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確認や総括や了解点よりも愛してやれ。 [気になる神田川]

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 喜多條忠が、岸上大作Click!の1960年(昭和35)12月に自裁する直前まで綴っていた絶筆『ぼくのためのノート』Click!を意識し、日記風のノートをつけていたのを知ったのは、そんな昔のことではない。そこには、日々の所感や詩作が書きつらねてあり、落合地域のすぐ近くに展開していた情景も記録されている。彼の学生時代の「ノート」をわたしが読んだのは、それが書かれてから20年以上がたった1990年(平成2)ごろのことだ。
 たとえば、1967年(昭和42)のノートにはこんな様子が書かれている。1974年(昭和49)に新書館から出版された『神田川』所収の、「川」という詩から引用してみよう。
  
 夜になって/「大正製薬」の煙突についているネオンが消え
 アパートの下を流れる神田川の水が/白い泡に変わってゆく
 僕の魂が肉体を捨てて飛び去ったときにも
 太平洋の上を漂う僕の半裸体からも
 こんなに白い泡が/流水のようにして浮かんでゆくのだろう
  
 書かれている神田川は、前年に旧・神田上水から名前が「神田川」に変わったばかりのころ、汚濁がピークに達しようとしていた60年代後半の様子だ。下水口から流れこむ生活排水に含まれた合成洗剤で、堰堤Click!が設置された落差のある川面では一面に白い泡が立ち、風が強い日には泡が遠くまで吹き飛ばされていた時代だ。
 この詩を書いている部屋は、喜多條忠自身のアパートではない。同じ大学へ通う「池間みち子」が住んでいた、3畳ひと間の小さな部屋だ。そのアパートからは、神田川をはさんで北西約200mのところに、大正製薬Click!工場の煙突が見えていた。高田馬場駅のすぐ近く、戸田平橋から神田川の南岸を東へ85mほど入り、材木店の2軒隣りに建っていた赤いトタン屋根のアパートだった。住所は戸塚町1丁目129番地、それがいまの高田馬場2丁目11番地に変わるのは1974年(昭和49)になってからのことだ。
 現在は川沿いに遊歩道が設置され、神田川の南岸と建物とは4mほど離れているが、当時はアパート北側の外壁が川面に面して建っていた。この赤い屋根のアパートは、1992年(平成4)まで残っていたのが確認できる。喜多條忠は学生時代、自分のアパートへはあまり帰らず、彼女の下宿に入りびたってすごすことが多かったようだ。
 つづけて、同書の詩「僕たちの夕食」の一部を引用してみよう。
  
 あなたがドライヤーで乾かす/豊かな髪の黒い流れののように
 僕のなかで波形模様が揺れる/トイレの小窓から見える線路の上を
 長い貨物列車が通って行く/もうあの草色の山手線は車庫の中で
 疲れた足をさすって眠っているのだ/で 僕たちの食事はこれから始まる
 ワサビノリと即席アラビアン焼ソバ/ハリハリ漬けとしその実漬け
 煮干をボリボリとかじったあと/背骨をねじらせたその小さな硬い魚の頭が
 ミイラになった蛇の頭そっくりなのに気付いて
 あわてて手に持っていたものまで罐のなかにしまう
  
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 「みち子」のアパートにあった共同トイレは、おそらく西に小窓が切ってあり、山手線の線路土手がよく見えたのだろう。終電のあと、山手線を貨物列車が通過する深夜の情景だ。何度も「僕」が登場するけれど、わたしの学生時代に「僕」Click!などといったら、周囲から「おまえはいつまで僕ちゃんなんだ?」と、小中学生を見るような眼差しを向けられただろう。もっとも、喜多條忠は大阪人なので、「僕」は大人も普通につかう一人称代名詞なのかもしれない。(ただし、大人がつかう「僕」に違和感をおぼえる大阪人もいるので、大阪市内の地域方言か慣用語なのかもしれない)
 わたしが高校生のころ、1973年(昭和48)に喜多條忠が作詩した『神田川』Click!は、しょっちゅうラジオから流れていたけれど、漠然と大学の下宿が多かった早稲田から面影橋あたりの情景を唄ったものだろうと想像していた。だが、これほど落合地域に近い場所で紡がれた「物語」だとは思ってもみなかった。下落合1丁目の町境から「みち子」のアパートまで、わずか400mほどしか離れていない。高い建物がなかった当時、下落合の日立目白クラブClick!(旧・学習院昭和寮Click!)あたりの丘上からは、赤い屋根の「みち子」のアパートがよく見えていたと思われる。
 もっとも、当時のわたしは一連の“フォークソング”と呼ばれた、暗くてみじめったらしく、うしろ向きでウジウジしている歌全般がキライだったので(いまでも苦手だが)、ラジオから『神田川』とかが流れてくると選局ダイヤルを変えていた憶えがある。『神田川』の記念歌碑は、この曲を作詩したときに喜多條忠が住んでいた、東中野の神田川沿いの公園に建立されているようだが、まだ一度も出かけたことがない。
 再び同書より、1967年(昭和42)3月5日の日記を少し長いが引用してみよう。
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 今のみち子の置かれた位置として、もっとも重要にして深い、そして身近な問題に真剣に取りくんでいくべき時点に立っているのではないかということ、僕と彼女との今までの了解点として、羽田闘争のときには暴徒とよんだ人間に、佐世保闘争のときは心を動かされたものがあるとみち子自身が僕に書いてきたとき、そんな調子のよい世論便乗的な態度がまず批判されるべきであること、そして僕たちは意識の自覚の程度によってそれなりの努力を日常においてやっていく、それは読書することによっての精神の少しずつの変革でもよいし、とにかく真剣にやっていくということが確認されていたはずであること、それがスキーをやり、夜は連日麻雀台をかこんだという楽しい旅行のあと、今度はすぐに夏の旅行のために、帰って来ている僕のことをも無視してアルバイトをやる(中略)という発想、そこには二十五日に僕がはじめて彼女を途中で追い返したときの何らの反省も含まれていないであろうことを指摘した。/もっとも僕は今、自分でもかなり勉強してるし、いかにも前に書いたこれまでの総括を踏まえたことをやっているからこそ、彼女にこんな厳しい、それこそ若干スターリニズム的な押しつけがましいことが言えるのだが、これも今の彼女の情況を彼女自身が省みてもらいたいがために言ったのである。
  
 20歳前の、なにをしても楽しいし、なにを話しても気分がウキウキするような女子に、こんな「若干スターリニズム的」な確認や総括だらけの説教をしても、どれほどの意味があるのだろうか。(爆!) こんな日記を読んだら、いまの若い子たちはどのような感想をもつのだろう。いわく、「ってゆ~か、意味わかんないし。みち子さんに、ボクを置いてどっかへフラフラ遊びに出かけないで、いつもそばにいてほしいって、素直に頼めばいいだけの話じゃん!」……と、ただそれだけのことかもしれない。
 『神田川』の世界からほぼ50年、神田川は大きな変貌をとげてアユが遡上Click!し、タモロコやオイカワ、マハゼなどが回遊して、夏休みには小学生たちが川で水遊びClick!のできる、キンギョが棲めるまでの水質に改善された。神田川(千代田城外濠)から分岐する日本橋川では、サケの遡上も確認されている。下水の流入が100%なくなり、落合水再生センターの薬品を使わない浄水技術で、神田川の多種多様な魚やトンボなど昆虫の幼虫たちが甦った。いまでも単体では見かけるが、夕暮れに琥珀色の羽根が美しいギンヤンマの群れがもどる日も近いのかもしれない。
 いや、上落合の落合水再生センターは神田川にとどまらず、渋谷川や古川、目黒川においても、川を清浄化する実質上の給水源であり“源流”となっている。
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 1970年(昭和45)前後の神田川、どこかうらぶれた雰囲気が漂うドブ川のイメージは、すっかり払拭された。だが、それと同時に詩『神田川』に描かれた、ささやかなギターの音色が似合いそうなセピア色の世界も、常に不吉な翳りのある怖かった「あなたのやさしさ」もまた、「みち子」とともにどこかへ消えてしまった。

◆写真上:澄んだ神田川の水面には、ときどき魚影や水生生物の姿が横切る。
◆写真中上は、日記に書かれた時代の4年前にあたる1963年(昭和38)に撮影された空中写真にみる「みち子」のアパート。は、1975年(昭和50)の同所で赤い屋根が新しく葺きかえられているようだ。は、1974年(昭和49)出版の喜多條忠『神田川』(新書館)に掲載された、いかにも1970年代の匂いがする林静一の挿画イラスト。
◆写真中下は、1974年(昭和49)の「住所表記新旧対照案内図」にみる戸塚町1丁目129番地のアパート。は、神高橋の下から眺めた下流の高塚橋と戸田平橋。「みち子」のアパートは、戸田平橋の向こう側にあたる。は、同書の林静一挿画。
◆写真下は、春爛漫の神田川。は、羽化を観察するのか神田川でトンボのヤゴを採集する子供たち。は、喜多條忠『神田川』(1974年/)と当時の著者()。
おまけ
1990年代まで残っていたとみられる、戸塚町1丁目129番地(現・高田馬場2丁目)の「みち子」のアパート跡。(左手マンション) 突き当りは、川沿いの遊歩道と神田川。
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「帝展に落選」する帝展無鑑査の片多徳郎。 [気になる下落合]

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 下落合734番地で暮らした片多徳郎Click!は、つるゑ夫人に7人の子どもたちとともに9人の大家族で、とても賑やかな家庭だった。それに、面倒をみていた親戚を加えると、およそ10人以上の人々に囲まれ、頼りにされて生活していたことになる。だが、片多徳郎は常に孤独感に苛まれていたようだ。
 この孤独感、あるいは疎外感がアルコール依存症からくるものなのか、それとも画業に対する焦燥感から生じたものなのかは不明だが、片多徳郎の下落合時代は断酒のために青山赤十字病院へ数ヶ月おきに入退院を繰り返していた。そのような状況で知り合った、近所の下落合623番地にアトリエをかまえていた曾宮一念Click!とは、画会も表現もまったく異なってはいたが、気を許せる数少ない画家仲間だったようだ。
 お互い気のおけない性格が共通していたのと、片多と曾宮は自作に変化を求め次の表現を模索していた同士なので、共通の課題やテーマなど話題も多かったのだろう。当時のふたりの様子を、片多徳郎の長男・片多草吉が後年に回想している。1996年(平成8)に木耳社から出版された夕雲会・編『回想 曽宮一念』所収の、片多草吉『曽宮一念画伯の想い出』から引用してみよう。
  
 当時の父は、育ち盛りの七人の子供に係累など十数人の暮しのための画作を強いられ、酒害による体力の衰えと、新しい画境の模索に煩悶中でした。曽宮さんの澄んだ眼差しを湛えたにこやかに風丰(ぼう)、素直な語り口が、父にとってどんなにか慰めとも励ましにもなったか、真に得難い心友でした。主として新帰朝者により齎(もたら)された前衛絵画の潮流の中で、お互いに固有の画法を生み出そうという同志的交わりであったと思います。昭和八年に私どもは椎名町(長崎東町1丁目1377番地)へ移転し、この交流も途絶えがちとなり、翌九年に父は四十四歳で亡くなりました。思えば、風雨に悩まされ通しの父の晩年数年間にとって、曽宮さんとの交友の日々は清澄な秋晴れにも似たひと時でありました。(カッコ内引用者註)
  
 片多徳郎Click!は、断酒のために青山赤十字病院へ入院すると、イーゼルなど絵道具一式を病室に持ちこみ、病院の了解のもとにアトリエとして使用していた。その様子から、入院時はもっぱら個室が与えられたのだろう。曾宮一念は後年、「治療後の無酒よりも有酒状態の方が作品に活気があった」と片多の作品を回想している。
 近所の曾宮一念Click!が、初めて自分のアトリエに訪ねてきたときはすぐに意気投合したらしく、片多徳郎のほうが美校の4年先輩にもかかわらず、親しく頻繁に往来するようになった。片多も曾宮も、旧来のアカデミックな写実から脱して、新しい日本風の油絵を追求していた時期と重なるため、同一の志向で仕事に取り組む画家同士ということで、ことさら気が合ったのかもしれない。
 曾宮一念は、絵道具をかつぎながらボロボロの着物で榛名湖畔の旅館へ泊まる片多徳郎の、こんなエピソードを紹介している。1938年(昭和13)に座右宝刊行会から出版された、曾宮一念『いはの群れ』から引用してみよう。
  
 (片多徳郎が)僕は画かきだが今年の帝展にも落選して東京にはゐる所も無いので此処に逃げて来たが泊めてくれるか、安く無ければ居られないが一たい何程で泊めてくれるかと哀れな姿でたのんだ、するとそこの主人がこれはお気の毒、此処へは時々はエライ先生方もお泊りになるから画かきさんの事はよく承知してゐる、安いといつても三食で一円では如何でせう云々。それからこゝで山湖の寒さを酒でしのぎ乍ら制作三昧に浸つたらしい。この話は勿論芝居気では無い、何(いず)れかといへば稚気である、氏の令息たちが「親父は子供で困る」と逆縁のことを言つてゐる程片多氏は或る点甚だ児童に類してゐた。(カッコ内引用者註)
  
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 帝展審査員であり、もちろん帝展へは無鑑査で出品できる当の「エライ先生」=片多徳郎にしては、あまりに子どもじみたイタズラだが、どこかでアカデミックな帝展が抱える限界を自虐的に、あるいは少なからずアイロニーをこめてイタズラを演じていた気配さえ漂う。「物静かで地味な生地だが、酒で元気を借りていた」(曾宮一念)というマジメな片多徳郎は、自身の居場所や表現を見つけられないまま、晩年をすごしていたのかもしれない。ちなみに、このエピソードは1932年(昭和7)の暮れに、曾宮一念が片多徳郎アトリエを訪ねたときの酔談のひとつだ。
 その晩年の作品について、曾宮一念は「片多氏を皮相的な写実家とすることは全く誤つてゐる」として、次のように書いている。『いはの群れ』より、再び引用してみよう。
  
 晩年の作には限らないが氏の画は画面の美しさに特殊なものがあつた。近頃の術語でマチエールの美しさである、立派な水墨画家でありながら(榛名湖の水墨画帳一巻は特に気魄に満ちてゐる)油絵具に惚れてゐると自から言つてゐたのも此処に在ると思ふ。小品でも一気にかき放すことはなかつたらしく一度かき放しても再三上にゑのぐの層を加へていつた、だから軽妙爽快と言ふよりは寧ろドロリとした手触はりに、良き陶器の如く、よき磨きをかけられながら深く沈んでゐた。
  
 曾宮が記している「画面の美しさ」は、1932年(昭和7)晩秋の榛名湖で制作された『秋色山水(1)』と『秋色山水(2)』の画面のことだろう。この榛名湖への写生旅行には、長男の片多草吉も付き添っており、曾宮一念からは「望外な讃辞を頂き父も大満足でした」(『曽宮一念画伯の想い出』)と書きしるしている。
 だが、それからわずか1年余ののち、片多家にかかってきた1本の電話から、つるゑ夫人をはじめ子どもたちは愕然とすることになる。1934年(昭和9)5月2日に、東京朝日新聞の記者から電話があり、名古屋の西本願寺別院の墓地で4月28日に発見された縊死体が、行方不明の片多徳郎ではないかという照会の電話だった。片多徳郎「秋色山水(1)」1932.jpg片多徳郎「秋色山水(2)」1932.jpg片多徳郎アトリエ跡2.JPG
 これもpinkichさんからお贈りいただいた、1934年(昭和9)5月3日発行の東京朝日新聞(朝刊)から、当時の様子を引用してみよう。
  
 名古屋の墓地で/片多徳郎画伯自殺
 酒豪で聞えた元帝展審査員/七日前に飄然家出
 豊島区長崎東町一ノ一,三七七元帝展審査員洋画家片多徳郎氏(四五)は、昨年来アルコール中毒症が昂じ同年十月から本年二月まで巣鴨脳病院に入院しやゝ回復して退院後も到底画筆に親しみ得ず、専ら自宅で付近の高島医師の手当を受けてゐたが、去月二十六日へう然外出したまま行方不明となり、二日に至り家人が目白署に捜索願ひをだした、同署では「非監置精神病者」の失そうとして全国に手配中、同夜に至り片多氏はすでに去る二十八日名古屋市内において自殺し、当時身許不明のため市役所の手で仮埋葬されてゐた事が判明、往年帝展の中堅作家とし、また画壇随一の酒豪として「酒中の仙」とまでいはれた氏のこの悲惨な死に知友はひとしく暗然としてゐる。
  
 同紙には、名古屋へ遺体の引き取りに向かった片多草吉による、「如何しても自殺したとは思へなかつたのです、時々黙つて外出し帰らない事もあるので、又帰る、いつか帰ると待つてゐたのでした」というコメントも掲載されている。それほど、家族にとってはにわかに信じられない「霹靂」のような衝撃だったのだろう。
 なお、この記事に登場する「高島医師」とは、片多徳郎が下落合から転居した長崎東町1丁目1377番地の家から、わずか100mほどしか離れていない、長崎東町1丁目1405番地(のち927番地)に住んでいた「高島」という医師(?)のことではないだろうか。
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 晩年の片多徳郎は、いい画面が仕上がるとすぐに出かけては誘うことができる、そして彼の話をていねいに聞いてくれる曾宮一念という存在が身近にいて、ある意味で幸福だったのではないだろうか。だが、その曾宮でさえ彼の自殺を防ぐストッパーにはなりえなかった。片多徳郎が抱えていた心の深淵は、どれほど深く、また暗かったのだろう。

◆写真上:下落合734番地(現・下落合4丁目)にあった、片多徳郎アトリエ跡の現状。
◆写真中上:pinkichさんからいただいた岡田三郎助/大隅為三・編『片多徳郎傑作画集』(古今堂/1935年)所収の、からへ片多徳郎『二輪牡丹』(1929年)、同『蔬菜図』(1931年)、同『無衣横臥』(1930年)で、いずれも下落合時代の作品。
◆写真中下:同じく、は1932年(昭和7)の晩秋に制作された片多徳郎『秋色山水(1)』と同『秋色山水(2)』。は、下落合734番地にあった片多アトリエ北側に接する道で、突き当たりのクラックした右手が下落合623番地の曾宮一念アトリエ跡。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる長崎東町の片多徳郎アトリエ。は、片多徳郎の自裁を伝える1934年(昭和9)5月3日の東京朝日新聞(朝刊)。

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葛ヶ谷村(西落合)の「四ツ塚」。 [気になる下落合]

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 行政区画の境界近くにある地名や史蹟が、それぞれの側から異なった名称で呼ばれていることがままある。たとえば、向こうに見える小高い丘は、隣り村から見れば「向山」だが、その丘の周辺に住んでいる地元の村人にすれば「丸山」だったりする。地元の呼称のまま調べていると、周辺地域の呼称とは齟齬が生じて少なからず混乱するのを、わたしも何度か経験している。
 たとえば、江戸期には下落合村よりも裕福だったとみられる上落合村から見れば、妙正寺川は村の北側を流れる「北川」Click!であり、その向こう側の土地は「北川向」Click!(明治以降は字名化される)と呼称されていた。ところが、下落合村側からみれば村の南側を流れる妙正寺川は「北川」とは呼びにくく、当時の下落合村絵図には「井草流」と書きこまれている。また、下落合村の丘下にある土地はやはり「北川向」とは呼びにくく、村人は通称として「中井村」Click!と呼称していたものだろうか。
 そんな事例のひとつに、史蹟である古墳を表現する名称として、江古田村(中野区)側の伝承では「四ツ塚」と呼ばれていた古墳が、地元の葛ヶ谷村(現・西落合/新宿区)では「馬塚」Click!と呼ばれていたケースがある。葛ヶ谷御霊社の北側、現在の新青梅街道の直近に位置していた塚だ。江古田側の記録では、4つの塚(古墳)が街道沿いへ規則的に並んでいたため「四ツ塚」と呼ばれていたとされているが、1932年(昭和7)に自性院Click!が発行した大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』(非売品)による葛ヶ谷村側の伝承記録では、特に塚の数までは言及されていない。
 また、葛ヶ谷村では「四ツ」で4つ足動物の「馬」を連想し、時代をへるにしたがい「馬塚」と称されるようになった可能性もある。事実、馬が死ぬと死骸を「四ツ塚」で葬っていたのかもしれない。「四ツ塚」の南南東700mほどのところに位置する、葛ヶ谷村と下落合村の境界近くにある「丸塚」では、近世になって実際に農耕馬が葬られていた事例があるのだ。
 いずれの塚も、発掘調査がなされないまま耕地整理による整地や、新青梅街道の敷設などで破壊されてしまったが、人骨や武具、馬の骨などが出土したという伝承が残されている。また、これらの遺物がいつの時代のものかは特定できないが、中野区教育委員会では室町期の戦乱によるものと想定している。1984年(昭和59)に出版された『なかのものがたり』(中野区教育委員会)から、当該部分を引用してみよう。
  
 道灌と豊島一族が戦った江古田ヶ原・沼袋の地とは、江古田から沼袋に至る旧江戸道沿いである現在の哲学堂公園や江古田一丁目、松が丘二丁目あたりから丸山二丁目、野方六丁目にかけてであるといわれています。この辺一帯にはかつて、経塚、金塚、四つ塚などがあり、人や馬の骨、武具などが出土したことがありましたが、いずれも学術的な発掘調査はされず、今では住宅地や道路となってしまいました。
  
 だが、中野区内の「塚」はその多くが足利一族(義教vs持氏)の対立や、その後の豊島氏と太田氏による戦闘によって築造されたものと推定されているが、地名や地形などを細かく観察Click!すると落合地域と同様に、より古い時代の遺跡が混在しているのではないだろうか?……というのが、わたしがそもそも抱いた課題意識だ。
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 また、古墳のある地域は、地元では禁忌エリア(屍家=しいや伝説Click!)または正反対の長者伝説Click!として語り継がれ、中世以降はことさら墓域Click!寺社の境内Click!に転用されている例も少なくない。したがって、「塚の記録が残っている→中世に戦闘があった→その死者を葬った塚だろう」では、あまりに短絡しすぎているように感じるのだ。本来は、実際に発掘調査を行なうのが筋だろうが、宅地化が急速に進んだ地域では中野区教育委員会が書いているように、短期間で住宅地や道路の開発で破壊されその余裕がなかった。各塚の写真や、形状を記録した絵図などが残されていないのが残念だ。
 なぜ、落合地域(葛ヶ谷村)に築造されていた「四ツ塚」の記録が、中野区側の資料によく残っているのだろうか。これは想像だが、葛ヶ谷村(現・西落合)は南に位置する下落合村よりも、妙正寺川や千川上水(落合分水Click!)の水利などの関係から、江古田村との交流や連携のほうが盛んだったのではないだろうか。だから、現在は中野区と新宿区で行政区画が分かれてしまったが、中野区側に葛ヶ谷村に関する情報が色濃く残っている……、そんな気が強くするのだ。
 さらに、「四ツ塚」のほぼ真北にあたる600mほどのところに、「金井塚」と名づけられた古墳が存在していたことも伝えられている。やはり、室町期の豊島氏と結びつけられた遺構として語られているが、こちらは江戸期の「庚申」信仰と結びつけられていた。「庚申」が、古墳期から奉られてきたとみられるタタラ集団が奉じた「荒神」の転化Click!ではないかという歴史的なテーマは、かなりメジャーになっているのでご存じの方も多いだろう。しかも、塚名そのものが「金井塚」なのだ。
 さて、もうひとつの資料を参照してみよう。実相院の過去帳をたどり、沼袋地域を中心に中野区の歴史を鳥瞰した矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』(非売品)から、葛ヶ谷村の「四ツ塚」と江古田村の「金井塚」を引用してみよう。
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 四つ塚 今の新青梅街道と新井薬師駅方面から給水塔の東側を通って千川通り方面に抜ける、土地では「鎌倉街道」と呼ばれる道路の交差した所にあった。北西角の堀野商店のある所から兜や刀のくさったものが出土したという。
 金井塚 四つ塚の西北方約五百メートル(ママ)の所(江原一-一一)にあった。この場所には江戸時代に庚申塔が立てられた。この地にあった塚は土地の区画整理の時に壊され、この庚申塔は現在石の観音像をまつる江古田の原の観音堂(江原三-一二)と呼ばれる地の境内に移されている。
  
 「四ツ塚」のあった道を、中野区教育委員会は「江戸道」としているが、和田山Click!(井上哲学堂Click!)に和田氏Click!の館があったという伝承が語れ継がれてきた地元では、「鎌倉街道」と位置づけられていたのがわかる。塚のふくらみを避けるように、塚と塚との間へ古くからの道路が敷設されているのも興味深い。なお、中野の地元でも、つい「新井薬師駅」Click!と書いてしまっているのが面白い。
 「四ツ塚」からは、「兜や刀のくさったもの」が出土したとされているが、古墳期の武人ももちろん直刀や兜(冑)を装備していたので、いつの時代のものかは不明だ。あるいは、「兜や刀のくさったもの」が塚の表面近くから出土したとすれば、中野教育委員会が推定するように江古田が原の戦いで戦死した豊島氏や太田氏の死者を、「屍家伝説」などが残るより古い塚へ合葬していたかもしれず、地中には玄室や羨道などさらに古い時代の遺構が眠っていたかもしれない。
 ひとつ、気になる絵画がある。片多徳郎Click!が下落合732番地(のち下落合2丁目734番地/現・下落合4丁目)のアトリエで暮らしていた時代、1931年(昭和6)に制作された『若葉片丘』Click!という作品だ。画面の左手には斜面が描かれているが、その上部に取ってつけたような人工的に見える築土がとらえられている。付近を散歩して風景画Click!を描いていた片多徳郎は、いまだ耕地整理のままで住宅が存在しなかった葛ヶ谷地域(現・西落合)へ出かけていやしないだろうか?
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 画面の人工的に見えるふくらみが、周辺の地形からして「四ツ塚」だとは思えないが、起伏が多い葛ヶ谷地域で他の場所を描いた際、画面に期せずして取り入れてしまった塚のひとつである可能性がある。ふくらみの上に大きく繁る老木を見ても、この不自然な地形の盛り上がりに、なんらかの故事や謂れが付随していたと考えても不自然ではない。

◆写真上:葛ヶ谷村(現・西落合3丁目)にあった「四ツ塚」跡の十字路を、カーブする旧・鎌倉道(江戸道)の西側から眺めたところ。
◆写真中上は、大正期の1/10,000地形図に描きこまれた「四ツ塚」と「金井塚」。(『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』より) は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「四ツ塚」跡。西北と南東の角に、塚跡とみられる痕跡が残っているようだ。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の火保図にみる「四ツ塚」跡。西北側の敷地境界線に、丸みを帯びた「四ツ塚」のひとつらしい痕跡が残っている。は、1941年(昭和16)と1947年(昭和22)の空中写真にみる「四ツ塚」跡とその周辺。
◆写真下は、交差点から西を眺めた「四ツ塚」跡。右手の北西側の塚が、戦前まで痕跡をとどめていたようだ。は、「金井塚」近くの住宅街。は、画面左手に盛り土らしい人工的な「塚」状の地形が描かれた、1931年(昭和6)制作の片多徳郎『若葉片丘』。

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洞穴にひそむ落武者たちの伝説。 [気になるエトセトラ]

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 先年、旧・野方地域の沼袋から江古田の界隈をめぐり、古墳の痕跡をたどって散策した様子を記事Click!に書いたことがある。具体的には、中野沼袋氷川社からから北へ本村Click!(もとむら/ほんむら)、丸山の地域を経由して、江古田(えごた)氷川社へと抜けていくコースだった。その際、各エリアには「〇〇塚」と名づけられてきた、古塚が点在することもご紹介している。
 以前にご紹介した古塚は、中野区歴史民俗資料館の北側にある「経塚」と、江古田氷川社の西側にある「古塚」(稲荷塚/狐塚)のみだったが、野方地域を見まわすとそれどころではなく、数多くの「〇〇塚」が存在していたのが判明した。少し挙げてみると、江原屋敷森緑地の近くにあった「金井塚」、和田山Click!の近くにあった「四ツ塚」、沼袋氷川社の南に近接していた「古塚」、丸山地域の西側に点在していた「金塚」「蛇塚」「大塚」などだ。この中で、落合地域(西落合)にかかる「四ツ塚」と西落合に近接していた「金井塚」が興味を惹く。
 これらの古塚は、実際に発掘が行われたのか、それとも調査されずに破壊されたのかは不明だが、地元では室町期の足利氏Click!同士の対立や豊島氏Click!太田氏Click!がらみの戦闘で出た、戦死者を埋葬したものという伝承があるようだ。つまり、中世に由来する墳墓(合葬墓)ということになる。ところが、このような伝承の塚を実際に発掘調査してみると、はるかに古い古墳時代の遺構が出土する例が少なくない。また、確かに新しく埋葬された痕跡もあるが、その下からより上代の古墳が発見される例も多い。つまり、そこがもともと死者を弔う“屍家”=古墳Click!の地域伝承が当初からあり、のちの時代に重ねて死者を埋葬してしまった(ときに後世の付会をかぶせてしまった)事例だ。
 下落合でいえば、中世まで存在したと思われる下落合摺鉢山古墳(仮)Click!の北東部の急斜面へ、新たに下落合横穴古墳群Click!を築造してしまうようなケースだろうか。また、前方後円墳Click!柴崎古墳(将門首塚古墳)Click!へ、後世になって平安期のエピソードを付会するのも同じようなケースだ。古墳の羨道や玄室が発見されると、江戸期にはさっそくキツネの住居Click!にされ、稲荷社Click!が建立されたり多彩なエピソードが付会されるのも同様だろう。都内各地に残る「狐塚古墳」Click!は、江戸期のもっともらしい付会を疑い、科学的な発掘調査ののちに命名された象徴的な古墳名だ。
 沼袋から江古田地域にかけても、中世に落武者が「穴」あるいは「洞穴」を掘って住んだり、樹木の根元を掘ると「神仏」が出現したりする伝承が残されている。これらの「洞穴」は、もともと存在していた穴を拡張して造成された可能性があるように思われるのだ。それは、「洞穴」があちこちで見つかった高田八幡社Click!が、通称で「穴八幡」Click!と呼ばれるようになり、その洞穴から「神仏」が出土したり、あるいは洞穴を工作して神仏を奉っていたのにも近似している。
 時代は室町期、沼袋地域の東にある新井地域に伝わる物語として、将軍・足利義教と関東管領・足利持氏が対立して合戦になったころ(永享の乱/1438年)のエピソードだ。持氏の家臣・矢田義泉が、負け戦で多摩郡善祥寺(禅定院とみられている)まで落ちのびて、住職の善祥法師に助けられる。この伝承は、1943年(昭和18)に出版された『中野区史・上巻』(中野区)にも収録されているが、以下「洞穴」に関する伝承を地元寺である実相院が出版した、矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』(非売品)から引用しよう。
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 善祥法師は義泉をよく保護し、ついに義泉等に勧めて、向の山は往還の道路無く、北に川あり、南に山々続き隠れ住むには究竟の地所なりとして、此所に善祥が差図して、山麓に横穴を掘り、其処に義泉とその一党がすむこととなった。この横穴は表口九尺餘、高さ丈餘、深さ三丈餘であった。なほこの山は古の関所の跡なので関根山と呼ばれた。時に応永五年二月であった。/ついで応永八年仲春、藤作山の麓に、表口九尺餘、高さ一丈三尺餘、深さ四丈餘の横穴を掘り、左右衛門義藤が引篭り、同十年三月には、庄司山の麓に、表口九尺餘、高さ一丈三尺餘、深さ四丈餘の横穴を掘り、但馬が住まった。
  
 この「向の山」とは、どのような丘陵だったのだろうか? ご存じのように野方地域一帯は起伏のある丘陵地帯で、現代の感覚で遠くから「山」と視認できるような場所はほとんどない。(当時、大きな墳丘が残存していれば「山」に見えたかもしれない) また、「向の山」は「関所の跡」と書かれているが、道筋のないところに関所跡があるのも不自然だ。「関根山」とは、なんらかの「関」(仕切りの構造物)が基盤として築かれていた「山」のことであり、古墳の遺構を想起させる。「関所跡」は、後世に導きだされた山名からの付会ではないだろうか。
 このような事蹟から、地域にある古塚は当時の戦における死者を合葬したものという、後世の“解釈”が付加されるのは容易に想像がつく。この伝承に付随して、樹木の根元の地中から光り輝く仏像(薬師如来)が出現して安置されるという逸話も語られている。この逸話は近くの梅照院(新井薬師)の縁起でも語られているが、高田八幡(穴八幡)のいわれとなった阿弥陀仏の出現とよく似ている。
 そして、この洞穴の規模が、すなわち「深さ三丈餘」=約10mや「深さ四丈餘」=約12mと、50~100mクラスの小・中型前方後円墳にみられる、玄室とそこにいたるまでの羨道の長さ(奥ゆき)に匹敵しそうなのだ。すなわち、「山」の斜面にもともと掘られていた狭い羨道の入口を表口九尺餘=約2.7mに拡張し、羨道を拡げながら掘り進み(「高さ丈餘」「一丈三尺餘」=3~3.9m)、最後に大きな石組みで構築された広い玄室空間へと貫通させたのではないか?……という想定が成り立つ。
 ただし、これらの洞穴は現存していないので、現代の科学的な発掘調査ができないのがもどかしいが、周囲の地名や散在する古塚などの環境を前提に考えると、あながち非常に突飛な想定ではないように思える。
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 もうひとつ、野方の字名「丸山」(下沼袋の「丸山」とは別)を囲むように、興味深い小字「三谷」が収録されている。以下、同書より再び引用してみよう。
  
 今の野方二丁目の辺りが三谷と呼ばれていたことはご年輩の実相院の檀家の方々はほぼご存知のことと思います。所がその中央部、旧家である秋元さんの家がかたまってある辺りが丸山と云われていたということはほとんどご存知ないと思います。私がそのことに最初に気がついたのは今から三十年ほど前に今の矢島達夫さんのお父さんの銀蔵さんに同家の家系の調査を依頼された時であります。/三谷は実相院過去帳では江戸時代はだいたい三谷と記されることが多いのですが、山谷と書かれている場合も少なからずあります。
  
 陸軍参謀本部が作成した明治末の地形図では、丸山のすぐ東隣りに三谷の字名が記載されているが、このエリアの地形に3つの谷間が切れこんでいるわけではない。等高線を観察すると、正円状に盛りあがった字名「丸山」の丘を三方(北東西)から囲むように、谷状の窪地があるから「三谷」と名づけられたと思われる。
 もちろん、この地図は明治末のものなので、墳丘(丸山)全体は江戸期以前から開墾のためとうに削られていると思われるが、それでも墳丘の盛りあがった痕跡と、その後円部とみられる三方の窪地にちなんだ「三谷」という小字が、当時まで廃れずに記憶されていたということなのだろう。
 このケースと非常によく似た地形を、以前に南青山地域の事例Click!としてこちらでもご紹介している。野方の「丸山」と同様に、後円部の正円とみられる丘が湧水源をともなう三方(北東南)の谷間に囲まれ、前方部が崩されて整地され横断道路などが敷設されたとみられるケースだ。野方の「丸山」は、いまだ周囲を歩いていないので未確認だが、近々現地を調べてみたいと思っている。ちなみに、南青山の場合は広大な青山墓地Click!に隣接していたため開発が遅れ、大規模な整地が行なわれたとはいえ、現在まで当初の面影(起伏とその形状)をよく残している。
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 旧・野方町の沼袋界隈から江古田、あるいは新井などにかけ、さまざまな史跡や地形、事蹟、伝承・伝説の糸をたぐっていくと、落合地域よりもかなり色濃い、古墳時代の遺構をしのばせる痕跡が見えてくる。それらがよく語り継がれ保存されているのは、単に大正期から昭和初期にかけての市街化が遅れたタイムラグのせいだろうか? それとも、より鮮明で確かな記憶が人々の間で、忘れられずに語り継がれてきたからだろうか。

◆写真上:江古田氷川社の西側にある、「稲荷塚/狐塚」の“双子”とみられる古墳跡。
◆写真中上は、すでに痕跡もない「経塚」跡。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる下沼袋の「丸山」周辺。は、同「丸山」跡に造成された公園。
◆写真中下は、野方地域に展開する古塚群。(『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』より) は、大正末の1/10,000地形図にみる野方の「丸山」と「三谷」の字名。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所の正円形の痕跡。
◆写真下は、1941年(昭和16)の空中写真に斜めフカンでとらえられた「丸山」。明らかに前方後円墳を想起させるフォルムをしており、後円部の直径は200mをゆうに超え、「三谷」=周壕(濠)とみられるエリアも入れると300mを超えている。詳細は、改めて記事に書いてみたい。は、野方の「丸山」「三谷」と近似した南青山の事例。下左は、1998年(平成10)に出版された矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』(非売品)。下右は、落武者伝説に関連するとみられる禅定院の境内にある大イチョウ。

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家庭環境にとても恵まれた亀高文子。 [気になるエトセトラ]

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 明治末から大正期にかけ、「芸術家」をめざそうとすると、さまざまな障害や抵抗を覚悟しなければならなかった。「芸術」という仕事自体の社会的評価が、それほど高くなかったせいもあるが、なによりも家族や親戚一同から執拗に反対され、無理やり進路を諦めさせられたケースも多かっただろう。
 特に画家や小説家には、そのような事例が多々見られた。「男子たるもの、軟弱な絵描きになんぞなってどうするのだ」とか、「売文業など、得体のしれないヤクザのやる仕事だ」とか、「ちゃんとした定職に就いたら、趣味でおやりなさい」とか、ひどいケースになると「そんな、いい加減な人間に育てたおぼえはない。出ていけ!」と親から勘当された例さえあった。芸術家は「定職」とはみなされず、いかがわしい仕事で身すぎ世すぎをしている人間の代表のように見られがちな時代だった。
 そのような社会背景や家庭環境では、男子でさえたいへんな芸術家への道が、女子ではそれに輪をかけて困難だったことは想像に難くない。よほど理解のある家庭か、知的で視野の広い両親や、応援してくれる身内や親戚がいるのならともかく、ふつうの家庭では女子が芸術の道をめざすのは、まず絶望的な状況だった。
 洋画家をめざした長沼智恵子Click!は、東京へやってくる口実として目白にある日本女子大学の家政学部へ入学したが、同大学では美術教師をしていた松井昇に絵を習い、しばらくすると松井の推薦で谷中真島町1番地の太平洋画会研究所へと通いはじめている。福島県の実家では、てっきり家政学を熱心に勉強しているものとばかり思っていたのだろうが、長沼智恵子は「主婦」になるつもりなどさらさらなかった。つまり、女性が画家をめざすには、親をだましてでも習いつづける以外に方法がなかったのだ。
 太平洋画会研究所で、長沼智恵子の同窓だった渡辺ふみClick!(のち亀高文子Click!)は、智恵子とはまったく異なる、正反対の家庭環境から洋画家をめざすようになった。子どものころから、日本画家である父・渡辺豊州が仕事をするのを傍らで眺めて育ち、暇さえあれば絵を描いていたようだ。彼女が女子美術学校Click!へ通いたいといいだすと、父親は諸手を上げて賛成し娘を送りだしている。渡辺ふみの実家は横浜にあり、もともとハイカラで昔からの規範や枠組み、慣習などが希薄な家庭環境だったせいもあるのだろう。
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 少女時代の様子を、1922年(大正11)に大日本雄弁会講談社から発行された「婦人倶楽部」3月号の、亀高文子『苦しみよりも楽しみ』から引用してみよう。
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 他の友達が外へ出て毬をついたり、鬼事をして笑ひ興じて遊んで居る時、私は独り自分の室で古い日本画をひき写したり、何かしら好きな絵を描いたりして遊んで居ることに限りなき楽しさと幸福とを覚えました。小学校から女学校へ通ふやうになつても、私の絵に対する興味は益々濃厚になつてゆくばかりでした。懐かしくも思ひ出多い女学校を卒業いたしました時、私は何の迷ひもなく、其の時出来たばかりの女子美術学校へ入学することになりました。父はいふ迄もなく喜んで賛成して呉れましたので、私の希望は何の故障もなく達せられたのでした。之は生れながらの趣味が同じ道を歩む理解ある父の好意によりて順調に私のゆくべき道へ志すことが出来たのでございます。
  
 渡辺ふみの家庭ケースは、当時としては例外中の例外だろう。一家は、娘が本郷の女子美術学校や谷中の太平洋画会研究所へ通いやすくするため、横浜から東京の谷中清水町(現・谷中1丁目)へわざわざ転居している。
 渡辺ふみは、女子美術学校で熱心に勉強するが、子どものころから絵を描きなれていたせいか通常よりは早く技術は上達したものの、今日のように展覧会やコンペティションなどが存在しないので、絵を創作するというモチベーションを保ちつづけることが難しかったようだ。彼女は、女子美術学校に5年間も学んだにもかかわらず、「僅かに写生を覚えた位のもの」だったと、後年になって総括している。
 女子美を卒業してからは、谷中の初音町15番地(現・谷中5丁目)にあった満谷国四郎Click!のアトリエに通って弟子になり洋画を習いつづけたが、満谷から創立して間もない太平洋画会研究所を紹介されて通うようになり、そこで長沼智恵子と出会っている。
 そこでも家族、特に父親の強いバックアップがあったようだ。上掲のエッセイ『苦しみよりも楽しみ』から、再び引用してみよう。
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 私の画に対して非常な興味と理解とをもつて呉れる父は私の画が一枚一枚と描かれて行くのを何よりの楽しみとして居ました。それ故私は成るべく父を喜ばせ度いと思つて努力しましたが、時には幾分か父の悦びを買はうとして父の好きそうな画を描くやうなことさへありました。けれ共、父が本当によく私の画を見て呉れるといふ事が何程私の励みとなつたか分りません。/美術学校に居りました頃は静物とか、花とか、風景とかいつたものゝうちの或るものに特殊な興味を持つて居りませんでしたが、それがいつ頃よりか人間といふものに強い興味を感ずるやうになり、散歩の途中や、外出中にモデルのよいのに逢ふと描きたくて堪らないやうな気がいたしました。
  
 このあと、同じ洋画家の宮崎與平(実質、渡辺家へ婿入りのかたちなので渡辺與平Click!)との結婚や、よき理解者だった父親の死、出産、そしてわずか24歳の夫・渡辺與平の死と、洋画の道とは逆に実生活では波乱に満ちた生活を送ることになった。
 ところが、この苦難の生活や子育てが、かえって人間を深く見つめる契機になったようだ。若いころは、なにも理解せずに描いていた写生や、想像で描いていた表面的な絵へ、ほんとうの「人間味」が加わってきたと、どこまでも前向きに生きようとする渡辺ふみの性格が見える。そして、「自分の描かうとした或るものが、多少でも描き出された時の嬉しさは何にたとへん方もございませぬ」と文章を結んでいる。
 だが、女性の画家が子どもを抱えながら生きていくには、大正初期は厳しすぎる環境だった。文展で連続入選をつづけながらも、生活は決して楽にはならなかったらしい。1918年(大正7)になると、東洋汽船が運営する定期航路の船長だった亀高五市と再婚し、画名を亀高文子と名のるようになった。5年後、関東大震災Click!による被害と、夫の転勤にともなって神戸へ転居し、以降、活躍の舞台を関西へと移すことになった。
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 再婚した亀高五市も、妻の仕事には理解があって、彼女は自邸のアトリエに画塾「赤艸社女子絵画研究所」を創設して多くの生徒たちを集めている。いまでも関西地方では、女性への洋画普及のさきがけとして、亀高文子は語られることが多いようだ。
 最後に余談だが、娘の画家志望に賛成しためずらしいケースとして、下落合1385番地に住んだ甲斐仁代Click!の父親がいる。お話をうかがった、甲斐仁代のご姻戚・甲斐文男様によれば、彼女を一貫して応援しつづけたようだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:渡辺ふみは本郷弓町(現・本郷1丁目)の女子美術学校で学んだが、卒業した直後に同校は本郷菊坂町(現・本郷5丁目)の本妙寺坂沿いに移転している。写真は、本妙寺坂に建っていた女子美跡(右手の茶色いマンション)の現状。
◆写真中上は、制作年不詳の亀高文子『芙蓉』。は、本郷菊坂町の女子美術学校校舎。は、1935年(昭和10)の「火保図」にみる女子美術学校の様子。
◆写真中下は、渡辺ふみのポートレート()と、渡辺與平と結婚後に生まれた子どもたちとの記念写真()。は、1929年(昭和4)に制作された亀高文子『読書』。
◆写真下:いずれも神戸時代の写真。は、1935年(昭和10)に自邸のアトリエで制作する亀高文子。は、赤艸社女子絵画研究所が開設された亀高文子アトリエ。は、赤艸社での研究会の様子で中央のイーゼルが亀高文子。背後の壁には『読書』が見える。

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千川上水に惹かれる外山卯三郎。 [気になる下落合]

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 下落合1146番地に住んでいた外山卯三郎Click!が、なぜ自邸から300m余しか離れていないところを流れている旧・神田上水Click!(1966年より神田川)ではなく、旧・千川上水に興味を抱いたのかは不明だ。
 井荻駅の近く、井荻町下井草1100番地(のち杉並区神戸町114番地)に自邸を建設Click!したころ、近くを流れる旧・千川上水を散策して惹かれたものか、または大正末から1930年協会の仲間Click!藤川勇造Click!藤川栄子Click!夫妻らとともに、下落合からハイキングClick!へ出かけたときの楽しい想い出があるのか、あるいは西落合から下落合Click!(現・中落合/中井含む)の西端を流れる、旧・千川上水から分岐した落合分水Click!に親しんでいたのかは不明だが、1964年(昭和39)1月20日に竹田助雄Click!が発行した「落合新聞」Click!へ、『千川上水物語』と題するエッセイを寄稿している。
 ちなみに、外山卯三郎の井荻時代Click!には、井荻駅の北側を通る街道(現・千川通り)に並行して、旧・千川上水が流れていた。神戸町114番地の外山邸から、1本西に通う南北道(現・環八通り)へ出て、そのまま北へ向かうと井荻駅のすぐ西側にある踏み切りへさしかかる。それを、さらに北へ住吉町をまっすぐ歩くと、550mほどで街道沿いの旧・千川上水にぶつかる。右へ曲がれば、すぐに八成橋のある地点だ。
 外山邸から10分ほどでたどり着けるので、彼は一二三夫人Click!や子どもたちを連れて頻繁に散歩していたのかもしれない。また、千川上水沿いにはサクラ並木が植えられていた箇所が多く、花見に出かけるのが楽しみだったものだろうか。
 「落合新聞」の記事には、当時の下落合3丁目1393番地(現・中落合3丁目)に住んでいた飯塚巳之助という方が、戦後すぐに撮影した千川上水の写真3枚が添えられている。その写真類のキャプションを、竹田助雄が担当している。
 外山卯三郎の文章は、たとえば里見勝蔵Click!を評して「即ちゴヴゴリイであり、ドストエフスキーであり、又ストリンドベルヒ」でなければならず、すなわち「あざみの花」Click!だ……というように、ちょっと読者(第三者)が理解に苦しむ例示の連関や、自己完結型の比喩を用いた表現で書かれることが多い。「落合新聞」のエッセイ冒頭でも、「ギリシアの昔に水道あり、それがアラビア人によって設計された……」と、なぜ千川上水を語るのにギリシャ時代から説き起こさなければならないのか、わたしは相変わらず目を白黒させながら彼の文章を読むことになる。
 ヨーロッパ水道史の概説は除き、主題である千川上水の部分を引用してみよう。
  
 十六世紀末に江戸に造られた上水道などは、その意味で近世の水道史上に特筆すべき大きな工事だといえるのです。この当時水道をもっていた都市はロンドンとリュテシア(昔のパリ)ですが、いずれも小規模なもので、とても江戸の上水道のような大規模のものではなかったのです。こんなすばらしい江戸の上水道の遺跡も、今日ではだれも顧る人もなく忘れ去られ、わたくしたち落合住人たちの身近を流れていた千川上水でさえも、その姿を消そうとしているのです。/千川上水は玉川上水を上保谷で分水したもので、(写真上)石神井、練馬、鷺宮、江古田、椎名、千早を経て滝野川に流れていたものです。
  
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 ここでようやく、外山卯三郎が暗渠化される旧・千川上水の風情を惜しみ、戦後急速に進む新たな都市計画へ忸怩たる思いを抱いていたのがわかる。
 文中では、江戸市街地の水道網が小規模なロンドンやパリのそれを上まわっていたと書かれているが、小石川上水から神田上水が掘削された江戸初期ならともかく、千川上水が拓かれたあとにはヨーロッパにおける疫病流行の効果的な対策として、たとえばロンドンの市街地では水道網が完備されていたはずだ。江戸後期には、ロンドンをしのぐ150万都市となる、大江戸(おえど)Click!の市街地に引かれた上水道システムClick!は、確かに世界最大規模だったとみられる。
 外山卯三郎は、千川上水が「落合住人たちの身近を流れていた」と書いているが、落合地域で身近に感じられる河川は、もちろん町内を流れる旧・神田上水(1966年より神田川)と、その支流である妙正寺川のほうだろう。千川上水から南へ分岐した落合分水は、旧・葛ヶ谷地域(現・西落合)にお住まいだった方々、あるいは旧・下落合4丁目(現・中井2丁目)の西寄り地域にお住まいだった方々には、暗渠化されるまで身近に感じられたのかもしれないが、下落合(中落合/中井含む)と上落合にお住まいのほとんどの方々は、おそらく旧・千川上水よりもときには暴れて洪水を起こす、目の前を流れる旧・神田上水や妙正寺川のほうがはるかに身近に感じていただろう。
 このあと、徳川幕府による千川上水の工事史、あるいは明治以降に同用水を活用した紡績業や製糸業の発達史の概説“講義”がつづくが、この部分は戦前から膨大な書籍や専門書が、今日まで数多く出版されているので省略させていただき、外山卯三郎自身の感慨や主張が書かれている部分を、再び『千川上水物語』から引用してみよう。
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 戦後、あちらも、こちらも戦災のために荒廃してしまいましたが、千川上水一帯の桜並木は、老木となって枯れたものは別として、落合や長崎、練馬の方面の人たちは一つのオアシスのように親しまれていたのです。それが戦後の区画整理や都市計画のために、ゆかりのある姿も消失してしまっているのです。それでも石神井の近くまでゆきますと、まだ千川上水の昔のおもかげをしのぶ桜並木(写真左上)が、静かな風情をとどめているようです。豊玉あたりでは、拡張された道路の真中に、この誇りたかい千川上水の桜の木が、傷だらけのはだに、真白な砂ほこりをかむって気息えんえんとしているのです。
  
 この文章から56年後の今日、流れがかろうじて残る旧・千川上水沿いには緑地道や遊歩道が設置され、流れの大部分は暗渠化されてしまったものの、千川通りには随所でみごとなサクラ並木が復活している。ただし、外山卯三郎が願っていた風情は、旧・千川上水の流れに沿ってつづくサクラ並木の光景だったのだろう。それは、おそらく井荻時代に家族たちとともに歩いた、思い出深い花見の情景だったのかもしれない。
 外山卯三郎が惜しんだ、戦後の再開発で消えてゆく上水沿いのサクラ並木は、下落合の自邸からは遠い旧・千川上水ではなく、すぐ近くの旧・神田上水(神田川)で「復活」している。もっとも、このサクラ並木は旧・江戸川Click!(大洗堰Click!から千代田城の外濠手前の舩河原橋Click!までの川筋)沿いに植えられ、江戸期からうなぎClick!と花見の名所となっていた風景を、さらに上流の旧・神田上水沿いで再現したものだ。
 江戸川橋から、面影橋Click!の西側にある高戸橋まで、約2kmほどつづく旧・神田上水沿いの光景を眺めたら、おそらく外山卯三郎は花見の時期には家族を連れて散策したくなっただろう。井荻の自邸には、当時の住宅としてはたいへんめずらしいテラスに面してプールがあったほどだから、水浴びや泳ぐのが好きだった彼は、さっそく小学生たちに混じって、きれいになった神田川Click!で泳いでいたのかもしれない。
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 ちなみに、毎年夏休みの時期になると神高橋Click!の下で、水着になった大勢の小学生たちが神田川で泳いで(水遊びClick!をして)いるが、学校の夏季行事の一環なのだろうか。それとも、新宿区が主宰する神田川水遊びイベントに参加した子どもたちなのだろうか。

◆写真上:旧・千川上水を描いた、1957年(昭和32)制作の春日部たすく『千川落日』。
◆写真中上は、「落合新聞」1964年(昭和39)1月20日号の外山卯三郎『千川上水物語』。中上は、旧・玉川上水(右)と旧・千川上水(左)の分水嶺。中下は、練馬区と杉並区の境界を流れる旧・千川上水。は、練馬駅付近を流れる旧・千川上水。いずれも「落合新聞」掲載の写真で、1950年(昭和25)ごろ撮影されたもの。
◆写真中下は、1935年(昭和10)ごろ撮影されたサクラ並木の千川上水。写っている人物は、東環乗合自動車Click!(旧・ダット乗合自動車Click!)のドライバーとバスガール。(提供:小川薫様Click!) 中上は、1950年(昭和25)に豊島区内で撮影された千川上水。中下は、1955年(昭和30)ごろ撮影された西落合1丁目を流れる落合分水。は、同じく下落合(現・中井2丁目)の妙正寺川にそそぐ暗渠化された落合分水の合流口。
◆写真下は、1941年(昭和16)に撮影された空中写真にみる杉並区神戸町114番地の外山卯三郎邸と旧・千川上水の位置関係。は、2葉とも旧・神田上水沿いにつづくサクラ並木。は、夏休みには水遊びで賑わう神田川。(写真は神高橋下)

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人身事故によく遭遇する中井英夫。 [気になる下落合]

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 中井英夫Click!の世代と、わたしの世代とではイメージや感覚が正反対Click!なものに、もうひとつ大学の「学長」と「総長」という用語というか肩書きがあった。わたしは、「学長」というと教授会から選出された大学の代表役員で、あまり権威主義的かつ厳めしいアカデミックな雰囲気は感じず、教育業務と学校の運営業務のかけもちで忙しくてたいへんだ……ぐらいしか感じないのだが、中井英夫Click!は「学長というのは白髪でも蓄え、巨きな革椅子にそっくり返っているものだと思い込んでいた」と書いている。
 中井英夫Click!は、彼の入学した東京大学の「総長」を例にとり、なぜ「学長」ではないのかと疑問を呈しつつも、アカデミックで近寄りがたいと感じていたようだ。下落合2丁目702番地(現・中落合2丁目)に住んでいた東大総長の南原繁Click!について、彼はこんなことを書いている。1981年(昭和56)に立風書房から出版された中井英夫『LA BATTEE』所収の、「肩書き」から引用してみよう。
  
 この確信はおそらく東大の南原繁総長(なぜ氏が学長という名を嫌って、最後まで総長の肩書にこだわっておられたのか興味深い。新聞も仕方なしに他の大学は学長、南原さんだけ総長と使いわけていたようだが/後略)の風貌とか、父が植物の主任教授だったことからくる偏見であって、何やらいかめしい・近寄りがたい・アカデミックな雰囲気をよしとしてきた時代に育ったための固定観念であろう。
  
 中井英夫は、うっかり事実関係の確認をおこたっているのか、南原繁が「学長」という呼称をことさら嫌い、特別に「総長」という肩書きにこだわっていたのは興味深い……などと書いているが、東京(帝国)大学の代表者の肩書は、1886年(明治19)からずっと「総長」のままで、「学長」というショルダーが使われたことは一度もない。1886年(明治19)以前は「綜理(総理)」と呼ばれていたものが、同年を境に「総長」に変更され現在にいたっている。
 東大で1960年代末に全共闘運動が盛んだった子どものころ、TVの報道番組からよく「加藤一郎学長代行が記者団の質問に答え……」というようなアナウンスが聞こえていたのを憶えているが、正確には「加藤一郎総長代行」が正しいのだろう。事実、加藤教授は東大紛争のあと「総長」に就任している。
 また、このエッセイ「肩書き」の直後、中井は早稲田大学も「総長」だったことに気づきビックリしている。同書に収録された、「語り草」から引用してみよう。
  
 ところでこれも先週に南原繁総長の総長意識について記したが、早稲田大学の入試問題漏洩事件が起きると、各紙一斉に清水司総長と記しているのにびっくりした。いつからまたこんなヤクザの親分じみた通称がまかり通るようになったものか、それともナンバラ精神が正しく甦ってマスコミもようやくそれに倣うに到ったのか私には理解のつかぬことだが、少なくともこんな名称は古き良き南原時代の語り草に留めるべきではないだろうか。
  
 こちらも、中井英夫は事実関係をまったく“ウラ取り”をせずに書いたものか、早稲田大学の代表者も1882年(明治15)の初代総長・大隈重信Click!から現在まで、ずっと変わらずに「総長」のままだ。早大の代表者に付けられていたショルダーに倣い、4年後にちゃっかり拝借して使用しているのは東大のほうだろう。中井英夫は、小説家としては面白い作品を創作するが、事実関係がからむエッセイはイマイチの出来だ。
 ただし、「総長」というネームから受ける印象は、世代を超えてわたしも中井英夫と同じ感覚だ。現代から見ると、「総長」はヤクザ組織の連合会代表か、ゾクの頭(あたま)だった俳優・宇梶剛士の顔が、ぼんやりと浮かんでくるではないか。w まだ「学長」のほうが、少しは品位や学術的な雰囲気があるように感じるのだが……。
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 1981年(昭和56)に出版されたエッセイ集『LA BATTEE』だが、書かれている内容は戦後すぐのころから現在(1981年)にいたるまでと、時空をあちこち自在に飛びまわりテーマも多種多様なものにおよんでいる。当然、下落合で暮らしていた時代の話も含まれているわけだが、その中には中井英夫が電車に乗ると、よく人身事故に遭遇して巻きこまれてしまう経験が記録されている。
 わたしも、このところ人身事故による地上線や地下鉄の遅れはしょっちゅう経験しているが、中井英夫の場合は自身の乗っている電車自体が、何度か人身事故を起こしてしまうまれなケースだ。西武新宿線に乗車していた際、下落合駅の近くでも経験している。この事故は、自邸のあった下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)から中井駅で電車に乗り、新宿方面へ向かうときに起きたものか、あるいは帰宅するために乗車し中井駅へ向かっていたときに起きたものかは不明だが、そのときの様子を『LA BATTEE』所収の「死の合唱隊(コロス)」から引用してみよう。
  
 十年前「かつてアルカディアに」という小説に記した飛込み自殺は、やはり電車に乗っていて西武線の下落合近くで体験したことで、このときは現実に自分の足の下に屍体があるなまなましさに堪えられず、また思わず見てしまった三月の青空の下の生首の凄愴な美しさも忘れられない。/「足がない、足がないじゃないの」/「見ないほうがいい、あんた見なさるな」/などといって騒いでいた老婆たちも、また確かにひとときの合唱隊(コロス)の役を受け持っていたのであろう。誰かの小説にあったように、こういう他人の死に面倒見のいい一隊はふしぎに存在するので、もしかすると私もそろそろその口になりかけているのかも知れない。
  
 この人身事故が、飛びこみClick!による自殺だったのか、それとも遮断機が下りていた踏み切りを無理やり渡ろうとして起きた事故なのかはハッキリしないが、何年か前に下落合の踏み切りを渡ろうとして渡り切れず、西武線の車両にはねられて死亡した老人の事故はよく憶えている。この事故が起きる少し前、わたし自身が買い物カートを引いた老婆を、遮断機が下りて電車が接近している踏み切りから引っぱりだした経験があるからだ。
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 その老婆は、警報機が鳴ってから踏み切りに侵入したのだが、アッという間に両側の遮断機が下りてしまった。若い子なら、サッと足早に渡り終えるなんでもない距離だが、老婆は自身のクツのサイズぐらいの歩幅で、重そうな買い物カートを引いてトボトボ歩いていた。下落合駅の方角から警笛が聞こえ、つまり急行電車がスピードを落とさず接近しているのに、老婆はまだ2本目の線路上にいたのだ。ヤバイと思い、遮断機をくぐって引っぱりだしたが、上りの急行電車の“顔”がすでに下落合駅をすぎ100m先のカーブを曲がって見えていた。わたしも怖かったが、その老婆はもっと怖かっただろう。
 さて、中井英夫は京王線へ乗り入れる都営地下鉄新宿線でも、飛びこみの人身事故に遭遇している。同書収録の「死の合唱隊(コロス)」より、再び引用してみよう。
  
 出来て間もない新宿線に乗るだけを楽しみに帰りかけたときだった。初台駅に着いてドアがあくと同時に、ホームのそこここに固まった女学生の群れから、時ならぬ悲鳴が一斉にあがった。(中略) 車輌とホームの隙間を覗くと、黒っぽいレインコートの端が見えた。警官が灯りを差しつけ駅員が走り廻る。ドアはそのまま閉まらず、制服の背を向けた彼女らは顔を隠すようにして、なおも二度三度と悲鳴をあげるので降りて訊くと、いまこの電車に男の人が飛びこんだという。飛びこんだのは老人で、白線より前に立って待ちかまえていたという。電車が動かされることになり、彼女らはまた背を向けたが、下に潜りこんでいた駅員のはたらきで、走り去ったあとも屍体はホームの下に隠され、線路に血だまりも見えない。先ほどの悲鳴も恐怖のあまり立てたとは思えぬたぐいだったが、もしかするとその合唱のほか何も起らなかったかのように惨事のひとときは過ぎた。
  
 このほかにも、中井英夫は街中でさまざまな人物たちの「死」に遭遇しているが、こういうめぐり合わせの人は確かにいるようだ。自身ではまったく望まないのに、人の最期にいき合わせてしまう偶然性。独特な厭世観やニヒリズムをベースに、常に「死」と隣り合わせのような幻想世界を描く、中井英夫ならではの偶然性ならぬ必然性なのだろうか。
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 下落合での飛びこみ自殺Click!はあまり聞かないが、世の中の高齢化とともに、老人の踏み切り事故はこれから増えそうな気がする。「複線の踏み切りぐらい、警報機が鳴ってからでもすぐに渡りきれる」と、わたしもあと何年自信をもっていいきれるだろうか。

◆写真上:下落合の踏み切りにある古いコンクリート柵と、「間に合わない」の警告板。
◆写真中上は、下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)の中井英夫邸跡。(タマゴの黄味色の洋館の向こう側一帯) は、下落合へ転居する少し前の1956年(昭和31)に撮影された市谷台町時代の中井英夫。膝上で逆さに伸びきったネコもおかしいが、右手に見える同軸2WAYの大きめなスピーカーを備えた機器は高級ラジオだろうか? は、中井英夫も目にしていた六ノ坂沿いに長くつづく池添邸の西塀。
◆写真中下は、ちょうど中井英夫が住んでいた1963年(昭和38)に撮影された空中写真にみる中井邸。は、西武新宿線の急行電車が警笛を鳴らしながら通過する下落合駅の下りホーム。は、カーブする西側の線路から眺めた下落合駅。
◆写真下は、1949年(昭和24)撮影の増水する玉川上水で太宰治Click!の遺体発見現場に立つ中井英夫。中井英夫は戦後、太宰治のもとを頻繁に訪れていた。は、中井駅踏み切り側から見た中井駅と、西側の線路から見た電車が到着する中井駅ホーム。

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「本村」の字名について考える。 [気になる下落合]

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 下落合には「本村(もとむら/ほんむら)」と呼ばれる字名が、昭和初期まで存在していた。大正後期には、ほとんどのエリアには地番がふられ、「落合町下落合000番地」という住所や表記が定着してくるが、それ以前は「豊多摩郡落合村(大字)下落合(字)本村000番地」というような表記が一般的だった。
 明治期から大正初期までの概念では、下落合の字名「本村」は現在の聖母坂Click!下のエリア、東は下落合氷川明神社Click!のあたりから、西は西坂・徳川邸Click!あたりまでの目白崖線下に拡がる、なだらかな斜面一帯ということになる。ここで、「西坂」という名称も、「本村」の西側にある坂だから早くからそう呼称されていたのではないか?……という課題も浮上してくる。字名「本村」は、東側を字名「丸山」Click!(江戸期)や「宮元」(大正期)と接し、西側は字名「不動谷」Click!に隣接している。
 この「本村」という字名は、郵便制度の配送業務に必要な住所表記に取りこまれると、大正の中期以降には本来エリアの北側へ、つまり従来は集落がなかった目白崖線の丘上まで大きく拡大していく。同様に、東側の「丸山」も北側の丘上を含め、西側の「不動谷」も西北側の丘上まで広範な拡がりを見せていく。
 では、東京の各地に見られる(関東各地でも見られるが)「本村」の意味するところとは、いったいなんなのだろうか? 「本村」は、その文字通りの一般的な解釈=意味合いに従うならば、「本(元)の村」すなわち地域の集落が発祥した場所ということになる。では、なにに対しての相対的な「本村」なのだろうか? 下落合は、江戸期には下落合村という行政区分だったのだが、同じ落合地域でも江戸期に隣接する上落合村と葛ヶ谷村には、「本村」という字名は存在していない。
 1916年(大正5)に豊多摩郡役所から出版された『豊多摩郡誌』Click!をベースに、落合地域の周辺域を少し広めに見まわしてみると、たとえば角筈村や柏木村には「本村」の字名が存在している。雑色村には「本村前」があるが、隣接する中野村には存在しない。江古田村には「東本村」と「本村」があるが、隣接する新井村には存在しない。下沼袋村には「本村」はあるが、上沼袋村には存在しない。下鷺宮村に「本村」が存在するが、上鷺宮村にはない……というように、「本村」という字名がある村とない村とが、江戸期より混在していたことが分かる。
 「本村(もとむら/ほんむら)」が、その村の発祥地をしめす字名だと仮定すれば、各村にはそれぞれ同様の発祥地としての字名「本村」が存在しないと、説明がつかずおかしなことになる。「本村」という字名が記録されるのは、おもに江戸期の寺院に保存された過去帳や、地誌本、図絵(地図)類なのだが、それらを参照しても、「本村」の字名はバラバラに存在しており規則性が見いだせない。
 たとえば、上落合村と下落合村を例にとると、もともと「落合村」だったのがのちに「上」と「下」に分かれたため、下落合村のほうに発祥地としての「本村」が残ったという解釈が、結果論的な説明としては成立する。だが、落合地域の北西部に葛ヶ谷村という村が成立しているのに、なぜその発祥地(集落の中核地)に「本村」という字名がつけられなかったのか?……という疑問が残る。これは、周囲の村々にも同様のことがいえ、江古田村に「本村」があるのに隣りの新井村にはなぜ存在しないのか、雑色村に「本村」があるのに中野村にはなぜないのか?……という矛盾が生じてくるのだ。
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 寺院の過去帳をたんねんに洗いだして、「本村」の由来について探った資料がある。落合地域の西側にあたる沼袋地域に建立された、実相院が出版した矢島英雄『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』(非売品)から、少し長いが引用してみよう。
  
 明治時代の本村地区はほぼ現在の沼袋四丁目の西半分に当たります。ここがいつ頃から本村と呼ばれるようになったのかを禅定寺、清谷寺の過去帳で調べてみますと、清谷寺の檀家の方で天保四年(一八三三)に本村の権八という人の娘さんが亡くなった記録が初見です。しかしこの字名で居住地域を表示する言い方はあまり一般的ではなく、これらの地区で亡くなられた方々の大半は内出居住者であると記録されています。(中略) 実相院の過去帳にはこの本村という字名で亡くなられた方の記録は一件もないのですが、文化七年(一八一〇)から文政十一年(一八二八)に書かれた新編武蔵風土記稿には実相院は下沼袋村字本村にありと記録されております。本村とは村の発祥の地を表す地名ですが、これが沼袋が上、下の村に別れる以前のことを指しているのか、分かれた後にそれぞれに上沼袋村あるいは下沼袋村の本村として呼ばれるようになったのか不明です。
  
 ここで重要な事実は、「内出(うちいで/うちで)」という呼称だろう。このままの呼び方だと、なんの「内」から「出」た人物なのかが不明だが、(村発祥の地であるのは既知のことなので)「本村」内の出身者たちはあえて「本村」出とはいわず、その内側の出身者なので「内出」と呼びならわしてきたのではないか。
 換言すれば、江戸期の下沼袋村において「(本村の)内出」と呼ばれることに、発祥地で生まれた村民のプライドのようなものがあったのではないか?……と想定することもできる。ちょうど、京都における「洛中」と「洛外」Click!のような感覚が、当時の下沼袋村民にはあったのかもしれない。
 さて、落合地域やその周辺域の村々で、江戸期以前からとみられる「本村」の字名が残る地域を概観すると、ある共通性を見いだすことができる。共通点は3つほどあるが、そのもっとも多いのが「鎌倉道」沿いに、あるいは非常に近接したエリアに「本村」が存在することだ。『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』より、再び引用してみよう。
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 先の東内出に対して、江戸期の中内出の家々の西側には西内出と称される地域が広がっていたと考えられます。東内出や中内出には実相院や伊藤、矢島の人々の家があることから此処に、スペース的に清谷寺の堂宇があったとは考えにくいので、同寺の故地はこの西内出に求められると思います。(中略) 恐らくこの道が上下沼袋村を境する道路と考えられます。只、この西側地域に居住する鈴木家(明治十二年の氷川神社社殿建築寄進者名簿時代の当主は鈴木鉄五郎で、この家のことは前にも取り上げたことのあるお稲荷鎌さん脇の古い鎌倉道に面してあった)の小字を禅定院過去帳には江戸時代既に本村としています。
  
 共通性のひとつめが「鎌倉道(鎌倉街道)」だとすれば、ふたつめは鎌倉時代に起きたとみられるなんらかのエピソード(伝承)が語り継がれていること。3つめは、鎌倉時代の遺構ないしは遺物が「本村」の直近から発見されていることだ。残念ながら、同書の下沼袋についてのケースでは、あくまでも寺院の過去帳をベースとした“文献史学”なので、地域の民俗学(伝承)あるいは歴史学を前提とする発掘調査の成果物(遺跡・遺物)までは書きとめられていない。
 では、下落合村について検証してみると、平安期から和田氏Click!の館があったと伝えられる和田山Click!(現・哲学堂公園Click!)からつづく、鎌倉道(のち雑司ヶ谷道/現・新井薬師道)Click!の1筋が、下落合の「本村」内を貫通している。そして、「本村」の東端に近いとみられる位置には源頼朝Click!奥州戦Click!の際に、その鎌倉道から目白崖線のバッケ(崖地)Click!を掘削し、南北を貫く坂道が切り拓かれたという伝承が語り継がれる切り通し、すなわち七曲坂Click!が存在する。さらに、その坂下からは1307年(徳治2)の記銘が入った、鎌倉時代の板碑Click!(薬王院収蔵)が出土している。
 これらの事実を総合すると、「本村」という字名自体は江戸期に誕生したとしても、村の発祥地としての伝承は、それ以前から連綿と集落内で語り継がれてきており、おもに鎌倉期前後から存在してきた村々の古くからの中核エリアについては、「本村」という呼称が広まっていたのではないか……と想定することができる。つまり、江戸期以前からの鎌倉街道沿い、あるいはかなり古い謂れや伝説の残る集落、さらには近世以降の調査で鎌倉期などの集落遺跡や遺構・遺物が発見されているエリアに、「本村」という字名が重なっているのではないかと規定することができそうだ。
 このような前提で、落合地域の周辺に残る「本村」という字名を改めてとらえなおすと、どのような風景が見えてくるのか、たいへん興味深い課題だ。
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 下落合の「本村」は、東側に字名「丸山」が隣接していると書いたが、下沼袋村の「本村」ケースでは北側に「丸山」Click!が隣接している。この古墳地名である「丸山」と、古くからの集落地である「本村」との関係も、とても気になり惹かれるテーマなのだ。

◆写真上:聖母坂の南部一帯が、明治期に規定されていた下落合の「本村」エリア。
◆写真中上は、頼朝伝説が付随し鎌倉期の板碑が出土した「本村」の東側に通う七曲坂。は、「本村」の西側に通う西坂。は、寒ザクラが満開の下落合氷川明神社。
◆写真中下は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる下落合「本村」界隈。は、1929年(昭和4)の落合町市街図にみる同所。「本村」や「丸山」が住所表記となり、北へ張りだしているのがわかる。は、下落合の「本村」を貫く鎌倉道。
◆写真下は、大正初期の下沼袋村「本村」と周辺を描いたイラストマップ。(『実相院と沼袋、野方、豊玉の歴史』より) は、1910年代の1/10,000地形図にみる下沼袋の「本村」。は、下沼袋「本村」の東南に位置する沼袋氷川明神社。

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下落合に住んだころの淡谷のり子。 [気になる下落合]

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 最近、検索で過去の記事がなかなか見つからないというお声をいただいた。このブログのサイドカラムには、SSブログ(旧So-net)が設置した検索窓が提供されているけれど、キーワードの複合検索ができないし推論エンジンも搭載されていない単純でオバカなテキスト検索なので、ほとんど検索の役に立たない。過去の記事を検索する場合は、Googleの検索エンジンがもっとも優れていると感じる。(確かYahoo!も自社開発をあきらめ、Googleの検索エンジンを採用していたかと思う)
 Googleの検索窓にまず「落合道人」「落合学」と入力し、つづけてたとえば「淡谷のり子」とか「田口省吾」、「東洋音楽学校」「下落合」「長崎町」「目白」など思いついた登場人物やキーワードを入力すると、お探しの記事がピンポイントでひっかかってくると思う。わたしも使っていないが、このSSブログの検索エンジンは20年以上前の仕様で、記事で使用した特徴的なキーワードをよほど絞りこんで記憶してない限り、過去記事の検索にはまったくなんの役にも立たない。
 さて、大正末から昭和初期にかけて住んでいた、淡谷のり子Click!の上落合および下落合の住所が、相変わらず不明のままだ。このようなことを繰り返し書いていれば、そのうち「淡谷のり子なら家の裏に住んでたって、お祖母ちゃんがいってたわ」とか、「うちの隣りに淡谷のり子の家族が住んでて、東洋音楽学校に通ってたんだって」とかの情報がもたらされるのではないかと、淡い期待を抱いているのだけれど、古い話なのでもはや証言者もいなくなってしまったのだろうか。
 淡谷のり子Click!が、落合地域に住んでいたころの出来事を書いた自伝が、1957年(昭和32)に出版されている。春陽堂書店から出版された淡谷のり子『酒・うた・男』がそれだが、ちょうど田口省吾Click!の専属モデルをつとめていたころの自身の想いがつづられている。吉武輝子が1989年(昭和64)に出版した『ブルースの女王 淡谷のり子』(文藝春秋)の中で、「毎日、のり子は昼食抜きですごしていたのである。家賃が払えず、住居も恵比須(ママ:恵比寿)、上落合、下落合と転々としていた」と書いていた時代だ。関東大震災Click!の直前の住まいが恵比寿で、震災直後から昭和初期まで上落合と下落合に住んでいたとみられる。吉武輝子が落合地域の住所を書きとめていないのは、当時の手紙や記録類が5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で全焼してしまい、淡谷自身もすでに明確な記憶がなかったからだとみられる。
 淡谷のり子『酒・うち・女』から、落合時代と思われる生活の様子を引用してみよう。ちなみに、「サメハダ」や「牛」とはモデル仲間だった女性たちのあだ名だ。
  
 だが、研究室で、私と同じように貧乏な画描き達が、一生懸命にモデルにむかって画を描いている時は、それでも楽しくなれた。大勢の人達にとりまかれて、モデル台に立っていれば、サメハダはサメハダなりに、牛は牛なりに、一個のオブジェとして、一つの芸術的な雰囲気をかもし出す。/この湯島の研究所の近くにあった須田町食堂に、貧乏な画描きと貧乏なモデル達とで、仲よく連れ立って、ご飯を食べに行った。/ホワイト・ライスに、タクアン二切れ、福神漬をつけたのを、皆おいしそうに食べていた。たまには、一皿十五銭のカキフライを誰かが、ご馳走して、その一皿を四、五人でつつき合う。ホワイト・ライスはただの五銭だった。その五銭のホワイト・ライスにただのソースをかけて食べている画描きがいた。
  
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 淡谷のり子は、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)の久保田稲子教授に学びながら、宮崎モデル紹介所Click!を通じて絵画モデルをはじめたころの情景だ。
 上野駅前の須田町食堂Click!(現・聚楽)が登場しているが、同店にはほんの数年前まで本郷区菊坂町75番地に住んでいた宮沢賢治Click!が通ってきていたはずだ。また、「湯島の研究所」とは本郷区湯島4丁目20番地に沼沢忠雄が建てた「湯島自由画室」改め、のちに淡谷のり子がモデルになった前田寛治Click!も通ってきていた「洋画自由研究所」Click!のことではないだろうか。
 長崎町1832番地(現・目白5丁目)にアトリエをかまえていた、田口省吾邸を初めて訪れたときの様子も書いている。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 私は、その門構えの家へ行った。門の中にさるすべりの花が咲いていた。二科の会員であった田口省吾の家だった。/会って見ると、これまでにもちょいちょい、研究所にも来たことのある人だった。/「君の、その着物いいね」/私は白と黒の、単純な立て縞の着物を着ていた。実は売りつくして、それ一枚より残していなかったのだ。それが私に一番気に入った着物だったので、私はほめられて嬉しかった。/田口先生は、コンテを動かしてスケッチをとりながら、私にいろいろ話しかけた。/「明日も来てくれるね」/私は「ええ」といってしまった。いってしまってから、実は困ったなと思った。明日は大切なレッスンのある日なのだ。/モデルをやり出してから、私は仕事の都合で、ちょいちょい学校を休んだ。久保田先生はそれを気にして、なるべく休まないようにしなさいと注意したが、私の貧乏を知っていたので、深くもいわなかった。/私はそのあくる日も、学校を休んで、田口先生のところへ行った。
  
 こうして、淡谷のり子はモデル代と東洋音楽学校の学費を出してもらう条件で、田口省吾の専属モデルになる。そのあたりの経緯は、すでに記事でご紹介したとおりだ。おそらく、震災後にモデルをはじめたころから田口省吾の専属モデルを辞めるころまで、彼女は母と失明の怖れがあった眼病を患う妹を抱えながら、上落合と下落合のどこかで暮らしていたと思われる。
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 淡谷のり子は、もともと少女時代には文学をめざしていただけあって、文章表現がとてもうまい。同書には、古い時代の横浜風景を描写した一文が掲載されているが、1960年代の横浜にも、このような雰囲気がいまだに色濃く残っていた。この文章を読むと、子どものころに見た横浜が瞬時によみがえり、生きいきとした情景が浮かんでくるのは彼女の筆致のうまさだろう。
  
 横浜という街は、ムロン外国ではないが、それとて純粋に日本の街とも思えない気分が漂っている。いろいろな国の人人が歩いているし、ショーウインドーをのぞいても、日本の持つ色や形とは違った品物が、並んでいる。野菜や果物やお菓子でも、花屋の店先の草花でも、何か異国めいた好みが感じられる。/そうかといって、敗戦後、にわかに方方に出来たペンキ塗りの、アメリカスタイルの、基地の町町に見るような、ケバケバしさや、俗っぽさではない。軒先の低い店が古めかしく並んでいるのも、褲子(クンツ)をはいたシナの(中国というには似つかわしくない)女の人の、立ち話をしている後姿も、しっとりと街の生活にしみ込んでいる。この街には異国の人への反撥がない。古い歴史が人人の身体の中に素直にとけこんで、メリケン町の、南京町の伝統が、おだやかに育って来た情趣がある。子供の頃、西洋人の絵のついた、ツヤツヤした紙の箱の蓋を、そっとあけてかいだ舶来の香が、この街の生活のいぶきに、たてこめている。
  
 「♪窓を開ければ港が見える~ メリケン波止場の灯が見える~」(作詞:服部良一『別れのブルース』)と、淡谷のり子の歌声がすぐにも聴こえてきそうだ。
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 横浜から、淡谷のり子が感じたような情趣が急速に薄れていったのは、1980年代のころだと感じている。昔の横浜らしい風情が次々と壊されては消えていき、東京の“妹”のような街になってしまった。いまや日本最大の政令都市となった横浜は、東京とたいして変わりばえのしない街づくりを進めている。界隈のあちこちに店開きしていた、横浜ならではのJAZZ喫茶Click!やライブスポットもいまやほとんど姿を消して、よほど特徴的な街角にでも立たない限り、まるで東京の街中を散歩しているような気分になる。

◆写真上:音楽学校へ通うため、淡谷のり子が何度も渡ったとみられる目白橋の旧欄干。
◆写真中上は、落合地域に住んでいたころにもっとも近いポートレートで、1929年(昭和4)撮影()と1930年(昭和5)ごろ撮影()の淡谷のり子。は、1957年(昭和32)に出版された淡谷のり子『酒・うた・男』(春陽堂)の表紙()と中扉()で、装丁を担当しているのは佐伯祐三Click!の友人のひとり佐野繁次郎Click!
◆写真中下:コロムビア時代の、昭和10年代に撮影された淡谷のり子のブロマイド。
◆写真下は、『別れのブルース』がヒットした1936年(昭和11)ごろ撮影()と1960年(昭和35)ごろ撮影()の淡谷のり子。は、1960年(昭和35)にコロムビアから再発された『別れのブルース』ジャケット(部分)。は、『別れのブルース』の舞台となった大桟橋のある「メリケン波止場」界隈だが桜木町の海側はいまや別の街に変貌している。大晦日のライブ帰り、よく年越しのボー(汽笛)を聞いていた山下公園が右手前に見える。

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片多徳郎の下落合時代1929~1933年。 [気になる下落合]

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 下落合732番地(のち下落合2丁目734番地/現・下落合4丁目)のアトリエで暮らしていた片多徳郎Click!は、アルコール依存症が悪化していたとはいえ、多彩な作品群を描いている。片多が駒込妙義坂下町から、下落合へ転居してきたのは1929年(昭和4)のことだ。それから自殺する前年、1933年(昭和8)までの4年間を下落合ですごし、北隣りの長崎東町1丁目1377番地(旧・長崎町1377番地)へ転居してまもなく、翌1934年(昭和9)4月に名古屋にある寺の境内で自裁している。
 下落合時代の作品を概観すると、従来と同様に風景画や肖像画、静物画と幅広いモチーフをタブローに仕上げており、特に制作意欲の衰えは感じられない。むしろ、多彩な表現に挑戦しつづけている様子がうかがわれ、画面からは積極的な意志さえ感じとれるほどだ。中には、明らかに注文で描いた『木下博士像』(1929年)のような、いわゆる“売り絵”の作品も見られるが、裏返せば美術界では相変わらず注文が舞いこむほどの人気画家だった様子がうかがえる。
 片多徳郎Click!アトリエの前から、道をそのまま西へ50mほど進んだ斜向かい、下落合623番地には曾宮一念アトリエClick!が建っていた。帝展鑑査員であり、第一美術協会の創立会員である片多徳郎と、二科の曾宮一念Click!とでは画会も表現も、活動シーンもかなり異なっていたが、ふたりは気があったらしく気軽に親しく交流している。1938年(昭和13)に座右宝刊行会から出版された曾宮一念『いはの群れ』Click!から、転居してきた片多徳郎について書きとめた文章があるので、引用してみよう。
  
 片多氏は私の入学の翌年美術学校を卒業されたからその頃はたゞ顔を見かけたといふに過ぎない、蒼白い小柄な飾気の無い学生であつた。(中略) 或る雑誌に「酔中自像」といふひどく恐ろしい顔をしたのが載つてゐたことがある。それが私をコワガラせてゐたものらしい。片多氏も小心者といふ点ではこの私にも劣らぬことを後に知つた。その頃片多氏は赤十字病院から退院後で柚子や百合根の小品をかきはじめてゐた、私もその年病後久しぶりで花の画をかきはじめてゐたのを片多氏は見に来てくれ、そしてほめてくれた。
  
 曾宮一念は、1930年(昭和5)に散歩の途中で「片多徳郎」の表札を見つけ、怖るおそる訪ねている。前年の帝展に出品された、片多の『秋果図』が気になっていたので思いきって訪問したものだ。このときから、ふたりの交流がはじまっている。
 先日、pinkichさんからお贈りいただいた片多徳郎の稀少な画集、1935年(昭和10)に古今堂から出版された岡田三郎助/大隅為三・編『片多徳郎傑作画集』には、下落合時代の4年間に描かれたと想定できる作品画像が20点ほど掲載されている。曾宮が惹かれた『秋果図』(1929年)はカラー版で収録されており、下落合へ転居早々に描かれたとみられるカキとザクロの果実がモチーフとなっている。
 同画集の中で目を惹くのは、下落合の名産だった「落合柿」Click!をはじめ、いまでも落合地域で老木をよく見かけるザクロやユズなど果実類、郊外野菜など洗い場Click!で洗浄される蔬菜類Click!をモチーフにした静物画、当時の「東京拾二題」Click!などの名所に挙げられ西坂・徳川邸Click!静観園Click!でも有名だったボタンの花Click!を描いた画面、そして、やはり付近の武蔵野の風情を写しとったとみられる風景画だろうか。片多徳郎は『秋果図』がよほど気に入っていたものか、同じくザクロとその枝をモチーフにした『秋果一枝』(1932年)も、下落合時代に仕上げている。
片多徳郎「ゆづと柿」1929.jpg
落合柿干し柿づくり.JPG
片多徳郎「牡丹」1930.jpg
 当時の片多徳郎の様子を、曾宮一念の同書より引用してみよう。
  
 「秋果図」の前三四年は見てゐないが此の静物画は地味円熟の技巧の下に今迄よりも一層内面的な気持の盛上げをするやうになつた第一の作品ではあるまいか、片多氏の画はゑのぐを何回も重ね、潤ひのある層が画面の特徴である。此の「秋果図」では幾回かの甚だ計画的に薄く塗られて寸分のすきも無く金と朱と紅と焼土の線とが画面を緊張させてゐた。氏自身も会心の作であつたらしい。/元気でゐたかと思ふと又入院してゐる、実は病院内での適宜な束縛が却つて制作を生んでゐたさうである。一時は全く酒を絶つてゐたが又いつか飲み出してゐた、「あまり飲むなよ」といへばさびしい顔をして弱音をはかれるには更に何も言へなかつた。
  
 片多徳郎は、曾宮が訪ねるとたいがい酒を飲みながら制作していたようで、このあたりは1936年(昭和11)に片多徳郎が住んでいたアトリエの向かい、下落合2丁目604番地(現・下落合4丁目)に転居してくる帝展の牧野虎雄Click!とそっくりだ。牧野虎雄もまた、曾宮が訪ねるとしじゅう酒を飲みながらキャンバスに向かっていた。
 『片多徳郎傑作画集』には、下落合時代に描いたとみられる風景画に1929年(昭和4)制作の『秋林半晴』と、1931年(昭和6)制作の『若葉片丘』が掲載されている。いずれも武蔵野の丘陵や、そこに繁る樹木を描いたものだが、昭和初期の下落合でこのような風景モチーフを見つけるには、下落合の西部、あるいは葛ヶ谷(現・西落合)の方面まで歩かなければ発見できなかったろう。下落合Click!の東部(現・下落合)や中部(現・中落合)には、すでに多くの住宅が建ち並んでおり、これらの作品画面に描かれたような、住宅が1軒も見えない樹木や草原が拡がる風景は、当時の地図類からもまた空中写真からも、落合地域の西部にかろうじて残されていた風景だからだ。
片多徳郎傑作画集1935.jpg 片多徳郎「醉中自画像」1928.jpg
片多徳郎「秋林半晴」1929.jpg
片多徳郎「若葉片丘」1931.jpg
 下落合時代の作品には、さまざまな表現や技巧を試みた痕跡が見られる。いわゆる帝展派が描きそうな、アカデミックでかっちりとまとまった無難な静物画(売り絵か?)から、まるで1930年協会Click!のフォーヴィスムに影響された画家たちのような荒々しく暴れるタッチの画面まで、多彩な表現の試行錯誤が繰り返されていたとみられる。
 1933年(昭和8)の初夏、下落合から北隣りの長崎東町へと転居してまもなく、片多徳郎は下落合の曾宮一念をわざわざ訪ね、アトリエへ遊びにくるよう誘っている。そのときの様子を、曾宮一念の同書から再び引用してみよう。
  
 この年の初夏長崎町に画室を借り中出三也氏をモデルとして五十号位をかいてゐた時垣根ごしに良いご機嫌で誘つてくれたので一しよに見に行つた。私の見た時は半成とのことであつたが私には立派に完成して見えた、明るい銀灰色の地に中出氏の顔が赤く體(セビロ服)が鼠と赭と黒の線で恰も針金をコンガラカシた如く交錯してゐた、いつもの肖像や旧作婦女舞踊図を考へて此の中出氏像を見たら驚く程の変り方であつた、(中略) 此の古典派の先輩は暫く写実的完成にのみ没頭していたが此の頃になつてより、本質的な絵画の欲望が強く起きそれにフオウブの理解に歩を入れて来たものと思はれる。/然し此の秋は期待にそむいて此の画は出品されなかつた。帝展といふものの氏の立場が躊躇させてしまつたかと思はれるがもしあれを発表しても決して年寄の冷水とは世間は言はずに十分よき成長として迎へたらうと信ずる。
  
 ここに書かれている中出三也Click!をモデルにした肖像画とは、北九州市立美術館に収蔵されている『N(中出氏)の肖像』(1934年)のことだ。中出三也は、このサイトでも甲斐仁代Click!の連れ合いとしてたびたび登場しているが、この時期は上高田422番地のアトリエClick!にふたりで暮らしていたはずだ。同じような筆運びは、下落合時代の裸婦を描いた『無衣仰臥』(1930年)でも垣間見られる。下落合で試みた、多種多様な表現への挑戦が長崎東町へ転居してから実ったかたちだが、同作が展覧会へ出品されることはなかった。
片多徳郎「秋果一枝」1932.jpg
片多徳郎「白牡丹」1933.jpg
片多徳郎「無衣仰臥」1930.jpg
片多徳郎「N氏像」1934.jpg
 『N(中出氏)の肖像』について、曾宮一念は1933年(昭和8)の初夏に観たときが、もっとも「頂点」の表現であり、翌年まで手を入れたのちの画面は耀きや面影が失われてしまったようだと書いている。そして、「かくの如き純粋派的希望と説明的完成との二方面は長い間氏の芸術的煩悶であつたらしい」と結んでいる。曾宮には修正したあとの画面が、「説明的」で旧来の絵画的な「完成」をめざしすぎたものと映っていたようだ。

◆写真上:下落合で見なれた巣実を描く、1929年(昭和4)制作の片多徳郎『秋果図』。
◆写真中上は、1929年(昭和4)制作の片多徳郎『ゆづと柿』。は、いまでもつづく「落合柿」の干し柿づくり。は、1930年(昭和5)制作の同『牡丹』。
◆写真中下上左は、1935年(昭和10)に古今堂から出版された『片多徳郎傑作画集』の表紙。上右は、曾宮一念が怖がった1928年(昭和3)に描かれた片多徳郎『酔中自画像』。は、下落合時代の1929年(昭和4)に制作された風景画で同『秋林半晴』。は、同じく下落合時代の1931年(昭和6)に制作された同『若葉片丘』。
◆写真下は、1932年(昭和7)制作の片多徳郎『秋果一枝』。中上は、1933年(昭和8)に描かれた同『白牡丹』。中下は、1930年(昭和5)に制作された同『無衣仰臥』。両作は既存の画面に比べ、質的にかなり異なる表現をしている。は、画集に収録されていない1933~34年(昭和8~9)にかけて長崎東町のアトリエで制作された同『N(中出氏)の肖像』。まるで、別の画家が描いたような画面表現になっている。

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