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人身事故によく遭遇する中井英夫。 [気になる下落合]

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 中井英夫Click!の世代と、わたしの世代とではイメージや感覚が正反対Click!なものに、もうひとつ大学の「学長」と「総長」という用語というか肩書きがあった。わたしは、「学長」というと教授会から選出された大学の代表役員で、あまり権威主義的かつ厳めしいアカデミックな雰囲気は感じず、教育業務と学校の運営業務のかけもちで忙しくてたいへんだ……ぐらいしか感じないのだが、中井英夫Click!は「学長というのは白髪でも蓄え、巨きな革椅子にそっくり返っているものだと思い込んでいた」と書いている。
 中井英夫Click!は、彼の入学した東京大学の「総長」を例にとり、なぜ「学長」ではないのかと疑問を呈しつつも、アカデミックで近寄りがたいと感じていたようだ。下落合2丁目702番地(現・中落合2丁目)に住んでいた東大総長の南原繁Click!について、彼はこんなことを書いている。1981年(昭和56)に立風書房から出版された中井英夫『LA BATTEE』所収の、「肩書き」から引用してみよう。
  
 この確信はおそらく東大の南原繁総長(なぜ氏が学長という名を嫌って、最後まで総長の肩書にこだわっておられたのか興味深い。新聞も仕方なしに他の大学は学長、南原さんだけ総長と使いわけていたようだが/後略)の風貌とか、父が植物の主任教授だったことからくる偏見であって、何やらいかめしい・近寄りがたい・アカデミックな雰囲気をよしとしてきた時代に育ったための固定観念であろう。
  
 中井英夫は、うっかり事実関係の確認をおこたっているのか、南原繁が「学長」という呼称をことさら嫌い、特別に「総長」という肩書きにこだわっていたのは興味深い……などと書いているが、東京(帝国)大学の代表者の肩書は、1886年(明治19)からずっと「総長」のままで、「学長」というショルダーが使われたことは一度もない。1886年(明治19)以前は「綜理(総理)」と呼ばれていたものが、同年を境に「総長」に変更され現在にいたっている。
 東大で1960年代末に全共闘運動が盛んだった子どものころ、TVの報道番組からよく「加藤一郎学長代行が記者団の質問に答え……」というようなアナウンスが聞こえていたのを憶えているが、正確には「加藤一郎総長代行」が正しいのだろう。事実、加藤教授は東大紛争のあと「総長」に就任している。
 また、このエッセイ「肩書き」の直後、中井は早稲田大学も「総長」だったことに気づきビックリしている。同書に収録された、「語り草」から引用してみよう。
  
 ところでこれも先週に南原繁総長の総長意識について記したが、早稲田大学の入試問題漏洩事件が起きると、各紙一斉に清水司総長と記しているのにびっくりした。いつからまたこんなヤクザの親分じみた通称がまかり通るようになったものか、それともナンバラ精神が正しく甦ってマスコミもようやくそれに倣うに到ったのか私には理解のつかぬことだが、少なくともこんな名称は古き良き南原時代の語り草に留めるべきではないだろうか。
  
 こちらも、中井英夫は事実関係をまったく“ウラ取り”をせずに書いたものか、早稲田大学の代表者も1882年(明治15)の初代総長・大隈重信Click!から現在まで、ずっと変わらずに「総長」のままだ。早大の代表者に付けられていたショルダーに倣い、4年後にちゃっかり拝借して使用しているのは東大のほうだろう。中井英夫は、小説家としては面白い作品を創作するが、事実関係がからむエッセイはイマイチの出来だ。
 ただし、「総長」というネームから受ける印象は、世代を超えてわたしも中井英夫と同じ感覚だ。現代から見ると、「総長」はヤクザ組織の連合会代表か、ゾクの頭(あたま)だった俳優・宇梶剛士の顔が、ぼんやりと浮かんでくるではないか。w まだ「学長」のほうが、少しは品位や学術的な雰囲気があるように感じるのだが……。
中井英夫下落合邸跡.JPG
中井英夫市谷台町時代1956.jpg
池添邸六ノ坂.JPG
 1981年(昭和56)に出版されたエッセイ集『LA BATTEE』だが、書かれている内容は戦後すぐのころから現在(1981年)にいたるまでと、時空をあちこち自在に飛びまわりテーマも多種多様なものにおよんでいる。当然、下落合で暮らしていた時代の話も含まれているわけだが、その中には中井英夫が電車に乗ると、よく人身事故に遭遇して巻きこまれてしまう経験が記録されている。
 わたしも、このところ人身事故による地上線や地下鉄の遅れはしょっちゅう経験しているが、中井英夫の場合は自身の乗っている電車自体が、何度か人身事故を起こしてしまうまれなケースだ。西武新宿線に乗車していた際、下落合駅の近くでも経験している。この事故は、自邸のあった下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)から中井駅で電車に乗り、新宿方面へ向かうときに起きたものか、あるいは帰宅するために乗車し中井駅へ向かっていたときに起きたものかは不明だが、そのときの様子を『LA BATTEE』所収の「死の合唱隊(コロス)」から引用してみよう。
  
 十年前「かつてアルカディアに」という小説に記した飛込み自殺は、やはり電車に乗っていて西武線の下落合近くで体験したことで、このときは現実に自分の足の下に屍体があるなまなましさに堪えられず、また思わず見てしまった三月の青空の下の生首の凄愴な美しさも忘れられない。/「足がない、足がないじゃないの」/「見ないほうがいい、あんた見なさるな」/などといって騒いでいた老婆たちも、また確かにひとときの合唱隊(コロス)の役を受け持っていたのであろう。誰かの小説にあったように、こういう他人の死に面倒見のいい一隊はふしぎに存在するので、もしかすると私もそろそろその口になりかけているのかも知れない。
  
 この人身事故が、飛びこみClick!による自殺だったのか、それとも遮断機が下りていた踏み切りを無理やり渡ろうとして起きた事故なのかはハッキリしないが、何年か前に下落合の踏み切りを渡ろうとして渡り切れず、西武線の車両にはねられて死亡した老人の事故はよく憶えている。この事故が起きる少し前、わたし自身が買い物カートを引いた老婆を、遮断機が下りて電車が接近している踏み切りから引っぱりだした経験があるからだ。
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下落合急行電車.JPG
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 その老婆は、警報機が鳴ってから踏み切りに侵入したのだが、アッという間に両側の遮断機が下りてしまった。若い子なら、サッと足早に渡り終えるなんでもない距離だが、老婆は自身のクツのサイズぐらいの歩幅で、重そうな買い物カートを引いてトボトボ歩いていた。下落合駅の方角から警笛が聞こえ、つまり急行電車がスピードを落とさず接近しているのに、老婆はまだ2本目の線路上にいたのだ。ヤバイと思い、遮断機をくぐって引っぱりだしたが、上りの急行電車の“顔”がすでに下落合駅をすぎ100m先のカーブを曲がって見えていた。わたしも怖かったが、その老婆はもっと怖かっただろう。
 さて、中井英夫は京王線へ乗り入れる都営地下鉄新宿線でも、飛びこみの人身事故に遭遇している。同書収録の「死の合唱隊(コロス)」より、再び引用してみよう。
  
 出来て間もない新宿線に乗るだけを楽しみに帰りかけたときだった。初台駅に着いてドアがあくと同時に、ホームのそこここに固まった女学生の群れから、時ならぬ悲鳴が一斉にあがった。(中略) 車輌とホームの隙間を覗くと、黒っぽいレインコートの端が見えた。警官が灯りを差しつけ駅員が走り廻る。ドアはそのまま閉まらず、制服の背を向けた彼女らは顔を隠すようにして、なおも二度三度と悲鳴をあげるので降りて訊くと、いまこの電車に男の人が飛びこんだという。飛びこんだのは老人で、白線より前に立って待ちかまえていたという。電車が動かされることになり、彼女らはまた背を向けたが、下に潜りこんでいた駅員のはたらきで、走り去ったあとも屍体はホームの下に隠され、線路に血だまりも見えない。先ほどの悲鳴も恐怖のあまり立てたとは思えぬたぐいだったが、もしかするとその合唱のほか何も起らなかったかのように惨事のひとときは過ぎた。
  
 このほかにも、中井英夫は街中でさまざまな人物たちの「死」に遭遇しているが、こういうめぐり合わせの人は確かにいるようだ。自身ではまったく望まないのに、人の最期にいき合わせてしまう偶然性。独特な厭世観やニヒリズムをベースに、常に「死」と隣り合わせのような幻想世界を描く、中井英夫ならではの偶然性ならぬ必然性なのだろうか。
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中井駅踏み切り.JPG
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 下落合での飛びこみ自殺Click!はあまり聞かないが、世の中の高齢化とともに、老人の踏み切り事故はこれから増えそうな気がする。「複線の踏み切りぐらい、警報機が鳴ってからでもすぐに渡りきれる」と、わたしもあと何年自信をもっていいきれるだろうか。

◆写真上:下落合の踏み切りにある古いコンクリート柵と、「間に合わない」の警告板。
◆写真中上は、下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)の中井英夫邸跡。(タマゴの黄味色の洋館の向こう側一帯) は、下落合へ転居する少し前の1956年(昭和31)に撮影された市谷台町時代の中井英夫。膝上で逆さに伸びきったネコもおかしいが、右手に見える同軸2WAYの大きめなスピーカーを備えた機器は高級ラジオだろうか? は、中井英夫も目にしていた六ノ坂沿いに長くつづく池添邸の西塀。
◆写真中下は、ちょうど中井英夫が住んでいた1963年(昭和38)に撮影された空中写真にみる中井邸。は、西武新宿線の急行電車が警笛を鳴らしながら通過する下落合駅の下りホーム。は、カーブする西側の線路から眺めた下落合駅。
◆写真下は、1949年(昭和24)撮影の増水する玉川上水で太宰治Click!の遺体発見現場に立つ中井英夫。中井英夫は戦後、太宰治のもとを頻繁に訪れていた。は、中井駅踏み切り側から見た中井駅と、西側の線路から見た電車が到着する中井駅ホーム。

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