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上戸塚の斜面が好きな横井礼以。 [気になるエトセトラ]

横井礼似「高田馬場郊外風景」1921.jpg
 下落合の南隣り、戸塚町上戸塚 (現・高田馬場4丁目)にアトリエをかまえた横井礼以Click!の作品に、1921年(大正10)に制作された『高田馬場郊外風景』という作品がある。同年に開催された、第8回二科展に出品された作品だ。
 横井礼以アトリエは、戸塚町上戸塚781番地にあり、下落合の東部から歩いても早稲田通りを越えて南へ1.5kmほど、また山手線・高田馬場駅に出るには800mほど歩くだけなので、今日の感覚からいえば商店街も近く交通が至便なのだが、大正中期にはいまだ農村の面影を色濃く残す郊外風景そのままだった。横井アトリエは、点在する雑木林や草原、空き地が拡がる中にポツンと建っているような風情だったろう。
 横井礼以は、いまだ横井礼市の本名で1919年(大正8)の第6回二科展へ『つゆ晴れの風景』を出品して第6回二科賞を受賞し、1923年(大正12)には早くも二科会の会員となっている。『高田馬場郊外風景』(1921年)は、文展から離れ二科展で活躍しはじめたころの作品で、アトリエ周辺の連作「高田馬場風景」シリーズのうちの1作だ。
 横井礼以が作品につける「高田馬場」は、本来の幕府練兵場だった高田馬場(たかたのばば)Click!のことではなく、山手線の停車場である高田馬場(たかだのばば)駅Click!のことだ。したがって、横井アトリエは高田馬場駅の西側すなわち上戸塚にあったので、彼の「高田馬場風景」は正確には上戸塚風景ということになる。そして、横井礼以の画面に特徴的なのは、上戸塚のバッケ(崖地)Click!を好んで描いている点だろう。
 『高田馬場郊外風景』も、以前ご紹介した『風景』(1916年)や『高田馬場風景』(1920年)と同様に、斜面沿いに点在している茅葺き農家や住宅を描いている。陽光の射し方や家屋主棟の向きから、画家の視点の背後が南側ないしは南東側だろう。家が2棟描かれており、手前の住宅(瓦屋根のようだが農家だろうか)へと下るカーブをした小道の端には、スイセンだろうか白い花が一面に咲いている。また、奥に見える地付きの農家らしい茅葺き家の庭には、アカマツらしい樹木が2本生えている。
 陽光や周囲の風情からみると、街道筋(現・早稲田通り)あたりから谷底を旧・神田上水(1966年より神田川)が流れる、北側ないしは北西側の急斜面を見下ろしながら描いている公算が高い。横井礼以の風景作品は、目印になるような家屋や特徴的な構造物の描かれていることが少ないので、描画場所を特定するのはむずかしいが、この作品の場合には古い茅葺きの農家が大きなヒントになる。
横井礼以アトリエ1921.jpg
横井礼似アトリエ跡.jpg
横井礼以「風景」1916.jpg
 すなわち、このような地形の場所に明治期から建つ家屋で、斜面の向きが北ないしは北西に向いて下っている、換言すれば谷底の旧・神田上水に向かって傾斜している場所を重点的に探せばいいことになる。さっそく、明治期に発行された陸地測量部Click!による1/10,000地形図Click!を参照し、このような傾斜地に建つ農家らしい建物で、しかも1921年(大正10)発行の同じく1/10,000地形図にも消えずに(解体されずに)掲載されており、周囲の宅地化がそれほど進捗していないエリアを集中的に調べてみた。
 すると、上高田375番地と同377番地の北向き斜面に、明治期からある農家のそれらしい配置を見つけることができる。現在でいえば、早稲田通り沿いから移転した腰折れ地蔵Click!のある東側の北向き斜面あたりだ。いまは住宅地がわずかな段差でひな壇状に並び、ゆるやかな下り坂になっているが、画家がイーゼルを立てている位置から茅葺き農家までは、地形図の等高線によればおよそ3m前後の落差があったはずだ。
 画家がイーゼルを立てている位置は、早稲田通りから1本北側へ入った道路の端、当時の住所でいえば上戸塚宮田375番地あたりの道端であり、手前の家は同じく375番地で奥の茅葺き農家は377番地だが、残念ながら両家とも住民名は不明だ。この北向きの緩斜面は、画家がいる位置から150mほど北へつづき、その先で急にバッケ(崖地)状になって旧・神田上水へと落ちこんでいる。
 画面の奥に描かれた、樹林が並ぶ下には旧・神田上水が流れ、その先の少し青みを帯びたグリーンで遠景ぎみに描かれているのは、対岸に連なる下落合の丘、すなわち目白崖線ではないかと思われる。位置的にいえば、麓に下落合本村Click!の古い家々が連なる久七坂Click!の丘か、西坂Click!が通う徳川邸Click!の丘あたりだろう。
地形図1921.jpg
上戸塚ダラダラ斜面.JPG
 この作品を制作した1921年(大正10)ごろ、横井礼以は具象表現から抽象表現へと向かう過渡的な時期にあたり、『高田馬場郊外風景』の画面にもフォーヴィズムの影響が色濃くでている。「大正アヴァンギャルド」と呼ばれた横井礼以について、2011年(平成23)に出版された中山真一『愛知洋画壇物語』(風媒社)から、少し長いが引用してみよう。
  
 愛知県・知多半島の中ほどに河和という海沿いの町がある。一九二七年(昭二)春、東京から長旅をへて夫人や子供とこの地に降りたった横井礼以は、胸中いかばかりであっただろう。いずれは東京にもどるつもりで、アトリエは人に貸してきた。(中略)/横井は、一八八六年(明一九)愛知県(現)弥富市に生まれ、一九一一年(明四四)東京美術学校を卒業。その後、文展に二年つづけて入選するものの、三年目にはマチスの影響が画面にあらわれるようになり、落選に。ならばと翌一七年(大六)二科展に初入選を果たす。そらに二年後には二科賞を受賞。二三年(大一二)には三七歳で同会員となり、大正アヴァンギャルド作家のひとりとして中央画壇でおおいに活躍している。フォーヴィズムやキュビズムに傾倒した制作の中でも、とくに一九二五年(大一四)の二科出品作《庭》は、大正期を代表する洋画の一点として後に『キュービズム展』(東京国立近代美術館、一九七六年)や、『一九二〇年代・日本展』(東京都美術館、一九八八年)など何度も展覧されることになった。/だが、好いことばかり続かない。夫人に軽い結核が見つかる。自身も眼病を患っていたので、転地療養しようということになった。
  
 愛知への帰郷は、横井夫妻の一時療養のはずだったが、横井礼以が上戸塚781番地のアトリエへもどることは二度となかった。
横井礼以「高田馬場風景」1920.jpg
上戸塚バッケ斜面.JPG
横井礼似卒制1911.jpg 中山真一「愛知洋画壇物語」2011.jpg
 横井礼以(当時は横井礼市)の『高田馬場郊外風景』は、第8回二科展で発行された絵はがきで発見したものだが、戦前は文展・帝展も二科展も展示作品の絵はがきを積極的に制作している。だが、絵はがきに添えられたキャプションの画家名をまちがえている例が多く、目的の作品をなかなか発見できないケースもたびたび経験している。今回は、本名の「横井礼市」と画名の「横井礼以」とで探すのに手間どったが、近いうちに各展覧会の画家名“誤植”で、なかなかデータベースにひっかからない事例をご紹介したい。

◆写真上:1921年(大正10)に制作された横井礼以『高田馬場郊外風景』。
◆写真中上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる上戸塚781番地の横井礼以アトリエ。は、横井アトリエ跡の現状。(左手の駐車場で前回訪問時は家があった) は、1916年(大正5)に上戸塚のアトリエ近辺を描いた『風景』。
◆写真中下は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる『高田馬場郊外風景』の想定描画ポイント。は、ダラダラ坂の緩傾斜がつづく周辺の現状。
◆写真下は、1920年(大正9)に制作された横井礼以『高田馬場風景』。は、上戸塚(現・高田馬場4丁目)の北側によく見られるバッケ(崖地)の坂道。下左は、1911年(明治44)に東京美術学校の卒制で描かれた横井礼以(横井礼市)『自画像』。下右は、2011年(平成23)に風媒社から出版された中山真一『愛知洋画壇物語』。

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戦後すぐに撮られた近衛町の丘。 [気になる下落合]

西武鉄道モハ311形(昭和20年代).jpg
 おそらく、1950年(昭和25)前後に撮影されたとみられる西武線Click!を走る車両(2両編成)と、下落合東端の丘に連なる近衛町Click!の家々をとらえた写真が残っている。写っている丘の一帯は、二度の山手空襲Click!と敗戦まぎわの戦闘爆撃機による散発的な空襲からも運よく焼け残り、戦後もほぼそのままの姿をしていた近衛町の南端、学習院昭和寮Click!とその周辺の住宅街だ。
 まず、手前に写っている西武線の下り電車は「モハ311形」Click!と呼ばれた車両で、西武鉄道では国電の戦災車両「モハ50形」をベースに、再利用して走らせていた車両だとみられる。1954年(昭和29)には、「モハ501形」と呼ばれる新車両(当時の湘南電車=東海道線に“顔”が似ている)が登場してくるので、周囲の状況を勘案すると、おそらく1950年(昭和25)前後に撮影されたものだろう。画面の右下に見えているのは、西武線の旧・神田上水(1966年より神田川)をわたる鉄橋Click!であり、電車がくぐって通過しようとしているのは西武線の山手線ガードClick!だ。
 敗戦後すぐの車両について、2015年(平成27)に開催された「川越鉄道全通120周年記念企画展」図録(東村山ふるさと歴史館)から、一部だが引用してみよう。
  
 新宿線の車両モハ311形式(国電モハ31/50形式)
 (前略)第二次世界大戦において西武鉄道は自社の車両に被害は受けなかった。しかし慢性的な車両不足であったため、国鉄の被災車両(モハ50形)の台車を購入して作られたのがモハ311形である。また、このほか被災車両を復旧し導入することも行った。
 モハ501形、サハ1501形
 昭和29年製のモハ501形、サハ1501形は昭和20年以降に初めて製作された新車であり、西武独自の形式として誕生した。とくにモハ501形は当時流行していた湘南スタイルで、蛍光灯証明、放送装置などがついた最新形であった。(カッコ内引用者註)
  
 山手線の線路土手ごしに見えている、白いビル状の建物が1928年(昭和3)に竣工した、2階建ての学習院昭和寮第一寮だ。第一寮Click!は目白崖線の斜面に建設されているため、地下の南面にも寮室があり、南側から見ると3階建てに見える。その右手には、近衛町の南端斜面にあたる44号Click!の住宅地に建設された家々がとらえられている。
モハ311形クハ1411形.jpg
下落合上空1933.jpg
近衛町19450517.jpg
近衛町1948.jpg
 中でも特徴的なのは、F.L.ライトClick!が設計した自由学園校舎Click!を2階建てにしたような、大きな西洋館の佐野邸Click!だ。佐野邸は、大久保作次郎Click!がモチーフに採用して、1955年(昭和30)に制作された『早春(目白駅)』Click!では、佐野邸を南斜面から丘上へ「移築」した構成で描かれている。画角のせまい、やや望遠ぎみに撮影された写真だが、佐野邸2階部の三角屋根の突出しているのがとらえられている。
 佐野邸のほかにも、大庭邸や武尾邸、岸邸、今井邸、玉置邸、長瀬邸(花王石鹸Click!長瀬邸Click!とは別宅)とみられる家々の屋根が確認できる。1933年(昭和8)に、学習院昭和寮を斜めフカンから低空撮影した写真と比べてみると、その後、新たに建設された家々を除き、ほとんど家並みの変わっていないのが見てとれる。また、画面の右端、電車の“顔”の右横に架線柱で隠れるように、大きな建物がひとつとらえられているが、この位置に建っていた建物は戦後に改めて建て直された、学習院の校舎ないしは施設のうちの1棟だろう。拡大すると、屋根や窓の形状から西洋風とみられる大きな建築が、戦後になって学習院のバッケ(崖地)Click!上に建設されている。
近衛町44号拡大1.jpg
近衛町44号拡大2.jpg
高田馬場駅1957.jpg
 さて、100~135mmぐらいの望遠レンズで撮影したとみられる、冒頭写真のカメラマンは、西武線が急カーブを描き山手線のガードをくぐって、山手線土手と西武線の高架にはさまれた狭隘なエリア、当時の住所でいうと早稲田通りも近い戸塚町2丁目32~38番地(現・高田馬場2丁目)から、ほぼ北北東を向いてシャッターを切っている。空襲で焼け野原になった同エリアは、戦後すぐのこの時期には商店建築や木造アパートなどが建ち並びはじめており、それらの建物の2階に設置された北向きの窓、ないしはベランダあたりから撮影したものではないだろうか。
 1950年(昭和25)ごろといえば、朝鮮戦争が勃発して日本は戦争特需にわき、ようやく敗戦時の悲惨な食糧不足による飢餓状態から脱しようとしていた時期だ。だが、全国的に感冒(インフルエンザだとみられる)が流行り判明しているだけで18万人が罹患し、三原山の噴火やジェーン台風により336人の死者がでるなど、ことさら自然災害が目立つ年でもあった。この年、西武線では西武鉄道が経営していたユネスコ村と多摩湖ホテルClick!とを結ぶ、単線の「西武おとぎ線」が開通している。
撮影ポイント1956.jpg
高田馬場神高橋1991.jpg
撮影ポイント現状.jpg
 1950年(昭和25)前後に鉄道ファンが撮影したらしい西武線と下落合の丘だが、大正初期に撮影された薗部染工場Click!の写真と比べると、丘全体が住宅で埋めつくされているのがわかる。古い鉄道写真を参照すると、車両そのもの以外に周辺の風景までが写っているケースの多いことに気づいた。鉄道ファンではないので、写真の隅にチラリと見えている当時の街並みのほうへ惹かれてしまうわたしだが、落合地域の界隈で周辺の風景まで含めてとらえられた鉄道写真を見つけたら、改めてこちらでご紹介したいと思う。

◆写真上:1950年(昭和25)ごろに撮影された、西武線の電車と下落合の丘。
◆写真中上は、西武鉄道が保存しているモハ311形とクハ1411形の車体カラーリング。中上は、1933年(昭和8)に撮影された近衛町の南端に位置する丘。中下は、第2次山手空襲直前の1945年(昭和20)5月17日にF13偵察機Click!から撮影された下落合界隈。は、戦後の1948年(昭和23)に撮影された焼け跡が拡がる近衛町。
◆写真中下は、冒頭の写真にとらえられた家並みの部分拡大と建物の特定。は、1957年(昭和32)の空中写真にみる撮影ポイントと画角。
◆写真下は、1956年(昭和31)の空中写真にみる撮影ポイントあたりで、商店やアパートと思われる建物が見える。は、1991年(平成3)に撮影された改修前の神田川に架かる斜めの神高橋Click!と西武新宿線。(新藤兼人『東京交差点』Click!より) 冒頭写真の撮影ポイントは、山手線土手と西武線高架にはさまれた画面の左枠外にある狭隘エリア。は、飲み屋街になっている狭隘エリアの現状で撮影ポイントにはもちろん立てない。
高田馬場仮駅1928.jpg

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高田町の商店レポート1925年。(4)八百屋 [気になるエトセトラ]

自由学園管理棟.JPG
 自由学園Click!高等科の2年生だった、山田久子が訪ねた八百屋(青果屋)も話し好きで面白い主人だった。最初は、お客とまちがえられモジモジしてしまった彼女だが、自由学園の調査だと告げると、主人は「そんなら八百屋といふ商売程もうからないものはないと書いて下さい」といって笑った。
 八百屋を開店するには、当時は最低でも500円ほどの資本が必要だったらしい。毎朝、市場へ買い出しにいくのは夏は6時ごろ、冬は7時ごろになり、帰りは昼前後になった。店を出るときは、いまだトラックではなく大八車Click!に籠や箱、布製の覆い(カバー)などを積んでいき、市場からの帰りは荷が多くて重くなるから、市場つきの人夫をやとって高田町まで運んでくる。特に、目白崖線を上る坂道には、「押し屋」Click!と呼ばれる人夫たちがいたので、荷が多いときは駄賃を払って人力や牛力を頼んでいただろう。
 八百屋の中には、夕方に市場へ買い出しにいく店もあったらしいが、できるだけ新鮮でいい品物を確保するためには、早朝に出かけないとダメだったらしい。特に、高田町の屋敷街のあるあたりでは悪い品物は受けとらないので、早朝に市場で仕入れたよい品を納入している。逆に、できるだけ品物の安いほうがよく売れる地域では、市場で値段が下がる夕方に出かけて仕入れてくるケースが多かったようだ。
 高田町に店開きをしていた八百屋は、そのほとんどが神田多町の市場か、地元の高田町市場から品物を仕入れている。主人の証言を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 多町の市場は云ふまでもなく、全国から品物が集るので、品物も多く品もよい代り、自然値段も高くはあるが、高田町の市場は、この近在の農家から集るので、品数は少い代はり、価はやすいといふことである。けれども大抵神田まで出なければ、得意先の要求を充たすことが出来ない。即ち一旦地方から市場へ集つてそれから八百屋へわたるので、八百屋では平均二割の利を品物にかけ、果物には、すたりが多く出るので三割から四割かけるといふことである。東京は品物が少なくて需要者が多いため、自然八百屋ものが全国で一番高いさうである。品物の一番よく出るのは春と秋で、八月は一番売れない時である。さういふ時にはこの八百屋で一日十円も売れゝばよい方で、平均の純益は二割位のものでせうといつた。この辺は現金払ひが七分で、通ひが三分 八百屋では現金払ひの方が商がしやすひさうである。
  
 いわゆる「御用聞き」Click!をしてまわる、屋敷街での売上げ(掛け売り)は30%ほどなので、この八百屋では多くが来店客による現金払いの売上げだったことがわかる。
八百屋.jpg
 また、当時は市場にも店舗にも冷蔵設備がないので果物(フルーツ)の傷みが早く、その損失ぶんを価格に上乗せしているため、フルーツは全般的に高価だった。別に大正時代に限らず、戦後も「フルーツは高い」状態がそのままつづき、市場や青果店に冷蔵庫が普及した1960年代あたりから、徐々に価格が下がっていったのではないだろうか。
 この店では、主人がこまめに屋敷街や新興住宅地をまわって、より多くの顧客獲得をめざしていたようだ。そのような販促活動をしている間、店のほうは妻が留守番をして仕切ることになるが、学校から帰ってきた子どもたちも商いの“戦力”で、自然に店を手伝うようになる。できるだけ小僧など使用人を雇わず、家族だけで切り盛りしないと、競合店が多い高田町では経営が苦しかったのだろう。
 再び、『我が住む町』の「小売商を訪ねて」から引用してみよう。
  
 さうして主人の留守の間は妻が店の方をやり、年高の子供も学校から帰れば、代る代る手伝ひをするといふ工合で、成るべく雇人を少くしやうとしてゐる。自然、上の学校に入れるよりも、小学校を終へると、親の商売を継ぐやうになる。話が前後したが、市場では矢張八百屋に取りつけの店があつて、通帳になつてゐるが、物によつては他の店も見て現金買をしなくてはならない。この頃一体の傾向は、八百屋でも問屋でも現金払を欲して来た。だから八百屋がお客にもさう望んでゐる。この店の通の得意は一日四五十軒で、店に来るお客は百人位な話である。処によると随分世間の景気が影響するが、この辺ではそれほど目立つて表はれない。これは中産階級の多いためであらう。
  
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 商店の子どもたちが、日々店の手伝いをつづけることで自然に仕事を憶え、後継ぎとして成長して行く様子が書かれている。
 だが、換言すれば商店の子どもたちは上の学校へ進学するのがむずかしく、いくら優秀でもなかなか進学させてもらえる環境ではなかったことがうかがえる。高等小学校の教師が家庭訪問し、「お宅のお子さんは優秀なので、なんとか進学させてあげられないか?」と説得することもめずらしくなかった時代だ。だが多くの場合、商店のだいじな跡取りであり商売の重要な“戦力”でもある子どもを、それ以上の学校へ通わせられる経済的な余裕も経営的なゆとりもないのが実情だった。
 また、高田町は市街地に比べ、八百屋にとっては不利な条件が重なっていた。市場から店舗までは距離があり、商品を配送する物流コストがよけいにかかっているからだ。最後に、主人のグチともため息ともつかない証言を聞いて見よう。
  
 『何しろこの辺で商売をするのは損なのですよ。何故つて神田から品物を持つてくるのに、運賃が一車三円もかゝるのです。それは市場は茶屋制度で、そこへ車をあづけたり車を曳く人を頼んだり、江戸川の坂を登るのにとても曳けないので牛に曳いてもらつたりするので、それ丈費用がかゝるのである。ですから私達は小石川辺に神田位の大きな市場が出来るのを望んでゐます。』
  
 「江戸川の坂」とは、椿山Click!目白不動Click!があった目白坂Click!のことだ。
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 主人は、「小石川辺」に大きな市場ができたらといっているが、根津嘉一郎Click!による池袋駅東口に拡がっていた根津山Click!“温存”Click!と、どこかでつながる構想なのかもしれない。昭和初期に、根津山を郊外貨物の一大集積地にしようとする計画が、当時の根津嘉一郎の発言からも、また高田町による町政の動きや気配からも強くうかがわれるからだ。次回は、商品の保存に苦心する「乾物屋」を訪ねてみよう。
                                <つづく>

◆写真上:自由学園の西ウィングにつづく、回廊の終端にある管理棟の窓。
◆写真中上:昔に比べ、世界中の野菜や果物が手に入るようになった青果屋の店先。
◆写真中下は、1921年(大正10)の開校直後に入学した生徒たちが遊ぶ校庭。当時は校舎がいまだ工事中で、ふたつの教室しか使えなかった。は、開校後の1922年(大正11)5月にようやく竣工した自由学園校舎(正面)。
◆写真下は、完成した校舎西側の回廊部。は、下落合1529番地(現・中落合3丁目)の小野田製油所Click!で精製されたゴマ油を運搬するかなり頑丈に造られた牛車。

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高田町の商店レポート1925年。(3)魚屋 [気になるエトセトラ]

自由学園明日館ナナメ.JPG
 自由学園Click!高等科2年の、梅津淑子がインタビューClick!に訪れた魚屋が面白い。親切で頭もよく働く主人だったらしく、彼女が聞きたいことへ的確に答えてくれている。ただし、最初に訪ねたときは、彼女が自由学園の制服を着ているにもかかわらず、魚屋の商売を実地に体験したい女の子、つまり1日店員で仕事がしたい女学生だと勘ちがいしたらしく、早とちりの受け答えをしている。
 その勘ちがいぶりを、店で魚桶を磨いていた小僧に「おやぢさん また頭がはげるぞ」とすかさず突っこまれ、ようやく落ち着いて彼女の目的を聞き理解したようだ。魚屋を訪ねた梅津淑子は、このふたりのやり取りで一気に緊張感がとけたようで、高田町に店開きしていた魚屋の仕事をいろいろと取材することができた。彼女が店先に立ったところから、魚屋が登場するときの様子を引用してみよう。
 いつもどおり、1925年(大正14)に自由学園Click!(羽仁もと子Click!)から出版された『我が住む町』Click!(非売品)収録の「小売商を訪ねて」から、朝が早いのでついうたた寝してしまう魚屋の主人の様子だ。
  
 『おゝいおやぢさん、お人だよ。誰か起てくれねえか。』 奥をすかして見ると帳場でうたゝねをしてゐるらしい。ニ三度呼ばれて、しきりに眼をこすつたりまたゝきしたり、顔をなでたりしてやうやう出て来た。/魚の匂をすつかりしみこませた、でつぷりとふとつた赤ら顔の主人を見た時、胸の中がヒヤリとした(中略) 『今学校で、私達がいろいろな日用品を売るお店では、どう云ふ工合にして御商売をしていらつしやるのか、こちらなら例へば魚を店に持つて来るまでの順序と言つたやうなこと、その外いろいろのことを話して頂いて、研究の参考にさして頂きたいと思つてゐるのですが、御迷惑でもどうかお話下さいませんか。』と言つてよく頼んだ。/『あゝさうですか。つまり貴女方が実地に商売をなさると云ふので……』/側で桶を磨いてゐた若いのが、『おやぢさん また頭がはげるぞ』/なんとなく話しよいやうな気がしたので、も少しくわしく話すと、やつと意味がわかつて、快くまづ第一にと話し出す。何しろ早口で巻舌なので中々聞きとりにくい。
  
 そそっかしい主人だが、震災後に下町から移転してきた店だろう。いきなり、自由学園の制服を着た清々しい女学生が店先に立って、いろいろお話をうかがいたいなどと突然いわれたら、魚屋でなくても少しはドギマギして慌てるだろう。
 実は、この魚屋の主人はかなり几帳面な性格の人物で、商売をしながら『鮮魚日記』というのを日々の記録として残していた。今日でいうなら、営業の日毎レポートというところだが、それをもとに彼女へ正確かつ精細な情報を提供してくれているのだ。「でつぷりとふとつた赤ら顔」の外見とは裏腹に、仕事にはキチッとした姿勢を貫く優秀な商店主だったようだ。店で雇っている小僧たちにも、やさしく接しているのが透けて見える。
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 つづけて、インタビューに答える魚屋の証言を引用してみよう。相手が清楚な女学生のせいか、「お魚」などとていねいな言葉づかいをしているのが微笑ましい。
  
 『お魚にも上、中、下があつて、河岸で五時半から七時半までにはける魚は上、七時半から九時までが中、九時から十時十一時頃のが下で、その一番遅いやつを普通店ざらひまた場さらひと云つてゐます。同じ魚だが時間が早ければ上、おそければ下となるのです。一刻も早くと言ふのが魚屋の自慢です。/此の頃でも朝は五時、夏は四時頃一噸(トン)積のトラツクに乗つて河岸に行きます。近所の同商売の中から各一人位づゝ出て七八人乗つてゆくのです。河岸に着くと自動車自転車荷車と入れる所がきまつてゐます。魚を買つて、カルコ(番する人)に渡すとそれそれのトラツクなり荷車なりに運びます。大概の魚は百目いくらと目方で買ひますが、一本いくらと買ふのはチクワ、カマボコ、ハンペン、ヒモノ、イワシなどです。問屋では金に符牒がついてゐて、例へば、一をチヨン、二をノツ、五をメの字、八をバンド、十をチヨーン又はピンと云ふ具合に云ふのです。』
  
 ここでいう「河岸」とは、江戸期から330年間もつづいている日本橋河岸の魚市場Click!のことで、関東大震災Click!で日本橋が壊滅したあと、復旧・復興をめざしている最中のころのことだ。だが、東京市の人口増で日本橋河岸のキャパシティが手狭になりつつあり、ほどなく外国人居留地Click!だった築地への移転計画がもちあがり、10年後(1935年)には全面的に移転することになる。
 主人が見せてくれた『鮮魚日記』には、毎日の仕入れと店頭での売り上げによる差引損益が、かなりきれいに整理され記録されていた。ただし、主人によれば毎日の損益を算出して、細かく決算をしていく同業者は少なかったらしい。それによれば、純益は平均2割前後になるはずだが、魚屋はむずかしい商売だと主人は実感として告白している。
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 ただし、女学生が相手なので『鮮魚日記』の数字を細かく見せながら教育的な意味あいをこめたのだろう、「きちんとしまりをしてゆく事の出来ないやつは、何の商売だつても、やれつこありません」と諭すように話している。
 つづけて、女学生の流通に関する質問にもていねいに答えている。
  
 東京ではセラないで相対で売買ひをしますが、地方の問屋ではせり売りをしてゐるやうです。東京に入る魚は大体茅ヶ崎方面と、三崎方面と上総方面からきます。茅ヶ崎方面の魚は汽車で新橋に来て、自動車で河岸に運ばれ、上総方面は蒸気船で日本橋に、三崎方面は隅田川まで来て、そこから自動車で河岸に来るといつた風です。一番魚の味の好いのは南河岸の魚で海の水が暖いせいか、きめがこまかく色も白く、北陸方面のは水が冷くしほが多いからきじがあらくなります。/魚の好みも山の手と下町とでは違ひます。山の手好みの魚、下町好みの魚と云ふのがあるのです。魚屋は他の商売と違つてその日その日の損益がすぐわかります。
  
 書かれている「茅ヶ崎方面」とは、湘南から伊豆にかけての沿岸漁業(地曳きClick!)あるいは近海漁業で獲れる、温かい黒潮を中心に棲息している魚介類Click!であり、「上総方面」は北から流れくだる冷たい親潮に乗ってやってくる魚介類で、「三崎方面」は沿岸や近海ではなく、遠洋漁業で獲れるマグロやカジキなどの魚をさしている。つまり、太平洋のありとあらゆる魚が、3つのルートから日本橋河岸に集合していたわけだが、これは現在の豊洲市場でも(海外産は別にしても)、基本的には変わらないだろう。
片瀬漁港.JPG
大磯港.JPG
 梅津淑子が、よほど熱心に商売について訊ねたのが気に入ったのか、下町っ子らしい主人から日本橋の市場をぜひ一度見学しにおいでと奨められた。「是非河岸を見物にいらつしやい、私が案内してあげますよ。然しきたない着物をきて行かないと汚れますからね。八時には魚を送つてしまひますから是非いらつしやい」。彼女が商売に興味津々なので将来は魚屋になるのかも……と、またしても早とちりをしてしまったのかもしれない。次回は、やはり毎朝の市場通いがたいへんな「八百屋」(青果屋)を訪ねてみよう。
                                <つづく>

◆写真上:雑司ヶ谷(現・西池袋)に開校した、自由学園本校舎(現・自由学園明日館)。
◆写真中上:昔の木箱がなくなり、発泡スチロールだらけになった魚屋の店頭。
◆写真中下は、自由学園のランチタイム。右手には暖炉があり、その上や裏側がパントリー(食器室)になっていた。は、勝鬨橋から眺めた旧・築地市場。
◆写真下:「茅ヶ崎方面」にあたる片瀬漁港()と、大磯漁港へ帰る漁船()。

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下落合を描いた画家たち・柏原敬弘。 [気になる下落合]

柏原敬弘「芽生えの頃」1920.jpg
 洋画家の柏原敬弘Click!が、いつごろから下落合803番地に住んでいたのか、資料がないので正確なところはわからない。だが、1924年(大正13)以降は絵を描いておらず、鈴木誠Click!によれば「気が狂った」状態になったので、画家をやめてしまったものと思われる。それまでは、同住所のアトリエで制作しているので、かなり早くから下落合に住んでいた可能性がありそうだ。
 柏原敬弘は、東京美術学校Click!に在学中の20歳のときから文展・帝展に入選しつづけており、藤島武二Click!に師事している。大正後期の下落合803番地の周辺には、関東大震災Click!で避難してきた中村彝Click!が一時滞在した鈴木良三Click!(800番地)をはじめ、有岡一郎Click!(800番地)、鈴木金平Click!(800番地)、鶴田吾郎Click!(804番地)、服部不二彦Click!(804番地)など洋画家たちのアトリエが集中していた。
 1921年(大正10)から下落合623番地にアトリエを建てた曾宮一念Click!もまた、柏原敬弘のことは記憶しているようなので、柏原が下落合に住みはじめたのは中村彝に師事した二瓶等Click!が下落合584番地へアトリエを建てたのと同じころ、1919年(大正8)前後ではないかと想像している。
 柏原敬弘が描く大正中期の作品には、樹間からのぞく風景や森林、小川など東京近郊とみられる田園風景が多いが、そのうちの何点かは落合地域を写生していると思われる。だが、当時の落合地域(特に西部)には指標となるような建物や構造物が少なく、描かれている風景の場所を特定することは非常にむずかしい。今回ご紹介するのは、1920年(大正9)に第2回帝展へ出品された『芽生えの頃』という作品だが、めずらしく建物がふたつ画面にとらえられている。
 陽光は、画面左手の上から射しており、樹木の影などから左側が南の方角に近いのだろう。建物の向きを合わせて考えると、太陽は東寄りの上空にあり、建物の向こう側が南の可能性が高いだろうか。すなわち、見えている建物手前の暗い画壁は北面ということになる。『芽生えの頃』というタイトルから、同作は1920年(大正9)の早春に描かれたものだとみられ、同年秋の第2回帝展に出品されている。
 画面を中央右手から手前へ、建物に沿うように小川が流れており、左端の建物のほうへ寄り添うように流れる川筋と、手前にそのまま流れる川筋とで分岐しているように見える。画面の左端に、屋根と外壁がチラリと見えている建物は、左手から射す陽光でできた影の様子から見て、かなり大きめな建物であることがわかる。だが、このような川辺の氾濫原に建つ建築物は、おそらく住宅ではないだろう。大雨が降り川が氾濫したら、洪水でひとたまりもないからだ。
 そのような目で眺めると、左手奥に見えている細長い建物も住宅には見えない。しかも、ふたつの建物の外周やその周辺には、規則的な木の柵が張りめぐらされており、ますます住宅らしくない風情となっている。このように、周囲へ木柵をめぐらす建物の場合は、中にいる動物を外へ逃がさない牧舎(たとえば牛舎か厩、鶏舎など)か、あるいは逆に外からの(人間の)勝手な侵入を許さない防柵の意味合いが強い。防柵の場合は、なんらかの収穫物や製造品、大型の農具などを保管する倉庫のケースだ。細長い建物の手前にも柵が見えているが、野菜を育てている畑地だろうか。
柏原敬弘「芽生えの頃」1920小屋.jpg
柏原敬弘「芽生えの頃」1920小川.jpg
バッケの水車1921.jpg
 以上のような観察を踏まえ、1920年(大正9)という早い時期を考慮すると、このような川筋や建物の配置で思いあたる場所が、落合地域で1ヶ所だけ存在している。当時の住所でいうと、左端の大きめな建物が上落合768~780番地、左手奥の細長い建物が上落合809番地で、流れている川は妙正寺川(北川)だ。画家は、妙正寺川の北側、すなわち下落合側にイーゼルをすえていることになる。
 陽光を受けた影の様子から、かなり大きめな左端の建物は2代目・バッケの水車小屋Click!であり、画面左手の奥に見えている細長い建物は、水車小屋で製粉する穀物を保管しておく、あるいは製粉した穀物粉を保管しておく倉庫のひとつではないだろうか。『芽生えの頃』の翌年、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図を参照すると、大きめな水車小屋の周囲には、3棟の穀物倉庫らしい細長い建物を確認できる。描かれているのは、水車小屋の西側に位置する倉庫のひとつだ。
 倉庫に保管される穀物は、もちろん落合地域や上高田地域で多く収穫されていた麦で、大正期になるとおもに都市部でのパンの需要が急速に伸びたため、水車小屋の製粉業はフル稼働をしていただろう。上落合で収穫された麦は、描かれているバッケの水車小屋で粉砕されていたが、上高田で収穫された麦は妙正寺川のひとつ上流の水車小屋にあたる、稲葉の水車Click!で小麦粉にされていた。
 水車小屋は、24時間365日稼働しつづけるミッションクリティカルな作業なので、もちろん常に水車番が寝泊まりしており、粉砕を終えた粉を倉庫へ倉入れしたり、業者が引きとりにきたら倉出しして出荷したり、穀物を新たに引き臼へ加えたり、ときには歯車など機構のメンテナンスを実施するなど、かなり多忙でキツイ仕事だったろう。仮眠をとろうにも、水車の動力で上下する杵(胴突き)のゴトンゴトンという騒音で、なかなか熟睡ができなかったのではないだろうか。
妙正寺川1927.jpg
バッケの水車跡.JPG
下落合村稲葉の水車1880.jpg
 柏原敬弘は、朝早い時間から目白崖線を下って妙正寺川沿いを歩いていくと、当時はあたり一帯がシーンと静まり返っていたので、かなり遠くからでも水車小屋の杵音が聞こえていただろう。久七坂Click!の下から、雑司ヶ谷道(中/ノ道)Click!を約1,000mほど西へ歩くと、バッケの水車小屋へたどり着くことができる。彼は、中ノ道から南に折れ、東京電燈谷村線Click!が建てた木製の高圧線塔Click!の下をくぐって妙正寺川の河畔に立った。当時の妙正寺川は、ひとまたぎで飛び越えられそうな、いまだ小川の風情をしている。妙正寺川が、下流域の洪水対策のために浚渫され、川幅も拡幅されて、蛇行する川筋が整流化されるのは昭和に入ってからのことだ。
 柏原は、バッケの水車小屋が目の前に見える川の北側にイーゼルをすえ、南西を向いて描きはじめた。左隅に、対岸の水車小屋の北西角を入れ、少し離れたところに2棟並んで建つ穀物倉庫の、手前の1棟を入れて構図を決めた。非常に神経質な性格なのか、キャンバスに向かい細々とした点描のような筆づかいで、画面をゆっくりと時間をかけて仕上げていく。いまだ川沿いには、前年の枯れ草が多く残っているが、あちこちで黄緑色の新芽が芽吹きはじめている。特に、水車番が耕しているらしい畑では、ダイコンだろうか勢いのある青々Click!とした葉が鮮やかだ。
 柏原敬弘は、おそらく雨でも降らないかぎり何日間か連続して同じ描画ポイントに足を運び、午前中の光の中で描きつづけたのだろう。筆致の様子から、佐伯祐三Click!のように1時間足らずで20号の画面を仕上げてしまうのとは、対極的な制作スピードだったのではないだろうか。『芽生えの頃』は、秋の帝展に出品を予定している作品のため、よけいにこだわりが強く何度も写生地を訪れては、絵の具を執拗に繰り返し重ね塗りしていた……そんな気が強くする画面だ。
 第2回帝展に『芽生えの頃』を出品した翌年、1921年(大正10)の第3回帝展には『落葉搔き』と題する作品が入選している。寺社の灯籠のある境内か参道だろうか、熊手を手にした少女が落ち葉を掻いている情景だが、この画面も落合地域に建立されている、いずれかの寺社かその周辺を写した可能性が高い。そして、翌1922年(大正11)の第4回帝展に入選した『夏の輝き』を最後に、柏原敬弘は同郷の鈴木誠Click!によれば「気が狂った」状態になって制作をやめてしまった。『夏の輝き』は、樹間の太陽を真正面から逆光でとらえた、当時の文展・帝展の洋画家はあまり類例を見ない特異な構図だ。
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柏原敬弘「夏の輝き」1922.jpg
 『夏の輝き』もまた、落合地域のどこかを描いた可能性があるが、描かれているモチーフだけで場所を特定するのは困難だ。柏原敬弘は、丸善あたりかどこかでゴッホClick!(当時の呼称では「ゴオグ」)の画集でも見たのだろうか? 太陽の逆光が降りそそぐ表現が、強烈なクロームイエローには見えないにせよ、どこかゴッホが描く空に近似している。

◆写真上:第2回帝展に出品された、1920年(大正9)制作の柏原敬弘『芽生えの頃』。同展の絵葉書からの画像だが、キャプションには柏原敬「孝」の誤植がある。
◆写真中上は、描かれた建物と小川の画面を拡大したもの。は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみるバッケの水車の描画ポイント。
◆写真中下は、1927年(昭和2)に撮影された妙正寺川で、大正期とほとんど変わらない風情を残している。は、バッケの水車小屋があったあたりの現状。は、1880年(明治13)に描かれた焼失直後の稲葉の水車。バッケの水車から、妙正寺川を500mほど上流にさかのぼったところに設置されていた水車で、陸軍参謀本部の陸地測量隊が同年に1/20,000地形図を作成する直前に焼失しているが、ほどなく再建された。
◆写真下は、目白崖線の椿山にある装飾品としてのミニ水車。は、1921年(大正10)の第3回帝展に出品された柏原敬弘『落葉搔き』。は、翌1922年(大正11)の第4回帝展に出品の柏原敬弘『夏の輝き』で、以降は制作活動が見られない。

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高田町の商店レポート1925年。(2)肉屋 [気になるエトセトラ]

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 高田町Click!(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の肉屋を訪ねたのは、自由学園Click!高等科2年生の金子勇城子という女学生Click!たちだった。「肉屋と云へば、あの鋭い肉切包丁を連想して何となく恐しい感じがする」と、やや怯えながら2軒の肉屋を訪問している。
 最初の肉屋は、にぎやかな表通り(目白通りだろう)の店舗で、大きな店構えだった。そこの主人は、現金買いのお客が多いと話してくれたが、得意先の軒数などを訊くと「さあ分りませんね」と教えてくれず、商売の中身については話したがらなかったらしい。取材中に5人の客が来店したが、いちばん売れるのはロースや上肉だという主人の言葉を最後に、彼女たちは店を出た。「調査によつて多くの人々に接する機会を持つた私たちは、大分人の気持を察することがさとくなった」と書いているように、取材の深追いをしても詳しく話してくれそうもないと、早々に見切りをつけたのだろう。
 夕方近くなって、彼女たちはもう1軒の少し小さめな肉屋を訪問している。ちょうど、問屋の営業担当(お爺さん)が主人と話している最中で、彼女たちはさまざまな情報を運よく仕入れることができた。その場に、小売りの主人と問屋の双方がいたことで、大正末における肉類の流通経路や販売方法、肉の種類、流通コスト、売れ筋商品など詳細にわたり話を聞くことに成功している。
 1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)に所収の、「小売商を訪ねて」から引用してみよう。まずは問屋の話だ。
  
 「東京の肉屋の肉は、みんな三河島の屠殺場からくるんですよ。その牛は主に神戸、広島、伊勢、伊賀あたりからきます。つまり三河島にある問屋が、そつちの方から牛を買ふんです。牛一頭の値段? そうですね、まあ大体三百円位でせう。目方は凡そ六十五貫位ありますね。それを三河島まで一車(七噸積)に九頭位入れて運ぶんです。運賃は一頭について六円五十銭位かゝります。三の輪にきた牛は屠殺場で(株式組織の会社)検査され、それを通過したものは殺されて又問屋の手にもどります。そこからこの辺の小売商にくるんです。問屋のとる利益ですか。そいつは分りませんね。何しろ検査に通らない時は三百円丸損になつちまふこともあるんですから。その上それにまた運賃をかけて田舎にもつて行つて肥料にするんですからね。なかなか引合ひませんよ。さあならし一割二三分の利位になりますかな」
  
 「一車(七噸積)」と書かれているのは、肉牛を運ぶ貨物列車のことだ。問屋のお爺さんの答えに、女学生は「そんなにたびたび損をするのか」と訊くと、「ちよいちよいあるんですよ。もう買つたものですから検査に通らなくたつてどうすることも出来ません。何しろ損すれば大きいんだから」と答えている。彼女は、「損」ばかりを強調する問屋の老人は小売商の手前、利益を少なめに繕うための方便ではないかと疑っているが、おそらくこの老人のいうことは事実だろう。
 大正末、特に関東大震災Click!以降から昭和初期にかけ、「牛肉」や「牛乳」Click!に関する衛生管理がことさら厳しくなった時期と重なる。以前、守山牛乳Click!の記事でも書いたが、乳牛や肉牛を飼う農家の衛生管理Click!に、その土地の自治体や警察は非常にきびしい制約や条件を課していた時代だ。その条件をクリアできず、廃業に追いこまれた牧場や飼育農家、あるいは加工工場も少なくない。
 当局の取り締まりは、食品に由来する伝染病や腐敗による食中毒を防止するためだが、三ノ輪にあった肉牛の検査場ではこの時期、かなりシビアな病原菌などの検査が行われていたのだろう。規定を超える菌が発見された牛は、食用には不適当として即座に生産地へ送り返されていたにちがいない。
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 つづけて、同時の取材となった肉屋の主人の話を聞いてみよう。
  
 『問屋からこゝまで自動車で運びますからこの運賃は五両(五円)位かゝります。きたての肉はかたくて食へません。だから今のところ、一週間おいて売りはじめます。矢張り一割二三分儲けるんですね』 主人の話通りに計算してみると、元価一貫目六円七十銭の肉が問屋小売の手を経て我々の家にくる時には八円四十銭となるわけである。普通よく肉屋の奥の大きな棚にぶら下つてゐる肉がこゝにもあつたので私達がそれに就て聞いて見ると、『あの肉片は普通十二貫位で問屋から九〇円で買ひます。あの肉が一頭から四つとれるんです。あれは無駄なしにどこでも売れますよ。骨は肥料に買ひにきますから。肉はくさりやすいのでこまります。殊に陽気の変り目が一番こたへますね。そんな時はまわりのくさつた部分をとつていゝところだけを百匁(約375g)八銭位で売るんです。普通すぢといふやつですが、……』(カッコ内引用者註)
  
 当時の肉屋は、電気冷蔵庫が高価でなかなか導入できないため、夏場の肉の管理はたいへんだったろう。それでも、氷を入れて冷やすだけの初期の冷蔵庫は、どの店舗にも設置されていたとみられる。
 この店は、料理屋へかたまりのまま売る以外は、すべて現金買いの客が主体だった。店頭での売上げは、平均30円/日ぐらいで売れ筋の肉は「中肉」(百匁90銭)、顧客が支払う額からいうと30~40銭ぐらいがいちばんの多いと答えている。また、1~2斤(約600g~1.2kg)と肉をまとめ買いする客は5人にひとりぐらいで、この店では「小配達」(屋敷まわりの御用聞きのこと)はやっていない。
 「小配達」のある肉屋は、早朝の5~6時から店を開けなければならないが、女学生たちが訪れた肉屋は周辺の料理屋へ納品するケースが多く、朝の開店が遅いかわりに夜は急な注文に備え、遅くまで店を開けておかなければならない。同じ肉屋でも、屋敷へ納入する店と料理屋へ納入する店とで、うまく棲み分けていた様子がうかがえる。
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 お客が多いのは、やはり肉が腐りにくい冬で、夏になると売上げが4割ほど減ると答えている。親切な主人は、業務上のかなり細かいことまでいろいろ教えてくれたようだ。女学生たちが、あまりに牛肉のことばかり気にして訊くので(彼女たちの好物だったのだろう)、「あんた達は豚のことはきかないんですか」と、逆に取材をうながされている。
  
 私達はさう云はれてはじめて気がついた。『私の店は豚は直接田舎(埼玉)からうちの自動車で買ひ出しにゆくんです。一匹十貫から十五六貫ので、まあ二十七八円です。それを大宮か熊谷の屠場で殺してこつちへ持つてくるんです。一噸積みの自動車で二十二匹位つめます。さあ運賃は二十二円位ですかな。私の家では豚は他の肉屋にも卸します。洋食屋なんかは、牛肉より豚肉の方がずつとたくさん使ひますよ。現金買いの客ですか。そりゃ矢張牛肉の方が多いですね。うちらは平均一日豚三匹半 牛は二日に半頭位出ます。牛豚合せて一日十貫目です まあ大して忙しくありませんね』 まつかな火の一ぱい入つたばけつの火鉢にあたりながら主人はかう話してくれた。
  
 取材の最中にも、5~6人の大人や子どもが肉を買いにきていた。知っていることはなんでも教えてくれる、非常に親切で話好きな肉屋だったらしく、商店レポートの中では他店に比べかなりボリュームが大きくなっている。
 さて、同じ大正期の目白通り沿い、下落合で開店していた肉屋では、妙な注文に首をかしげていただろう。毎日、牛肉を1斤(約600g)ずつ配達するよう、下落合661番地に住む見るからに変な画家Click!から頼まれたのだ。しかも、配達している小僧の話によれば、毎日休むことなく朝昼晩の三食、すき焼きClick!を食いつづけているらしい。
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 毎日コンスタントに売れつづけるのだから、それはそれで肉屋の主人にとってはありがたい客なのだが、もう1ヶ月近くも配達がつづいていた。「まあ、世の中には奇妙な人がいるもんさね」と、主人は竹皮で器用に肉をくるむと、配達の小僧に手わたした。さて、次回は日本橋河岸Click!へ社会見学にくるよう誘う、親切な「魚屋」の訪問記だ。
                                <つづく>

◆写真上:校庭の南に咲く満開のサクラを、自由学園の校舎中央ホールから。
◆写真中上:よく外来者から、すき焼きと混同される明治以降に生まれた東京の牛鍋。すき焼きは鴨肉やももんじClick!をメインにした、大江戸からの料理だ。
◆写真中下:入学したばかりの本科1年生による、校庭での体育の授業。
◆写真下:日々三食、すき焼きばかりを食べつづけた変な画家のアトリエ内部。

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1,800万人のご訪問と目白文化村絵はがき。 [気になる下落合]

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 自由学園Click!が1925年(大正14)5月に出版した、『我が住む町』Click!(非売品)の高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)を対象にした全戸調査Click!が面白くて夢中で記事Click!を書いているうちに、いつのまにか訪問者数がのべ1,800万人を超えていました。いつもお読みくださり、ほんとうにありがとうございます。
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 きょうは、高田町から西隣りの下落合にもどって、いつかテーマに取り上げた箱根土地Click!による目白文化村Click!絵はがきシリーズClick!について書いてみたい。というのも、箱根土地がSPツールとして発行した絵はがきのうち、カラー(人着)ではなくモノクロの絵はがきの1枚を、ようやく手に入れたからだ。
 写真にとらえられているのは、1922年(大正11)に販売がスタートした目白文化村の中で、もっとも早期に竣工したとみられる、またしても第一文化村の神谷邸(下落合1328番地)だ。キャプションも、「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」と添えられている。神谷邸が絵はがきに登場するのは、人着でカラーリングされた第一文化村の街並みをとらえた、もっとも有名な「目白文化村」絵はがきClick!と、ほぼ2ヶ月後に発行されたとみられる「目白文化村の一部」絵はがきClick!に次いで三度目だ。
 これほど頻繁に登場するのは、神谷家と箱根土地との間で目白文化村の広報宣伝に関する、なんらかの契約がなされていたものだろうか。モノクロの絵はがきは、この「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」以外にも、同じく第一文化村の永井外吉邸(下落合1601番地)の応接間と台所をとらえた室内写真のもの、各1種類ずつが存在しているとみられる。永井外吉は東京護謨Click!や箱根土地などの役員なので、販促用の絵はがき制作で自宅内部の撮影に協力しているのだろう。
 「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」に写っているのは、キャプションのとおり神谷邸の門と玄関、そして中央の母家と南にのびるウィングの一部だ。目白文化村が販売された1922年(大正11)、同じ第一文化村の中村邸Click!(下落合1321番地)と同様に、箱根土地の建築部に勤務していた河野伝Click!の設計だと伝えられている。明らかに当時流行していたライト風Click!の建築だが、母家の建て替えは戦時中から戦後にかけて行われているとみられ、わたしが目にすることができたのは大谷石とレンガを組み合わせた、特徴のある門の意匠だけだった。1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲Click!の直前、4月2日にF13偵察機Click!によって撮影された空中写真を見ると、南と東へのびるウィングの屋根は確認できるが、中央の母家が解体されているように見える。
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 さて、従来のカラー(人着)絵はがきとモノクロ絵はがきには、着色の有無以外にも大きく異なる点がある。絵はがきの裏面、つまり宛先や文面を書く面のレイアウトだ。従来のカラー(人着)絵はがきは、明らかに最初からSPツールとして制作されているため、差出人欄には箱根土地株式会社と所在地、連絡先電話番号などがあらかじめ刷られており、目白文化村を宣伝するボディコピー(文面)が印刷されている。
 第一文化村の街並みを撮影した「目白文化村」絵はがきでは、「ウイルソンは『住居の改善は人生を至幸至福のものたらしむる』と極言致して居ります」ではじまるボディコピーが、また「目白文化村の一部」絵はがきでは、「新緑の風薫る目白文化村は昨夏本社が趣味と健康とを基調として建設致候ものにて直に分譲済と相成申候」ではじまるボディコピーが印刷されていた。双方のカラー(人着)絵はがきとともに、配達された郵便スタンプや文面から販売開始の翌年、1923年(大正12)に見込顧客あてに郵送されたものだとわかる。だが、モノクロ絵はがきの裏面はまったく異なっている。
 「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきは、通常の観光絵はがきと同様のデザイン・レイアウトであり未使用なのだ。つまり、販促用としてではなく、一般の絵はがき(郵便はがき)として汎用的に利用できるようになっている。しかも、「目白文化村の一部」絵はがきに見られた印刷所の記載、「合資会社日本美術写真印刷所印行」という文字もなく、フランス語で「UNION POSTALE UNIVERSELLE/CARTE POSTALE」と青文字で刷られているだけだ。「万国郵便連合のはがき」というのも大げさだが、日本で印刷された当時の絵はがき類には、たいてい印刷されているフレーズだ。
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 「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきが制作されたのは、いつごろのことだろうか。もし、先述した永井外吉邸の室内を写したモノクロ絵はがきと同時期だとすれば、第一文化村の前谷戸Click!の埋め立て(1923年夏)が完了し、下落合1601番地に永井邸が建設されたあと、1925年(大正14)ごろということになる。そのころには、目白文化村の販売はあらかた終わり、第四文化村Click!を除く他の区画はほとんど完売していたので、販促ツール用の絵はがきを改めてつくる必要がなくなっていただろう。だから、汎用的な絵はがきの仕様になったのだとみることができる。
 また、別の角度から考察してみると、1923年(大正12)の初夏に印刷され見込顧客へ大量に配布された、カラー(人着)の「目白文化村の一部」絵はがきにみる神谷邸の庭と、モノクロの「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきの庭とでは、玄関横に植えられている樹木の高さがかなり異なる。カラー(人着)絵はがきのほうは、玄関横の樹木の先端が門柱とほぼ同じぐらいの高さなのに対し、モノクロ絵はがきの樹木は、門柱よりもかなり上へ突き出て成長しているのだ。
 どのような樹木なのかは不明だが(針葉樹のアカマツのような気がするが)、少なくとも1m以上は成長しているように見える樹木のグロースタイムを考慮すると、両絵はがきの間には数年間の経年が想定できそうだ。したがって、モノクロの「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきは、大正末から昭和初期に印刷された可能性が高いとみられる。ただし成長が速い、たとえばアカマツやクスノキ、クヌギ、ヒノキなどの庭木だと、1年間に場合によっては1m前後も伸びることがあるため、いちがいに断定することはできない。(わたしも不用意にヒノキを植えて、ひどい目に遭った経験があるw)
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 大正末から昭和初期にかけて制作されたらしい「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきだが、以前にも書いたように「目白文化村絵はがきセット」が存在した可能性が高くなった。販売当初のカラー(人着)絵はがきを除けば、すでに3種類のモノクロ絵はがきが判明している。また新たな絵はがきを発見したら、改めてご紹介してみたい。

◆写真上:汎用性を備えた、「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがき。
◆写真中上は、1923年(大正12)3月10日に発送されたもっともポピュラーなSP用「目白文化村」カラー(人着)絵はがき。は、1923年(大正12)5月22日に発送されたSP用「目白文化村の一部」カラー(人着)絵はがき。は、会津八一Click!文化村秋艸堂跡Click!(旧・安食邸Click!)前から突きあたりの神谷邸の門を望む。
◆写真中下は、1923年(大正12)3月10日の「目白文化村」カラー(人着)絵はがき裏面のボディコピー。は、1923年(大正12)5月22日の「目白文化村の一部」カラー(人着)絵はがき裏面のボディコピー。は、郵便はがきとして汎用性をもたせた「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきの裏面。
◆写真下は、1923年(大正12)5月22日の「目白文化村の一部」絵はがきに写る神谷邸の植木。は、「(目白文化村)神谷卓男氏邸の門及玄関」絵はがきに写る成長した植木。は、第一文化村の二間道路でいちばん奥が神谷邸の門と大谷石の階段。(すでに解体)
おまけ
下落合の森は、久しぶりに外出して散歩を楽しむ人たちや子どもたちでいっぱいで、樹木のこずえや湧水池にも野鳥がたくさん集まっています。写真は、湧水池のアオサギ。
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高田町の商店レポート1925年。(1)米屋 [気になるエトセトラ]

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 自由学園高等科の女学生Click!で、卒業を間近にひかえた2年生の渡邊美喜が訪ねた店舗は米屋だった。畑の間を歩いて店舗に向かっているため、この米穀店は自由学園近く雑司ヶ谷上屋敷あたりの商店だろうか。
 「落ちやうとして落ちきらぬ夕陽が、高くそびえた雑木の間をもれて、向ふのガラス窓に赤々と映えてゐる静な春の夕暮だつた」と、まるで文学作品のような冒頭ではじまる取材レポートは、どうやら以前から知り合いだった米屋を訪問しているらしい。主人のことを、「元気のいゝ米屋さん」と表現していることから、自宅の近所にある家では馴染みの店なのかもしれない。
 米俵がたくさん積まれた店前に立ち、ガラス戸を開けるとあいにく主人は留守だった。応対に出たのは愛嬌のあるまだ子どもの小僧で、出直そうかと迷っていると、年上の小僧が配達を終えたのか店にもどってきた。そこで、大きいほうの小僧を相手に、彼女はさっそく米の流通ルートや消費者(高田町)のニーズを聞きだそうと取材をはじめた。以下、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)の、「小売商を訪ねて」から引用してみよう。
  
 『こちらのお米はどちらから参りますか。』『山形からきますんです、庄内米と云ひますが……あゝ主人が帰つて参りました。』 ふりかへると若いこの家の主人が、にこにこして立つてゐる。小僧さんが主人にいろいろとわけを話してくれる。『あゝさうですか。では知つてゐるだけお答へいちしませう。えゝお米には硬質と軟質があります。硬質の方は炊くとふえますが、味は軟質のにおとります。これでまあ硬質の方は工場等と云ふ大ぜい人のゐる所に喜ばれ、楽をしてゐる方は皆軟質向きですね。うちなどはこの辺のことですから、軟質ばかりしか扱つてをりません。一番よく売れますのは矢張三等米ですな。半搗米は割合によく売れる様になつてきました。二十俵について一俵くらゐの割です。』
  
 現在でも、山形米は東京で非常に人気が高い。特に寿司屋の握りは、古くからの店ではシャリに庄内米(山形米)を指定しているところが多い。コシヒカリやあきたこまち、ゆめぴりかなど、北国のさまざまなブランド米が誕生する中で、山形米の占める割合いは大きいだろう。うちでも、山形の「つや姫」を常食にしている。
 「三等米」は、いまでもある米の等級規格で、粒ぞろいが45%以上の食用米のことで、質の悪い米粒の混入率が30%以下のものを指している。「半搗米」とは、完全に精米して白米にはしない「五分搗き米」などのことで、ビタミンなどの栄養価をより多く摂取できる米のことだ。大正期には、いまだ江戸期からつづく脚気が多かったものか、健康に気を配る家庭では白米ではなく「半搗米」を注文していたのだろう。
 また、「硬質米」と「軟質米」の区分は、現在つかわれている用語と大正期の用語とでは意味が異なっており、「硬質米」というのはおもに西日本で生産された水分量の少ない米を指し、「軟質米」とは関東以北で収穫された米を指している。もちろん、高田町に限らず江戸東京では、昔から北国の「軟質米」が好まれていて価格も高い。この米屋は、上り屋敷あたりの屋敷街で商っているせいか、軟質米しか扱っていないようだ。
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 次に、女学生Click!は米の流通ルートについて質問している。当時の米は、農家からまず生産地にある一次問屋に売られ、その問屋から各県レベルの問屋に卸される。その段階で、県庁で行われる厳密な品質検査に合格しなければ、他の県への輸出が許されない。この検査で、その収穫年の“標準米”(各県ごと)が決定される。このあと、ようやく他県(たとえば東京市)の問屋へ輸送する許可が下りる。
 東京市の問屋から、各小売店へ卸されるときは、米一石につき20銭の口銭(手数料のこと)をとる。ただし、米相場の上下によっては、この口銭だけで膨大な利益を生むことができる仕組みだ。女学生は、生産地の問屋の利益についても訊いているが、米屋は「その辺は一寸わかりません」と答えている。そして、最終的に小売りから消費者に売るときの利益は、平均7分ほどの儲けだと回答している。高田町で、もっとも米が売れるのは10月で、1日に12俵ぐらいの商いがあるらしい。この店は、主人+小僧がふたりの3人なので、繁忙期はなかなかたいへんだったようだ。
 つづけて、『我が住む町』から女学生の取材レポートを引用してみよう。
  
 『(前略) 勘定は震災後は全部現金でしたが、この頃はまた掛買ひのお客様が多くなりました。家では現金の方が都合がいゝのですが、どうしてもさうばかりは参りませんので。何が一番こまるつてまあ米が悪いとか何とか小言を云はれるのは、いゝ米を持つて行けばいゝのですが、金を払つて貰へないのには一番弱りますな。それにつゞけてとつて頂いたお家ですと、あまり強く云ふことも出きませんしね。もうこの店を開いてから五年になりますが、とれなかつたのは五百円位です。でも家なんかは気をつけてをりますから割に少い方でせう。』/かう語りおへて人のよさゝうな主人は盛んにもみ手をしてニコニコしてゐる。私は心からお礼を云つて表に出た。
  
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 ここでも、大江戸の昔と変わらない、商人泣かせの乃手Click!の「顧客」が登場している。大正末の「五百円」といえば、今日の300万~500万円ぐらいだろうか。商品をとどけさせて消費してしまったあと、その商品に難癖をつけて金を払わない詐欺のような手口だが、商人は客商売なのでなかなか訴訟沙汰にはできない。
 商人から掛け買いをして、あとから難癖や脅しでカネを払わないケチな旗本や諸藩を称して、江戸の街中では象徴的に「人が悪いよ糀町(麹町)」Click!(乃手は人品がさもしい)といわれていたが(確かに江戸期の商人は裕福だったが、武家は内証が火の車だった邸が多い)、同じようなことが大正期の山手でも起きていたようだ。「いま、おカネがないから待ってくれ」と素直に打ち明けて話せば、商人たちはしかたがないので待っただろうが、自家の商品をけなされ貶められてまで商売はしたくなかっただろう。「家(うち)なんかは気をつけていますから」に、主人の苦労がにじんでいるようだ。
 さて、自由学園高等科2年生の渡邊美喜が訪ねた米屋は、たいへん親切な商店だった。同学園高等科2年生で、おそらく同一人物とみられる「渡邊みき」(こちらは名前が仮名で書かれている)が訪ねた床屋では、けんもほろろの扱いを受けている。最初は、本科1年の女学生が訪ねたのだが、怒られたので年長の渡邊みきに報告したものだろう。つづけて、同書の「調査の感想」から引用してみよう。
  
 一年の方が私のそばに来てさゝやいた、「このうち変なのよ。怒つてるの」 それは床屋だった。私はガラス戸を開けた。床屋の主人は客の頭を刈つてゐた。私が「自由学園……」と云ふなり主人は怒鳴つた、「今小さい人が来て、家ではいゝと云ふのに、こんな紙をおいていつたんです。」 そして私の問ひに対して「そんな事は町会でおきゝなさい」と云つた。で私は「では恐れ入りますが町会で分らない所だけきかして頂き度うございますが」と前おきをしてきいた。併し彼は知らん顔をしてだまつてゐる 何を云つても。
  
 このあと、奥からおかみさんが出てきて女学生たちの質問になんとか答えてくれるのだが、彼女たちは主人の失礼な対応に少なからず腹を立ててもどっている。
 巻末の「調査の感想」では、訪れた商店や住宅について感じたことを、歯に衣を着せず自由に“評価”しているのが面白い。もともと、高田町の環境向上を願ってはじめた調査だっただけに(事実、このレポートは高田町に提出され町政の参考にされている)、それを理解できない大人たちについては容赦なく不満をぶちまけている。
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 中には、女学生ならではの観察眼から人間を3つのタイプに分けている感想もあったりするので、読んでいて飽きない。羽仁もと子は、彼女たちの自由な文章を添削せず、おそらくそのまま掲載しているのだろう。次は、「肉屋」の取材レポートをご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:黄色い灯りがともる、夜の自由学園校舎(現・自由学園明日館)。大正当時ならなおさら、周辺の環境へモダンな灯りをともしていたのだろう。
◆写真中上:当時の米屋の店先には、問屋からとどく米俵が山と積まれていた。
◆写真中下:自宅で撮影された、自由学園創立者の羽仁吉一・羽仁もと子夫妻。
◆写真下:1921年(大正10)5月5日に撮影された、自由学園高等科の入学記念写真。

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夕立がきそうな三宅克己『諏訪の森』。 [気になるエトセトラ]

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 1918年(大正7)のよく晴れた夏の日の午後、淀橋町柏木407番地のアトリエをあとにした三宅克己Click!は、画道具を肩に蜀江山Click!を左手に見ながら迂回すると、中央線・大久保駅の先にある道路(現・大久保通り)へと抜けて踏み切りをわたった。そのまま新大久保駅のガードをくぐり、すぐに北へと左折して戸山ヶ原をめざす。戸山ヶ原Click!の写生では、以前から歩きなれた道順だ。
 山手線の線路沿いをしばらく北上し、住宅がまばらになってくるあたりから、大久保射撃場Click!に築かれた防弾土塁(三角山)Click!があちこちに見えてくる。大正のこの時期、とりわけ大きな防弾土塁は近衛騎兵連隊Click!の兵営内に1ヶ所、同連隊と陸軍戸山学校の射撃訓練用に1ヶ所、陸軍全体で使用する大久保射撃場に3ヶ所構築されていた。周辺の住宅街に流れ弾が飛びこむようになり、死傷者がでる流弾被害Click!の急増が問題化し、「陸軍は戸山ヶ原から出ていけ」運動Click!が周辺自治体で活発になると、さらに高い防弾土塁(三角山)が増えていく。そして、1928年(昭和3)には射撃場をコンクリートのドームで覆う最終的な工事が実施されている。
 三宅克己は、射撃場の敷地内に赤旗が掲揚されていない(射撃訓練をしていない)のを確認すると、山手線沿いにあるとりわけ大きな防弾土塁の西側から、諏訪社の前を東西に横切る道路(現・諏訪通り)へと抜けた。空はよく晴れているが、周囲のあちこちに大きな積乱雲が湧きでており、午後も遅くなると夕立がきそうだった。
 三宅克己は、諏訪通りを東へと向かい、射撃場内の湧水源から北へ向けて流れでる小流れの手前で、肩から画道具一式を下ろすと、写生用のイーゼルを組み立てはじめた。諏訪の森で鳴くミンミンゼミやアブラゼミの声が、ときおり陽をさえぎる雲の動きで、大きくなったり小さくなったりを繰り返している。
 西からの陽光がオレンジ色に変わるころ、周囲が急に暗く蔭りはじめた。あたりは人影もなくひっそりとしており、玄国寺の門前あたりに干された洗濯物が、ときどき強い風にあおられてパタパタ揺れている。風が出てきたということは、夕立が近いのかもしれない。三宅克己は風景の色合いを目に焼きつけ、大急ぎで水彩道具を片づけていると、どこかからか遠雷の音が聞こえてきた。油彩ではなく水彩なので、描いた画用紙を雨に濡らしては元も子もない。
 あとは帰ってからアトリエで仕上げようと、画道具を肩にかつぎ大急ぎで写生現場をあとにして、百人町方面へと足を速めた。……おそらく、諏訪の森での制作の様子は、こんな状況だったのではないだろうか。
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 画面に描かれた風景から、モチーフの特定をしてみよう。まず、中央から左手にかけて描かれている森が、玄国寺Click!や諏訪社の建立されている森だ。画面を拡大すると、手前の森の中に玄国寺の山門らしい構築物が、また奥には諏訪社の鳥居らしいフォルムが描かれているようにも見えるが、陽が蔭っていて薄暗く、また大正期のカラー印刷精度では判別することができない。
 この森沿いに拓かれ、奥へ向かって上り坂にカーブしている道路が、当時の諏訪通りだ。諏訪通りを左へ、つまり西へ300mほど歩けば山手線の諏訪ガードClick!が、東へ1,000mほど歩けば近衛騎兵連隊兵舎(現・学習院女子大学)をへて、穴八幡(高田八幡社)Click!のある馬場下交叉点へと抜けることができる。
 諏訪通りをはさみ、洗濯物が干されているエリアは、すでに陸軍大久保射撃場Click!の敷地内だ。右手に見えている小高い丘が、射撃場の側面に盛られた防弾土塁で、その土塁沿いの下には小道が通っている。戸山ヶ原を散歩する人たちが、土塁を迂回するために歩いて踏みかため小道化した、「獣道」ならぬ「人道」なのかもしれない。
 この側面に築かれた防弾土塁は、大正の後期になると周辺の住宅地で流弾被害が急増するにつれ、諏訪通り沿いのギリギリの位置まで土砂の山が丸ごと動かされ、さらに高い防弾土塁が道沿いに築かれることになる。その様子は、1938年(昭和13)ごろの記憶を水彩画で記録しつづけた、濱田煕Click!の作品やスケッチで確認することができる。そして、手前の下を横切る茶色いくぼみは小道ではなく、射撃場内の湧水源(湧水池が形成されていた)から諏訪の森までつづく小流れだ。
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 1938年(昭和13)前後に見た戸山ヶ原界隈の記憶画を描く、濱田煕の話を聞いてみよう。1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された、濱田煕『記憶画 戸山ヶ原―今はむかし…』に掲載されている諏訪通りについての記述だ。
  
 山手線側から、諏訪神社の方角を見る。
 画面左手は墓地。その向こうの二階家は製函問屋で、店内の板の間には、何台かの紙箱製造機が働いていた。右手三角山の小屋附近に、当時としては珍らしい自動車の練習コースがあった。
 諏訪神社前の登り坂
 諏訪神社の前は結構な坂であった。/当然のことながら道は拡張され、墓地の生垣は殺風景な万年塀となっている。製函問屋は立派な建築の東京製菓学校に変り、あたりは若者たちであふれている。
  
 「自動車の練習コース」は、戦前に造成された簡易自動車練習場のことで、昭和10年代は自動車の免許取得がブームになっていたものか、同様の施設を高田馬場駅近くの旧・神田上水(1966年より神田川)に架かる神高橋Click!の北側や、妙正寺川に架かる北原橋Click!の西側の上高田でも確認できる。また、「墓地の生垣」とは玄国寺の墓地のことで、現在はより頑丈なコンクリート塀となっている。
濱田煕「山手線側から諏訪神社の方角を見る」1938.jpg
濱田煕「諏訪神社前の登り坂」1938.jpg
三角山(戦後).jpg
三角山.JPG
 さて、濱田煕の文中にもあるとおり、現在の諏訪通りは広く拡張され(1938年当時の道幅の約4倍強)交通量も激しいので、三宅克己の描画ポイントに立つことは危険でできないが、Google MapのStreet Viewによる車載カメラの画像では、それらしい位置から玄国寺本堂と諏訪社のある『諏訪の森』跡を、なんとか眺めることができるようだ。

◆写真上:第12回文展に、『落合村』とともに出品された三宅克己『諏訪の森』。
◆写真中上:ほどなく夕立がきそうな、『諏訪の森』に描かれた風景の部分拡大。
◆写真中下は、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図にみる描画ポイント。は、StreetViewで描画位置あたりから『諏訪の森』跡を眺めたところ。は、小流れがあった玄国寺の西側から上り坂になる諏訪通り(上)と諏訪社拝殿(下)。
◆写真下は、1938年(昭和13)の記録画で描かれた濱田煕『山手線側から、諏訪神社の方角を見る』。中上は、同じく濱田煕のスケッチで『諏訪神社前の登り坂』。中下は、戦後すぐのころに撮影された山手線沿いの三角山のひとつで、右手が安田善次郎Click!が創立した東京保善高等学校。は、現在でも大久保3丁目に残る防弾土塁(三角山)。

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高田町の「衛生環境」調査1925年。 [気になるエトセトラ]

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 自由学園高等科の女学生たちClick!「貧乏線」調査Click!につづき、1925年(大正14)2月末に実施した「衛生調査」は、高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の全戸にわたる調査Click!となった。もちろん、高等科の卒業予定者だけでは調査スタッフが足らず、本科5学年と高等科2学年を合わせた全校生徒が参加する大規模なプロジェクトとなった。訪問先が留守だったり、調査を拒否した家庭を除くと町内の7,076世帯が彼女たちに協力している。
 衛生調査は、おもに「塵埃(生活ゴミ)」「汚物汲取り(便所)」「清潔屋(クズ屋)」「下水」の4つの課題に分かれているが、各家庭における病人の有無も調べている。同年2月末の時点で、病気にかかり寝ていた人は重症者と軽症者を合わせて町内に498人、全人口の1.4%に匹敵する。中には、不衛生からくる伝染病で病臥していた人もいたのだろうが、高田町では1924年(大正13)に伝染病に罹患した町民が203人、そのうち死亡した住民は54人で、死亡率は約27%と高かった。内訳は、以下のとおりだ。
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 これら伝染病のうち、不衛生な生活環境に起因するものが少なくない。高田町では、町内の衛生環境を向上させるために塵埃の回収に1,880円58銭/月、便所の汲取りに3.617円49銭/月、清潔屋(クズ屋)に681円33銭/月の支出をしていた。年額にすると74,152円80銭となり、今日の貨幣価値に換算すれば約4,000万円と、人口が35,000人余の郊外町にすれば大きな支出になる。
 もちろん、高田町の予算ですべてのゴミや汚物を回収できたわけではなく、多くの住民は民間業者に委託していた。たとえば、塵埃の処理を見てみよう。
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 「自家で処置」とあるのは、生活ゴミを自宅で燃やしたり穴を掘って埋めたりする方法と、そこいらの空き地や川へ出かけて投棄する(ぶちまけてくる)場合だ。「不明」は、回答拒否か要領を得ない答え方をした家庭で、おそらく「そこらへぶちまけ」ケースが多く含まれているとみられる。
 民間の塵埃掃除人(ゴミ屋さん)へ依頼するケースでは、たとえば896戸の4人家族で総額299円08銭/月、1戸あたりの平均は33銭37厘/月を支払っている。塵埃回収の料金については、戸別や人員別、回数別など詳細をきわめた集計や分析をしているが、膨大な統計コンテンツになるので割愛し、カラー印刷された「塵埃表」のみを掲載しておくことにする。また、各家庭のほか、95の工場Click!におけるゴミ処理法も調査しており、業者に委託する総料金は24円30銭/月となっている。
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 「自家で処置」とあるのは、焼却炉などの設備がある工場だろう。「不明」は家庭の場合と同様に、回答拒否か明確な答えが得られなかった工場で、どこかへ投棄するか川へ流していたケースも含まれているのだろう。
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 次に、汚物汲取りの状況を見てみよう。大正末、すでに上下水道が引かれ、浄化槽が設置された東京の市街地では水洗トイレが普及していたが、東京市の外周域や近郊では上下水道ともに未整備で、トイレは汲取り式が一般的だった。それでも水洗トイレにしたい家庭や施設では、高額な浄化槽設備を敷地のどこかに埋設して、これまた高価な水洗トイレ設備一式を購入し、大規模な工事をしなければならなかった。したがって、おカネ持ちで敷地が広い邸宅でなければ、水洗トイレClick!には手がとどかなかった。これは高田町に限らず、落合地域でもまったく事情は変わらない。
 以下、1925年(大正14)に出版された『我が住む町』Click!(自由学園)から引用しよう。
  
 我々の大部分は汚物を汲取人に托してゐる。其の他自家で始末するもの、家主が処置するもの等あるけれど、三.五六パーセントにすぎない。汲取人に托するものゝ内無料が二.七一パーセント、物品をあたへるのが〇.二六パーセント、他はすべて一月に幾何かづゝ料金を支払つて居る。表に示すのはすべて一ヶ月分の料金高で、五銭八銭と云ふのは半年か一年分を支払つて居るのを一月に換算したもの。/料金にずてぶん差のあるのもあるが、汲取人に托すものゝ内五十六.八三パーセントまでは五〇銭から七〇銭までの料金を支払つてゐる。戸数は三千七百二十四戸、次いで三〇銭から五〇銭までの料金を支払ふ家で三〇.〇五パーセント、一千九百六十九戸である。
  
 文中で、「自家で始末」は“有機肥料”として使う農家、「家主が処置」と汲取り料金が無料の家は、おそらく近くの農家と契約して肥料用に提供している家庭だろう。汚物汲取りや清潔屋についても、女学生たちは各戸別、人員別、さらに工場などについて詳細な分析をしているが、長くなるのでカラー印刷の表を掲載するにとどめたい。
 生活ゴミの中でも、燃えないゴミや粗大ゴミなどは清潔屋(クズ屋)に引きとってもらうのが一般的だった。7,076戸のうち、清潔屋を呼んで回収してもらうのが5,212戸で、全体の73.66%を占めている。このうち、19戸が無料でゴミを引きとってもらっている。ゴミといっても、金属やリサイクルできるものが含まれているため、清潔屋はそれらを専門業者に転売しては利益を得ていた。
 また、清潔屋を呼ばない家庭が1,707戸(24.1%)もあり、処理が不明の家が157戸(2.22%)ある。同書の巻末には、生徒たちによる「調査の感想」が掲載されているが、ゴミを近くの空き地や川へ投棄する事例があり呆れているので、清潔屋に払うおカネを惜しんだ家庭も少なくないのだろう。無料の家19戸を除き、5,193戸が清潔屋に払う総額は664円13銭/月、平均1戸あたり12銭8厘/月だった。
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 最後に、「下水」について見てみよう。当時の高田町では、下水道の大部分は道路脇に掘られていた溝(開渠が8割強)を流れており、調査できた全7,183戸の83.34%を溝下水が占めていた。ただし、この溝は石やコンクリートで固められた、蓋もある完全なものから蓋のないもの、側面のみを固めて底は土が露出しているもの、ただ土を溝状に掘っただけのものなど形態はさまざまだったようだ。
 次に多かったのが、「吸い込み式」と呼ばれるもので、穴を掘って下水をそのまま地中に浸みこませる方式だ。これも、土管を地中に埋めて遠く離れた田畑などへ送り地中に浸みこませる、今日の下水管のような高度なものから、家の排出口に土管を埋めて敷地内に掘った穴へ注ぎ、地中に浸みこませる一般的なもの、汚水を家の外の排出口からそのまま地中に浸みこませるものなどいろいろだ。全戸のうち、13.4%の家庭が地面への「吸い込み式」を採用している。同書より、再び引用してみよう。
  
 溝と云つても蓋のないもの、又流れずに滞つてゐるもの、その為めに蚊等の発生の激しいと聞くことが多い。又此の町の飲料水、使用水は全部井戸からであるが、下水の不完全の為め汚水の井戸の方に浸透したりして非常に不潔であると云ふことも、或方面にはあつた。高田町の下水、それは決して完全のものではない。
  
 以下、下水の方式と戸数の表を掲載してみよう。
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 自由学園の女学生たちは、1925年2月26日(木)と27日(金)の2日間、朝から6調査区に分けた高田町へいっせいに散って調査をはじめた。調査区6班全体の総班長を決め、その下に調査区ごと6班長を置き、さらに細かな地区別のリーダーを決めて、準備会や予行演習で打ち合わせをした手順どおりに各戸をまわっている。
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 また、自由学園の校舎には、とどく情報の交差点として留守番の後方支援班を置き、午後4時をめどに町から調査員たちが次々ともどってくると、作っておいた熱いお汁粉を給食している。後方支援班を除き、高田町をまわった調査員は総勢167人だった。

◆写真上:1921年(大正10)に撮影された美術授業で、教師は洋画家の山本鼎Click!。「自由画運動」を推進していた山本鼎は、進んで学園の教師を引き受けたのだろう。
◆写真中上は、女学生たちが高田町の全戸へ事前に配布した「衛生調査依頼趣意書」。は、同調査に使用された家庭の衛生状態の質問カード。
◆写真中下:1925年(大正14)出版の『我が住む町』(自由学園/非売品)に掲載の「塵埃調査」グラフ()と「汚物汲取/清潔屋調査」グラフ()。
◆写真下:1923年(大正12)に開催された、東京市陸上競技大会に出場する選手たちの記念写真。高跳びや幅跳び、ハードルなどの競技で強かったようだ。

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