 先にケンカを売ったのは、片岡鉄兵のほうだった。1928年(昭和3)2月ごろ、尾崎一雄が書いた短編に対し、「これはチエホフと志賀直哉の合ノ子で、まづくはない。しかしかういふブル文学をうまく書いたとて先は知れてゐる」という主旨の批判を雑誌でした。これに対して、尾崎がにわか「左傾」の作家にいわれたくない、大きなお世話だと反論したところ、片岡は『二人の馬鹿者』と尾崎を「バカ」呼ばわりした。現代から見ると、他愛ない子どものケンカのように見えるが、当時は芸術派とプロレタリア派との関係は、街で出あえば殴り合いになりそうなほど険悪だった。
 片岡鉄兵は、さらにつづけて尾崎を挑発している。同書によれば、「自分は真理によつて左傾したのである、尾崎なんぞはもつと本を読んで勉強せよ、このことを同志橋本英吉に話したら、そんな奴は殴つてしまへ、と彼は言つた」と、まるで橋本英吉が岸田劉生Click!のようなことを口走ったことになってしまい、尾崎一雄はもともと片岡が新感覚派の作家だったことを踏まえ、「新感覚派で銀座をチヤラチヤラやつてゐるより、人民大衆のために働く方が余程いいに決つてゐる。それならそれで立派にやり通しなさい」と、皮肉たっぷりに応酬した。
尾崎一雄.jpg 片岡鉄兵.jpg
片岡元彌邸1936.jpg
上落合位置関係1936.jpg
 1934年(昭和9)10月ごろ、尾崎一雄と片岡鉄兵は下落合4丁目1909番地(現・中落合1丁目)の中井駅近くにあった辻山義光Click!の医院で、期せずして顔をあわせることになる。尾崎は、広津和郎の腰巾着→新感覚派の流行作家→プロレタリア文学作家→流行風俗作家と変わり身の速い片岡を軽蔑していたせいか、ほとんど相手にしなかったようだ。小坂多喜子は、辻山医院を何度か訪問しているが、当時の様子を同書より引用してみよう。なお、文中の「春子さん」は劇作家の辻山春子Click!であり、寺斉橋際の喫茶店「ワゴン」のママは萩原稲子Click!のことで、このサイトではお馴染みの顔ぶれだ。
  
 辻山医院は西武線中井駅の側にあって、当時近辺にたむろしていた文士たちの殆どが辻山医院の患者として、またそのサロンの客人として出入していた。夫人の春子さんは劇作家だった。その裏に当時詩人の萩原朔太郎と別れたばかりの、グラマーでモダンな夫人が、そのピチピチした肉体を黒っぽい服に、はち切れんばかりにまとって、あまりハンサムでもない、くたびれたような若い男と二人でやっていた「ワゴン」という喫茶店があった。文字通り、天幕ばりの、四、五人はいるといっぱいになる小さな喫茶店だった。/檀一雄や林芙美子などが出入していた。そこへゆけば文壇の誰かと顔が合うという工合(ママ)だった。私たちもときどきそこへ顔を出した。
  
 片岡鉄兵は、暴言をあびせた尾崎一雄に対し、ずっとうしろめたい気持ちがつづいていたのだろう。長男が生まれる直前で、出産費用さえ工面できず困窮にあえいでいた尾崎のもとへ、ある日、片岡がふいに訪ねてきて、自分は多忙なので大阪朝日新聞社の原稿を申しわけないが引き受けてくれないかと、エッセイの仕事をまわしてくれた。辻山医院で尾崎一家の窮乏ぶりを知ったのだろう、それがかなりの額の原稿料をもらえる仕事で、尾崎は無事に松枝夫人の出産準備を整えることができた。
 小坂多喜子は、神戸にいた文学少女時代の想い出と重ねあわせて、「片岡鉄兵にはそういう親切なところもあったのである」と書いているが、彼の誠実で素直な性格を好もしく思っていたひとりに、同じプロレタリア作家だった中野重治Click!がいる。1968年(昭和43)に朝日新聞社から出版された、中野重治『折り折りの人』から引用してみよう。
  
 片岡には作品にもいくらか軽いところがあり、生活全体にもそれがあったかも知れない。ただ私の直接した限りでは、彼は気軽で、親切で、すなおだった。彼を「風のなかの羽根」あつかいにした人は少なくなかったが、その人たちが風のなかの重石のようだったか私は疑っている。
  
中井駅前1938.jpg
萩原稲子.jpg 辻山春子.jpg
辻山医院跡.JPG
 わたしも彼の作品を読むかぎり、「チヤラチヤラやつてゐる」(尾崎)キザっぽさや嫌味、ことさら「東京人」を気どる野暮ったさを感じるのだが、おそらく直接会ったりすると親切で“いい人”なのに驚くたぐいの人物だったのではないかと想像している。

◆写真上:“もぐら横丁”のあった、西側の線路から眺める中井駅のプラットホーム。
◆写真中上は、上落合2丁目829番地の“なめくじ横丁”跡。は、下落合5丁目2069番地の“もぐら横丁”跡。は、1952年(昭和27)出版の尾崎一雄『もぐら横丁』(池田書店/)と、1929年(昭和4)出版の片岡鉄兵『片岡鐡兵集』(平凡社/)。
◆写真中下は、尾崎一雄()と片岡鉄兵()。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる片岡鉄兵邸。は、同年の尾崎一雄邸と中井駅の位置関係。
◆写真下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる喫茶店ワゴンと辻山医院。は、萩原稲子()と辻山春子()。は、下落合4丁目1909番地の辻山医院跡(奥のビル)。

読んだ!(18)  コメント(26) 
共通テーマ:地域

矢田津世子の「文壇人印象記」。 [気になる下落合]

矢田津世子の書斎.jpg
 1935年(昭和10)の「文藝通信」3月号に、矢田津世子Click!の『女流作家の文壇人印象記』が掲載されている。この時期、彼女は改正道路(山手通り)の工事Click!で坂道がほぼ全的に消滅した緑深い矢田坂Click!沿いの、下落合4丁目1986番地(現・中井2丁目)に住んでいた。このあと、山手通り(環六)の工事に敷地が引っかかってしまい、すぐ南西隣りの下落合4丁目1982番地(一ノ坂Click!沿い)へ自邸を移転している。
 『女流作家の文壇人印象記』で取りあげられている小説家13人のうち、5人までが落合地域またはその周辺域に住んでいた人物たちだ。まず、数年前まで上落合460番地に住んでいた武田麟太郎Click!が登場している。上落合1丁目460番地は、脚本家の久板栄二郎や小説家の江口渙も住み、一時期は全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の本部が置かれていた場所なので、上落合の文士たちの間ではよく知られた住宅だったのだろう。
  
 初めてお目にかかりましてからかなりになりますのに武田氏はちつともおかはりにならない。その時も頭髪が乱れてゐましたが今も乱れてゐます。お歯もやはり欠けたままですし、莨の脂で黄色く染まつた指さきも同じです。そのおかはりにならない中に、たつたひとつ、武田氏の眉間に刻まれた一本の縦皺ですが、これが深くなり、お顔の威厳といふやうなものが強まつた感じがいたします。
  
 「眉間に刻まれた一本の縦皺」が、特高Click!による逮捕や発禁処分、いやがらせなどの弾圧によるものであることを、矢田津世子は知悉していた。彼女自身も共産党へカンパしたという容疑で、1933年(昭和8)7月に戸塚警察署Click!の特高に逮捕されたばかりだ。「おすこやかなれ、と只管念ずるのみです」と文章を結んでいるが、矢田自身も特高による逮捕で身体をこわして以降、1944年(昭和19)に死去するまで本来の健康を取りもどすことができなかった。
 つづいて、下落合4丁目2108番地の吉屋信子Click!が登場している。吉屋信子も、グレーのスーツを着て颯爽と遊びにきた、矢田津世子の姿を鮮烈に記録している。
  
 「花物語」時代からの吉屋さんの愛読者である私にはいまだに「先生」の感じがとれないのですが、お会ひすれば不思議に「先生」がいつのまにか「お友だち」になつてしまひます。婦人のかたの中でも吉屋さん程の頭のいいかたも稀れではないかと思ひます。殊に、そのテーブルスピーチの機智は吉屋さんならでは、と思はれる頭のよさ、只々尊敬申上げて居ります。
  
 矢田津世子から見れば、吉屋信子は自身の性格にはないものを、すべて備えた同性のように見えたのではないだろうか。機転がきいておしゃべりな吉屋信子Click!が陽性だとすれば、秋田出身で口数が少なく、ひかえめで朴訥とした性格の矢田津世子は陰性だろうか。だからこそ、このふたりは妙に気が合ったのかもしれない。
矢田津世子の矢田坂.jpg
矢田津世子邸跡2.JPG
 つづいて、当時は上落合2丁目740番地(現・上落合3丁目)に住んでいた、結婚したばかりの宮本百合子Click!(中條百合子Click!)について書いている。矢田津世子の『女流作家の文壇人印象記』(1935年3月)が発表された2ヶ月後、宮本百合子は淀橋警察署の特高に逮捕され、翌1936年(昭和11)3月まで拘留されることになる。
  
 たしか四年前のことだつたと思ひますが、その頃中條さんは目白にお住ひになつてゐられました。ジヤケツにスカアトの無造作な服装で、中條さんは女中さんの持つてこられた紅茶に御自分でレモンを切つて入れて下すつたのを憶えてゐます。その白い肉づきのよいお手の動きが実に綺麗であつた。中條さんは細いお声で話された。優しく頬笑まれ、その頬笑みの中からじつとこちらを御覧になるのですが、お眼の光りには或るひたむきなものがあつた。純心、誠実。一本気――の溶けあつたひたむきなもの。
  
 中條百合子が4年前に住んでいたのは、武蔵野鉄道Click!上屋敷駅Click!と山手線の目白駅Click!の中間あたり、高田町雑司ヶ谷旭出3570番地(1932年より豊島区目白町3丁目3570番地)の家だった。彼女は上落合で逮捕されたあと、翌年に釈放されてから再び目白町の同じ家Click!を借りてもどっている。
 下北沢から下落合の矢田家へ、しょっちゅう遊びにきていた大谷藤子についても書いている。矢田津世子が自宅で特高に逮捕されたときも、大谷藤子がいっしょだった。矢田は、大谷藤子と中條百合子はよく似ていると書いている。
  
 誠実の点でもこのひとは確かです。頭のよさの点でもこのひとは確かです。愛情の点でも、努力の点でも大谷さんは確かなひとです。永くおつきあひしてゐる私にはそれがよく分ります。涙ぐましく分ります。このひとには女性らしい神経のこせこせしたところがなく、その点が中條さんと一致し、女性には稀な大きな人物だと存じあげます。/ただ、このひとのてれた時に舌を出すくせは、どうにかしてやめさせる方法はないでせうかしら。
  
 大谷藤子と矢田津世子は、第三文化村Click!目白会館Click!時代からの親しくて長いつきあいなので、気のおけない文章で締めくくっている。
武田麟太郎.jpg 吉屋信子.jpg
宮本百合子.jpg 中村武羅夫.jpg
 さて、当時は五ノ坂の中腹にあたる下落合4丁目2133番地(現・中井2丁目)の自称“お化け屋敷”西洋館Click!に住んでいた、林芙美子Click!についても矢田津世子は書きとめている。共通の知り合いの通夜へ、喪服で出席するという連絡を文学仲間で取りあったあと、矢田津世子にだけは「普段着でいく」と連絡して通夜の会場で赤っ恥をかかせたり、「読んでみて感想を」と矢田が預けた短編小説を押し入れに隠して“行方不明”にしたり、矢田津世子のもとを取材しに訪れた新聞や雑誌の記者に、あとからさんざん嫌がらせをしたりと、ほとんど小中学生レベルのイジメのようなことを繰り返していた林芙美子は、矢田に対するコンプレックスの“お化け”のように見える。
  
 日向ぼつこをしながら心おきなく語りあへるかた。林さんにはお優しいお母様がいらつしやる。御親切な御主人がいらつしやる。林さんがお留守の時でも私はお母様や御主人とたのしくお話が出来ますし、また、私が留守の場合には林さんが私の老母とさしむかひで「一杯やる」間柄の親しさがずつと続いて居ります。
  
 矢田のほうが一枚上手の「大人」を感じさせる文章だが、それでも林には含むところがあったのか、手塚緑敏Click!をはじめ周囲の人々の話題を中心にすえている。
 矢田津世子は下落合に自邸があったため、林芙美子はミグレニンの中毒で鳥取に帰省した尾崎翠Click!のように、「狂死した」とマスコミにふれまわって「殺す」ことはできなかったが、林芙美子が矢田津世子の醜聞をデッチあげて新聞社や出版社に流していたのは、“ウラ取り”をしていた当時の記者仲間でさえ有名だった。戦後、両人が死去したあとの文芸記者による座談会などでは、よくこのイジメClick!が話題になっている。
矢田津世子と大谷藤子.jpg
矢田津世子邸跡1.JPG
 このほか、淀橋区矢来46番地の中村武羅夫をはじめ、当時の交流があった菊池寛Click!や中村正常、千葉亀雄、佐々木茂索、川端康成Click!、岡田禎子などについても書いているが、落合地域に住んでいた作家たちのみで紙数が尽きたので、これぐらいに……。

◆写真上:1935年(昭和10)ごろ、下落合4丁目1986番地の自邸書斎の矢田津世子。
◆写真中上は、改正道路(山手通り)でほとんどが消滅した矢田坂を上る矢田津世子。は、一ノ坂に面した下落合4丁目1982番地の矢田邸跡。
◆写真中下は、上落合1丁目460番地に住んだ武田麟太郎()と、下落合4丁目2108番地にいた吉屋信子()。は、上落合2丁目740番地にいた宮本百合子()と、落合地域の南東側である牛込区矢来町46番地に住んだ中村武羅夫()。
◆写真下は、矢田津世子とは頻繁に往来した大谷藤子(右)。は、改正道路(山手通り)の深い掘削で崖上になってしまった一ノ坂沿いの矢田邸跡。

読んだ!(13)  コメント(17) 
共通テーマ:地域

蘭塔坂上の岡不崩アトリエを拝見する。 [気になる下落合]

岡不崩アトリエ跡.JPG
 「芳崖四天王」と呼ばれた岡不崩Click!本多天城Click!のアトリエが、そろって下落合にあったことは先日こちらでご紹介したばかりだ。きょうは、蘭塔坂(二ノ坂)Click!上にあった岡不崩のアトリエについて書いてみたい。このサイトでは、下落合(現・中落合/中井含む)にあった洋画家のアトリエClick!はこれまでずいぶん取りあげてきたけれど、一般的な日本画家の画室Click!はともかく、特定の日本画家のアトリエを紹介するのはほとんど初めてのことだと思う。
 「アトリエ」という言葉は、洋画家や彫刻家の制作室あるいは工房にはしっくりくるけれど、日本画家にはいまひとつ馴染まないような気がする。「画室」のほうが、まだ少しは自然に感じるのだが、落合地域は“アトリエ街”なので、あえて日本画家の家もアトリエと表現してみたい。下落合370番地に住んだ竹久夢二Click!や、下落合622番地で暮らした蕗谷虹児Click!は、洋画家とも日本画家ともカテゴライズしきれない表現者たちだが、いちおうここではアトリエと紹介してきている。なお、岡不崩は自身のアトリエとその庭を「楽只園」と名づけていた。
 岡不崩が、蘭塔坂(二ノ坂)上の下落合1980番地にアトリエをかまえたのは、1923年(大正12)年5月に創立した本草学会の例会を自宅で開いた、1925年(大正14)10月ごろではないかと想像している。 不崩は日本画家としての活動ばかりでなく、明治の半ばすぎから植物学の方面での活躍も知られている。当初は、アサガオの研究書を刊行したりしていたが、大正期に入ると本格的な本草学に取り組み、植物病理学者の白井光太郎とともに本草会(のち本草学会)を設立している。
岡不崩のご子孫であるMOTさんより、下落合へアトリエを建設して転居したのは1925年(大正14)と確認された。(コメント欄参照)
 不崩の本草学会について、2017年(平成28)に求龍堂から出版された『狩野芳崖と四天王』所収の、藏田愛子『岡不崩による植物と個展の探求』から引用してみよう。
  
 この本草学会には、本草学に精通した植物学者の牧野富太郎が参画している。不崩は牧野から江戸時代の園芸書『花壇綱目』を借用することもあれば、会のことを相談してもいたようだ。不崩が牧野に宛てた「大正十二年四月二十日」の日付が記された書面には、牧野に本草会の後援者としての協力を仰ぎ、第一回会合での参考品出品と講演を依頼する旨が記される。不崩が白井や牧野ら本草学に通じた植物学者たちとの間に密な繋がりを築いていた様子がうかがえる。このほか、不崩は毎年七月に観蓮会を催した「蓮の会」の発起人となり、「東京朝顔研究会」の会員としても名を連ねている。
  
 文中に登場している「観蓮会」Click!とは、上落合467番地に住む古代ハスClick!の研究家・大賀一郎Click!が、1935年(昭和10)からはじめたイベントだ。岡不崩のご子孫であるMOTさんによれば、大賀一郎は犬を散歩させる道すがら、上落合から下落合の岡不崩アトリエへしばしば立ち寄っていたそうだ。
岡不崩アトリエ(楽只園).jpg
岡不崩アトリエ楽只園.jpg
岡不崩アトリエ門前カナムグラ.jpg
岡不崩「万葉集草木考」1932-34(建設社).jpg
 不崩が『万葉集』に登場する植物への考察をまとめた、『万葉集草木考』全4巻(1932~1937年)や『古典草木雑考』(1935年)は、植物学界や万葉集研究家の間ではよく知られている書籍だ。また、高山植物の研究でも有名で、『八品考』(1923~1930年)を著している。植物に関するこのような活動のあいまには、関東大震災Click!から復興する東京市街地を観察し記録しつづけた、まるで考現学Click!を意識したような『帝都復興一覧』(1924~1925年)を描くなど、岡不崩は単なる日本画家のカテゴリーに収まらず、大正後期から昭和初期にかけ多方面で精力的な仕事をこなしている。
 1944年(昭和19)に洸林堂書房から出版された織田一磨Click!『武蔵野の記録』には、岡不崩について次のような記述がある。
  
 この困難な研究をされて、貴重な文献を遺されたのは、故岡不崩氏である。其著述は「万葉集草木考」と命名されて四冊の立派な本となつて出版されてゐる。然し惜しいことには未だ完結に到らないのに、氏は老齢の為に死去された。全十五巻を以て完結するつもりで精力を傾倒されてゐたといふのに、僅かに四巻を出して未完成のまゝ逝かれたことは、惜しいことであつた。/然しこの四巻でも、無いよりは数等良いので後学の為にどれ位役に立つかといふことは言葉で尽せないものを感じる。岡氏は狩野門の日本画を専門とされた人で、山草の研究からつひに、万葉の植物考証を企てられたのである。今日、氏の画業は多くの愛蔵家をよろこばせてゐるであらうが、それにもまして世の中の為に得難い貢献は、この「万葉集草木考」であると思ふ。/今、本文を書くに当つても、この著書は唯一の参考文献として座右に備へ、常に氏の高説を参照することを忘れない。
  
 きょうの記事に掲載している岡不崩アトリエ(楽只園)の写真は、織田一磨Click!が愛読していた『万葉集草木考』(建設社)から引用したものだ。もちろん、洋画家のアトリエとは異なり建前は和館だが、庭には膨大な種類の草木が植えられていた様子をうかがい知ることができる。これらの草花を不崩は日々観察し、ときには写生を繰り返していたとみられる。不崩が軸画などの作品に描いた動植物は、いい加減な描写やデフォルメなどがいっさいなされておらず、まるで専門家用の精細な図鑑を見るような正確さで描かれている。
岡不崩アトリエ(楽只園)内部1932頃.jpg岡不崩アトリエ.jpg
岡不崩19290418那智滝.jpg
 岡不崩が死去してから7年後、1947年(昭和22)の空中写真を見ると、岡邸が濃い屋敷林に囲まれている様子が見てとれる。この庭には、たくさんの鉢植えや高山植物、樹木などが栽培され、四季折々の花を咲かせていたのだろう。夏に撮影されたのか、『万葉集草木考』には庭に咲く白いヤマユリの花や、鉢植えの植物が花をつけている様子がとらえられている。夏に神奈川の山々を歩くと、必ず目にすることができる鮮やかなヤマユリは、子どものころから馴染んで育った花だ。ヤマユリは、神奈川県の県花でもある。
 また、大事そうに育てられている鉢植えの花は、めずらしい高山植物の類だろうか。大正末から昭和初期にかけ、ハイキングClick!キャンプClick!がブームとなるにつれ、さっそくあちこちの山々で高山植物の乱獲問題が浮上している。岡不崩は、学術目的による植物の採取許可を当局に提出し、八ヶ岳を中心に高山植物を採集しては庭で育て、研究用の写生や観察を行なっている。
 アトリエで仕事をする岡不崩をとらえた、1932年(昭和7)ごろの写真が同書のグラビアに掲載されている。資料の山に囲まれて執筆をしている岡不崩が写っているが、床に架けられている神護寺仙洞院に伝承された『伝源頼朝像』は、まだ不崩が若いころ勉強用に模写をした自身の作品だろうか? また、『万葉集草木考』には1933年(昭和8)1月22日に撮影された、東京植物同好会の記念写真も掲載されている。そこには岡不崩と並んだ牧野富太郎や、大賀一郎の姿を見いだすことができる。
 岡不崩が、なぜ下落合1980番地にアトリエを建てることにしたのか、その直接的な要因は関東大震災による市街地の壊滅的な被害だったにしても、なぜ下落合という地域を選んだのかが気になっている。以前にも少し触れたが、どこかで東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!計画を耳にしていたか、あるいは中村彝Click!が最新情報を問い合わせるほど日本画界や洋画界の事情通で、またアビラ村(芸術村)計画Click!の発起人のひとりであり、下落合436番地にアトリエをかまえていた(基本的には)日本画家の夏目利政Click!あたりから、情報の提供を受けたものだろうか。
岡不崩1929.jpg 大賀一郎.jpg
記念写真19330122.jpg
岡不崩アトリエ1947.jpg
 岡不崩とアビラ村(芸術村)との接点、それは東京土地住宅の常務取締役だった三宅勘一Click!とのつながりか、下落合436番地の近衛文麿Click!か、同じ地番の夏目利政Click!か、下落合2095番地の島津源吉Click!か、それとも発起人のひとり下落合2015番地の芝居と野球好きな金山平三Click!たち洋画家Click!の誰かなのか、和洋を問わず画家たちのつながりや下落合のネットワークは意外な拡がりを見せるため、興味が尽きないテーマなのだ。

◆写真上:岡不崩アトリエ跡の現状で、蘭塔坂の丘上から右手斜面にかかる一帯だった。
◆写真中上は、昭和初期に撮影された岡不崩アトリエ。は、同アトリエの庭園(楽只園)。は、楽只園に咲くカナムグラ(上)とヤマユリ(下)。
◆写真中下は、画室で仕事をする岡不崩。は、楽只園に並んだ鉢植えの植物。は、1929年(昭和4)4月18日に撮影された那智滝を訪れた岡不崩(左)。
◆写真下は、岡不崩()と大賀一郎()。は、1933年(昭和8)1月22日に撮影された東京植物同好会の記念写真。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる岡不崩アトリエ。屋敷林がかなり育ち庭園(楽只園)が見えにくくなっている。
おまけ
下落合のモミジは深紅にならず橙色のまま、そろそろ散りはじめています。暖かいせいかイチョウも青みを残したまま、まだ散る気配がありません。
モミジ201912.jpg
イチョウ201912.jpg

続きを読む


読んだ!(19)  コメント(27) 
共通テーマ:地域

ダンスで投げ飛ばされた小坂多喜子。 [気になる下落合]

なめくじ横丁1.JPG
 なめくじ横丁Click!の東側、上落合銀座通りにある「松の湯」からは、午後の早い時間から煙がモクモクと立ちのぼっていた。上落合(2丁目)829番地(現・上落合3丁目)のこのあたりには、早くから銭湯にやってくる客が多かったのだろう。なめくじ横丁Click!の長屋に集った作家や画家たちも、昼間から風呂に入っていたにちがいない。
 2軒つづきの長屋が3棟連なる住宅には、早くから尾崎一雄Click!檀一雄Click!が住んでいた。いちばん南側の陽当たりのいい長屋には、1928年(昭和3)に「赤旗」の初代編集長だった水野成夫(のちフジテレビ創立)と、東京帝大新人会から社会運動家になっていた村尾薩男(のち社会党代議士)が住んでいた。真ん中の棟には、1階に尾崎一雄が住んで2階には檀一雄が暮らしていた。
 当時、軍国主義やファシズムに抵抗するため、大宅壮一とともに雑誌「人物評論」を創刊していた上野壮夫Click!は、尾崎一雄Click!のもとへ原稿を受けとりに訪れたとき、北側の1棟に空き家があるのに気がついた。1933年(昭和8)の秋、上野壮夫Click!小坂多喜子Click!は小林多喜二の虐殺事件に遭遇した陰鬱な印象が残る阿佐ヶ谷を離れ、再び上落合へともどってくる。上落合には、以前からの友人知人が多く住んでおり、小坂多喜子も落ち着いた生活が送れると考えたのかもしれない。
 この長屋で、尾崎一雄・松枝夫妻と上野・小坂夫妻は親しく交際することになるが、特に小坂多喜子は創作の師として、尾崎一雄と生涯変わらぬ交流をつづけている。ほどなく、上野壮夫の故郷である茨城から、長崎のプロレタリア美術研究所Click!へ通うために、洋画家の飯野農夫也Click!が上野・小坂夫妻の家に寄宿することになる。
 上野・小坂夫妻が長屋に転居してきたことで、なめくじ横丁では当時の文学界でも稀有な光景が繰りひろげられることになった。上野・小坂家を訪ねてくるプロレタリア文学や美術の表現者たちと、向かいの尾崎一雄や檀一雄を訪問する芸術派、あるいは芸術至上主義の作家たちが、期せずして呉越同舟的に交流しているのだ。彼らは、ときに激しい議論に明け暮れ、ときに仲よく酒をくみ交わしていた。
 長屋なので、お互いの家の訪問者は丸見えであり、双方の家に誰が訪ねてくるのかを興味津々で観察している。気になる作家が訪ねてくると、自身が属する“派”などおかまいなしに話しかけては交流していたらしい。尾崎一雄は、1988年(昭和53)に講談社から出版された『あの日この日(四)』(文庫版)の中で、上野・小坂家を出入りしていた人々を記録している。同書より引用してみよう。
  
 (前略) 三畳の窓が路地に開いているので、誰かが来れば厭でも目に入る。堀田昇一、細野孝二郎Click!、本庄睦男、平林彪吾、小熊秀雄Click!、亀井勝一郎、保田与重郎、加藤悦郎Click!吉原義彦Click!、緑川貢、神近市子Click!矢田津世子Click!、横田文子、若林つや子Click!、平林英子――この平林を除いては、すべてここへ移ってから知った顔である。上野家へ来るのは、すべてプロレタリア派の作家や批評家であった。
  
 また、上野・小坂家では逆に、尾崎一雄や檀一雄の家を訪れる作家たちを記憶していた。夫妻の次女である堀江朋子の『風の詩人-父上野壮夫とその時代-』(朝日書林/1997年)によれば、尾崎一雄の家には中谷孝雄をはじめ、中島直人、木山捷平、外村繁、浅見淵、田畑修一郎、丹羽文雄Click!たちが、また檀一雄の家には太宰治Click!をはじめ、山岸外史、森敦、古谷綱武Click!、古谷綱正、立原道造Click!たちが訪れていた。上落合829なめくじ横丁1936.jpg
上落合829なめくじ横丁1941.jpg
人物評論時代1933.jpg
 そのころの様子を、1986年(昭和61)に三信図書から出版された小坂多喜子『わたしの神戸わたしの青春―わたしの逢った作家たち―』から引用してみよう。ちなみに、当時の檀一雄Click!は画家をめざしていた時代だ。
  
 (尾崎家の)二階には檀一雄がたむろしていて、壁いっぱいに自分の画いた不可解な油絵を貼りつけて「女の腹の上で自滅する絵だ」と私にいった。檀一雄の福岡の高等学校時代の話は、天馬空をゆくような青春の奔放な楽しさに満ちていて私を煙にまき、眩惑させた。/檀一雄のところへしばしば太宰治が現われた。田舎からのお仕着せらしい黒地に白の細い縞柄の渋い高価な紬の上下を着流した太宰治が、二階の檀一雄の部屋の廊下から私たち(私と亡夫上野壮夫)の寝室をのぞき込むように睨みつけていた暗い眼付に私は出逢った。/階下六畳、三畳、二階六畳一間の全く同じ作りつけの二階家が二軒ずつ狭い路地をはさんで向い合っていた、路地奥の長屋である。檀一雄は当時留年に留年を重ねて東京帝国大学経済学部六年生であった。
  
 上記でも明らかなように、小坂多喜子は作家たちを単純に「プロレタリア派」と「芸術派」にカテゴライズせず、興味のある相手をつかまえて話しこんでは交流を楽しんでいた様子がわかる。このころの彼女は、『世紀』(1929年)など丹羽文雄の作品を愛読していたようで、丹羽が尾崎家にやってきたとき松枝夫人が「丹羽さんが来ているうー」(同書)と、彼女のもとに駈けこんで知らせにくるほどだった。
 だが、プロレタリア文学にこだわる上野壮夫は、「プロレタリア派」と「芸術派」の作家に垣根を設けて接しない妻を、ひそかに苦々しく思っていたようだ。しかも1933年(昭和8)から翌年にかけては、上野・小坂夫妻も参加していた日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)が、特高Click!の弾圧で解散させられる瀬戸際であり、左翼の文化運動は壊滅の危機に瀕していた。「戦旗」の3代目編集長だった上野にしてみれば、反戦さえ唱えられない軍国主義の暗黒時代に突入した最悪の状況で、「ブルジョア派」の作家たちと仲よくするとは、いったいなに考えてんだよ?……という思いがあったろう。
上野・小坂夫妻(大宅壮一撮影)1939.jpg
なめくじ横丁2.JPG
なめくじ横丁19450402.jpg
 そんなある日、「プロレタリア派」と「芸術派」の作家たちが、なぜか上野・小坂夫妻の家に集まって酒盛りとなった。1階の居間には蓄音器が持ちこまれ、モダンな音楽が流れはじめた。おそらく、「芸術派」の作家たちが気軽にやってきたのは、作家を色分けしない小坂多喜子の存在が大きかったのではないか。酒を一滴も飲めない彼女は、ハワイからやってきた2世作家の中島直人から、突然ダンスをしようと強引に誘われた。以下、『わたしの神戸わたしの青春』から引用しよう。
  
 私はそれまで踊りなど踊ったことはなく、しぶっていると、向いの尾崎家の開け放たれた玄関越しの座敷からこちらのようすをじっと眺めていた中谷孝雄が、私に踊れ、踊れとしきりに目で合図を送っている。/私は中谷孝雄にけしかけられ、仕方なくまだ若いくせに頭の禿げあがった中島直人に引張られ、彼のリードで踊り始めた。すると突然隣りの部屋にいた夫が私のえり首を掴み投げ飛ばした。それは一瞬の早業で襖に大きな穴があいたほどの勢だった。気がついてみると私は隣りの部屋に腰をつき、うずくまっていた。手などいちどもふりあげたことのない、普段おとなしい夫がなぜ突然荒れ狂ったのか私には分らなかった。私はただ唖然とするばかりだった。そのとき尾崎家に残って、一部始終を見ていた浅見淵があとで中島直人に、人の奥さんと踊ってはいけないよとさとしたという話を私はきいた。
  
 このとき、小坂多喜子は「夫に嫉妬される何物も思い当らなかった」と当時を回想しているが、上野壮夫の爆発は男女間のストレートな嫉妬などではなく、ファシズムによりありとあらゆる弾圧で総退却を余儀なくされた自身の運動と作家活動への、たまりにたまったイラ立ちが一気に噴出したものだろう。それは、「芸術派」の作家とダンスをした妻に腹を立てて投げ飛ばしたところで、どうにかなるものでないことは、上野自身がいちばんよく認識していたにちがいない。
 1934年(昭和9)3月12日、当局の弾圧に抗しきれなくなった日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)は解散声明を発表し、公然と合法的に反戦をとなえる作家たちの組織は事実上壊滅した。同年9月には、小坂多喜子と上野壮夫は“なめくじ横丁”の家を引き払い、1年ほど上野の郷里である茨城県筑波郡作岡村へ引きこもることになる。
なめくじ横丁3.JPG
尾崎一雄と小坂多喜子1982下曽我.jpg
 だが、ふたりは執筆活動をあきらめていなかった。小坂多喜子は、神近市子が創刊した「婦人文藝」に書きつづけ、上野壮夫は武田麟太郎が創刊した「人民文庫」へ執筆を継続することになる。1935年(昭和10)9月に夫妻は筑波をあとにすると、今度は上落合の西隣りにあたる中野区上高田へともどってくるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:上落合2丁目829番地の、通称“なめくじ横丁”の長屋跡。
◆写真中上は、小坂多喜子・上野壮夫夫妻が去ってから2年後の1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる“なめくじ横丁”。は、1941年(昭和16)撮影の同地域。夫妻も通ったとみられる、上落合銀座通りで営業していた松の湯の煙突から白煙が確認できる。は、1933年(昭和8)ごろに撮影された「人物評論」の上野壮夫(左)と大宅壮一。
◆写真中下は、1934年(昭和9)ごろに大宅壮一が撮影した上野壮夫と小坂多喜子。は、“なめくじ横丁”跡の現状。は、1945年(昭和20)4月2日の空襲11日前にF13Click!から撮影された同エリアで、すでに長屋は解体されているのがわかる。
◆写真下は、上落合銀座通りから“なめくじ横丁”へと入る路地。3棟の長屋は、突き当たりを左折した右手にあった。は、1982年(昭和57)に撮影された小田原市下曽我で暮らす晩年の尾崎一雄を訪ねた小坂多喜子。ふたりは1933年(昭和8)の“なめくじ横丁”時代から、終生親しく交流をつづけた。晩年の壺井栄Click!のことを「肥ったうえにも肥えて」と書く小坂多喜子だが、あまり人のことをいえないような気がするのだけれど……。

読んだ!(17)  コメント(17) 
共通テーマ:地域

下落合を描いた画家たち・織田一磨。(2) [気になる下落合]

織田一麿「高田馬場付近」1911.jpg
 ずいぶん以前に、織田一磨Click!が描いた『落合風景』Click!(1917年)をご紹介したことがある。妙正寺川をさかのぼり、落合村葛ヶ谷(現・西落合)にあった釣りのできる農業用溜池を描いたものだ。その画面が掲載された書籍、1944年(昭和19)に洸林堂書房から出版された織田一磨『武蔵野の記録―自然科学と藝術―』の原本が手に入ったので、もうひとつ落合地域付近の風景画をご紹介したい。
 といっても、落合村は画面に描かれた山手線の向こう側、下落合(字)東耕地と同(字)丸山のエリアがかろうじて見えるか見えないかだけで、画面のほとんどは戸塚村西原(現・高田馬場2丁目)と高田村稲荷(現・高田3丁目)だ。また、戦時中で写真製版の技術やインクが悪いせいか画面全体が暗く、描かれた家々のディテールがいまいちハッキリしない。まず、同作品につけられた制作者自身のキャプションを、同書より引用してみよう。
  
 明治四十四年は、大阪に住んでゐた時代だが、文展見物に上京した折りに、高田の馬場附近を写生したものらしい。/灰色に曇つた初冬の空から、光りのない太陽が薄く照してゐる。高田の馬場停車場のある丘を学習院裏の田圃道から写生したもので、まだ丘陵の下は一面の田畑であつた。家や工場は一軒も建つてゐなかつた。丘陵の崖地には民家が多少駅前らしく建並んでゐて、場末らしい感じである。残雪の白いのも処々にみられる。/例の通り曇り日の好きなところから、暗い文学的風景画となつてゐるが、高田の馬場辺の記録画とみれば面白いと思ふ。学習院の裏手から中野へ通ふ路なぞは、全く田舎道で、農家の他には田畑森林地帯であつた。面影橋あたりから普通の人家は無かつたものだ。現在の風景とくらべても、とても見当がつかないほどに変化してゐる。
  
 織田一磨がいう「高田の馬場」Click!とは、幕府の練兵場だった高田馬場(たかたのばば)のことではなく、山手線の駅名である高田馬場(たかだのばば)停車場のことだ。この風景を写生したのが1911年(明治44)、つまり山手線に高田馬場駅が設置されて1年たつかたたないかの風景ということになる。
 「学習院の裏手から中野へ通ふ路」とは、鎌倉期に拓かれた七曲坂Click!下の街道で、地元では古くから雑司ヶ谷道Click!(現・新井薬師道)と呼ばれてきた道のことだ。織田一磨は、おそらく目白駅で降りて坂下が東へカーブする椿坂Click!を下り、雑司ヶ谷道へと抜けると田圃の畦道に描画ポイントを決めてイーゼルを立てているのだろう。ほぼ同時期の作品に、椿坂の下から山手線の線路土手を描いた小島善太郎の『目白』Click!があるが、その描画ポイントと織田のそれは200mと離れていない。
 なぜ、高田馬場駅で下車していないのがわかるのかというと、当時は神田川の北側に渡る神高橋Click!も清水川橋もいまだ架設されていないからだ。うっかり高田馬場駅で降りてしまうと、神田川の北側へ渡るには西へかなり迂回する下落合の田島橋Click!か、それ以上に東へ大きく遠まわりとなる面影橋しか、いまだ設置されていなかった。子どものころから武蔵野を歩き慣れている織田一磨は、おそらくあらかじめ知っていたので目白駅で降り、地上駅Click!から清戸道の踏み切りClick!を西側に渡って椿坂へ出ると、学習院沿いにそのまま南へ歩いていったとみられる。
 画面右手の上空に、曇り空でぼんやりと光る太陽が描かれており、その下を電柱とともに左右に連なるのが山手線の線路土手だ。画面右手の枠外には、旧・神田上水(現・神田川)が流れる山手線の鉄橋があり、当時の川筋は現在とは異なり北から南へ、つまり画家のいるほうへ大きく蛇行しながら流れている。この鉄橋を支えていたイギリス積みのレンガも、以前にこちらでご紹介Click!している。手前に散在する白い部分は、旧・神田上水の土手沿いに溶けずに残った積雪だ。対岸には、鄙びた家々がまばらに建ち並び、ちょうど画面中央あたりに竣工したばかりの高田馬場駅があることになる。
 この画面の中で、下落合は右端に描かれた線路土手の向こう側、すなわち16年後の1927年(昭和2)に鉄道連隊によって西武線Click!が敷設され高田馬場仮駅Click!が設置される、旧・神田上水の北側ということになる。もちろん、現在ではこの作品を写生した描画ポイントに立つことはできず、十三間通りClick!(新目白通り)の南側(下り車線)の路上か、あるいはその南に建っている高田馬場ビルディングの敷地内となっている。
地形図高田戸塚1910.jpg
高田馬場ビルディング.jpg
山手線神田川鉄橋.JPG
 さて、以前にもご紹介したが、1917年(大正6)に制作された織田一磨『落合風景』についても、比較的クリアな写真とキャプション全文が判明したので、同書より改めて引用しておこう。芝区生れで麻布区育ちの織田一磨は、明治期には当然、東京15区Click!以外は郊外であり、その外周はすべて「武蔵野」という定義のしかたをしている。
  
 神田川の上流が落合村を流れてゐる姿である。落合といつても、哲学堂附近で、中野に近い落合であるが、今は定めし人家で埋まつて、斯うした野趣は消失したらうと思ふ。この当時は釣魚の好適地として、漁人がよく出掛けた場所である。この図と同時代の作は他にも四五点あるが、水彩画界へ出品して売約になつた釣人の図も其内の一枚である。/春は摘草、釣魚、写生に近い郊外遊楽地として哲学堂附近へはよく出掛けたものだ。今の吉祥寺なぞよりは、はるかに自然景観が優れてゐたし、気分も武蔵野的であつた。其処には規則といふものが定められてゐなかつた。人は生活を楽しみ感情を育てた。/雑草の芽は、春の陽光に光彩をはなち、虫は飛び廻つてゐた。武蔵野の感情は豊富に散乱して人は好むがまゝに酌みとつて帰つた。
  
 織田一磨は、「神田川の上流」と書いているが、旧・神田上水の支流のひとつである妙正寺川(江戸期の名称は北川Click!)のことを書いている。大正の中期、上高田にある光徳院の妙正寺川をはさんだ対岸(北東側)、落合村(大字)葛ヶ谷(字)御霊下には大きめな溜池が造られ、周辺の水田をうるおす灌漑用水として活用されていた。この溜池は、葛ヶ谷地域の耕地整理(西落合の成立)とともに埋め立てられ、昭和初期にはすでに消滅している。妙正寺川の水を活用した溜池は、現在の西落合2丁目にある西落合公園と付属の運動場あたりにかけて、南北に長く横たわっていた。
 織田一磨の『武蔵野の記録』にはもうひとつ、落合風景を描いたスケッチが挿画として掲載されている。現在の早稲田通りが走る、上落合の丘上から北を向いて描いた線画で、畑を耕すふたりの農夫を前景に、奥の北向き斜面には新たに建設された住宅の屋根が見えている。1921年(大正10)に描かれたスケッチで、『中野附近(落合)』とタイトルされている。上落合も、妙正寺川の川沿いを中心に耕地整理が進みはじめたころで、このような光景が東部を中心にあちこちで見られはじめていただろう。
織田一麿「落合風景」1917.jpg
西落合公園.jpg
 織田一磨は、同書で「武蔵野」Click!の位置づけにこだわっているが、次の一文がその認識の基底にあると思われる。このとらえ方は、おそらくわたしの親の世代までの「武蔵野」Click!認識と、ほぼ同様だったのではないだろうか。
  
 武蔵野、武蔵野と言つたが、それは地域的にどこを指すかといふに、常識的にいふと、南は多摩川、北は入間川、東は隅田川、西は奥多摩の山麓で限られた広大な地域だといへる。徳川時代の江戸市中、現代の東京市の大部分も、また武蔵野の内に包まれてゐる。然し何時の頃からか知らないが、江戸市街は武蔵野から区別されて、/本郷もかねやす迄を江戸とよび/川柳にも詠まれてゐる通り、本郷でさへ三丁目迄が江戸で、それから先の赤門あたりは武蔵野に属してゐたものらしい。/町家の尽きるところで、江戸市中は終つて、その先に大名屋敷なぞが散在しても、武蔵野と呼称したものらしいと察しられる。主として、山手方面に近い地点が江戸と武蔵野の境界線であつたのらしい。
  
 著者は、「南は多摩川」「東は隅田川」と規定しているが、わたしはもう少し範囲が広いとらえ方だ。それは、古墳期に育まれた文化の広さや範囲、すなわち文字どおり「南武蔵勢力」や「北武蔵勢力」の拡がりを意識すると、南は多摩川を越えて神奈川県まで深く入りこみ、東は隅田川はおろか江戸川を越えて、南武蔵勢力に古墳の石材(房州石Click!)を供給していた千葉県南部までの、広大な拡がりを想定している。「武蔵国」という枠組みや江戸期の朱引墨引は、ずいぶんあとに成立した“行政区画”の概念にすぎない。
 ただし、「武蔵野」と聞いて一義的にイメージするのは、雑木林が点々とつづく広い草原と、段丘から噴出する清廉な湧水で形成された泉が無数につづく情景で、海浜部の風情とは相いれないのかもしれないが、わたしは「文学的風景」ではなく、基層を形成する文化的なつながりや拡がりから、改めて「武蔵野」をとらえてみたいと考えている。
織田一麿「中野附近(落合)」1921.jpg
地形図上落合1918.jpg
上落合坂道.JPG
 織田一磨は、丘が連なる麻布育ちなのだが、自身が住む地域を乃手Click!ととらえてはいるものの、「江戸と武蔵野の境界線」あたり、すなわち江戸市街地とは考えずに「武蔵野」だととらえていたようだ。大正期から昭和初期にかけ、やはり麻布で育った義父Click!が聞いたら、はたしてカウンターパンチをお見舞いするだろうか?

◆写真上:1911年(明治44)の厳寒期に制作された織田一磨『高田馬場附近』。
◆写真中上は、同作とほぼ同時期の1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図にみる描画ポイント。同年に建設される高田馬場停車場は、いまだ建設中だったのか採取されていない。は、同作の描画ポイントの現状。おそらく、イーゼルを立てたのは十三間通り(新目白通り)の下り車線路上か正面に見えている高田馬場ビルディングの敷地あたり。は、山手線の神田川鉄橋に残されていたイギリス積みのレンガガード。先の工事でコンクリートに覆われてしまい、現在は見ることができない。
◆写真中下は、1917年(大正6)に制作された織田一磨『落合風景』。は、大きな溜池があったあたりに造られた西落合公園で広い運動場が付属している。
◆写真下は、同書挿画の1枚で1921年(大正10)にスケッチされた織田一磨『中野附近(落合)』。は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる上落合。は、上落合の丘上に通う鶏鳴坂Click!の1本西隣りにある北向きの急坂を上から見下ろしたところ。

読んだ!(21)  コメント(24) 
共通テーマ:地域

そろそろ「落合学」にしてもいいかな……。 [気になる下落合]

御留山公園.JPG
 さる11月24日(日)で、拙サイトは2004年の同日にスタートしてから丸15年が経過した。16年めに入ったのを機に、落合地域やその周辺域一帯、あるいは落合地域のある新宿区北部に関するコンテンツや情報などが蓄積されてきたので、そろそろ「落合学」というようなカテゴリー(ジャンル)を意識してもよさそうな気がするのだ。落合地域をより深く、より精細かつていねいに研究するのに必要なテーマや課題は、生意気を承知でいわせていただければ、かなり出そろってきたのではないだろうか?
 「落合学」とは、もちろん前世紀末からつづく赤坂憲雄が編纂している『東北学』(東北芸術工科大学東北文化研究センター)や、拙サイトがスタートしてちょうど10周年に、わたしが惹かれた『大磯学』Click!(創森社/2013年)にならったものだが、地域・地方に眠る多彩な人々の物語やエピソード、換言すればその地域ならではの文化や歴史、地理・地勢、伝説・伝承などから日本あるいは世界を改めて捉えなおすと、どのような相貌や姿かたちに見えてくるのか?……というような視座を基盤にした「学」だ。
 『東北学』や『大磯学』の執筆者たちが、テーマとしている地勢や風土などの“立ち位置”について指摘するように、落合地域もまた東京の新宿区という土地がらを考えれば、きわめて特殊かつ異質な地域ということになる。1991年(平成3)より、新宿は「新都心」と呼ばれるようになったようだが、およそ「都心」という名に似つかわしくないのが落合地域の風情だ。だから、人々は落合地域のことを「新宿の秘境」や「新宿の僻地」、「新宿の片田舎」、少しマシな表現だと「新宿の離れ」や「新宿の奥座敷」、ひどい人にいわせると「モヤモヤ落合」などと呼ばれたりしている。w
 確かに、淀橋浄水場跡Click!に林立する超高層ビル群を眺められる、目白崖線にかろうじて残されたグリーンベルトの斜面には、いまだに野生のタヌキが棲息していて、江戸期のまま有機肥料(爆!)をまく畑も見られたりする、およそ現代の「新宿」らしからぬ風景は、あまりの「秘境」さ加減にイギリスのBBCもカメラクルーを連れて取材にくるほどだ。ひと口に新宿区といっても、もともと江戸後期から市街化が進みはじめていた東京市街地の四谷区と牛込区(15区時代Click!)、それに1932年(昭和7)の「大東京」時代Click!を迎えて成立する元・豊多摩郡だった淀橋区(35区時代)の3区域が合併した区なので、それぞれ文化や歴史、風土などが異なっていることは、すでにこれまでの記事でご紹介Click!している。落合地域は、淀橋区の北部(外れ)に位置する「辺境」エリアだった。(そういえば井上光晴Click!が編纂していた『辺境』という文芸誌もあったっけ)
 落合地域は、案外に広い。明治期から大正期まで、落合地域は上落合と下落合(東京府の風致地区に指定されていた葛ヶ谷地域の一部含む)、そして昭和初期に「西落合」としてスタートする葛ヶ谷の3地域が含まれる。1960年代には行政による一方的な町名変更Click!で、下落合の中部から西部にかけては馴染みのない「中落合」や「中井」と呼ばれる"地名"になった。落合地域の北側は、長崎地域や高田(目白)地域(ともに豊島区)と接し、東側は高田(目白)地域と戸塚地域(新宿区)、南側は戸塚地域と住吉(東中野)地域(中野区)、西側は上高田地域と江古田地域(ともに中野区)という地理条件だ。
 落合地域から利用できる鉄道駅も多く、住んでいる場所にもよるが最寄駅は山手線の目白駅か高田馬場駅、東京メトロ東西線の高田馬場駅か落合駅、西武新宿線の下落合駅か中井駅、都営地下鉄大江戸線の中井駅か落合長崎駅、ときに中央線の東中野駅や西武池袋線の椎名町駅および東長崎駅のほうが近そうなエリアもあったりする。地域内や直近の駅は8駅、全体から見れば11駅の利用者がいるとみられるこれだけ広い街なので、ひと口に「落合地域」といっても、昔から各エリアごとにさまざまな特色をもつ街並みや街角が形成され、それに関連する多種多様な人たちが居住してきた。
淀橋区1941上.jpg
新宿区1965.jpg
落合地域1965.jpg
下落合緑.JPG
 明治以降だけを見ても、当初は鎌倉期以前からつづくとみられる農村の丘陵地や谷間に、華族や財閥などおカネ持ちが住む別荘地や隠居地として注目され、大正期以降はおもに画家など美術関係者が集まって暮らす静寂なアトリエ村のような風情になり、大正中期には近衛町Click!目白文化村Click!、つづいてアビラ村(芸術村)計画Click!のように、東京郊外の田園地帯に拓かれたモダニズムただよう文化住宅街の嚆矢的な街へと変貌し、昭和期にかけてはおもに文化人や作家、美術家、学者、研究者、政治家、企業経営者などが多数集まっては居住するようになった。このあたりの経緯は、大磯Click!鎌倉Click!と非常に近似していることは以前から指摘しているとおりだ。
 落合地域に集って住んでいた人物像も多彩で、たとえば画家は文展・帝展のアカデミックな官展派から在野のアヴァンギャルドまで、作家は芸術(至上主義)文学派からプロレタリア文学派までと、あらゆるカテゴリーをカバーしている。つまり、本来はライバルで対立軸であるはずの思想家や表現者が、ひとつの地域の中でときに殴り合いや「リャク」(恐喝・略奪)Click!をし合いながら、「仲良く」暮らしていた呉越同舟型のエリアが、落合地域の大きな特色のひとつでもある。ゆったりとした刻(とき)が流れていた江戸の市街地とは異なり、江戸近郊の農村から都市化の流れの中で、短期間(といっても100年以上だが)で驚くほど膨大な物語やエピソード、伝説・伝承などが育まれてきた場所、それが落合地域の土地がらといえるだろうか。
 史的に見ても、岩宿遺跡Click!の発見からわずか3~4年後、東京では初めて下落合の目白学園遺跡Click!から旧石器時代の石器類が見つかって以来、縄文から弥生、古墳、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、そして現代の東京時代にいたるまで、数万年前から一貫して人々が生活し居住してきた痕跡が残り、地域全体が埋蔵文化財包蔵地のような傾向があるのも、大磯地域と近似する落合地域の大きな特色だ。
 地形も、平川Click!(のち神田上水+江戸川+千代田城外濠=現・神田川)と支流である北川Click!(現・妙正寺川)の流れをはさみ、北部は目白崖線がつづく豊島台Click!、南部は淀橋台Click!(下末吉段丘)にまたがる丘陵と谷間、切れこんだ谷戸などを包括した起伏に富む武蔵野の地勢となっている。両河川の段丘斜面(特にバッケClick!=崖地)からは、露出した武蔵野礫層のあちこちから清水が湧きでて泉や池を形成している。また、これらの谷間は数十万年前には古東京湾の深い入り江だったらしく、目白崖線の斜面にのぞく東京層(粘土層)からは、数多くの貝化石Click!が産出している。
下落合東部1936.jpg
下落合中西部1936.jpg
下落合中西部1941.jpg
下落合東部19441213.jpg
文化村.JPG
 わたしが初めて落合地域に目をとめたのは、高校時代に観ていたドラマClick!がきっかけだったが、その後、学生時代に実家から“独立”して落合地域の北側(南長崎)にアパートを借り(下落合は家賃が高くて学生の身分では借りられなかった)、1983年(昭和58)に下落合のマンションへ住みはじめ、次いで家を建てて以来、そのままこの街に住みつづけ根を生やしてしまった。当初の住みはじめは、ドラマに登場した情景が気に入っただけのミーハーな動機だったが、実際に住みはじめてみると、さまざまな偶然が重なっているのに改めて気づかされることになった。
 わが家の先祖代々が氏子である、江戸東京総鎮守の神田明神Click!に主柱として奉られている平将門のご子孫、将門相馬家Click!が下落合にある御留山Click!(将軍家の鷹狩場Click!=現・おとめ山公園Click!)の広大な敷地に住んでいたのを知ったのは住みはじめてからだ。神田明神の分社Click!が、江戸期から下落合に鎮座していたのも稀有な事蹟だろう。日本橋地域にお住まいの方ならご存じだろうが、天下祭り(神田祭Click!)の際に大川(隅田川)や神田川の流域にある日本橋地域をはじめとする街々の神輿は、神田川を神輿舟Click!でさかのぼっては神田明神へと集合してくる。
 つまり、わたしの故郷と下落合とは「水脈」で結ばれていることになる。また、神田明神の出雲神(オオクニヌシ)をキーワードにすえると、落合地域には氷川社Click!や諏訪社、ときに八雲社Click!などを通じて、さまざまな“レイライン”が交叉Click!し形成されていることも想定できた。史的な「水脈」ばかりでなく、わたしには多くの「気脈」や「地脈」も感じられる土地、それが落合地域ではないかと感じられるようになった。
 高校時代に偶然、TVで魅せられて歩きはじめ憧憬を抱いた街並みだが、それが偶然とは思えなくなるほど多種多様なテーマが判明している。ここに蓄積してきた文章も、はや2,277記事を数えビジターものべ1,750万人も超えているので、そろそろ落合地域を散策する「道人」ではなく、「落合学」とでもいうべき新しいカテゴリーを起ち上げてもいいような感触が少し前からしていた。したがって、15周年を契機に「落合道人」へ「落合学」という冠名をかぶせても、決して早計ではないような気がするのだが……。ただし、「落合道人のほうがよかったのに~」とか、「やだ、絶対反対!」とか、「初期のChinchiko Papalogのモヤモヤにもどせ!」という声が多数寄せられれば、もともと日和見主義的でいい加減なサイトなので、すぐにタイトルを元にもどすことにしたい。^^;
下落合全域19450402.jpg
下落合東部19450518.jpg
下落合東部19450518別角度.jpg
下落合全景1947.jpg
下落合東部1979.jpg
下落合展望.jpg
 拙サイトを15年前に起ち上げた際、下落合を中心に1970年代の半ば、高校生のときからけっこうウロウロ散策していたのも、大きなモチベーションになったことのひとつだろうか。つまり、少なくとも空襲で焼けなかったエリア、戦前からの姿をそのままとどめていたエリアは、10代からおおよそ目にしている。それも、この地域を見つめるにあたり、時間軸を長めなスパンでとらえやすい要因になっているのかもしれない。サイト16年めを迎えつつ、そんな高校時代からの偶然性にも気づかされるこのごろなのだ。

◆写真上:もともと相馬孟胤邸の庭園の一部だった、御留山の谷間にある湧水池。
◆写真中上は、日米開戦直前の1941年(昭和16)に発行された「淀橋区詳細図」にみる落合地域。陸軍施設が林立していた戸山ヶ原が空白で、淀橋浄水場の表現が改ざんされている。は、1965年(昭和40)発行の「東京区分図」にみる新宿区と落合地域(拡大)。は、目白崖線の斜面に多く見られる広葉樹林帯。
◆写真中下からへ、1936年(昭和11)に陸軍航空隊が撮影した落合地域の東部と中西部、1941年(昭和16)に陸軍航空隊がめずらしく斜めフカンで撮影した落合地域の中西部、1944年(昭和19)12月13日に米軍のF13偵察機Click!が撮影した下落合の東部、下落合中部に残る目白文化村(大正期)の名残り。
◆写真下からへ、1945年(昭和20)4月2日の空襲11日前に米軍が撮影した戦災前の最後の落合地域、4月13日夜半の第1次山手空襲後の同年5月18日に米軍が撮影した下落合東部の被害状況と同時に撮影した別角度の写真、戦後の1947年(昭和22)に米軍が爆撃効果測定用に撮影した落合地域の全景、わたしが学校からの帰り道によく散歩していた1979年(昭和54)の下落合東部。中央に見える大きな森が御留山(おとめ山公園)だが、現在はさらに拡張されて1.7倍ほどの広さになっている。最後の写真は、新宿区北部に位置する下落合の東部上空から新宿区の南部を展望したもの。(Panasonic新聞チラシより)

読んだ!(19)  コメント(34) 
共通テーマ:地域