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そろそろ「落合学」にしてもいいかな……。 [気になる下落合]

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 さる11月24日(日)で、拙サイトは2004年の同日にスタートしてから丸15年が経過した。16年めに入ったのを機に、落合地域やその周辺域一帯、あるいは落合地域のある新宿区北部に関するコンテンツや情報などが蓄積されてきたので、そろそろ「落合学」というようなカテゴリー(ジャンル)を意識してもよさそうな気がするのだ。落合地域をより深く、より精細かつていねいに研究するのに必要なテーマや課題は、生意気を承知でいわせていただければ、かなり出そろってきたのではないだろうか?
 「落合学」とは、もちろん前世紀末からつづく赤坂憲雄が編纂している『東北学』(東北芸術工科大学東北文化研究センター)や、拙サイトがスタートしてちょうど10周年に、わたしが惹かれた『大磯学』Click!(創森社/2013年)にならったものだが、地域・地方に眠る多彩な人々の物語やエピソード、換言すればその地域ならではの文化や歴史、地理・地勢、伝説・伝承などから日本あるいは世界を改めて捉えなおすと、どのような相貌や姿かたちに見えてくるのか?……というような視座を基盤にした「学」だ。
 『東北学』や『大磯学』の執筆者たちが、テーマとしている地勢や風土などの“立ち位置”について指摘するように、落合地域もまた東京の新宿区という土地がらを考えれば、きわめて特殊かつ異質な地域ということになる。1991年(平成3)より、新宿は「新都心」と呼ばれるようになったようだが、およそ「都心」という名に似つかわしくないのが落合地域の風情だ。だから、人々は落合地域のことを「新宿の秘境」や「新宿の僻地」、「新宿の片田舎」、少しマシな表現だと「新宿の離れ」や「新宿の奥座敷」、ひどい人にいわせると「モヤモヤ落合」などと呼ばれたりしている。w
 確かに、淀橋浄水場跡Click!に林立する超高層ビル群を眺められる、目白崖線にかろうじて残されたグリーンベルトの斜面には、いまだに野生のタヌキが棲息していて、江戸期のまま有機肥料(爆!)をまく畑も見られたりする、およそ現代の「新宿」らしからぬ風景は、あまりの「秘境」さ加減にイギリスのBBCもカメラクルーを連れて取材にくるほどだ。ひと口に新宿区といっても、もともと江戸後期から市街化が進みはじめていた東京市街地の四谷区と牛込区(15区時代Click!)、それに1932年(昭和7)の「大東京」時代Click!を迎えて成立する元・豊多摩郡だった淀橋区(35区時代)の3区域が合併した区なので、それぞれ文化や歴史、風土などが異なっていることは、すでにこれまでの記事でご紹介Click!している。落合地域は、淀橋区の北部(外れ)に位置する「辺境」エリアだった。(そういえば井上光晴Click!が編纂していた『辺境』という文芸誌もあったっけ)
 落合地域は、案外に広い。明治期から大正期まで、落合地域は上落合と下落合(東京府の風致地区に指定されていた葛ヶ谷地域の一部含む)、そして昭和初期に「西落合」としてスタートする葛ヶ谷の3地域が含まれる。1960年代には行政による一方的な町名変更Click!で、下落合の中部から西部にかけては馴染みのない「中落合」や「中井」と呼ばれる"地名"になった。落合地域の北側は、長崎地域や高田(目白)地域(ともに豊島区)と接し、東側は高田(目白)地域と戸塚地域(新宿区)、南側は戸塚地域と住吉(東中野)地域(中野区)、西側は上高田地域と江古田地域(ともに中野区)という地理条件だ。
 落合地域から利用できる鉄道駅も多く、住んでいる場所にもよるが最寄駅は山手線の目白駅か高田馬場駅、東京メトロ東西線の高田馬場駅か落合駅、西武新宿線の下落合駅か中井駅、都営地下鉄大江戸線の中井駅か落合長崎駅、ときに中央線の東中野駅や西武池袋線の椎名町駅および東長崎駅のほうが近そうなエリアもあったりする。地域内や直近の駅は8駅、全体から見れば11駅の利用者がいるとみられるこれだけ広い街なので、ひと口に「落合地域」といっても、昔から各エリアごとにさまざまな特色をもつ街並みや街角が形成され、それに関連する多種多様な人たちが居住してきた。
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 明治以降だけを見ても、当初は鎌倉期以前からつづくとみられる農村の丘陵地や谷間に、華族や財閥などおカネ持ちが住む別荘地や隠居地として注目され、大正期以降はおもに画家など美術関係者が集まって暮らす静寂なアトリエ村のような風情になり、大正中期には近衛町Click!目白文化村Click!、つづいてアビラ村(芸術村)計画Click!のように、東京郊外の田園地帯に拓かれたモダニズムただよう文化住宅街の嚆矢的な街へと変貌し、昭和期にかけてはおもに文化人や作家、美術家、学者、研究者、政治家、企業経営者などが多数集まっては居住するようになった。このあたりの経緯は、大磯Click!鎌倉Click!と非常に近似していることは以前から指摘しているとおりだ。
 落合地域に集って住んでいた人物像も多彩で、たとえば画家は文展・帝展のアカデミックな官展派から在野のアヴァンギャルドまで、作家は芸術(至上主義)文学派からプロレタリア文学派までと、あらゆるカテゴリーをカバーしている。つまり、本来はライバルで対立軸であるはずの思想家や表現者が、ひとつの地域の中でときに殴り合いや「リャク」(恐喝・略奪)Click!をし合いながら、「仲良く」暮らしていた呉越同舟型のエリアが、落合地域の大きな特色のひとつでもある。ゆったりとした刻(とき)が流れていた江戸の市街地とは異なり、江戸近郊の農村から都市化の流れの中で、短期間(といっても100年以上だが)で驚くほど膨大な物語やエピソード、伝説・伝承などが育まれてきた場所、それが落合地域の土地がらといえるだろうか。
 史的に見ても、岩宿遺跡Click!の発見からわずか3~4年後、東京では初めて下落合の目白学園遺跡Click!から旧石器時代の石器類が見つかって以来、縄文から弥生、古墳、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、そして現代の東京時代にいたるまで、数万年前から一貫して人々が生活し居住してきた痕跡が残り、地域全体が埋蔵文化財包蔵地のような傾向があるのも、大磯地域と近似する落合地域の大きな特色だ。
 地形も、平川Click!(のち神田上水+江戸川+千代田城外濠=現・神田川)と支流である北川Click!(現・妙正寺川)の流れをはさみ、北部は目白崖線がつづく豊島台Click!、南部は淀橋台Click!(下末吉段丘)にまたがる丘陵と谷間、切れこんだ谷戸などを包括した起伏に富む武蔵野の地勢となっている。両河川の段丘斜面(特にバッケClick!=崖地)からは、露出した武蔵野礫層のあちこちから清水が湧きでて泉や池を形成している。また、これらの谷間は数十万年前には古東京湾の深い入り江だったらしく、目白崖線の斜面にのぞく東京層(粘土層)からは、数多くの貝化石Click!が産出している。
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 わたしが初めて落合地域に目をとめたのは、高校時代に観ていたドラマClick!がきっかけだったが、その後、学生時代に実家から“独立”して落合地域の北側(南長崎)にアパートを借り(下落合は家賃が高くて学生の身分では借りられなかった)、1983年(昭和58)に下落合のマンションへ住みはじめ、次いで家を建てて以来、そのままこの街に住みつづけ根を生やしてしまった。当初の住みはじめは、ドラマに登場した情景が気に入っただけのミーハーな動機だったが、実際に住みはじめてみると、さまざまな偶然が重なっているのに改めて気づかされることになった。
 わが家の先祖代々が氏子である、江戸東京総鎮守の神田明神Click!に主柱として奉られている平将門のご子孫、将門相馬家Click!が下落合にある御留山Click!(将軍家の鷹狩場Click!=現・おとめ山公園Click!)の広大な敷地に住んでいたのを知ったのは住みはじめてからだ。神田明神の分社Click!が、江戸期から下落合に鎮座していたのも稀有な事蹟だろう。日本橋地域にお住まいの方ならご存じだろうが、天下祭り(神田祭Click!)の際に大川(隅田川)や神田川の流域にある日本橋地域をはじめとする街々の神輿は、神田川を神輿舟Click!でさかのぼっては神田明神へと集合してくる。
 つまり、わたしの故郷と下落合とは「水脈」で結ばれていることになる。また、神田明神の出雲神(オオクニヌシ)をキーワードにすえると、落合地域には氷川社Click!や諏訪社、ときに八雲社Click!などを通じて、さまざまな“レイライン”が交叉Click!し形成されていることも想定できた。史的な「水脈」ばかりでなく、わたしには多くの「気脈」や「地脈」も感じられる土地、それが落合地域ではないかと感じられるようになった。
 高校時代に偶然、TVで魅せられて歩きはじめ憧憬を抱いた街並みだが、それが偶然とは思えなくなるほど多種多様なテーマが判明している。ここに蓄積してきた文章も、はや2,277記事を数えビジターものべ1,750万人も超えているので、そろそろ落合地域を散策する「道人」ではなく、「落合学」とでもいうべき新しいカテゴリーを起ち上げてもいいような感触が少し前からしていた。したがって、15周年を契機に「落合道人」へ「落合学」という冠名をかぶせても、決して早計ではないような気がするのだが……。ただし、「落合道人のほうがよかったのに~」とか、「やだ、絶対反対!」とか、「初期のChinchiko Papalogのモヤモヤにもどせ!」という声が多数寄せられれば、もともと日和見主義的でいい加減なサイトなので、すぐにタイトルを元にもどすことにしたい。^^;
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 拙サイトを15年前に起ち上げた際、下落合を中心に1970年代の半ば、高校生のときからけっこうウロウロ散策していたのも、大きなモチベーションになったことのひとつだろうか。つまり、少なくとも空襲で焼けなかったエリア、戦前からの姿をそのままとどめていたエリアは、10代からおおよそ目にしている。それも、この地域を見つめるにあたり、時間軸を長めなスパンでとらえやすい要因になっているのかもしれない。サイト16年めを迎えつつ、そんな高校時代からの偶然性にも気づかされるこのごろなのだ。

◆写真上:もともと相馬孟胤邸の庭園の一部だった、御留山の谷間にある湧水池。
◆写真中上は、日米開戦直前の1941年(昭和16)に発行された「淀橋区詳細図」にみる落合地域。陸軍施設が林立していた戸山ヶ原が空白で、淀橋浄水場の表現が改ざんされている。は、1965年(昭和40)発行の「東京区分図」にみる新宿区と落合地域(拡大)。は、目白崖線の斜面に多く見られる広葉樹林帯。
◆写真中下からへ、1936年(昭和11)に陸軍航空隊が撮影した落合地域の東部と中西部、1941年(昭和16)に陸軍航空隊がめずらしく斜めフカンで撮影した落合地域の中西部、1944年(昭和19)12月13日に米軍のF13偵察機Click!が撮影した下落合の東部、下落合中部に残る目白文化村(大正期)の名残り。
◆写真下からへ、1945年(昭和20)4月2日の空襲11日前に米軍が撮影した戦災前の最後の落合地域、4月13日夜半の第1次山手空襲後の同年5月18日に米軍が撮影した下落合東部の被害状況と同時に撮影した別角度の写真、戦後の1947年(昭和22)に米軍が爆撃効果測定用に撮影した落合地域の全景、わたしが学校からの帰り道によく散歩していた1979年(昭和54)の下落合東部。中央に見える大きな森が御留山(おとめ山公園)だが、現在はさらに拡張されて1.7倍ほどの広さになっている。最後の写真は、新宿区北部に位置する下落合の東部上空から新宿区の南部を展望したもの。(Panasonic新聞チラシより)

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