SSブログ

落合周辺の風景『絵本江戸土産』。(上) [気になるエトセトラ]

甘泉園滝.JPG
 下落合の藤稲荷を描いた、1864(元治元)出版の安藤広重・二代広重『絵本江戸土産』Click!(金幸堂)について、少し前に記事にして書いた。今回は、落合地域の周辺で登場している江戸期の名所を、それぞれ現在の様子とともにご紹介したい。
 まず、落合地域の南東側にあたる戸塚地域では、高田馬場(たかたのばば)と高田富士(たかたふじ)が取りあげられている。高田馬場は、広重の有名な『名所江戸百景』Click!をはじめ、いくつかの浮世絵にも登場しているが、『絵本江戸土産』の構図は馬場の南側から北東を向いて描いたもので、浮世絵にはつきものの富士山が含まれていない。人々が往来する手前の街道は、下戸塚村から源兵衛村へと抜ける今日の早稲田通りに相当する道筋だ。この画面の構図は、長谷川雪旦が描く『江戸名所図会』巻之四「天権之部」に所収の挿画と、ほぼ同じ視点から描かれている。
 現在でも、高田馬場跡Click!は乗馬の周回路がそのまま道路になってけっこうクッキリ残っているが、馬場の北側は住宅地に、南側は早稲田通りに削られているとみられる。現状の写真は、高田馬場の北側エリアを写したもので、広重の画面でいうと左手の奥に見える戸塚村の村落があるあたりで、そのさらに北側の下り斜面には清水徳川家の下屋敷がある。同画に添えられた一文は、以下のとおり。
  
 高田馬場 穴八幡の傍にあり この所にて弓馬の稽古あり また神事の流鏑馬を興行せらるをあり 東西へ六丁南北三十余間 むかし頼朝卿隅田川より この地に至り勢揃ありしといひ伝ふ
  
高田馬場.jpg
高田馬場跡.JPG
 水稲荷社の境内にあった富塚古墳Click!の上に築かれた、大江戸(おえど)Click!の富士塚第1号である高田富士Click!は、高田八幡社(穴八幡社)Click!側から眺めたところだ。崖上にあるのは、手前が法輪寺で奥が宝泉寺Click!だろう。画面奥の左手に見えている山は三島山で、当時は清水徳川家の下屋敷だった現・甘泉園公園のあたりだ。この風景の背後のバッケ(崖地)下には神田上水が流れ、下戸塚村の田圃が拡がっていた。
 現在の水稲荷社は、甘泉園公園の西側に移転し、高田富士の山頂に木花咲耶姫を奉っていた祠と頂上部の溶岩は、甘泉園公園の南東側に移されている。また、水稲荷社の本殿裏には、富塚古墳の解体時に出土した玄室や羨道の石材(房州石Click!)が、そのまま集められて不規則に展示されている。
  
 高田富士山 同所宝泉寺水稲荷の境内にありて餘の富士と等しからず 六月十八日まで参詣せしめ 麦藁の蛇等を売る茶店を出し諸商人出きて数日の間賑ひまされり
  
高田富士.jpg
高田富士頂上.JPG
 高田八幡社(穴八幡社)は、階段(きざはし)を上ってくぐる光寮門(隨神門)が描かれている。光寮門は、境内の内側から西を向いて描かれており、本殿(左手)へと向かう参道には春のせいかサクラが満開だ。この風景は現在でもほとんど変わらないが、光寮門の向こう側に見える松の古木は、早稲田通りの拡張工事とともに伐られてしまった。
 画面の左手に、見下ろすように描かれている街並みは、牛込馬場下町や牛込早稲田町、あるいは早稲田村に散在する小大名や旗本などの抱え屋敷の屋根群だ。尾張徳川家の下屋敷がある戸山ヶ原は、画面の右手に展開しており、穴八幡の高台からは東海道五十三次の琵琶湖に見立てた、金川(カニ川)Click!の流れを利用して造成した大池(御泉水)がよく見えただろう。
  
 穴八幡は尾州侯戸山の御館の傍にあり 此あたり植木屋多く四季の花物絶ゆることなし
  
穴八幡.jpg
穴八幡社.JPG
 幕府練兵場の高田馬場の北側には、神田上水(室町期なので平川)が流れる太田道灌Click!由来の「山吹の里」と呼ばれた地域があった。そこに架かる橋を広重は他の作品と同様、頑固に「姿見橋」と書きつづけている。また、神田上水の北側にある南蔵院Click!の境内を横切る灌漑用水の橋を、「面影橋(俤橋)」と一貫して規定している。広重に倣うなら、用水の埋め立てとともに面影橋はなくなり、姿見橋が残っていることになるのだが、なぜか現在では神田川(旧・神田上水)に架かる橋名が「面影橋」となっている。
 たとえば幕府の普請奉行が命じて、1791年(寛政3)に完成した『上水記』や、同じく延宝年間から制作がスタートしている同奉行所の『御府内往還其外沿革図書』には、神田上水に架かる橋は「面影橋」と採取されているが、派遣された地域に疎い役人が「姿見橋」と「面影橋」を取りちがえて採取している可能性を否定できない。確かに、川面まで距離のある高橋(たかばし)からは「姿見」しかできないが、川面に近い用水の小橋からは「面影」を確認することができるからだ。
 画面の姿見橋は雪景色で、『名所江戸百景』の構図よりも視点が低いが、広重は北側にある面影橋を描くことも忘れていない。雪景のせいか、無意味な源氏雲がないのも好もしい画面だ。また、キャプションにも現場で取材したとみられる一文を載せている。
  
 山吹の里姿見橋 山吹の里は太田道灌の故事によつて号くとぞ 姿見はむかしこの橋の左右に池あり その水淀みて流れず故に行人この橋にて姿を摸し見たるよりの名なりといふ
  
姿見橋(面影橋).jpg
面影橋神田川.JPG
 姿見橋(面影橋)から北へ進み、目白崖線の宿坂を上ると雑司ヶ谷鬼子母神Click!表参道Click!に出る。そのまま四ツ家(四ツ谷)の西へカーブする参道を歩けば、ほどなく鬼子母神へたどり着ける。広重の画面では、鬼子母神(法明寺別当大行院)と北側の法明寺がセットになって描かれている。画面の右下に幟が林立するのが鬼子母神の境内で、左手に描かれた大伽藍の並んでいるのが法明寺Click!だ。
 雑司ヶ谷鬼子母神の境内には、当時から料理屋(スズメのやき鳥が有名だった)や茶屋、駄菓子屋などが見世を開いていたが、数年前から「上川口屋」Click!に加え、おせん団子(羽二重団子)と煎茶で休憩できる茶屋「大黒屋」が開店している。雑司ヶ谷鬼子母神の名物だったおせん団子と、縁台を並べた江戸期の茶店を復活させたものだ。
  ▼
 雑司ヶ谷鬼子母神法明寺 この神出現の地は護国寺より坤にあたり 清土といへる所の叢に小さき祠ありて始めその処に祀れりとぞ この神霊験新なる中に稚児を守り給ふ 故に乳なき婦人こゝに祈りてことごとく霊応あり 毎年十月会式のとき殊に賑ふ 別当大行院これを護持す
  
雑司ヶ谷.jpg
雑司ヶ谷法明寺.JPG
雑司ヶ谷鬼子母神.JPG
 鬼子母神から法明寺まで、田畑の中を松並木のある参道が描かれているが、この道筋は周囲を住宅街や東京音楽大学Click!のキャンパスに囲まれてはいるが、現代でもほぼそのまま残っている。ただし、法明寺の本堂は1923年(大正12)の関東大震災で倒壊したため、画面の位置より数十メートルほど左側(西側)に移って再建されている。
                               <つづく>

◆写真上:清水徳川家の下屋敷だった、三島山(現・甘泉園公園)の庭に造られた小滝。
◆写真中・下:それぞれ、が広重『絵本江戸土産』の画面で、が現在の同じ場所を写した風景。面影橋の写真では、橋の北詰め(向こう側)に山吹の里の石碑がある。また、雑司ヶ谷鬼子母神の写真では、が法明寺本堂でが鬼子母神境内のおせん団子。

読んだ!(18)  コメント(24) 
共通テーマ:地域