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高田町の「貧乏線」調査1925年。 [気になるエトセトラ]

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 大正末の高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)を対象とした「貧乏線の調査」Click!では、自由学園高等科の女学生たちClick!が社会調査の方法論を学ぶために、高田町四ッ谷(四ッ家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいた早稲田大学の教授・安部磯雄Click!に相談したことは前の記事でも書いた。その教えにより、彼女たちは詳細な質問カードを作成している。
 質問カードには、ひとつの世帯の家族構成や年齢・性別・職業に加え、それぞれの収入や同居人の有無、住宅の部屋数、畳敷きの部屋数、家賃などを訊ねる詳細なものだった。そして、集めたデータをもとに、先に安部教授との打ち合わせで決定していた、「貧乏線」以下の家庭が調査戸数の何%を占めるのかを算出している。
 「貧乏線」は、先にご紹介したようにロンドンの実業家C.ブースが考案したもので、住民ひとりが1ヶ月に必要とする生活費を割り出し、家族が増えるごとに最低の生活費の水準を設定していくやり方だった。高田町の調査では、1925年(大正14)時点での最低生活費を、住民ひとりにつき25円/月と算定している。また、生活にかかる費用を70歳以上と8歳未満に限り半人分と計算し、家族が増えるにしたがい1.5人が住めば最低費用は30円/月、2人の場合は35円/月、2.5人のときは40円/月、3人は45円/月……というような指標を作成している。
 まず、女学生たちClick!は調査対象となる多種多様な住宅を、あらかじめ6調査区に分けた高田町内の各エリアから、事前に487戸をモデル家屋として抽出している。だが、当初は487戸=487世帯だと思っていた彼女たちは、1軒の家に複数の世帯が暮らす貧困家庭などがあることを知り、最終的には529世帯におよぶ調査となった。以下、そのときの調査の様子を、1925年(大正14)5月に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)の「貧乏線の調査」より引用してみよう。
  
 先づ貧乏線といふことに就て安部先生指導の下に色々のことを考へました。さうしてその標準を、大人一人につき月廿五円、一人をます毎に十円を増加へること、但八歳以下七十歳以上の人は半人分五円とすることにして、家族数に収入を照し合はせ、以上の標準以下の分を貧窮圏内と見ることにしました。(中略) その時に四八七戸(略)の家を選び出しましたが、調べて見ると、五二九世帯あつてその中の唯九六世帯だけが、貧窮線以下の生活であることを知りました。中でも馬力といつてゐる運送者など、家は随分汚ないのですけれど、厩も自分のもので割に豊かな収入を持つてゐることなど、はじめての私共には案外に思はれました。/反対に普通の家に住んでゐても、家族の多い下級の勤人など、服装その他の体面もありますし、或は実際苦しい生計になつてゐるやうな所もあるのかも知れないと思ひました。併し後になつて、全高田町の戸別調査をした時にも、さう困つてゐるやうな所は見なかつたのでございます。
  
 この調査により、1925年(大正14)2月の時点で、高田町に住む人々の家内事情がかなり詳細に判明している。まず、489戸の抽出調査で529世帯の家族が暮らしていたのは先述したが、同世帯で暮らす総人口は2,150人で、1世帯あたり平均約4人の家族が生活していることになる。そのうち、20歳以下の家族は737人を数え、総人口のうちのおよそ34.38%が若年層だったことになる。20歳以下の若年層のうち、すでに独立して生活している者が70人、親が扶養している者が667人いた。
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 529世帯のうち、特に飛びぬけて収入が多かった運送業の(おそらく)経営者宅36世帯を除き、493世帯における1ヶ月の総収入は30,247円70銭だった。なぜ、高収入の運送業者(馬力Click!)を除いたのかといえば、当時の山手線・目白駅Click!には学習院Click!椿坂Click!沿いに貨物駅Click!が併設されており、その周辺には東京各地へ荷を配送する運送業者が数多く集まるという、特殊な地域事情があったからだ。
 彼女たちが抽出した訪問住宅には、期せずして裕福な運送業者の家庭が数多く含まれており、それら例外的に高収入だった世帯を含めて平均値を計算してしまうと、高田町の一般家庭における生活水準の把握に、少なからず誤差が生じると判断したからだろう。運送業者の家庭を除いた、高田町の1世帯あたりの平均収入は61円35銭/月となり、調査対象の人口ひとりあたりの平均収入は15円8銭/月ということになる。ちなみに調査と同年、1925年(大正14)の東京市における大卒の初任給が50円前後、給与所得者(サラリーマン)の平均収入は61円前後なので、高田町はほぼ当時の平均生活に近い、いわゆる「中流」の住民が数多く住んでいた地域であることがうかがわれる。
 そして、家族の人数と収入金額を比べてみると、529世帯のうち「貧乏線」を割ってしまう家は95世帯で、全世帯の17.96%を占めていることがわかった。おそらく、この数値は同時期の東京市や他の区・町と比べてみても低いのではないかと思われる。529世帯のうち、持ち家に住んでいる家族は9世帯、借家に住む家族が520世帯だが、当時は借家に住むのが生活の常識だったので、持ち家がないからといって貧困とはまったく限らない。借家住まいの世帯では、1ヶ月の家賃総額が5,526円64銭、月にすると1世帯あたり平均家賃は10円63銭/月ということになる。つまり、1世帯(4人)の平均収入61円35銭/月の中で、家賃が占める割合は17%強だ。
 自由学園の女学生は、住環境についても具体的に調べているが、住宅の畳間(日本間)の数だけ調べ洋間は含めていない。当時の高田町は、和洋折衷の住宅も多かったとみられるが、「ひとりあたりの畳の枚数は何枚?」というような、昔ながらの調査感覚が残っていたものだろうか。あるいは、大正期なので畳部屋こそが寝室も兼ねた個人の居住空間そのもので、応接間や居間、食堂などに多い洋間は共有空間であって、除外するものだと捉えられていたのかもしれない。住民の中には、「答えたくない」と断ったケースや部屋数が不明の家庭もあったようで、回答数は482戸となっている。
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 日本間の広さも確認しており、全820間の畳の総数は3,667枚、したがって住民ひとりあたりが使える日本間の占有率は約1.7畳ということになる。
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 次に、調査対象となった529世帯の住民の職業調査も行っている。親に扶養されている、学生や生徒などを含む20歳以下の住民は除外し、なんらかの収入がある世帯主や妻、その子どもたちなど住民711人を対象に調べた結果だ。
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 当時の高田町は、運送業や中小の工場が集まっていたせいか、職人や職工、運送業者の関係者がかなり目立つ。また、女性の仕事としては、川沿いに展開する染色業や製紙業に関連する仕事が多かったのだろう。
 さて、「貧乏線」の調査は、高等科の女学生たちが抽出した487戸(529世帯)の家々に限られてはいたにせよ、かなりプライベートで失礼なインタビューの内容が含まれており(「運送者など、家は随分汚ない」けれどすごくおカネ持ちだなどと、いいたい放題のレポートを書いた経緯もありw)、彼女たちは調査対象となった家庭の子どもたち全員を、学園をあげたパーティに招待している。これに対し、調査した家庭から357人の親子が、高田町雑司ヶ谷1151~1154番地(のち雑司が谷町6丁目→現・西池袋2丁目)にあった自由学園にやってきた。そのときの様子を、同書から引用してみよう。
  
 私共はまた調査をした週間の土曜日、午後一時から調査に行つたお家の子供さんたちを招待して、学校でお伽噺の会をしました。私共の願ひを聞き入れて、快く話して下さつたお礼のためでした。(中略) 先づ全校のお友達に三品づゝ福引の材料を持つて来て下さることをお願ひしましたら、絵本、毬、お手玉、まゝごと道具、お人形、飛行機、汽車、自転車などのおもちや、手帳、鉛筆、クレオンなど皆新しいものばかりで、一寸したおもちや店が開けさうでした。婦人之友社から頂いた沢山の子供之友をも加へて、公平に組み合はせ、包み紙に包んで四百点の贈物をつくりました。(中略) 次に横山さんと友田さんの童謡が二つばかりあつて、高崎能樹先生のお伽噺にうつりましたお話が本題に入つた頃には講堂は満員でございました。(中略) お噺は三人の王子といふ題で私たちにも面白うございました。福引は釣堀式にして渡しました。贈り物を釣り上げて出てくる子供に明治製菓会社から寄贈して下さつたビスケツトとカルミンを渡しました。
  
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 彼女たちは、同書巻末の「調査の感想」でもしばしば触れているが、家が小さくて貧しそうな家庭ほど親切にいろいろ教えてくれ、大きな住宅の場合は“お高く”とまってほとんど答えてくれないか、または調査対象となる家族が姿を見せず、女中を介しての間接的な受け答えしかしてくれないと書いている。中には、勝手口からの訪問ではなく玄関から入ってきたと、ひどく怒られた女学生たちもいた。次回は、自由学園の全校生徒が参加した、高田町の全戸7,870戸を対象とする「衛生調査」について書いてみたい。

◆写真上:1921年(大正10)に開かれた、学園の設計者F.L.ライトClick!(中央)の送別会。写る生徒の何人かは、4年後の調査にも参加している女学生たちだと思われる。
◆写真中上は、529世帯の「貧乏線」調査に使われた質問カード。は、1921年(大正10)4月15日に開かれた自由学園開校式の様子で26人の生徒が入学した。教壇には、羽仁吉一(左)と羽仁もと子(壇上)の姿が見える。
◆写真中下は、開校式と同じく1921年(大正10)4月15日に行われた初授業の様子。は、同日に校舎の前庭(校庭)で撮影された本科1年生の入学記念写真。
◆写真下:1922年(大正11)に撮影された、竣工間もない自由学園校舎。学園が久留米町に移転したあと、「自由学園明日館」となった現在も意匠はほとんど変わらない。

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1936年(昭和11)の東京名勝めぐり。 [気になる下落合]

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 親父が遺した本に、1936年(昭和11)に銀座の地人社から出版された『大東京史蹟名勝地誌』がある。東京が(城)下町Click!の15区編成から35区編成Click!になって、しばらくしてから出版された、現代でいう「街歩き」のガイドブックのような本だ。おそらく親父が中学生になったころ、街歩きに興味をおぼえた1940年(昭和15)ごろに入手したのだろう。空襲で同書が焼けていないのは、日本橋の実家から諏訪町(現・高田馬場1丁目)にあった大学の下宿まで、そのまま持って出たからだとみられる。
 ページを開くと、親父が実際に訪れた場所や歩いたところには赤鉛筆で印やメモが残されており、どうやら戦前戦後を通じて東京各地のかなり広範な地域を歩いているようだ。ただし、「街歩き」のガイドブック風の編集といっても、新たな加わった20区Click!は東京郊外の風情がいまだ強く、「街歩き」ではなく「ハイキングコース」として紹介されている区や地域もめずらしくない。
 旧・15区とその周辺地域のページが真っ赤なのに対し、ほとんど赤鉛筆のマーキングが見られない地域、すなわち中学~大学時代の親父があまり散歩しなかったらしい地域としては、蒲田区(現・大田区の一部)、城東区(現・江東区の一部)、荏原区(現・品川区の一部)、世田谷区、杉並区、足立区、葛飾区、江戸川区の8区が挙げられる。面白いことに、わたしも上記の5つの地域や街々は歩くことが少なく、あまり馴染みがない。
 逆に、書きこみが多く赤鉛筆で真っ赤なのは、東京15区の市街地はもちろんだが、新たに加わった区で赤い印が目立つのは品川区、目黒区、淀橋区、中野区、豊島区、瀧野川区、荒川区、板橋区、向島区などだ。空襲で焼ける前、これらの地域には鎌倉期から江戸期までの建築や彫刻、遺構、史蹟、芝居の舞台、あるいは風情などが数多く、または色濃く残っていたからだろう。同書を読んでいると、学生時代の親父が歩いた東京市内の足跡がそのまま透けて見えて面白い。
 ただし裏を返せば、戦争で東京に残っていた文化財の大半が灰になっているのに気づき、改めて愕然とする思いだ。わたしは旧・荒川区や向島区、瀧野川区などのエリアにはめったに出かけないが、それは関東大震災Click!では助かったものが空襲でほとんどが焦土と化し、本来あるべき古くからの文化財が根こそぎ失われた地域であり、親父とは異なり出かけるきっかけや意欲が喪失してしまったからだと気づく。
 さて、落合地域は同書ではどのように扱われているのだろうか? 淀橋区のページを見てみると、残念ながら下落合氷川社と富士(藤)稲荷社、月見岡八幡社の3ヶ所しか紹介されていない。それも無理からぬことで、旧・落合町よりも旧・淀橋町や大久保町、戸塚町のほうが史跡や遺構、芝居にちなんだ記念物、物語や伝承などが圧倒的に多い。淀橋の熊野十二社や成子天神社、東大久保の西向天神社、戸塚の亨朝院や宝泉寺、高田馬場址などには赤鉛筆の記載があるが、落合地域はスルーしているのか書きこみがない。もっとも、親父がいた諏訪町の直近で、いつでも歩けると思っていたせいもあるのだろう。
 同書に掲載されている、落合地域3社の紹介文を引用してみよう。
  
 氷川神社
 下落合一丁目(ママ)にあり、奇稲田姫命を祀る。故に女體の宮と称し、高田の氷川社が祭神素戔嗚尊なるに対して、当社を配して夫婦の宮としたといふ。村社例祭十月四日。
 富士稲荷
 下落合二丁目(ママ)にあり、東山稲荷ともいふ。清和天皇の後胤経基が京都の稲荷を勧請したといふ。境内に藤の老木があつたから社名が起つた。今の藤は二代目。
 八幡神社
 誉田別尊を祭る(ママ)。上落合一丁目にあり上落合村の旧鎮守神。創建古く義家手植の松といふもあつた。又、藤の古木がある。
  
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新井薬師1936.jpg
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 下落合氷川社と富士(藤)稲荷社とで、当時の所在地が逆だ。氷川社は旧・下落合2丁目で、富士(藤)稲荷は旧・下落合1丁目にある。また、由来らしきことが書かれているけれど、各社は創建時期が不明で(それほど聖域としては古く)ハッキリしない。
 特に藤(富士)稲荷Click!は、奉納されていたのが太刀とおぼしき刀剣(鎌倉期?)Click!だし、周囲に展開するバッケ(崖地)Click!状の地形などから古代の大鍛冶に由来する鋳成神(いなりしん)Click!、ないしは小鍛冶に由来する火床の荒神(こうじん)Click!が、後世(おもに室町期から江戸期)に農業の神とされる朝鮮半島(秦氏)由来の稲荷神へと習合または転化しているのではないかと疑っている。しかも、神田川(旧・平川)流域の目白崖線沿いには、タタラ遺跡を示す金屎(スラグ)の出土例が多く、出雲の鋳成(タタラ製鉄Click!)と関連が深い氷川社が点在しているのでなおさらだ。
 同書に書かれている遊覧場所として、落合地域の近くでは新宿御苑Click!や新歌舞伎座(東京市電新宿車庫前)、伊勢丹Click!新宿三越Click!、帝都座、武蔵野館Click!早大キャンパスClick!雑司ヶ谷鬼子母神Click!などが挙げられているが、落合地域は含まれていない。むしろ、ハイキングの際に立ち寄るエリアとして認識されていたようで、同書では50のハイキングコースが紹介されている。そのうち、落合地域にもっとも近いコースは「新井薬師と哲学堂」コースだ。以下、同書より引用してみよう。
  
 24.新井薬師と哲学堂
 西武村山線の新井薬師下車(ママ)、又は中央線の中野駅からバスが通ふ。寺は東京の一流行仏。薬師駅の北方で妙正寺川が大曲流をなし、台地がその間に突出して、東北の和田山の台地と対し、雑木林、松林などあつて風光がよく、野方風地区として指定され種々設備中とある。哲学堂の参観をはじめ一日の散策の絶好地。
  
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 ここでも、新井薬師前(あらいやくしまえ)駅は「新井薬師駅」Click!と認知されているのが面白い。w 書かれている和田山が井上哲学堂Click!のある山で、鎌倉期の以前から和田氏Click!の館があったという伝承が地元各地に存在している。また、落合地域の周辺には、「和田」のつく地名や伝承がいまでも数多く残っている。
 また、「野方風致地区」の名称が出ているが、北上する妙正寺川の東側でエリアつづきの落合町葛ヶ谷も、1930年(昭和5)に「葛ヶ谷風致地区」Click!として東京府により指定されている。風致地区とは、風光明媚な地域なので自然を保護する目的でつくられた制度だが、葛ヶ谷は昭和初期になると耕地整理が進み、ほどなく「西落合」という町名で新興住宅街を形成している。ただ、同書が出版された1936年(昭和11)の時点では、あちこちに畑地や雑木林がいまだに散在して、妙見山Click!に代表される鬱蒼とした丘陵地帯が展開し、ところどころにモダンな住宅や画家のアトリエClick!が建ちはじめたばかりなので、それなりにハイキングは楽しめただろう。
 もうひとつ、落合地域に近いハイキングコースとして、「山手七福神巡り」が掲載されている。同書より、再び引用してみよう。
  
 48.山手七福神巡り
 四谷(ママ:区)新宿二丁目大宗寺(ママ)の布袋、牛込区原町一丁目経王寺の大黒天と神楽坂善国寺の毘沙門天。それに淀橋区西大久保二丁目に恵比寿(鬼王神社)/同々福禄寿(鈴木豊香園)/同々寿老人(法善寺)及び同東大久保拔弁天(厳島神社)がある。
  
 「大宗寺」は太宗寺の誤植だが、落合地域に比較的近いのは西大久保と東大久保に展開する史蹟だろうか。(それでも2~3kmは離れているが)
 当時の落合地域は、大正期からつづくモダンな新興住宅街と華族屋敷の敷地にされていた丘陵や雑木林などが多く、とりたてて名勝と呼ばれるような場所はいまだ生まれていない。散歩をするには、まだ街角や風景が真新しく、ハイキングコースにするには住宅地化が進みすぎていて興ざめ……、そんなエリアが1936年(昭和11)現在の落合地域だった。落合地域が、散策のコースとして脚光をあびるのは、そこに集っていた画家や作家など芸術家たちの姿がようやく浮かびあがり、また緑が多く残された「新宿の秘境」Click!あるいは「新宿の奥座敷」として注目されるようになった、戦後もかなりたってからのことだ。
関口芭蕉庵1936.jpg
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 同書の序文に、「今日の『東京』に多大の影響を与へたものは勿論江戸文化である。否、今日の『東京』は『江戸』の延長である。(中略)『東京風』なるものが『江戸』から承け継いだもので、それが今日の東京に有形無形に残ってゐる」と編集者の手で書かれているが、「東京風」のうち無形はともかく、有形の多くのものが戦争で失われているのが残念でならない。せめて無形の「東京風」は、この城下町の基盤またはリソースとして、多彩な領域の文化や風俗、習慣とともにこれからも末長く継承していきたいものだ。

◆写真上:下落合にいまもそのまま残る、谷戸地形の湧水源に形成された雑木林。
◆写真中上は、1936年(昭和11)に地人社から出版された『大東京史蹟名勝地誌』()と目次の「淀橋区」の一部()。は、1935年(昭和10)ごろに撮影された新井薬師Click!は、同年ごろに撮影の井上哲学堂の「三賢人碑」。
◆写真中下は、室町期ごろの江戸の様子を表現した左側が北の江戸古図。左下に平川Click!(現・神田川)の流れが描かれ、江戸湾へ張りだした岬(エト゜=鼻)には柴崎村(現・大手町)の神田明神Click!が、その北(左側)には太田道灌の江戸城Click!が見えている。は、1936年(昭和11)時点の芝丸山古墳Click!の全景。周囲には10基の倍墳が描かれているが、実際に調査され記録されているのは11基なので1基が記載漏れだ。また、当時は芝丸山古墳のくびれ部に「造り出し」が残っていたのがわかる。
◆写真下は、同年ごろの関口芭蕉庵Click!は、同年ごろの雑司ヶ谷鬼子母神と参道。当時は、境内や表参道に仲見世が連なっていたのがわかる。
おまけ
雪を避けて軒下に避難した10羽ほどのヒヨドリの群れに、襲いかかろうとする家のネコ。
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高田町の全工場・事業所調査1925年。 [気になる神田川]

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 前回、自由学園高等科の女学生たちが実施した社会調査レポート『我が住む町』Click!から、1925年(大正14)2月の時点で高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)に存在していた、すべての商店について記事Click!にしたが、今回は同町で操業していたすべての工場や事業所についてご紹介してみたい。
 実は、自由学園の女学生たちは1923年(大正12)の関東大震災Click!の直後から、ボランティアで被災者の家庭や避難者に牛乳を配給したり、「フトンデー」といって被災者に寝具を配布したりして、高田町ではかなり知られた学校だった。だから、翌々年の1925年(大正14)に全町調査をした際も、親切にしてくれる家庭は多かったようだ。たとえば、工場街を調査した女学生は、こんなことを書いている。
  
 地面は大変広い所でしたが、大きな工場が沢山あつて家数は少うございました。随分ひどい家に住んで居る方が多うございました。焼け跡のトタンの焼けたのを集めて住んで居る人もありました。屋根に頭のとゞく様な低い暗いきたない小さな家に住んで居る人もありました。表は茶めし屋で裏に行つて見るとまあ何と言つたらばいゝのでせう、其のきたない事と言つたらばこんな家の茶めしなどを食べたら大変です。戸を開けるとブーンと臭い香がして来て気持悪くなつた事も度々ありました。けれども一番嬉しかつたのは、皆さんがよく親切に教へて下さつた事でした。そしてもつともつとこの町をよくして下さいと言つて下さいました。
  
 全戸訪問のレポートを読むと、彼女たちは大きな屋敷に住む住民よりも、中小の家々に住んでいた住民たちから親切にされたケースが多いようだ。
 さて、同年に高田町で操業していた製造業や工場の様子を見てみよう。
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 江戸友禅や小紋、藍染めなど染色業Click!にかかわる事業所が目立つが、これらは旧・神田上水(1966年より神田川)沿いのエリアが多いのだろう。「ねりぬき屋」は、絹織物を製造する事業だが、それに図柄をほどこす「刺繍屋」も3軒記録されている。
 ほとんどが和服に関する工房だが、かんざしや笄を製造する「錺屋」が8軒も営業をつづけている。いまの若い子は知らないだろうが、下駄は使っているうちに歯が地面に擦れて減っていくので、それを入れ替える「下駄歯入れ屋」も9軒が営業していた。傘は、修理の専門工房があったようで「傘直し屋」が3軒、当時の靴下はメリヤス編みで高価だったせいか、穴の開いたものを直す「靴下かがり屋」が営業しているのも面白い。
 つづいて、家内制手工業的な工房ではなく、規模の大きな工場を見てみよう。
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 この中で、「製パン工場」が1軒とあるのは、山手線と武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が交差するあたり、高田町雑司ヶ谷池谷戸浅井原838~843番地に建設された、東京でも最大規模の東京パン工場Click!のことだ。大正の当時、東京西部に点在していたパン屋や喫茶店では、その多くが東京パンの製品を仕入れ販売していた。画家たちが、デッサンで木炭消しに使っていたのも東京パン製が多い。
 旧・神田上水沿いには、大正期に入ると「製薬工場」(4軒)や医療衛生品工場(5軒)、印刷工場(3軒)などが急増している。これらの工場は(染織工場もそうだが)、より下流の江戸川Click!(大洗堰Click!舩河原橋Click!)や神田川(千代田城外濠~柳橋Click!)沿いから、水のきれいな上流へと移転してきたものだ。
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 つづいて、住宅や建築に関連する事業所を見てみよう。
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 1925年(大正14)の時点では、いまだ西洋館よりも日本家屋の建築に関する職業が多いようだ。ただし、手先が器用な指物師や表具師は、洋館向けの家具や調度でも、見よう見まねでこしらえてしまったにちがいない。「やすり屋」(3軒)や「鋸めたて屋」(2軒)は、おもに大工道具や工作道具のメンテナンスを行う作業場だったのだろう。
 「ポンプ屋」が6軒記録されているが、これは井戸から水を汲みあげる上水ポンプClick!の設置を手がけていたとみられる。また、変わったところでは「煙突屋」が1軒採取されているが、銭湯や工場の煙突建設や保守を請け負った会社なのだろう。
 次に高田町に散在していた、さまざまな事業所を見てみよう。
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 籐椅子など藤製の家具やバスケット、雑貨を制作する「藤細工屋」が6軒も開業していた。「貝細工屋」は、貝の螺鈿(らでん)などを用いて茶箪笥の扉や文箱、硯箱、棗(なつめ)などに装飾をほどこす工房だ。また、「鍛冶屋」が43軒も開業していたのが驚きだ。刃物や大工道具など、新興住宅地らしく工作用の道具のニーズが高かったのかもしれない。あるいは、昔ながらの農具を製造した農村時代の名残り(いわゆる「野鍛冶」)が、そのままつづいていたものだろうか。
 一方で、江戸時代とまったく変わらない職業も継続していた。「桶屋」の16軒をはじめ、「樽屋」が5軒、「提灯屋」が3軒、「水引元結屋」が4軒、「蝋燭屋」が1軒などだ。もっとも、「桶屋」は住宅の風呂や銭湯での需要があり、「樽屋」は漬け物屋や造り酒屋などで、「提灯屋」は寺社の縁日や祭礼で、「蝋燭屋」は寺社や家々の仏壇でそれぞれ変わらぬニーズがあったのだろう。
 いまでも、このあたりで見かけるのは、活版ではなくオフセットか大型プリンタになった「印刷屋」に「印版屋」(ハンコ屋)、いまでは出力サービス店や文房具店に吸収されてしまった「紙札屋」(名刺屋)、そして「らを屋」だろうか。「らを屋」(ラオ屋)は、煙管(きせる)の羅宇のヤニ取りや、雁首・吸口の修繕をする仕事だが、たまに下落合にある目白通り沿いの刀剣店「飯田高遠堂」さんの前へ、小型トラックでやってきてはピーーッという高圧蒸気の音を響かせている。最近は、パイプの清浄などもしているようで、それなりに需要があるのだろう。
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 最後に、以上の業種には含まれない、専門業務の施設を見てみよう。
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 まず、このあたりに病院・医院と床屋が多いのは昔もいまも変わらない。特に落合地域の歯科医院Click!は、下落合の第二文化村Click!島峰徹Click!が住んでいたからかどうかは知らないが、50~100mおきぐらいに開業している。33戸で1店の菓子屋を支える、大正末の高田町のような状況だが、ちゃんとマーケティングをしてから開業しないので、数年で閉院する歯科医も少なくない。
 当時の住宅は、風呂場がないのが通常なので、「浴場業」(銭湯)の21軒は決して多い数ではない。男性の「理髪店」は51軒だが、女性の「美容術屋」Click!(美容院)が高田町でたった1軒しか開業していない。そのぶん、日本髪を結う昔ながらの「髪結い」業が31軒も残っている。高田町の女性たちは、洋風の生活をしようとすると髪を切りに、あるいは電髪(パーマ)をかけに1軒だけしかなかった美容院へ出かけるか、あるいは自分で鏡を見ながらカットしていたのかもしれない。自由学園の女学生たちは洋装だが、髪は自分で切るか親に切ってもらっていたのだろう。
 昭和も近い1925年(大正14)の高田町だが、規模の大きな工場や企業が進出してくる一方で、江戸期とまったく変わらない商品を製造しつづけている小規模な事業所や工房が、ずいぶん残っていたのがわかる。住民の生活も、昔ながらの和様式のものと、文化住宅の洋風な暮らしとが混在しているのが、さまざまな事業所や商店の記録から読みとれる。
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 さて、自由学園の女学生たちが訪れても、なんの事業をしているのかがわからなかった「不明」の事業所が12軒ある。彼女たちは何度か足を向けているようだが、事業所内には誰もおらず、業種や業務内容が不明だったところだ。たまたま長期不在で留守だったか、よそに移転して空き家だったか、あるいは廃業した事務所だったのかもしれない。

◆写真上:空襲で焼けなかったエリアでは、いまでも残る「東京パン」の商店看板。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる旧・神田上水沿いの工場。は、1937年(昭和12)に撮影された目白崖線(遠景の丘)下に拡がる工業地域。
◆写真中下は、戦時中の1944年(昭和19)ごろ制作の池袋に建っていた工場を描いた松本竣介Click!『工場(池袋)』。は、同作の鉛筆スケッチ。
◆写真下:1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)巻末に収録の、各種工場や医院などの広告群(一部)。多種多様な工場や事業所、企業が広告を出稿しており、現在では大正期の高田町を知るうえでは願ってもない資料だ。

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下落合を描いた画家たち・三宅克己。 [気になる下落合]

三宅克己「落合村」1918.jpg
 1918年(大正7)の第12回文展に、三宅克己(こっき)Click!は『諏訪の森』と『落合村』という2点の作品を出品している。『諏訪の森』は、豊多摩郡戸塚町92番(現・高田馬場1丁目)に建っている諏訪社Click!の鬱蒼とした境内の杜と、南側につづく戸山ヶ原の防弾土塁Click!下の小道を描いたものだ。そして、もう1作の『落合村』が下落合の目白崖線と、上落合の丘陵とにはさまれた一面の田園風景を、めずらしい横長の画用紙を用いてとらえた、かなり広角の視界で描いたとみられる画面だ。
 1906年(明治39)に、淀橋町角筈から豊多摩郡役所の北隣りにあたる、淀橋町柏木407番地(現・北新宿1丁目)のアトリエへ転居した三宅克己は、付近に拡がる風景を精力的に描いている。特に戸山ヶ原Click!には頻繁に出かけたようで、陸軍の施設が建ちならぶ以前の草原や雑木林、金川(カニ川)Click!などの風景を画用紙に水彩で写している。山手線をはさみ東西に拡がる、戸山ヶ原の北側に位置する戸塚町の諏訪社や落合村もまた、そのような写生散策の一環として画道具を肩に立ち寄ったものだろう。
 1918年(大正7)という早い時期の落合村なので、目白崖線沿いには目印となるような建築物や構造物は少ない。もちろん、下落合氷川社Click!薬王院Click!は以前から存在しているが、山手線に近い近衛邸Click!(近衛町Click!は未開発)や御留山Click!相馬邸Click!七曲坂Click!大島邸Click!西坂Click!徳川邸Click!ぐらいしか目立つ大屋敷は建設されていない。崖線の麓には、下落合の「本村」Click!あたりと「小上」の丘下の「北川向」Click!に集落が多少あるものの、田畑ばかりの農村風景が拡がっていた時代だ。
 さて、『落合村』の画面を検討してみよう。一面が、見わたす限り田園風景だ。木々の様子から、新緑の初夏を迎えた落合村のような気配が漂う。手前の草原は、開墾と灌漑、そして田植えを待つ水田だろうか。奥の黄色い一面のエリアは、「麦秋」(5月)を迎えた麦畑のように見える。強い光線は、左手上空から手前のほうへ少し斜めに射しているようで、やや逆光ぎみの画面だ。左手が南側に近い方角だとすれば、右手から奥に連なる丘は下落合の目白崖線ということになる。つまり、三宅克己は旧・神田上水と妙正寺川が流れる、下落合と上落合の谷間からほぼ西側を向いて描いていることになる。
 画面には、家々がほとんど見えない。唯一、画面左手の小高い丘の下に、大きめな家の屋根らしい長方形のフォルムがふたつ(2軒)、とらえられているのみだ。つまり、1913年(大正2)に建設されたコンクリート建築の非常に目立つ目白変電所Click!も見えなければ、下落合氷川社らしい針葉樹が繁る境内の杜も、中核的な集落だった本村らしい家々が重なる屋根も、どこにも描かれていない。ということは、この画面は山手線からかなり離れた、落合村の西部を描いたものではないかと想定することができる。
 また、もうひとつの“ヒント”として、田畑の間に背が高めな草むらが繁茂し、樹木が点々とつづくラインが見てとれるだろう。このような場所は、田畑には開墾できない道路か川、灌漑用水などが流れている例が多い。画面の手前に、大きくカーブをしながら横切るライン、右手でカーブした奥で複雑なかたちで入り組み、画面の右手枠外へとつづいていくライン、同様に画面右手の複雑に入り組んだあたりから、木々を繁らせながら目白崖線沿いに画面奥へと遠ざかっていくラインなど、数多くの“緑のライン”が確認できる。道路にしては、非効率的で妙な形状をするこのラインは、おそらく水流=河川だろう。
三宅克己アトリエ跡.jpg
柏木407_1918.jpg
落合村地形図1910.jpg
 以上のような想定で、改めて画面を眺めてみると、この風景に一致しそうな場所がわずかながら存在している。描画ポイントは下落合村ではなく、戸塚町の旧・神田上水沿いに拡がる田圃の中、宅地化が進んだのちの住所表記では、戸塚町上戸塚509番地となるあたりの水田の畦道だ。非常に広角で描かれた風景で、しかも当時は目標物がほとんど存在していないため、厳密な描画ポイントではなく「あたり」としか想定できないが、上記の地番あたりから北西を向いて、下落合(右手)と上落合(左手)の田畑が拡がる、谷間全体を写しとっているのではないかとみられる。
 それぞれ、画面に描かれたものを特定してみよう。まず、右手のけわしい丘は、現在の久七坂Click!が通う南へ張りだした急斜面の丘と、西坂が通う徳川邸Click!のある丘だと思われる。手前に繁った樹木に覆われ、諏訪谷Click!あるいは不動谷Click!(西ノ谷Click!)への入口、ないしは「本村」の外れに建つ家々の屋根は隠れて見えない。大きめな西洋館だったとみられる徳川邸(当時は別邸)だが、丘の林に囲まれているので望見できない。ほぼ真正面のあたりには、前谷戸Click!(大正後期から不動谷)が口を開けているはずだが、やはり濃い樹林に前を遮られて判然としない。市街地に住む人々が、週末になるとピクニックにきていたころの落合村の風情だ。
 画面の中央左寄りに描かれた、ケヤキと思われる大樹のすぐ左手に見える小高い丘は、「小上」と字名がつけられていた一ノ坂Click!蘭塔坂Click!(二ノ坂)あたりの丘だと思われる。その麓には、妙正寺川の北岸の字名「北川向」(通称:中井村Click!)に散在する、家々の屋根が2軒採取されている。現在でいうと、中井駅の北東側あたりの山麓だ。少しかすみ気味の遠景には、もうひとつ台地状の小高い盛り上がりがとらえられているが、現在は目白学園Click!のある「大上」と呼ばれた丘だろう。目白崖線に連なる丘では、37.5mといちばん標高が高い最高点だ。
 以上のような想定をすると、田畑の中に描かれた水流とみられる曲線も特定できる。まず、手前で大きく蛇行をしている川は、左手が小滝橋の架かる上流にあたる旧・神田上水だ。また、目白崖線の下を風景の奥まで延々とつづいている樹木のラインは、上落合と下落合の間を流れる妙正寺川ということになる。当時の旧・神田上水や妙正寺川は、江戸期そのままに川幅も狭く川底も浅い流れだった。そして、この時期の両河川が落ち合う合流点は、画面右端に描かれた樹林の中だ。現在の位置関係でいうと、久七坂の南約100mほどのところ、西武線・下落合駅のホームあたりということになる。
三宅克巳「落合村」1918右.jpg
三宅克巳「落合村」1918左.jpg
三宅克己「落合村」水流.jpg
 さらに、画面左端に書かれた「K.Miyake 1918」のサイン上から、こんもりとせり出している緑は、上落合にある光徳寺の境内北側あたりの樹林であり、その向こうに麦畑を斜めに横切る細い緑色の線は、妙正寺川のバッケ堰Click!から上落合の「南耕地」まで引かれた、灌漑用水の細い小流れだろう。この用水は、途中まで妙正寺川と並行するように流れているが、途中で「へ」の字状にクラックし、「南耕地」から南下して旧・神田上水沿いに「八幡耕地」の田畑までを潤していた。
 さて、この画面を眺めていて不可解に感じた部分がある。「あれ?」と思われた、この地域にお住まいの方も多いのではないだろうか。この作品が描かれたのと同年、1918年(大正7)の1/10,000地形図を参照すれば、その不可解なテーマがすぐに判明する。1913年(大正2)に目白変電所Click!が建設されているのは先述したとおりだが、同変電所へと向かう高圧線の木製塔が1本も描かれていないことだ。三宅克己が写生した当時、この田園風景の中には妙正寺川に沿うように、右岸あるいは左岸に東京電燈谷村線の木製高圧線塔が連なっていたはずだ。鈴木良三Click!が1922年(大正11)に制作した、『落合の小川』Click!に描かれているあの高圧線塔Click!だ。もう少し時代が下ると、林武Click!佐伯祐三Click!も高圧線塔(佐伯は明らかに高圧線鉄塔Click!)を描いている。
 三宅克己は、画面に入れるモチーフと捨象するものとを分けて描いている、すなわち“構成”を行っているのではないか? 他の作品でも、住宅街もほど近い道路に、電柱がただの1本も描かれていないなど、やや不自然な表現が見られるのだ。『落合村』と同時に、第12回文展へ出品された『諏訪の森』でも、宅地化が進みつつある諏訪社前の通り=諏訪通りClick!に、電柱が1本も描かれていないのが不自然に感じる。『落合村』にしても、もう少し家々の屋根が見えていてもいいのかもしれない。三宅は、自身で風景の“美”やバランスを壊すと判断したものは、画面から積極的に捨象してはいないだろうか?
鈴木良三「落合の小川」1922部分.jpg
地形図1910.jpg
地形図1918.jpg
 『落合村』は初夏の風景だと思われるが、同年の『諏訪の森』は空に積乱雲が立ちのぼる真夏の情景だ。秋の第12回文展に向け、柏木407番地のアトリエから北上し、5月ごろ『落合村』を制作した三宅克己は、今度は山手線の内側に入り盛夏の戸山ヶ原を縦断して、『諏訪の森』の制作に取りかかっているのだろう。下落合の南東側にあたる、戸塚町Click!の『諏訪の森』も画面を入手しているので、機会があればご紹介したい。

◆写真上:横長の画用紙に描かれた、1918年(大正7)制作の三宅克己『落合村』。
◆写真中上は、淀橋町柏木407番地(現・北新宿1丁目)の三宅克己アトリエ跡(右手)。画面の左手は豊多摩郡役所が建ち、右手が柏木406~407番地だった。は、『落合村』を描いた1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる三宅アトリエ界隈。は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる『落合村』の描画ポイントと画角。
◆写真中下:画面に描かれた、目白崖線沿いに展開するモチーフの特定。
◆写真下は、1922年(大正11)制作の鈴木良三『落合の小川』(部分)に描かれた東京電燈谷村線の高圧線塔。は、1910年(明治43)と1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図の比較。『落合村』と同年の1918年(大正7)には、すでに東京電燈谷村線が敷設されていたはずだ。
おまけ
暖かい日がつづき、下落合のソメイヨシノは五分咲きというところでしょうか。
ソメイヨシノ2020.jpg

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高田町の全商店舗調査1925年。 [気になるエトセトラ]

目白通り.JPG
 1925年(大正14)2月に、高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)に存在するすべての住宅、商店、企業、工場、各種施設を調査した自由学園高等科の女学生たちClick!は、卒業レポートとして『我が住む町』を出版している。これは、アンケート用紙を配布して記入する国勢調査よりもよほど詳しく、全戸を訪問して直接のインタビューや観察をもとに記録する調査だった。
 事前に高田町Click!と高田警察署から、自由学園による調査が実施される主旨を各町内に連絡し周知をしてもらい、さらに訪問の数日前には、女学生たちが調査趣意書と訪問日時などを記載したパンフレットを全戸にポスティングするという、本格的な社会調査の手法を採用したものだ。住宅や商店、工場、各種施設をまわる中で、商店を訪ねたのはこの社会調査を企画した最上級生、つまり卒業が目前に迫った高等科2年生の女学生たちが多かった。なぜなら、顧客を相手に営業中の商店で、忙しい主人にインタビューするのはことさら難しいと判断したからだろう。
 しかし、無視されたり追いだされたりした店がわずかにあったものの、おしなべて商店の主人たちは、彼女たちの質問にできるだけ親切かつ詳細に答えている。また、調査目的に関係のない商売の話や世間話も多かったらしく、また女学生たちもそれが面白く感じたのか、特に商店調査については別章を設けて詳細に報告している。
 1925年(大正14)2月の当時、高田町には2,790軒の事業所があり、そのうち1,861軒の商店が営業をしていた。初めに、食品店や飲食店について見てみよう。
食糧・飲食店.jpg
 まず、今日ではあまり見られないが、「八百屋(青物屋)」と「果実屋」が分かれているのがわかる。現在では青果店が当りまえだが、当時は野菜とフルーツは市場がちがっていたせいか、別々の店舗で売られていた。現代でも例外的に、大きな病院の近くなどではフルーツ専門店を見かけることがある。
 「芋屋」は焼きイモ屋のことだが、「納豆屋」や「砂糖屋」が独立しているのも面白い。これらは、仕入れ先の卸しや市場が特別で異なるからだろう。魚介類でも、魚と貝とでは「魚屋」と「蛤浅蜊屋」とで分離している。魚市場と、ハマグリやアサリを仕入れる貝市場とが異なっていたせいだろう。食べる氷、つまりかき氷は「飲用氷屋」として分類されており、冷蔵用や冷房用の製氷業は含まれていない。
目白通り商店1926.jpg
 高田町に菓子屋Click!が異常に多いのは、先の記事でご紹介しているが、「葉茶屋」はふつうの煎茶を売るお茶屋のことだ。蕎麦Click!うどんClick!では、やはり圧倒的に「そば屋」が多い。「蒲焼屋」が2軒記録されているが、すでに廃業してしまった店だろうか、現代の旧・高田町のエリアで感心する「う」Click!にはいまだ出会ったことがない。こんにゃくを専門に扱う、「蒟蒻屋」が独立していたのも面白い。
 次に、衣服や生活用品を扱う店を見てみよう。
被服・生活用品店.jpg
 「綿屋」は、医療・衛生に使用する脱脂綿や、布団などに詰める綿など、多種多様な綿類を扱う問屋か専門店だったとみられる。高田町や落合町には、旧・神田上水沿いに製綿工場Click!が数多く営業していた。
 大正期の高田町は、まだ和服の装いが多かったのか「足袋屋」が10軒も営業していた。また、和装には不可欠な「小間物屋」も、30軒とかなり多い。日本髪を結う“もとゆい”の需要も、大正末ではそれほど落ちていなかったとみられ、中村彝アトリエClick!裏の一吉元結工場Click!は、いまだ順調に操業をつづけていただろうか。
 今日では、駅のキオスクやコンビニでさえ売っている傘だが、当時は「雨具屋」として独立していた。いまの傘は使い捨てが多いが、当時は修理も行っていたのだろう。また、外働き用の雨合羽も扱っていたと思われる。「染料屋」は、着古した着物などの生地を染め直す、染料の専門店だったのだろう。
 「唐物屋」は、江戸期には中国や朝鮮から取り寄せた輸入品の専門店だったが、大正期には陶器などの食器を扱う“瀬戸物屋”の意味だろう。親の世代でも、「唐物屋」といえば陶製の食器を売る店のことであり、茶碗や皿などが割れると「唐物屋さんに行かなきゃ」といっていた。ちなみに、「唐物屋」が古物商(骨董店)をさす地方もあるようだが、自由学園の調査でも「古物商」は別のカテゴリーに分類されており、「唐物屋」=“瀬戸物屋”だったことがわかる。
 「下駄屋」と「靴屋」では、「下駄屋」の店舗のほうが圧倒的に多いが、高田町に勤め人(サラリーマン)の家庭が急増し、洋風生活や洋装が当りまえになっていくにつれ、この割合が逆転する昭和時代はもうすぐそこだ。
 その他、上記に分類されない高田町の商店を見ていこう。
その他商店.jpg
 「砥屋」は、別に日本刀の研師Click!がいた店ではなくw、切れ味の悪くなった包丁や鋏、鎌などの農具を研ぎなおす専門店だ。いまでも下落合では、たまに「砥屋」さんClick!が住宅街をまわってくる。大正期には、「文房具屋」と「万年筆屋」が分離しているのもめずらしい。万年筆は、当時はまだ高級文房具で、修理などには専門技術が必要だったのだろう。また、昔ながらの筆を売る「筆屋」も1軒だけだが残っている。薬品を扱う「薬屋」と、ガーゼや包帯、マスクなどを売る「衛生材料屋」が分離しているのもめずらしい。「ゴム屋」は長靴やゴム草履、ゴム管、ホースなどゴム製品全般を扱う店だろう。
雑司ヶ谷鬼子母神表参道入口.JPG
雑司ヶ谷鬼子母神参道商店建築.JPG
 高田町に、「釣針屋」があるのが面白い。旧・神田上水あるいは弦巻川Click!で、住民たちは釣りでもしていたのだろうか。「犬屋」と「鳥屋」は、別に食べるための店ではなく、今日のペット屋さんだ。大正末から昭和初期にかけ、文化住宅ではペットを飼うのが大流行Click!していた。特に洋犬の人気が高く、鳥もオウムやインコ、カナリヤなど輸入された鳥類も大人気だった。自由学園を卒業した上落合の村山籌子Click!は、少しでも生活の足しにとシェパードClick!のブリーダーをやっており、下落合の吉屋信子Click!に売りつけてイヤな顔をされている。
 「飼料屋」は、運送業のウマや牧場のウシ、養鶏場のニワトリなどに食べさせるための飼料を売っていた店だ。山手線・目白駅Click!には東側に貨物駅Click!が併設されており、「馬具屋」の2軒ともども駅に到着した荷物の運搬には馬力Click!が不可欠だった。また、雑司ヶ谷の北辰社牧場Click!をはじめ、高田町とその周辺には「東京牧場」Click!が多く、ウシたちの飼料も取り扱っていたのだろう。1925年(大正14)の高田町は、急速に宅地化が進み人口が急増しているが、どこかでまだ田畑をやっている農家が残っていたのか、「種物屋」が1軒のみ営業をつづけていた。
 「銅鉄屋」と「原料屋」は、具体的な商売の内容が不明だが、前者は鉄や銅などの金属を購入しては転売する、金属ブローカーのような仕事だろうか。新しい住宅街では、自家用車(マイカー)を持ちはじめた家庭も増え、「自動車屋」が町内に4店ほど開業しているが、「自転車屋」にいたっては32軒も営業している。大正末に、自転車がいかに町民の“足”になっていたかを示す数字だ。
 ペットブームと同様に大流行していたのがビリヤードClick!だが、高田町には7軒の「撞球場」が店開きしていたのがわかる。仕事にも学校にもいかず、多くの人々が「撞球場」へ入りびたりになり、社会問題化しそうになったほどのブームだった。また、同様に趣味の店として「碁石屋」も1軒記録されている。
 現在は「雑貨屋」で扱っている掃除道具のホウキが、「箒屋」の専門店(2軒)で売られているのも面白い。竹をはじめ、棕櫚やパームなどの材料を使って組み立てるホウキは、独自の工場ルートから市場に卸されて流通していたものだろうか。
高田町住宅明細図1926商店.jpg
 以上のように、自由学園の女学生たちは全1,861軒の商店を戸別訪問して調査を行っており、概観レポートでは「高田町に善良な風紀を害するやうな商売のないことは喜ぶべきことである」と結んでいる。個々の商店については、業種別に詳しいレポートが掲載されているのだが、それらをいつか訪問記としてシリーズ化してみたいと思っている。

◆写真上:旧・高田町を東西に走る目白通りで、バス停の目白警察署前あたり。
◆写真中上:1926年(大正15)に作成された「高田町(千登世町/若葉町/鶉山/稲荷/四ッ谷/豊川/美名実/古木田/雑司ヶ谷町)住宅明細図」にみる、目白通りと雑司ヶ谷鬼子母神の表参道沿いに展開する当時の商店街。
◆写真中下は、目白通りに面した雑司ヶ谷鬼子母神の表参道入口の現状。は、雑司ヶ谷鬼子母神の境内までつづく参道沿いの商店建築。
◆写真下:1926年(大正15)作成の、「高田町住宅明細図」に掲載された商店一覧。

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哲学堂上空から下落合を鳥瞰1941年。 [気になる下落合]

下落合長崎1941.jpg
 陸軍航空隊が撮影したとみられる、非常にめずらしい空中写真を入手した。ちょうど、西落合2丁目968~990番地(のち同2丁目430番地)の四村橋Click!ぎわに建っていた、オリエンタル写真工業第二工場Click!の真上あたりから、ほぼ真東を向いて撮影された斜めフカンの空中写真だ。
 長崎地域から落合地域にかけ、改正道路Click!(山手通り=環六)の工事がまったくスタートしていないので、撮影は1942年(昭和17)以前、おそらく陸軍航空隊による他の写真類も考慮すると、1941年(昭和16)の撮影だとみられる。
 眼下には、オリエンタル写真工業の第一工場や井上哲学堂Click!哲学堂グラウンドClick!荒玉水道Click!野方配水塔Click!などが見えている。そして、妙正寺川沿いの高台には目白商業学校Click!(現・目白学園)から落合府営住宅Click!の全景、目白文化村Click!の全景、落合第一小学校Click!国際聖母病院Click!薬王院Click!、そして落合第四国民学校(旧・落合第四尋常小学校)Click!までが一望のもとに見わたせる、非常に稀少な写真だ。
 西武線Click!(現・西武新宿線)では中井駅Click!下落合駅Click!が、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)では椎名町駅がとらえられている。上屋敷駅Click!もとらえられているはずだが、遠景なので判然としない。
 なによりも貴重なのは、落合地域に建つ家々が真上からではなく、西からの側面だがそれぞれ立体で確認できる点だ。この時期、西落合にも田畑の間に住宅が次々と建ちはじめていた様子がわかる。落合分水Click!沿いの谷間では、耕地整理で田畑がひな壇状に宅地化されていく、まさに赤土がむき出しの整地作業中のエリアが見える。「妙見山」Click!は、三間道路が拓かれているものの、まだまだ深い樹林を残したままだ。
空中西側哲学堂.jpg
空中西側妙見山.jpg
空中西側第二文化村.jpg
 下落合を見てみると、1940年(昭和15)から販売をはじめた勝巳商店地所部Click!による昭和版「目白文化村」Click!の敷地には、まだほとんど住宅が建てられていない。それに比べ、箱根土地Click!が大正期に販売した目白文化村は、ところどころに空き地が残るものの、ほぼ全域に住宅が建ち並んでいる。第二文化村の北側、箱根土地の社宅建設が予定されていたエリア(現・下落合教会/下落合みどり幼稚園Click!)にも、すでに大きな安本邸や水野邸の建設されているのが見える。
 第二文化村の南側は、改正道路工事を想定して丘陵地に茂っていた木々が伐採され、通称「翠ヶ丘」が一面の「赤土山」に変貌している。「赤土山」北東の高台には、旧・ギル邸Click!跡に建てられた巨大な津軽邸Click!が見えている。1941年(昭和16)の第一文化村の前谷戸には、いまだ弁天池があったはずだが、成長したモモの林(昭和10年代には谷底にモモ畑があった)がまわりを囲んでいて、水面を確認できない。
 また、旧・箱根土地本社Click!(のち中央生命保険倶楽部)のビルが、おそらく無人の廃墟になっていた思われるのだが、この時期まで壊されずに残っていたのがわかる。江戸期の建物が残る宇田川邸Click!の向こう側には、第四文化村の分譲地があるが、住宅が建ち並んでいる様子には見えない。
 これら目白文化村に建つ家々は、陸軍航空隊が同時期に東中野上空(南側)から撮影した、もうひとつ別の斜めフカン写真Click!×2点と対比することによって、かなり正確に意匠や形状を把握できるのではないかと思う。
 さて、落合第一小学校の北東側を見てみよう。わたしが初めて、本格的な3Dで目にする第三文化村だ。第三文化村の北西端に建っていた、目白会館文化アパートClick!の西側の切妻とエントランスがハッキリととらえられている。周囲の家々(それらも大きなお屋敷のはずだが)と比較すると、目白会館が飛びぬけて巨大だったのが見てとれる。手前の落合第一小学校より遠景にもかかわらず、その2階建て校舎のサイズよりもはるかに大きな建築だったのがわかる。
空中西側赤土山.jpg
空中西側第一文化村.jpg
空中西側第三文化村.jpg
写真西側薬王院.jpg
 第三文化村の先には、佐伯祐三アトリエClick!があるはずだが、濃い緑に覆われて確認することができない。聖母坂沿いには、国際聖母病院Click!の屋根に覆われた「シベリア鉄道」Click!(渡り廊下)が、白く光っている。聖母坂の向こう(東側)には、薬王院の本堂(現・方丈)の屋根と、その上(東側)には落合第四国民学校Click!の「Γ」型に折れた校舎の屋根が、それぞれ陽光を受けて白く光っている。
 鉄道沿線を見ると、中井駅前は改正道路の工事に備えて、やはり樹木が伐られ家々の立ち退きが終了し、赤土がむき出しの状態になっている。ちょうど、大規模なタタラ遺跡Click!が出土したあたりだ。いまだ一ノ坂Click!矢田坂Click!は残っているが、深く生い繁っていた樹木が次々と伐採され、周辺の環境は激変していただろう。中井駅前の落合第二国民学校Click!(旧・落合第二尋常小学校Click!)には、敷地いっぱいに校舎が建ち校庭が狭くなっている。聖母坂下の下落合駅の周辺では、東京護謨工場Click!が移転したあとの広い空き地が目立つ。
 武蔵野鉄道の椎名町駅周辺は、住宅街が形成されているものの、駅を少し離れると西落合と同様、すぐに空き地や田畑が拡がっている。そんな中、長崎国民学校(旧・長崎尋常小学校)の左手(北東側)には長崎アトリエ村のひとつ、「桜ヶ丘パルテノン」Click!の小さなアトリエが並んでいる。
 ひとつ気になるのは、椎名町駅の南南東側にあたる椎名町1丁目(現・目白5丁目)の、戦後は真和中学校になる校舎のあたりに、まるで水道塔を思わせるドーム状の構造物が建っている点だ。大邸宅の塔かとも思ったが、1945年(昭和20)の空襲前に撮影された空中写真を見ても、この位置にそのような建築物はない。これは、いったいなんだろうか?
写真西側中井駅.jpg
写真西側下落合駅.jpg
空中西側桜ヶ丘パルテノン.jpg
写真西側椎名町駅.jpg
 とりあえず、写真を概観して気がついた点を大急ぎで羅列してみたが、これからは落合地域で、あるいはその周辺域で発生するさまざまなテーマや課題によっては、同写真が大きな役割を果たしてくれるのではないかと期待している。特に、下落合の西部から中部にかけてを細かく検証するには、願ってもない空中写真なのだ。

◆写真:1941年(昭和16)の撮影とみられる、下落合の中西部を鳥瞰した空中写真。

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菓子屋が異常に多い大正末の高田町。 [気になるエトセトラ]

自由学園校舎1.JPG
 大正末の高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の小売り商店には、菓子屋が飛びぬけて多い。高田町雑司ヶ谷1151~1154番地(のち雑司が谷町6丁目→現・西池袋2丁目)にあった自由学園Click!の高等科女学生たちが、卒業制作のプロジェクトとして1925年(大正14)に実施した同町の全戸調査では、144店の菓子屋および70店の駄菓子屋が報告されている。合計すると214店舗となり、これは高田町の人口や面積からすればとんでもなく多い数字だ。
 たとえば、1925年(大正14)2月末の時点で高田町内の米屋は70店、八百屋(青果屋)は86店、魚屋は47店、肉屋は16店、酒屋は96店、燃料販売(薪炭屋)は89店、豆腐屋は26店(彼女たちは、実際に各店舗をすべて訪問して実地調査している)だが、菓子屋(駄菓子屋含む)は214店と突出している。
 前回の記事に、卒業レポート『我が住む町』Click!(自由学園/1925年/非売品)に掲載されたカラーの店舗数グラフを掲載したけれど、菓子屋と駄菓子屋を合計すると、他店に比べて飛びぬけた数字であることがおわかりいただけるだろう。高等科の女学生たちは、高田町の全戸数をベースに何戸の家々が、菓子屋・駄菓子屋を支えているのかを算出したところ、1店につきわずか33戸(家庭)の顧客で商売が成立していることに呆れている。
高田町店舗.jpg
 同様に、1店舗を支える高田町の家庭数は、米屋が102戸(家庭)、八百屋(青果屋)が82戸、魚屋が151戸、肉屋が442戸、酒屋が74戸、薪炭屋が79戸、豆腐屋が272戸で、これは当時の東京市全体の割合(1店舗/顧客戸数)と大きくは変わらないが、高田町では菓子屋の多さのみが異常な数値となっている。
 彼女たちの菓子店についてのレポートを、『我が住む町』から引用してみよう。
  
 (高田町の)店といふのは大概日用品の小売店で、近所の人々が相手であるとすれば、誰でも小売商が多過ぎるといふことに気がつく。そして中でも一番多いのは菓子屋であつた。(中略) たしかに小売商の王であらう。主食物でもないこの菓子屋が、こんなに多いのをみても、時を定めずお茶を飲みお菓子を食べ、来客には同じやうに菓子をすゝめることの多い、兎角無駄食ひに時と金とを費やしてゐる我々の生活が省みられる。高田町の戸数から割出してみると約三十三軒の家で一軒の菓子屋を支へてゐることになる。これを東京市市勢調査の統計にあらはれてゐる四十七軒に比較してみると、高田町の菓子屋があまりに多すぎるのである。(カッコ内引用者註)
  
池袋西口西池袋(昭和初期).jpg
目白通り米屋1931.jpg
自由学園校舎2.JPG
 ちなみに、女学生たちは高田町と東京市ばかりでなく東側に隣接する小石川区(現・文京区の一部)の統計とも比較し、1店舗当たりの顧客戸数を算出している。それによれば、小石川区の全域で米屋は227店で1店/94戸(家庭)、八百屋(青果屋)が272店で1店/113戸、魚屋が264店で1店/120戸、肉屋が64店で1店/495戸、酒屋が312店で1店/102戸、菓子屋が594店で1店/53戸、薪炭屋が252店で1店/126戸、豆腐屋が57店で1店/556戸となっている。
 小石川区の数字は、全東京市の割合とも大差なく近似しているが、高田町はいずれの小売店も顧客戸数が少なめで、かなり激しい競合状態(顧客の奪いあい状態)であったことがうかがわれる。そして、彼女たちがとにかく「無駄食ひ」wを指摘するように、特に菓子屋(駄菓子屋含む)が非常に多いのが高田町の特色だった。
 顧客の戸数(家庭)が少なければ、商品の価格を上げて利益率を多くしなければ、商店経営は成り立たない。つまり、彼女たちは高田町の物価がおしなべて他町よりも高いのは、同業の小売商店があまりに多すぎるからであり、その競合が激化するから店舗ごとに商品価格を吊り上げざるをえないのだと分析している。今日の商売からいえば、競合が激化すれば他店よりもできるだけ安く販売し、より多くの顧客を獲得するというのが常套だが、それはマスマーケティングの発想であって、大正末の限られた町内の、そのまた限られた商業地では、まったく逆の現象が起きていたことがわかる。今日的な表現でいえば、同業店の競合で“物価高スパイラル”に陥っていたわけだ。
 では、高田町への菓子店集中の理由を、彼女たちはどのように分析していたのだろうか。ひとつは、関東大震災Click!のために東京市街地から移入してくる人々が急増し、そこで新たな生活基盤を築かなければならなかったことを挙げている。ふたつめとして、新たな商売をはじめるとなると、菓子屋が資本も少なくもっとも手軽に開店できる店舗だったため、自然に“供給過多”の現象が起きているのではないかと推測している。
 彼女たちの分析はここまでだが、それに加え高田町は東京の市街地に隣接した“近郊”であり、大震災後の人口急増を見こんだ小売商たちが、復興が遅れている地域から大挙して高田町へと移転してきたのではないかとも推測できる。この傾向は、被害が少なかった東京市の外周域や近郊ではよく見られる現象であり、復興が遅れている(城)下町Click!から料亭や置屋などが次々と移転して、神楽坂という花柳界を新たに形成したように、近い将来は人口が急増し、交通機関も整備されることを見こした移転ではなかっただろうか。
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武蔵野鉄道.JPG
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 自由学園高等科の女学生たちは、実際に町内の菓子屋全店を訪問しているが、その詳しいインタビューの中で、とある菓子屋が面白いことを指摘している。高等科3年だった奥村數子と、菓子屋の主人との会話を少し引用してみよう。
  
 『お客様と云ふものは案外人のよいもので、一つのものを買つてその値段が他より少し高い時、手前共のはアンコがいいとか又品が違ふとか云ふと、ほんとうにして買つて行きますよ。ですからね、各小売商で同じ物でも他店とはちよつと器用に形を代(ママ:変)へたりして、値段はいろいろにつけられます。そこへ行くとビスケツト類なんか、一番つまりません。製造元が二つ位しかありませんから、品がいゝとも云へないし、どこの菓子屋にもあるものですからな、キヤラメル類でもさうです。かうしたものはまあ利益は五分位と云ふ所ですな。併し自分の家独特と思つてゐても、お菓子屋同志(ママ:同士)互ひに探偵を使つて方々の家を探りあふのですから、直ぐまねされます。それで利益を少くして安く売ると云ふ段になるのですが、お客といふものは、また変なものでして、他に少し位安い所があつても、買ひつけた店を好むものですよ。安くするだけ結局損をする形になるから、ついどこでも同じ様になつて行くのです。』
 『本当に物価が高い高いと云ひながら、それに甘んじて居るのですね。』(中略)
 『お菓子屋さんはこの辺に随分ありますね。』
 『ほんとうにね、特にお菓子屋なんか多すぎますね、それと云ふのも優しくて素人にも出来るからですな――。』(カッコ内引用者註)
  
 「自分はいい買い物をした」と思いこみたがる消費者の心理を読んだ、まるで営業マンのクロージングを思わせる商売上手な主人の話だが、うちは他店よりも高いものを買っているという、どこか乃手Click!の見栄や格好づけをしたがる性質を、うまく商売に利用しているともいえそうだ。特に下町から移転した商店では、乃手の性質や傾向を見こして商品に「付加価値」らしきことを盛りこみながら、営業していたのではないだろうか。
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 さて、高田町の西側あるいは南側に隣接する同時代の落合町では、リテールの現場はどのような様子をしていたのだろう。大正末の詳細な調査記録が残っていないので、正確なことはいえないのだが、高田町と大差ない状況ではなかったかと思うのだ。

◆写真上:女学生たちも歩いただろう、F.L.ライト設計による自由学園の回廊部。
◆写真中上は、昭和初期の西池袋界隈。は、1931年(昭和6)に撮影された目白通り沿いの米屋。は、自由学園の独特なデザインの採光窓。
◆写真中下は、高田町の中心的な駅である山手線・目白駅。は、高田町の北部を通る武蔵野鉄道(現・西武池袋線)。自由学園は、同線のひとつめの停車駅だった上屋敷駅が直近だった。は、高田町の西側を走る王子電気軌道=王子電車(現・都電荒川線)。1925年(大正14)当時は鬼子母神電停が終点で、南側に車庫があった。
◆写真下は、自由学園高等科によるリサーチの翌年にあたる、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」にみる高田町の施設や商店。は、昭和初期に撮影された東環乗合自動車Click!バスガールClick!たちが写る目白駅前の商店街。(小川薫アルバムClick!より) は、1970年前後の撮影とみられる目白駅前の様子。

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大正期の「目白」情報が満載の『我が住む町』。 [気になるエトセトラ]

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 ちょっとこれまで類例がない、面白い資料を古書店で見つけた。1925年(大正14)に卒業を目前にした自由学園高等科の女学生たちが中心になってまとめ、自由学園Click!羽仁もと子Click!が同年5月に出版した『我が住む町』という詳細なレポートだ。ここでいう「町」とは東京府北豊島郡高田町で、現在の目白、雑司が谷、高田、西池袋、そして南池袋の地域一帯のことだ。
 当時の住所表記では、高田町雑司ヶ谷1151~1154番地(のち雑司が谷町6丁目→現・西池袋2丁目)に開校していた自由学園の高等科女学生たちは、自分が住んでいる高田町、あるいは通学する学校のある高田町がどのような町勢なのかを知るために、多種多様なリサーチを試みている。彼女たちの取り組みに対する主旨や考え方を、同書の「私共の卒業制作について」から少し長いが引用してみよう。
  
 一人一人の独立的な生活の外に、私共は団体を通して自己を生かすことを学ばなくてはならない。この二つの生活が一つになつて、はじめて本当の自由と独立がかち得られるといふのが、私共の日頃の勉強の最も重要な部分の一つになつてゐるものですから、卒業に際しても、各個人的にめいめいの収穫について考へたり、発表したりする外に、組全体の力を以て何か一つの創作を試みることは、前からの例にもなつて居ります。(中略) これから私共が社会事業をするにしても、何の仕事をするにしても、先づめいめいの住んでゐる町村の状態を明かに知ることから始めなければならないし、近き将来に於て必ず与へられなくてはならない女子の参政権も、私たちが各々住む町村の事情に通じ、その幸福と改善を希ふ心の深くあることによつて、はじめて十分に行使されることが出来るものだと思ひましたから、この学園の所在地である高田町、そしてはじめての私共には、丁度面積も手頃な高田町を知るための仕事をすることがよいことだと思ひ、それがまた少しでも高田町の進歩のために益する所があつたなら幸ひだと、段々皆が熱心になつて来ました。さうしてその結果いよいよクラスが一団となつてその事に当らうと決心しました。
  
 さすが、女子の主体性を重んじる自由学園ならではの“宣言文”だ。最初は、卒業する「クラスが一団」となって行う調査のはずだったが、プロジェクトが大規模化するにつれ自由学園の全校生徒が、このリサーチに参画するようになっていく。上記の主旨をまとめたのは、1925年(大正14)3月に卒業する高等科第3回卒業生の女学生たちで、プロジェクトの中心となったのは22名のメンバーだった。
 1925年(大正14)の時点で、高田町の戸数は7,322戸、世帯数は7,870世帯、人口は35,653人とされていたが、なんと彼女たちはそれらの全戸調査を試みているのだ。一般の住宅(華族の屋敷から貧乏長屋まで)はもちろん、目白通りや雑司ヶ谷鬼子母神の表参道に開店していた商店、工場地帯、乳牛を飼う牧場、学校など、およそ人が住むすべての場所を調査している。
 しかし、7,870戸といわれた世帯のうち、調査票を手にした女学生たちの顔を見たとたん、「帰(けえ)れ、帰れ! ここは、お前らのくるとこじゃねえや!」と追い返された家や、何度訪れても不在の住宅が246戸もあったため、実際に調査ができた家は差し引き7,076戸だった。この調査で、7,870世帯といわれていた世帯数が、調査の範囲内だけで実際には8,144世帯だったのがわかり、人口も35,653人と行政にカウントされていたものが、36,760人に増加していることが判明した。関東大震災Click!から1年半しかたっておらず、高田町の人口が急増するまっただ中で、彼女たちはリサーチを実施している。1世帯あたりの住民は、同時点で約4.5人ということになる。
 また、当時の町内にあった工場を95ヶ所、学校を11校、いずれかの工場ないしは学校の寄宿舎15ヶ所もすべて調べており、その敷地内に建つ人が住める施設も含めると、300戸弱の空き家があったと報告されている。
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 これらのリサーチについては、自由学園に専門分野の教授がいなかったため、彼女たちは早稲田大学の教授だった安部磯雄Click!を訪ね、社会調査の方法論について詳しく学んでいる。安部磯雄は、同じ高田町四ッ谷(四ッ家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいたので、同じ町内ということで訪問しやすかったのだろう。安部磯雄は彼女たちの来訪について、同書の「序」の中で次のように書きとめている。
  
 今度自由学園を卒業する人々が卒業記念として其所在地たる高田町のために何かを遺して置きたいといふことから、此一区域内に於ける貧乏状態、衛生状態等に関する調査を行ふことになつた。貧乏状態の調査は主として本年卒業すべき人々により行はれたのであるが、衛生状態の方は生徒全部の協力によりて行はれた。調査者が若い婦人であつゝたためでもあらうが、町民が余り厭な顔もしないで其質問に答へて呉れたのは有り難かつた。(中略) さて戸別訪問をやつて材料を得ることになると、中々容易なことではない。自由学園の学生であればこそ此難事業も予期以上の成績を見ることが出来たのであるが、これを他の方法によりて遂行することは殆んど不可能のことではなかつたかと思ふ。これによりても自由学園の教育に一大特色のあること窺ひ知る事が出来る。
  
 安部磯雄のいう「貧乏状態」の調査とは、ロンドンに住んでいた実業家のチャールズ・ブースという人物が、1891年(明治24)に行った社会科学的な調査手法のことを指している。ブースは、ロンドンで生活するのに必要な最低の費用を算出し、この水準に「貧乏の水平線」と名づけた。食費の指標はエンゲル係数だが、食費も含めた生活費すべての最低ラインを「貧乏の水平線」と呼んだわけだ。
 のちに通称「貧乏線」と呼ばれるようになる同指標だが、ロンドン市では人口の約30%強が貧困状態に置かれていたことが判明している。また、同時期にラウントリーという人物がヨーク市で実施した同じ調査では、「貧乏線」以下で生活している人々が全人口の27.8%に及ぶことが明らかになっている。
 1925年(大正14)の高田町の場合、この「貧乏線」を想定するにあたり、1軒の家にひとりで住むときに必要な最低費用を25円/月としている。また、生活にかかる費用を70歳以上と8歳未満に限り半人分と計算し、家内に人数が増えるのに応じ逆進計算を用いて、家に1.5人が住めば最低費用は30円/月、2人の場合は35円/月、2.5人のときは40円/月、3人は45円/月……というような指標を設定した。
 また、安部磯雄は「貧乏状態」と「衛生状態」の調査と書いているが、彼女たちの調査はそれだけにとどまらなかった。高田町の商業現場を訪ね歩き、多種多様な商店や売店における仕入れの流通経路や原価率と利益率、季節ごとの売上高、季節ごとの売れ筋商品、おもな顧客層などを詳細にインタビューしてレポーティングする、今日のリテールリサーチのようなことも実施していたのだ。
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 自由学園の女学生たちは、同校の「自由と独立」の理念を胸に勇気をふりしぼって、どのような住宅や商店、町工場でも臆さずに訪問している。高田町に大屋敷をかまえる華族から、誰が住んでいるか得体の知れない貧乏長屋まで突撃取材を行い、ときには叩きだされ、ときにはお茶やお菓子、昼食をご馳走になりながら、調査を全町内へと拡大していった。ここでいう「大屋敷」とは、高田町雑司ヶ谷旭出41番地(のち42番地/現・目白3丁目)の戸田康保邸Click!(現・徳川邸Click!)だったとみられるが、執事や書生など誰かの手で早々に追い払われているようだ。
 『我が住む町』の「高田町の概観」から、再び引用してみよう。
  
 (高田町の)住民を、私たちの調査した職業から見てみると、表にもある通り総数七二八九(七千七十六戸の他、副業として小売店を出してゐるものと、工場をふくむ)の中、大小の店を出しているものは二七九〇。所謂しもたや四四〇四で、その中勤人―大臣もあれば小学校の小使いさんもあり、官公吏、教師、会社員などさうした勤人は二一一四、其他として芸術家、地主、家主、及び職人、職工、人夫等の労働者を一纏にしたのが一五九一、その上九五の工場がある。即ち高田町の住民は勤人、其他、小売商と三分することが出来る。さうしてその大多数は中流階級に属する。勤人の中にも教師をしてゐる人が多かつたのをみても、知識階級の人が多く住んでゐることが分つた。/又学生世帯が一〇六あつたり、無職が五七一あつたりしたのは、附近に学校の多いこと、恩給生活又は多少の資産によつて生活してゐるものが可なりあるといふことを語つてゐる。(カッコ内引用者註)
  
 卒業を控えた女学生をはじめ、まだ幼い面影が残る生徒たちが訪ねた住宅や商店、工場などのインタビューの様子が、同書の後半で詳しくレポートされているが、当時の高田町界隈(現在の目白地域)の様子が活きいきと、手にとるようにわかって非常に興味深い。どうせなら、南隣りに位置する落合町の全戸調査もやってほしかったのだが、自由学園の卒業生によるこのような制作やプロジェクトは、毎年行われていたようなので、ほかにどのような卒業生による成果物があったのか興味津々だ。
 商店や工場などへのインタビューで、おかしかったことや怖い目にあったエピソードなど、彼女たちは歯に衣を着せず自主規制もせずに学園名のとおり、ありのまま自由に書いているので、『我が住む町』は行政資料以上に貴重な高田町を知る第一級資料でありルポルタージュとなっている。機会があれば、「貧乏線」や「衛生調査」ともども、それらの訪問記をぜひシリーズ化して書いてみたい。
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 ちなみに、普通選挙法が施行された1925年(大正14)の同書には、「近き将来に於て必ず与へられなくてはならない女子の参政権」と書いてあるが、彼女たちが初めて選挙で投票できたのは、それから21年後、1946年(昭和21年)4月の敗戦後のことだった。

◆写真上F.L.ライトClick!が1921年(大正10)に設計した、自由学園(明日館)の現状。
◆写真中上は、1925年(大正14)5月に出版された第3回卒業生の制作プロジェクトによる『我が住む町』の表紙()と奥付()。は、開校から間もない時期の自由学園キャンパス。は、高田町を6つのブロックに分けて調査したエリア図。
◆写真中下は、自由学園の実習「壁画制作」。は、1927年(昭和2)に遠藤新Click!が設計した自由学園講堂。は、カラーで表現されている高田町民の職業別表。
◆写真下は、芝庭(旧・校庭)から眺めた自由学園明日館の現状。は、女中に依存しない自由学園の実習「洗濯」。は、校舎内でのランチの様子。

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大正初期の近衛邸の丘をとらえた写真。 [気になる下落合]

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 神田川の北側、高田村(大字)高田(字)稲荷938番地(1920年の高田町以降は高田八反目778番地)に、薗部染工場が創立されたのは1913年(大正2)のことだった。薗部辰之助が創立した同工場は、現在の宝印刷の本社がある南側、十三間通り(新目白通り)にかかるあたりに敷地があり、下落合の町境からわずか180mほどしか離れていない。
 設立当初は、周囲を水田や畑地に囲まれており、田園風景の中に高い煙突のある染工場がポツンと出現したような風情だった。工場の建物のまわりには障害物がなく、山手線の線路土手がよく見わたせた。薗部染工場について、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)から引用してみよう。
  
 薗部工場
 工場主は薗部辰之助氏なり、高田村大字高田九百三十八番地にあり、大正二年七月まで東京市に営業経営せるを同年同月此の地に転場せるものなり、絹絲、人造絹絲、綿絲メリヤス類、其他各種の染色業とす。販路は輸出向染色、或は陸軍御用の染色機絲縫絲の染色加工となす。規模頗る大なるものにして、一ヶ年の染色量数は、約三萬貫以上に及び、敷地総坪千坪、建坪四百餘坪を有す。日々隆昌繁栄の域に進みつゝあり。(電話 番町四六九一番)
  
 高田村の稲荷938番地(現・高田3丁目)へ移転する以前、同工場は下谷区南稲荷町(現・台東区東上野)で操業をしていた。『高田村誌』の巻末には、同村で営業する工場や店舗、牧場、医院、薬局などの広告がまとめて掲載されているが、薗部染工場は残念ながら広告を出稿していない。
 その後、同工場は順調に業績をのばし、1917年(大正6)には敷地の東側にオフィスというか事務所の建屋を、西側には大きな蔵を建設している。社長の薗部辰之助は、高田村が町制の施行とともに高田町に変わった翌年、1921年(大正10)に町議会議員に立候補して当選し、弦巻川(金川)Click!の改修工事や高田町の道路工事、下水道工事、旧・神田上水(1966年より神田川)の改修工事などを手がけている。以下、1994年(平成6)に豊島区立郷土資料館から刊行された図録『町工場の履歴書』から、薗部工場と薗部辰之助について引用してみよう。
  
 (前略) 高田町職業紹介所初代所長・高田町青年団副団長・高田町教育会評議員・東京工場協会目白支部長などを歴任、さらに学習院下の交番を寄付するなど、大正末から昭和初期の高田町政を担ってきました。「父は豊島区のことになるとしゃかりきになってやった」と三男の孝三氏はいいます。/戦時中工場は軍服の糸染めを行い、毛糸会社は企業整備で東北振興公社に合併、戦後は大正製薬に工場を売却し、新円封鎖で財産の大半を失い、辰之助の事業は終止符を打ちます。/辰之助は、工場地帯の煤煙で持病の喘息が悪化しても高田の地を動かず、戦後も豊島区から決して離れようとはしませんでした。
  
 文中には、薗部辰之助が学習院下の交番を寄付したことが記されているが、1925年(大正14)に源水橋が旧・神田上水(神田川)に架けられたのも、彼の尽力によるもののようだ。もちろん、1930年代後半に行われた神田川の整流化工事で、現在の源水橋はもとの位置から90mほど北へと移動している。
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 戦後、大正製薬に敷地を売却したと書かれているが、3畳ひと間の小さな下宿だった「みち子」の部屋から、喜多條忠Click!が眺めていた同社の煙突下の敷地が、薗部染工場が建っていた敷地の一部だったことになる。
 さて、神田川を流れに沿ってたどるように、染色業の工房や工場について調べていたとき(佐伯祐三Click!が描いた『踏切』Click!の、中原工場Click!もその一環だった)、山手線をはさみ下落合のすぐ東隣りで操業していた薗部染工場に出合ったわけだが、その創業間もない写真を見つけて面白いことに気がついた。
 この写真は、いまだ工場長宅の西側に蔵が建設されておらず、また工場の東側に事務所の建物も存在しないので、1917年(大正6)よりも前に撮影されたものだと規定できる。工場の建屋と煙突、それに染糸製品の干し場が手前にとらえられており、敷地の左奥には薗部辰之助の自邸2階家が付属している。
 工場の手前には田圃が一面に広がり、その稲穂がつづく中に大胆な柄のワンピースを着て、帽子をかぶった洋装のモダンな女性がひとりとらえられている。薗部辰之助の妻だろうか、大正初期にこのようなハイカラなワンピース姿で高田村を歩いたりしたら、周辺の農民たちは度肝を抜かれただろう。
 1922年(大正11)から販売がスタートした目白文化村Click!でさえ、洋装の女性が下落合を歩くと注目されていた時代だ。上落合に住んだ村山籌子Click!は、1923年(大正12)でさえ洋装で買い物に出かけると、近所の子どもたちがものめずらし気にゾロゾロついてきたと証言するような状況だった。東京の市街地ならともかく、郊外の農村地帯ではほとんど着物の生活がそのままつづいていた。
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 しかし、わたしが大正初期の園部染工場をとらえた写真に惹かれたのは、田圃に写るモダンな女性の姿ではない。その女性の右上に写る、山手線と線路土手の向こう側の風景だ。線路上には、2両編成とみられる山手線の電車が走っているのが偶然とらえられているが、その向こう側には学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラClick!)が建つはるか以前の、いや近衛町Click!が開発される以前の、当時は近衛篤麿Click!が死去し近衛文麿Click!の邸敷地だった、下落合の丘の一部が写っている点に惹かれたのだ。
 その丘の中腹には、1軒の住宅がとらえられているが、これが大正の半ばに発行された陸軍参謀本部の1/10,000地形図Click!にも採取されている、下落合406番地に建っていたポツンと1軒家(住民名不詳/近衛家が敷地内の斜面に建てた豪華な四阿か?)に、ほぼまちがいないだろう。大正初期に、近衛邸のあった下落合の丘がとらえられた写真は非常にめずらしい。そして惜しいことに、山手線が走る線路土手のすぐ右手枠外には、雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)がくぐるレンガ造りのままのガードClick!が、ハッキリと見えていたはずだ。画角があと5度ほど右にふれていれば、大正初期の山手線・下落合ガードClick!の姿が判明していたはずなのだ。
 薗部染工場は、昭和期に入るとかなり増改築をしたものか、1936年(昭和11)の空中写真では、まだ創業時の建物配置の面影をとどめているが、戦時中に撮られた1944~45年(昭和19~20)の空中写真を見ると、敷地内の建屋の配置が一変している。そして、1945年(昭和20)4月13日と5月25日の二度にわたった山手大空襲Click!でも、かろうじて延焼をまぬがれている。特に4月13日の第1次山手空襲では、道路をはさんだ東隣りの工場が焼夷弾の直撃を受けたものか全焼しており、薗部染工場では延焼防止に必死だったのではないだろうか。
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 神田川沿いの町工場を調べていると、学生時代の記憶と重なり思わぬ収穫があるのが面白い。1994年(平成6)出版の『町工場の履歴書』(豊島区立教育委員会)は、資料としては非常に秀逸な内容となっている。また神田川沿いの面白いテーマを見つけたら、あるいは学生時代に見かけた戸塚や高田、下落合の情景を思いだしたら、ぜひ書いてみたい。

◆写真上:右手の建物から十三間通り(新目白通り)にかかる、薗部染工場跡の現状。
◆写真中上は、創業の1913年(大正2)から1916年(大正5)の間に撮影された薗部染工場。手前にモダンな洋装の女性が写り、遠景には山手線とともに下落合の近衛邸のある丘がとらえられている。は、1917年(大正6)に工場の拡張工事が竣工した直後の記念写真。は、1917年(大正6)の1/10,000地形図にみる同工場。
◆写真中下は、大正初期に撮影された薗部染工場の部分拡大。2両編成で走る山手線と、下落合の斜面に建つポツンと1軒家。は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる同工場。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同工場。
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる薗部染工場。道路をはさみ東隣りの工場は焼けたが、同工場は延焼をまぬがれている。は、1925年(大正15)に撮影された源水橋(旧流)の竣工式。は、現在の源水橋で旧橋から90mほど北に位置している。

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原日本が香る江古田のシシ舞い。 [気になるエトセトラ]

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 以前、正月になると東京をはじめ関東各地で見られた、各戸まわりの獅子舞いClick!について書いたことがある。「シシ」というと、原日本の文化が色濃く残る東日本では、シシ=シカ、アオジシ=ニホンカモシカを意味する用語として、近世までつかわれていた言葉だ。大江戸(おえど)の街中の随所で開店していた肉料理屋=ももんじ屋Click!では、イノシシに限らずシシ(シカ)やアオジシ(ニホンカモシカ)の料理を出していた。
 シシ舞いは、山ノ神などから遣わされたシシ(シカ)神=「まれびと」「まろうど」(折口信夫)の性格が強い。江戸期になると、シシ舞いあるいはシシ踊りの「シシ」に、中国や朝鮮半島から“輸入”された「獅子(ライオンをイメージしたとみられる架空の動物)」が習合し、シシ(シカ)舞いやシシ(シカ)踊りが、獅子舞いあるいは獅子踊りへと変節していく。江戸の街中では、獅子舞いといえばもはや輸入された大陸の獅子の面をかぶっていたが、日本ならではの基層文化が色濃く残る東北では、シシ(シカ)舞いやシシ(シカ)踊りが現代までよく伝わり、無形民俗文化財として継承されている。
 中部地方の静岡や四国地方の愛媛などで、例外的に伝わっているシシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りは、鎌倉期や室町期、江戸期に各幕府の命で、関東や東北地方から移封された御家人や大名が伝えたものだ。南関東では、江戸期から正月の獅子舞いは盛んだったが、日本古来のシシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りの系譜は、北関東の一部を除いて、もはやほとんど見られないものと思っていた。
 ところが、落合地域の西隣りにある江古田(えごた/中野区)地域の江古田氷川明神Click!を取材しているとき、同社に合祀されている御嶽社(山ノ神)の奉納舞いとして、シシ舞いが演じられていることを知った。現代では、原型が明らかにシシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りとみられる舞踊も、中国や朝鮮半島の文化が習合した江戸期からだろうか、「獅子舞い」あるいは「獅子踊り」と表現されるようになっている。この表記は、東北地方でもまま見られる現象だ。
 江古田の御嶽社で奉納されるシシ舞いは、「江古田獅子舞い」と呼ばれ中野区の無形民俗文化財に指定されている。毎年、秋に行われる江古田氷川社の例祭に合わせ、獅子舞いは行列をつくって街中を練り歩くようだ。獅子の構成は、大獅子と女獅子、中獅子の3名で、その周囲には花笠の踊り手も付随している。音曲を担当する9名の笛吹きに、獅子は腹にくくりつけた太鼓を打ち鳴らすといういでたちで、東北地方のシシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りとまったく同様の姿だ。
 東北地方に見られるシシ舞いやシシ踊りと異なる点は、江古田の獅子頭(ししがしら)は頭上にシカの角が生えていないことだろう。また、東北地方のシシ舞いやシシ踊りが、おしなべて勇壮で動きも荒々しく、音曲もテンポがかなり速いのに対し、江古田獅子舞いのほうは舞踊も穏やかで、音曲はいかにも村祭りのお囃子を想起させる音色だ。このあたり、江古田氷川社にもともと伝わっていた村祭り囃子と、いつの時代からか習合してしまったものだろうか。あるいは、荒々しいはずのシシ舞いが、江戸期あたりから家内安全や厄病退散を願う、農村の穏やかな奉納舞いへと変化していったのかもしれない。
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 江古田獅子舞いの起源は、平安末期あるいは鎌倉期の寺社創建までさかのぼるとされている。同獅子舞いについて、1984年(昭和59)に中野区教育委員会が出版した『なかのものがたり』から引用してみよう。
  
 江古田の獅子舞の起源は、そのむかし江古田村の東に御嶽神社という堀河天皇の時代(八百八十年ほど前、平安時代後期)に創建されたといわれる村の鎮守がありましたが、この御嶽神社と東福寺(創建は建久年間といわれます)とによって鎌倉時代に始められたと伝えられています。(一説には、江古田村丸山にあった修験寺大蔵院の関根法印という人が創始したともいわれます) したがって、大正二年(一九一三)に御嶽神社が氷川神社に合祀されるまでは、御嶽神社に獅子舞の奉納が行われていました。/この獅子舞は、悪魔を退治し、災難をなくし、村人の幸福をまもるものとして、村人に疫病が流行したときなどは村内の各家々をまわって、病魔を退散させるための舞いをしたそうです。そのため別名「祈祷獅子」ともいわれました。
  
 「神社(じんじゃ)」Click!という呼称は、明治期から薩長政府が各地の社(やしろ)を勝手に改変し、日本の神々に貴賤のヒエラルキーClick!を形成する政治的(かつバチ当たり)な利用政策(「国家神道」化Click!)の一環として名づけた呼称なので、それ以前の時代に起きた事蹟を語る場合には、「御嶽社」と表現するのが適切だろう。
 獅子舞いは、700年前よりはじまったとされているが、わたしは東北地方のシシ舞いあるいはシシ踊りがそうであるように、もっと以前から地域で行われていた「まれびと」舞い(踊り)が、寺社の創建とともにその信仰や宗教の中へ取りこまれた(囲いこまれた)のではないかと想像している。つまり、シシ神=「まれびと」ないしは「まろうど」への信仰や祭事は、もっと以前から行なわれており、日本ならではの自然神とも結びついた古代からの舞踊のひとつではないだろうか。このあたり、宮崎駿が描く『もののけ姫』の世界=原日本のアニミズムに直結する光景だ。
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 上記の文章では、江古田村(江古田地域の集落)が平安後期から存在したように書かれているが、地域周辺の遺跡を見まわしてみれば、それ以前の旧石器から縄文(新石器)、弥生、古墳、ナラの各時代にわたる遺構が発掘されているので、さらに以前から人々の集落が存在していたのは明らかだろう。そのいずれかの時代に、アニミズムに由来するとみられるシシ(シカ)神の舞踊が生まれたとしても不思議ではない。
 同書に収録された、「七百年の伝統をもつ江古田の獅子舞」から再び引用しよう。
  
 正保年間(一六四四~四八)に、徳川三代将軍家光が江古田方面に鷹狩りにきたとき、東福寺の境内で、この獅子舞をご覧になり、それ以後、「御用」とかかれた札をかかげることが許されました。/雑司ヶ谷の鬼子母神境内などで尾張侯、清水侯、紀州侯などにご覧に入れたときは、獅子舞の道具一式を櫃(ひつ)に入れ「御用」という木札をたててはこんだそうです。/獅子舞の根幹は、シカ踊りといわれていますが、田楽法師によってその形がととのった田楽舞の一つです。江古田の獅子舞は、その服装や演出がむかしの伝統、格式を少しも崩さず現在までつづけられており、これは都内でも非常に珍しいものの一つといえます。
  
 当時から、江戸とその周辺でも稀有なシシ(獅子)舞いで、江古田地域に限らず江戸の街でも評判になっていた様子がうかがえる。
 著者は、「むかしの伝統、格式を少しも崩さず」と書いているが、どこかで頭上に生えていた角がなくなり、シシ(シカ)の顔面が中国や朝鮮半島からもたらされた獅子の顔面へと、宗教的な背景も含め近似させられているのはまちがいないだろう。
 「都内でも非常に珍しい」としているが、明らかにシシ(シカ)舞い、あるいはシシ(シカ)踊りを原型とするような舞踊が、東京にも残っていることを、しかも落合地域のすぐ西隣りで伝えられてきたことを知り、わたしもビックリしているしだいだ。原日本の世界へといざなう、シシ(シカ)舞いあるいはシシ(シカ)踊りに直結するような同様の舞踊が、南関東の別の場所で伝承されていないかどうか、とても興味のあるテーマなのだ。
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 このところ、新型コロナウィルスで世の中が騒がしいが、このようなときこそ「村人に疫病が流行したときなどは村内の各家々をまわって、病魔を退散させる」、江古田獅子舞いの活躍どきではなかろうか。秋の例祭からは外れるが、江古田氷川社の境内で昔ながらの厄病退散の臨時獅子舞いが催されたら、わたしもぜひ見物に出かけてみたいと思う。

この記事を書いてから、落合地域の北隣りにある長崎神社(江戸期は長崎氷川明神)でも、原日本が香る同様のシシ舞いが行われていることに気がついた。シシの顔つきは、やはり江戸期以降の“中国顔”(獅子)で角もないが、南関東でも原日本をルーツとするシシ舞いが、丹念に探せばけっこう残っているのではないだろうか。

◆写真上:秋に江古田氷川社の境内で、御嶽社に奉納される江古田獅子舞い。
◆写真中上は、街中へも繰りだす江古田獅子舞い。(『なかのものがたり』より) は、江古田氷川明神社の境内。は、山形県米沢に伝わるシシ(シカ)踊り。
◆写真中下は、岩手県花巻のシシ(シカ)踊りを描いた壁画と実物で、頭上にシカの角が見られる。は、岩手県釜石のシシ(シカ)踊り。
◆写真下は、岩手県盛岡のシシ(シカ)踊り。は、山形県庄内のシシ(シカ)踊り。は、いまでは高いビルに囲まれてしまった江古田氷川明神社の参道と鳥居。
おまけ
 1940年代(戦後)に撮影された、長崎神社(長崎氷川明神)の獅子舞い。江古田の氷川社(御嶽社)獅子舞いと近似しているのがよくわかる。
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