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中井英夫が開いた「薔薇の宴」。 [気になる下落合]

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 下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)に住んだ小説家・中井英夫Click!は、家の周囲や庭先にさまざまな植物を育てていた。その中で、もっとも好きで数が多かったのは、多彩なバラの花々だったろう。そのバラが満開を迎える初夏、中井英夫は「薔薇の宴」と称するパーティーを毎年開いては、友人・知人たちを招待していた。もちろん、「薔薇の宴」は下落合でも開かれていただろう。
 中井英夫Click!が、市ヶ谷台町から下落合へ転居してきたのは1958年(昭和33)、ちょうど角川書店で歌誌「短歌」の編集長を引き受けていたころのことだ。それまでにも、彼は日本短歌社の歌誌「短歌研究」や「日本短歌」の編集長をつとめている。そして、1967年(昭和42)に下落合からすぐ南側の新宿区柏木(現・北新宿)、そして中野へと転居していくが、1969年(昭和44)に杉並区永福町へ移るころから、中井英夫ならでは視点でとらえた現代短歌史を構想していたようだ。
 それは、1971年(昭和46)に『黒衣の短歌史』(潮出版社)として結実するが、下落合で「短歌」の編集長をしていたころの“歌壇”の雰囲気を、たとえば次のように表現している。1988年(昭和63)に三一書房から出版された『中井英夫作品集/別巻』に収録の、『黒衣の短歌史』から引用してみよう。
  
 たとえ岸上大作がどれほど悲痛な思いで自殺したにしろ、その作品がすでにこの“臭い”に毒されている以上、次のような評判作もお世辞にも賞めることはできない。
 意思表示せまりこえなきこえを背にただ掌の中にマッチ擦るのみ
 装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている
 血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする
 すでに加藤周一が『現代短歌に関する私見』の中で、「P・Xから出てくるG・Iたちという文句は、おでん屋から出てくる書生たちという文句より少しも近代的ではない」といましめたのは昭和二十四年のことだというのに、進歩的なことを歌いさえすれば自分も進歩派の仲間入りをしたと思いこむ錯覚はまだ続いているらしい。といって私は塚本(邦雄)のエピゴーネンに徹する須永朝彦より福島泰樹『バリケード六十六年二月』をはるかに高く評価するのだが。(カッコ内引用者註)
  
 拙サイトの記事にも登場している岸上大作Click!と、下落合にも住んでいた福島泰樹Click!のふたりが登場しているが、岸上大作は1960年(昭和35)10月に『意思表示』を発表したあと、わずか2ヶ月後の12月にはすでに自裁しているので、「進歩派の仲間入り」をしたなどと自覚するヒマもなかったのではないだろうか。
 中井英夫は、常に“歌壇”に眼を向けていたが、下落合の自邸の庭へ“花壇”を造ることにも熱中していた。特に、バラの栽培には造詣が深く、毎年5月ごろになると多種多様なバラが庭先で花を咲かせていたようだ。
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 下落合4丁目2123番地の家は、西側に隣接する池添邸Click!の敷地内にあり、その周囲に拡がる広い庭もまた池添家からの借地だった。その庭に、中井英夫はバラを中心にさまざまな植物を植え、育てていたようだ。それは、1960年(昭和35)に作成された「東京都全住宅案内帳」(住宅協会/人文社)の下落合エリアで、中井英夫邸が「中井」という苗字が採取されずに、「植物園」として記載されていることでも明らかだ。同地図の調査員は、あまりにも多くの花々が咲き乱れる中井邸の庭や花壇を垣間見て、個人邸ではなく植物園と勘ちがいしたのだろう。あるいは、中井英夫自身が「〇〇植物園」と書いたプレートを、冗談半分にどこかへ架けていたのかもしれない。
 中井英夫が、もっとも早くバラについて表現した詩は、わたしの知るかぎり1946年(昭和21)7月8日に創作された『凍えた花々』ではないだろうか。この詩は、彼の日記に書きとめられたもので、1983年(昭和58)に立風書房から出版された『黒鳥館戦後日記』の、「1946年7月8日」の項に掲載されている。1989年(昭和64)に三一書房から出版された、『中井英夫作品集/Ⅶ』より引用してみよう。
  
 凍えた花々
 地球のあちこちに/ともかくもばらはもえてゐた
 つぼみはつぎつぎ瞳をみひらき/相ついで香ひの産声をあげた
 地球のあちこちに/ともかくもばらは生きてゐた/ともかくも空気を吸つてゐた
 その日/地球にふたゝび氷河は流れ/いつさいの花を固く封じたそのとき
 香ひ立つばらも生きながら凍つたそのとき/花と空気は絶縁し/…………
 あの残虐な氷河時代にも/しかし花はほろびなかつた
 凍りはしながら毅然としてゐた。/…………
  
 中井英夫の下落合時代は、創作に加え多彩な活動を行なっている。有馬頼義や松本清張Click!らとともに「影の会」の世話人を引き受けたり、1961年(昭和36)に角川書店を退社するとグラフィックデザインの会社を友人と起ち上げたり、小学館の百科事典づくりにも参画している。1964年(昭和39)には、塔晶夫の名で『虚無への供物』(講談社)を出版し、同時に『青髯公の城』(未発表)も執筆している。
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 ところが、翌1967年(昭和42)になると突然、新宿にあるコンピュータ専門学校へと通いだし、百科事典とコンピュータとの連携の可能性に熱中しはじめている。当時のコンピュータ専門学校で教えられていたのは、機械語やCOBOL、FORTRANによるプログラミングだったろう。2年後に誕生するUNIXさえ、存在しなかった時代だ。
 同時期に、朝日新聞の文芸欄で埴谷雄高Click!から『虚無への供物』が高く評価され、中井英夫の作品は一躍脚光を浴びることになった。そして、1969年(昭和44)には三一書房から『中井英夫作品集』(旧版)が出版されている。この作品集の装丁を手がけたのが音楽家の武満徹で、以降、武満は「薔薇の宴」の常連になっていく。
 「薔薇の宴」に招かれたのは、どのような人々だったのだろうか? 東京帝大時代の友人には吉行淳之介がおり、戦後すぐのころから原民喜やいいだ・もも、三島由紀夫Click!、荒正人らと交流している。また、短歌関連では馬場あき子や寺山修司Click!、塚本邦雄、中城ふみ子らとは懇意であり、ほかにも渋澤龍彦なども招かれていたようだ。
 ここに、貴重な写真が残っている。中井英夫が、1988年(昭和63)に出版された『中井英夫作品集/別巻』(三一書房)のアルバムに収録する予定でいた写真類だが、どうしても見つからず行方不明になっていたものだ。それが、翌1989年(昭和64)の春になってようやく発見され、「編集のしおり」の全ページをつぶして掲載された。
 写っている「薔薇の宴」は、1981年(昭和56)5月23日に世田谷区羽根木の自邸で開かれたものだが、下落合のバラ園で行われた「薔薇の宴」もこのような雰囲気の中で開かれ、同じような顔ぶれが参集していた可能性が高い。
 同作品集のアルバムとは異なり、用紙が粗末で印刷が粗いため鮮明でないのが残念だが、写真には吉行淳之介や渋澤龍彦、松村禎三、武満徹、出口裕弘、巖谷國士らの姿が見える。その周囲には、中井英夫が丹精こめて育てたバラが満開だ。
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 『中井英夫作品集/別巻』には著者自身が選んだアルバムが掲載されているが、1960年代後半に撮影されたとみられる庭先の記念写真が1枚収録されている。時期的に見て背後に写る鬱蒼とした庭が、下落合4丁目2123番地の自邸の様子である可能性が高い。

◆写真上:1988年(昭和63)撮影の、羽根木の庭でもバラに囲まれてご満悦の中井英夫。
◆写真中上は、短歌誌の編集長時代に撮影された1958年(昭和33)ごろの記念写真。右から左へ寺山修司、前登志夫、春日井建、中井英夫、塚本邦雄。は、1964年(昭和39)に開かれた『虚無への供物』出版記念パーティーの様子。右から左へ中井英夫、渋澤龍彦、三島由紀夫、寺山修司。は、同時の撮影で右から左へ、下落合1丁目286番地(現・下落合2丁目)の権兵衛坂Click!中腹にあり『虚無への供物』では最後に「牟礼田の家」のモデルになった邸に住む十返千鶴子Click!、木々高太郎、生方たつゑ。
◆写真中下は、1965年(昭和40)すぎごろ下落合の中井邸で撮影されたとみられる記念写真。右から左へ、斎藤慎爾、左時枝、中井英夫、河野裕美子。は、下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)の中井邸跡の現状。左側の家々が草木に覆われていた中井邸の敷地で、奥に見えるのは当時のままの古い池添邸の塀。は、1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会/人文社)に「植物園」と記載された中井邸。
◆写真下は、1964年(昭和39)に武満徹の装丁で出版された旧版の『中井英夫作品集』(三一書房/)と、1988年(昭和63)に新たに出版された『中井英夫作品集/別巻』(同/)。は、世田谷区羽根木の自邸における「薔薇の宴」。右から左へ中井英夫、吉行淳之介、武満徹。は、同時期の撮影で渋澤龍彦(右)と中井英夫。

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