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高田町の商店レポート1925年。(9)炭屋 [気になるエトセトラ]

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 従来の商店インタビューClick!とは異なり、自由学園Click!高等科2年の石井輝子が訪ねた炭屋のレポートは、主人が質問に答えた言葉をそのままの形式で綴るのではなく、取材で解釈したり感じたり、観察したことを彼女自身の言葉で表現する文章となっている。したがって、主人の語り口は最小限のことしか書かれていない。
 開店して1年足らずの店だが、彼女はすでに主人とは顔なじみだったらしく、「何時会つても何時来ても愛想のいゝ気楽さうな主人」とあえて書いているので、自宅近くの店だったのかもしれない。彼女が店を訪れたとき、薪や炭俵を積み上げた店先で、主人は炭粉がついた黒い顔をしながら薪を割っている最中だった。仕事の邪魔をするのは気がひけたが、彼女が取材の趣旨を説明すると、イヤな顔もせず仕事の手を休めて、いろいろなことを詳しく教えてくれている。
 炭屋の主人が話した薪炭(しんたん)商の詳細を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 先づ『炭と申しましてもなかなか種類が多うございましてね』と切り出した、奥州、野州から出る物の中に桜炭、楢丸、楢割、ぞう丸、ぞう割等、その他紀州から出る物には大丸、中丸、角びん、小びん、一丸、丸丈、等其他にもまだ随分種類が多いさうです。けれど東京では大抵奥州、野州から出る物を、使ってこの店でも紀州物はあまり取扱はないさうです。何処の炭が一番良いんですかと聞いたら、釜の加減で時には大変よく焼ける事もあるが、時には悪く焼ける事もあるから、一概には云へないが、紀州の物は一番上等で、桜炭は常陸が良い。福島から来る炭はあまり良いのがないと云つてゐました。どの商売にも仲買と云ふのがありますが、やはり炭にも仲買人が居るさうです。大抵はその手を経てくるので、客にもよるがまあ平均俵あたり五銭位の口銭ださうです。そして小売する時には一割から一割二分の口銭で、同じ値で思はぬ良い炭が手に入ればもつと口銭を取ることもあるが、悪い品が手に入つた時には損をして売ることもあるそうです。
  
 炭屋の主人は、質のいい炭は紀州の炭か常陸の桜炭といっているが、これは家庭で使用することを前提に、火力が安定して火持ちがいいという面からの評価だろう。たとえば、これが鍛冶の火床やガラス細工の炉、焼き窯など製造用の炭となると、紀州の炭も常陸の桜炭も“ダメな炭”ということになる。
 炭には、それぞれ材質によって温度や火力に大きな差があり、火力を短時間で上昇させて火床や炉、窯などを一気に高温にし、なにかを焼成したい場合には、家庭では火花がはぜて面倒なのであまり使われない、松炭(アカマツの炭が主流)が最良ということになる。炭には多種多様な特徴があるので、その用途によって選ぶのが案外むずかしい。また、主人もいっているように、時季によって焼き具合に出来不出来のムラがあるし、特定の地域の炭のみが安定した品質にならないのでなおさらだ。
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 下落合でも、1990年代ぐらいまでは「炭・練炭・薪」という文字を掲げる薪炭専門店の看板を何軒か見かけていた。あるいは、プロパンガスや灯油などを扱う燃料店でも、「炭・薪」の文字を目にしていた。おそらく、いまでもその何軒かは目立たないが、特定の得意先を相手に商売をつづけているのだろう。
 炭は、いまだに手あぶり用の火鉢や鍛冶店の火床(ほと)、料理屋の厨房、あるいは茶室の炉(おもにナラ炭やクヌギ炭が主流)などで需要があったのだろうし、薪は住宅の暖炉に用いる燃料用なのだろう。あまり目立たないが下落合には茶室が多く、30代ごろ住んでいた聖母坂Click!のマンション1Fにも茶室がしつらえられており、近くの薪炭屋から定期的に炭を購入していた。また、昔ながらの暖炉つきの住宅もけっこう見かけるので、それなりに細々と商売が成り立っているのだろう。
 つづけて、石井輝子の炭屋インタビューを引用してみよう。
  
 仕入はわざわざ山まで行かなくても、手紙で炭が無くなりかけた時や、得意から特別注文のあつた場合に、山なら山、問屋なら問屋へ注文すれば運送屋に託して送つて呉れるさうです。八百屋や呉服屋の様に別に仕入れに行かなくても好いし、酒屋の様に少しづゝの注文もないから、あまり急がしい商売ではないらしい。現金と掛買とどちらが多いんですかと聞いたら、勿論掛買で七分から八分が掛買の得意だそうです、学校や役所とかなら勘定もなかなか堅いが、勤人でも中流以下だと他の入用が多いとそつちへ廻して、炭代の方へはなかなか廻して呉れないで、ずいぶん滞つたのもあるさうです。一人では全体を動かすことは出来ないが、学校なんかで宣伝していたゞけるなら、現金取引を実行するやうにしたいと云つて居ました。
  
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 ここでも、嗜好品(たとえば酒など)と同様に生活用品の支払いが、食料品などに比べて後まわしにされる、当時の掛け売りの状況が語られている。家計のやりくりがたいへんな家庭では、食料品の支払いが滞ると店から配達してくれなくなり、死活問題になりかねないので優先して代金を払うが、それ以外の支払いは「家計に余裕があるときに払う」ぐらいの感覚だったのだろう。
 炭屋の場合、掛け売りが7~8割もあったというから、その回収には多大な労力が必要だったろう。ましてや、この炭屋は高田町で開店してから間もない店であり、商売の苦労は並たいていでなかったにちがいない。掛け買いではなく、現金取引を推進するために「学校なんかで宣伝していたゞけるなら」という主人の言葉に、掛け買いをしたままなかなか払わない顧客で苦労している様子がうかがわれる。
 また、この炭屋の近くにはライバル店が1軒、少し離れたところには2~3軒の同業が開店していたというから、顧客の獲得競争も激しかっただろう。ただし、ここの主人はあまり他店を「商売敵」のようにとらえてはいなかったらしい。むしろ、その性格から地道かつこまめな営業で、確実に稼ぐほうへ注力していたようだ。再び、『我が住む町』収録の「小売商を訪ねて」から引用してみよう。
  
 新しい店を出して、古くからある家と同じ様にお得意を得るのは、苦しい事だけれど、お得意と云ふものは定つてゐない様なもので、勉強次第だそうです。人様が二円五十銭に売る物は二円四十銭に売り、人様が帳場にゐて小僧を使つてゐる時に自分は注文取りに行くと云ふ風に努力さへすれば、お得意はふえてくれますと言つてゐました。酒屋の様に小売は多くないから、毎日注文取りに出かける必要もなく、配達したついでに途々の家へ明日か明後日はお炭が無くなる頃だと思つた家へ見こしては注文を取りに行つて、注文があればそれを注文帳に記しておいて、店の暇な時に配達の準備に店の方へ出しておくのださうです。資本はと尋ねたら、派手な人なら五千円と云ふでせうが、まあ二千円位あれば努力如何で何うにかやつて行けますと云つてゐました。
  
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食堂のイス&テーブル遠藤新192304.jpg
 「おかげさまで此の頃はだいぶんお得意もふえました」と笑顔で語る主人へ、彼女は最後に商売でいちばん苦しいことはと訊くと、「同じ値段で良い品物を手に入れる事」と、「昔からある店の様にいゝ得意を得る事」だと答えている。このふたつのテーマは炭屋に限らず、どのようなビジネスにも共通していえることだ。次回は、女学生が気をつかったのだろう、洋装ではなく着物袴の和装で取材に訪れた「蕎麦屋」をご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:竣工直後の写真Click!と変わらない、西側の校門から見た自由学園校舎。
◆写真中上は、囲炉裏や茶室の炉などでよく使われるクヌギ炭やナラ炭。は、佐伯祐三Click!がアトリエの中2階へ持ちこみ曾宮一念Click!たちと囲んだすき焼きでも登場する、昔懐かしい七輪Click!(ひちりん:大阪ではカンテキ)。
◆写真中下は、薪炭屋の店先に積まれているのを見かける薪。は、三岸アトリエClick!の北面に設置された応接室の暖炉煙突。
◆写真下は、1923年(大正12)9月に起きた関東大震災Click!の直後から罹災者への支援活動を開始した自由学園の女学生たち。同震災による自由学園の被害はガラスが1枚割れただけで、写真は罹災者の子どもたちへ毎日とどけるミルク配り活動。そのほか、自分たちで布団や着物を縫って被災家庭へとどけるなど、1学期分の授業をすべてつぶして救援活動に専念した。そのため、この年の修業式は翌年の夏に行われている。は、1923年(大正12)4月に遠藤新Click!の設計デザインで完成した食堂の調度やイス&テーブル。

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佐伯祐三が学んだニワトリの飼育法。 [気になる下落合]

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 少し前に、佐伯祐三Click!がアトリエの庭で飼っていた、採卵用ニワトリの品種の特定(大正期の安価な黒色レグホーンClick!とみられる)を試みたが、飼育法の勉強をしなければ効率のよい飼い方や、規則的な採卵もできなかっただろう。佐伯は、それを家の向かいにあった養鶏場Click!(のち中島邸Click!→早崎邸)で教えてもらったか、あるいは飼育法を書いた書籍やパンフレットなどを参照しているとみられる。
 以前、農家や一般家庭を問わず、昭和初期に大流行したハトを飼育する投資ブームについて記事Click!を書いたけれど、明治末から大正期にかけてはニワトリを飼育する一大ブームが起きている。それは米国やヨーロッパで品種改良された、優秀なニワトリが次々と輸入され、乳牛につづく農家の現金収入には最適な副業だったのと、洋食や洋菓子の普及とともに牛乳と同様、鶏卵の需要が爆発的に伸びていたからだ。
 佐伯祐三が、おそらく1921年(大正10)の秋ごろ、画家になる自信が揺らいだのか同郷の鈴木誠Click!に、「富士山のすそのに坪一銭という土地があるそうだ、到底絵描きになれそうもないので、鶏でも飼って暮そうかと考えている、どうだろう」」(「絵」No.57/1968年11月)と相談しているのも、そんな養鶏ブームを反映した言葉だろう。そのころには、すでに黒色のニワトリを庭で飼い、養鶏の勉強をはじめていたのではないかと思われる。凝り性の佐伯のことだから、ニワトリの飼育法を記したパンフレットや、飼育本を手に入れては勉強していたにちがいない。
 また、自邸の斜向かいが養鶏場であり、情報を手に入れやすい環境もあったとみられる。鈴木誠に、「富士山のすその」という具体的な立地の話をしているのは、下落合の宅地化が進むにつれ、向かいの養鶏場は移転先を探している最中であり、その候補地のひとつが坪1銭の「富士山のすその」だったという経緯の可能性もありそうだ。事実、佐伯が第1次渡仏からもどってみると、養鶏場は移転しており、その跡地にはハーフティンバーの大きな西洋館=中島邸が建設されていた。
 さて、佐伯は大正中期にどのようなニワトリの飼育法を学んだのか、当時のパンフレットから想定してみたい。大正初期に発行されたとみられる、下落合の「萬鳥園種禽場営業案内」から養鶏法の項目をピックアップして引用してみよう。
  
 鶏舎の構造法
 第一、空気の流通最良なること(鶏舎は南東向を第一とす)/第二、湿気の侵入絶無なること/第四?、掃除至便なる様/第五、数種類を飼養する時は甲乙混入の恐れなき様作ること/第六、各舎の堺柵下甲乙相見る能はざる様地上二尺位腰板を付ること/第七、飼養上出入に至便なること/以上の方法を以て其羽数の多少に因り加減せられたし 雛舎一坪には拾羽を入れ可得 運動場一坪には三羽を普通とす 然れ共割合の少なき程養ひ安し
  
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 なぜか、「第三」の構造法がパンフレットから抜けているのが気になるが、「十五羽の養鶏は優に田畑一反部の収益よりも大なり」を事業スローガンに、萬鳥園種禽場では多種多様なニワトリの種卵や各品種の雄雌つがいを販売していた。
 また、当時の養鶏業者が毎月定期購読していた養鶏の専門雑誌に、日本家禽協会が発行する月刊「日本之家禽」というのがあった。萬鳥園種禽場では、全国から会員を募って通販雑誌として販売していたが、佐伯祐三は向かいにあった養鶏場の事業者から、同誌を何冊か借りて養鶏法を勉強していたのかもしれない。曾宮一念Click!にニワトリを上げる際、庭先へすばやく鶏舎をこしらえている手慣れた様子を見ても、そのころの佐伯が養鶏に通じていた様子がうかがえる。
 ニワトリの品種によって育て方が異なる点も、同パンフレットには留意事項として書かれている。上記の養鶏法では、異なる品種を飼う場合、それぞれのニワトリ同士が見えないように「二尺」(60cm余)の柵をめぐらすこととしている。これは、ニワトリの種類がちがうとお互いが緊張して落ち着かなくなり、卵の産出量に大きな影響が出るからだ。飼育場は、ヒナの場合は1坪に10羽、運動場には3羽がいいとされているので、佐伯アトリエの庭に7羽のニワトリは理想的な環境だったのではないだろうか。
 また、斜向かいの養鶏場のニワトリが、おそらく佐伯邸の庭からも見えた可能性があり、採卵効率を考えれば養鶏場とは異なる品種ではなく、ニワトリの落ち着きを考えて同じ品種のレグホーン種を飼いはじめたのかもしれない。すなわち、養鶏場で飼われていた品種もレグホーン種だった可能性が指摘できそうだ。ただし、養鶏場のニワトリは白色レグホーン種だったのに対し、佐伯はそれとは差別化するために黒色レグホーン種を選んだものだろうか。養鶏場から、「うちの逃げ出したニワトリを私物化してる」というようなクレームやトラブルを避けるためだったのかもしれない。
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 また、ニワトリの品種によっては体力や性格に強弱があり、エサも動物質から植物質まで多種多様なので、できるだけ異なる品種を混同せず、1種類のニワトリを同一の鶏舎で育てることが望ましいとされている。すでにヒナを育てる段階から表面化する、ニワトリの強弱を一覧表にすると以下のようになるという。
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 つづけて、ニワトリのヒナを育てる注意点を、同パンフレットから引用してみよう。
  
 育雛法の相異点
 今其の一例を挙れば「シヤモ」と「チヤボ」とは在来種中の両極端にして亦ハンバーグ種とコーチン種とは新輸入種中の両極端に近きものと云ふを得べし 故に「シヤモ」の育雛上の最良法を「チヤボ」に用ゆれば如何 恐らくは好結果を得る事能はさるべし 故に今種類により雛の強弱を評し初心家の参考に教せんとす(中略) 孵卵器又は同一母鶏内に数種を抱卵せしめんとする場合には注意せさるべからず 強なるものと弱なるものと同一器内に入置く時は美食の如き多くは強者に占領せらるゝが故弱者は好結果を得る能はさればなり 故に数種を入卵せしむる時は其発育のほゞ似たるものを抱卵せしめさるべからず
  
 もってまわったいい方で、悪文の代表のような日本語の文章だが、明治末から大正初期にかけては、このような文語調(おもに中国語風の文体)のコピーが「高尚」で「格調」が高かったのだろう。要するに、ヒナのときから性格の強いニワトリと弱いニワトリを同一の場所で飼育すると、強い品種に「占領」されてしまうので、いい結果(発育や採卵など)を生まないということだろう。佐伯が育てていたとみられる黒色レグホーン(レグホン)種は、多彩なニワトリの品種の中でも「普通」種であり、「初心家」でも育てやすかったにちがいない。
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宇田川邸.jpg
家禽学講習録(日本家禽研究会)1921.jpg おくさまとお子さま方の簡易養鶏法(隆文館)1921.jpg
 大正の初期、養鶏の先進地域は千葉県だったらしく、中でも匝瑳(そうさ)郡では郡内各地の尋常小学校内に養鶏場をつくり、子どもたちがニワトリの飼育をして卵を業者に売る「鶏卵貯金会」制度を設立し、収益金を授業料や学校の経費に充てて、地域に住む全児童が容易に就学できる仕組みを実現している。また、同県では養鶏農家が参加する組合「養鶏協会」を起ち上げ、組織的な養鶏改良や品評会などの事業を展開していた。

◆写真上:白色レグホン種とみられるニワトリを飼う、陽当たりのいい開放的な養鶏場。
◆写真中上は、大正初期における鶏舎用の金網とその価格表。は、1982年(昭和57)に撮影された下落合661番地の佐伯邸とその前庭。
◆写真中下は、大正期には採卵用として飼われていた黒色ミノルカ(メノルカ)種。は、1985年(昭和60)に撮影された佐伯邸とその前庭。
◆写真下は、大正期には愛玩用としても人気があった黒色ハンバーグ(ハンブルグ)種。は、ペットのニワトリを抱く宇田川様Click!。向かいの木立を透かして見える家は、佐伯祐三『下落合風景』シリーズClick!で1926年(大正15)10月1日に描かれたとみられる「見下し」の、フィニアル(鯱?)が載る赤い大屋根が特徴的だった旧・池田邸のリニューアル後の西洋館2階部。は、佐伯が下落合にアトリエを建てたのと同年の1921年(大正10)に出版された養鶏法のブーム本。日本家禽研究会から出版された『家禽学講習録』()と、隆文館から出版された一條仁『おくさまとお子さま方の簡易養鶏法』()。

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誤植が多い文展・帝展の記念絵はがき。 [気になるエトセトラ]

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 以前、pinkichさんからいただいた片多徳郎Click!の画集に掲載されている、長崎町の旧家の屋敷を描いた1934年(昭和9)制作の『郊外の春』Click!をご紹介したことがあった。片多徳郎が、名古屋で自裁する直前に描いたものとされ、実質上の遺作となった作品だ。同年秋に開催された、第15回帝展に遺作として出品されている。
 そこで、どうしてもカラーの画面を観たくなったわたしは、帝展で発行されている展示品の記念絵はがき類に、片多徳郎の『郊外の春』が印刷されて残っていないかどうか、少し前から探しつづけていた。ところが、なかなか見つからない。どこの資料館や団体、古書店などのデータベースを検索しても、第15回帝展の絵はがきに「片多徳郎」は引っかからなかった。さんざん探しまわったあげく、絵はがきにならなかったのかとあきらめかけていたところ、念のために第15回の帝展でキーワードを「郊外の春」で探したところ、とある古書店で1枚がひっかかった。
 さっそく、現物を手に入れて絵はがきを参照したのだが、画家の名前がなんと片多徳郎ではなく、「片田徳郎」となっている。これでは、いくら片多徳郎でサーチしても見つけられないはずだ。資料館や古書店では、とりわけ美術に詳しい人物でもいない限り、「これは片田徳郎ではなく、片多徳郎の誤植だぜ」と訂正することができず、「片田徳郎」のままデータを登録してしまうだろう。
 以前から気になっていた、文展・帝展絵はがきに多い作者名の“誤植”については後述することにし、初めてカラーで目にする片多徳郎Click!の『郊外の春』について、ちょっと気になる点から見ていこう。まず、この画面はどう観察しても、「春」の風景には見えないのだ。中央の左寄りに描かれている、ケヤキとみられる大樹の葉が、どう見ても緑から茶色に変色しかかっているように表現されている。また、手前の畑地の枯れ草もそうだが、屋敷の奥まった位置に描かれている、やはりケヤキと思われる樹木の葉も、茶がかったモスグリーンで塗られている。
 わたしの家の周囲は、樹齢100年を超えるケヤキが多いが、ケヤキがこのような葉の色に変色しはじめるのは、晩秋の11月中旬から下旬にかけてのことだ。そして、12月上旬を迎えるころから、樹木全体が完全に茶色へと変色し、少し風が吹くと膨大な落ち葉Click!が家々の屋根や庭に降り注いでくることになる。
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 また、春先のケヤキは、空に向けて扇のように開く枯れ枝に、黄緑色の新芽や若葉を少しずつ増やしながら、鮮やかな新緑へと向かうのであって、画面のような葉のつけ方や色合いになることはまずありえない。おそらく、ふだんからケヤキの四季を見慣れている方は、すぐに「春」ではおかしいと気づくだろう。
 この作品のタイトル『郊外の春』は、そもそも作者の片多徳郎がつけた題名ではないのではないか? どう観察しても、画面の風景はこの地域一帯の晩秋の風情であり、あえて『郊外の晩秋』がふさわしいタイトルのように思える。長崎東町1丁目1377番地(現・長崎1丁目)のアトリエに遺された本作は、片多徳郎によってタイトルがふられないまま、彼自身は1934年(昭和9)4月28日に自死してしまったのではないか。
 1934年(昭和9)制作とされる同作だが、秋の第15回帝展が初出品なのでそう解釈されているにすぎず、ほんとうは前年1933年(昭和8)の暮れが近いあたりで完成している画面ではないだろうか。そして翌1934年(昭和9)の5月以降、アトリエに遺された本作を観た帝展関係者、または知り合いの画家、あるいは片多家の遺族のどなたかが、帝展で遺作を展示するにあたってタイトルが必要となり、画家が逝ったあと春のアトリエに遺されていた本作に、『郊外の春』とつけてしまったのではないだろうか。
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 さて、片多徳郎の『郊外の春』は、「片田徳郎」の“誤植”で探すのにずいぶん時間がかかってしまったけれど、わたしは同じような経験を何度もしている。先日ご紹介Click!したばかりの「下落合風景」の1作とみられる、『芽生えの頃』(1920年)を描く下落合803番地にアトリエをかまえていた柏原敬弘Click!も、片多徳郎と同様のケースだ。第2回帝展に出品された『芽生えの頃』の記念絵はがきでは、作者名が「柏原敬孝」と誤って印刷されており、いくら「柏原敬弘」で検索してもヒットしないわけだ。
 三宅克己(こっき)Click!も、“誤植”が多い悩ましいひとりだ。以前にご紹介した『落合村』Click!(1918年)や『諏訪の森』Click!(1918年)もそうだが、作者名には「三宅克巳」と印刷されている。彼の帝展絵はがきの場合、ほとんどが作者名を誤っているので、むしろ三宅克己よりは「三宅克巳」で検索したほうが数多くひっかかるぐらいだろう。ひょっとすると、美術年鑑のような基礎資料からしてまちがっており、それが延々と訂正されずにきてしまったのではないだろうか。この誤りには何度も遭遇してきたので、彼の作品を帝展絵はがきで探す場合は、最初から「三宅克巳」で検索するようになってしまった。
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 また、以前にご紹介した横井礼以の『高田馬場郊外風景』Click!(1921年)は、作者が「横井礼市」と印刷されていたが、これは「横井礼以」の筆名に変える以前の本名なので、東京美術学校の卒制データベースも含めて探しやすかった。でも、二瓶等Click!のように本名は二瓶徳松Click!なのだが、二瓶經松、二瓶義観、二瓶等、二瓶等観……と、しょっちゅう筆名を変える画家の場合は、もう途中で探すのがイヤになってしまうのだ。

◆写真上:1934年(昭和9)に制作された片多徳郎『郊外の春』だが、前年の1933年(昭和8)の11月末あたりに描かれた『郊外の晩秋』ではないだろうか。
◆写真中上:『郊外の春』の部分アップと、キャプション「片田徳郎」の“誤植”。
◆写真中下は、1920年(大正9)制作の柏原敬弘『芽生えの頃』のキャプション「柏原敬孝」。は、1918年(大正7)制作の三宅克己『落合村』のキャプション「三宅克巳」。は、同年制作の三宅克己『諏訪の森』のキャプション「三宅克巳」。
◆写真下は、1922年(大正11)の第4回帝展に出品された片多徳郎『春昼』。(筆名は正しく印刷されているw) ボタンとネコは、当時の画因にはめずらしい組み合わせだが、かわいいのでつい購入してしまった。は、筆名を横井礼以にする前の本名・横井礼市が印刷された『高田馬場郊外風景』の絵はがき(部分)。
おまけ
今年は下落合へのウグイス飛来が遅いですが、聴いていると鳴き声もまだ拙いですね。

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神田川の空を彩る染物工房の記憶。 [気になる神田川]

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 この前、歳のせいなのか「Uber Eats」がとっさに出てこなくて、たぶん通じるだろうと思い「最近、よくウーパールーパーが走ってるのを見るね」といったら、相手はほんの少し笑いながら「外食や買い物に出ない人が多いんだよね」と答えてくれた。
 わたしが小学校の低学年のころ、「そめものや(染物屋)」と「せんたくや(洗濯屋)」を混同していいまちがえていた記憶がある。母親が箪笥から着るものを持ちだし「染物屋」へ染めなおしに出かけるのを見て、「洗濯屋」(クリーニング)に出かけたのだろうと思いこんでいたのだ。だから、着てるものが古びて汚くなると染物屋に持っていけば、きれいになってもどってくると思いこんでいたらしい。おそらく誰かとの会話でも、恥ずかしいことに洗濯屋のことを染物屋と呼んでいたかもしれない。
 小学生のときは、外で遊んでドロドロになって帰るのが常だったので、母親からため息まじりに「この白い下着の汚れは、洗濯機では落ちないわ」といわれたとき、「染物屋にもってけばきれいになるんじゃない?」と訊いて、ようやく勘ちがいに気づくことになった。母親いわく、「パンツを染物屋に持ってってど~するのよ!」。以来、わたしのいいまちがいはなくなった。
 このエピソードで思い出すのは、中村伸郎Click!周辺の“爆笑コント”だ。1986年(昭和61)出版の中村伸郎『おれのことなら放つといて』(早川書房)から引用してみよう。
  
 私たち老化夫婦の対話は、時には他愛もなく長閑でもある。/「一寸買いものに行ってくる」/と私が立ち上ったら、女房が、/「どこへ行くンです」/ときいた。私の家の近くにセブンイレブンというスーパーがあり、食料品ばかりでなく、原稿用紙、ボールペン、録音テープその他色々ある。だから、それを、/「イレブン・ピーエム」/と私が言ったら、女房は平気な顔で、/「八ッ切りの食パンを一袋、買ってきて下さい」/と言った。セブンイレブンの近くに煙草屋があり、暗い店先に、眼の窪んだ九十二歳のお婆さんが店番をしていて、私が、/「セブンイレブンを下さい」/と言うと、お婆さんは黙ってセブンスターをくれる。
  
 自由学園Click!女学生Click!たちによる商店Click!企業Click!の個別訪問では、高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)にもかなり多かった、神田川沿いに展開する染色業Click!の工場や工房がほとんど登場していないので、わたしの思い出とともに少し書いてみたい。
 わたしの学生時代、神田川沿いや妙正寺川沿いには「乾し場」と呼ばれる、染物を天日で乾燥させる大きな物干し台のような構造物が、まだいくつか残っていた。この「乾し場」は、家々の屋根よりもよほど高く、遠くからでも視認できた。特に藍染めの長大な布が干してあったりすると、それが風にたなびいて美しく、まるで空に漂う鯉のぼりの吹き流しのように映えていた。それらの藍染めは浴衣地か、日本手ぬぐいの素材に使われたのだろう。戦前に撮影された神田川沿いの写真を眺めていると、あちこちに「乾し場」を見つけることができる。
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 授業が終わり、交通費を浮かすために神田川沿いを歩いてアパートに帰ろうとすると、1970年代末なので十三間通りClick!(新目白通り)はいまだ工事中のまま、神田川の改修工事がスタートしていたせいか、現在のようにずっと川沿いを歩ける遊歩道などなく、1本外れた道路を歩いたり、再び川沿いに出て歩いたりを繰り返しながら下落合方面に向かっていった。都電荒川線の早稲田電停あたりから豊橋をわたると、すぐ右手に大きな乾し場があり、ときどき染物が風に揺れて美しかった。その乾し場が、佐藤染業のものであることを知ったのは、ずいぶんあとのことだ。
 神田川沿いの染色業は、江戸期には神田紺屋町で開業していた工房が多く、明治から大正にかけて江戸川Click!(現・神田川の大滝橋あたりから舩河原橋までの旧称)沿いへと移転し、関東大震災Click!以降はより上流で水がきれいだった戸塚地域や落合地域、また神田川へ落ち合う妙正寺川沿いへと展開したケースが多い。同じ豊橋近くで開業していた、武蔵屋染工場の記録が残っている。1994年(平成6)に豊島区郷土資料館から発行された、「町工場の履歴書」展図録から引用してみよう。
  
 武蔵屋はもと神田の紺屋で、のち江戸川に移り、関東大震災で焼けて高田に移転してきました。この頃からインジゴ(合成藍)やドイツの化学染料の「バット」で浴衣地や手拭いを染めていました。当時の神田川は水量も多く、水が澄み、流れがゆるやかで温かいので、「みずもと」(水洗い)の時に糊がすぐ落ちてよかったといいます。/修行先の武蔵屋には乾し場が3つあり、普段は30~40人が働き、10月から暮れにかけて年始回り用手拭いの注文で最も忙しい時期は、新潟から出稼ぎ職人が来て総勢70~80人となりました。当時としては大規模な染工場だったといえるでしょう。(中略) 昭和25年頃幸次郎氏は武蔵屋の名前を引き継ぐ形で、三島橋近くの戸塚町に染工場を設け、井戸水による染色を始めました。その後新目白通りの拡幅工事により、下水道が完備していた現在地に移転しました。/近年浴衣や手拭の需要が減少し、工場では職人不足で型付けや染色技術の伝承が困難になってきています。
  
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 佐藤染業についての記述はないが、おそらく武蔵屋染工場と同じような経歴をたどってきたのだろう。豊橋(戦前)から三島橋(戦後)、そして高田2丁目(1994年現在)へと移転した武蔵野染工場は廃業したが、わたしの学生時代に乾し場が印象的だった佐藤染業は、いまだに健在だ。もっとも、川沿いの風物詩だった乾し場はとうに撤去され、いまでは構内の脱水機と乾燥機で染物を乾かしているのかもしれない。
 1974年(昭和49)に東宝で制作された、『神田川』(出目昌伸・監督)という映画がある。フォークの『神田川』Click!のヒットで、たくさんの観客動員を当てこんだ稼ぎ目的の作品だが、冒頭シーンからして旧・隆慶橋が登場し、東詰めの角地にあった「みみずく家」Click!(タバコ屋)の建物が懐かしい。ずいぶん昔に、いい映画と好きな映画はちがうという記事Click!を書いたけれど、映画のストーリーそっちのけで、当時の風景にジーンとしてしまうのは、おそらく歳のせいだろう。
 映画の筋などどうでもよく(ただし高橋惠子はキレイだけれどw)、70年代の神田川の風景や、わたしの歩いていた街角があちこちのシーンで登場するのを飽きずに眺めていたりするのは、きっと外出する機会が減って精神的に内向化しているせいだろう。この道をそのまま左へ少し歩けば、1974年(昭和49)の下落合なんだけどな、そこではちょうど別のドラマClick!が撮影されてたはずなんだ……などと思いながら、シーンを早送りして風景や街角を何度か見返してしまう。
 映画『神田川』には、豊橋やその右岸にあった小さな稲荷大明神(たぶん個人邸のものだったのか現在は行方不明)、そして佐藤染業の社屋と大きな乾し場が登場している。ヒロインの高橋惠子(当時は関根恵子)の住んでいるのが、佐藤染業の西隣りにある古い木造アパートの2階という想定だったからだ。佐藤染業の従業員たちは撮影当時、『神田川』のロケを楽しみながら見ていたのだろう。
 染物工場の中には、かつて田島橋Click!の北詰め、下落合69番地にあった三越染物工場Click!からの仕事を引き請けていた工房も、高田町には少なくなかったという。いつか記事に書いた、戸塚町で営業していた林染工場Click!と同様のケースだ。
神田川稲荷1974.jpg
武蔵屋染工場(戦前).jpg
町工場の履歴書1994.jpg 神田川映画1974.jpg
 だが、浴衣や手ぬぐいの需要が下がるにつれ、染色工場からクリーニング工場へ転換する事業者も現れた。染色業とクリーニング業とでは、洗いや乾燥の工程で、どこか設備が似通っていたからかもしれない。すると、わたしの小学生時代、「染物屋」と「洗濯屋」の勘ちがいも、あながち大きなピント外れではないような気がしてくるのだ。

◆写真上:神田川の豊橋付近で、稲荷は画面左手に見える車止めあたりにあった。
◆写真中上は、1930年(昭和5)に神田川改修工事の竣工直後に撮影された写真で高い乾し場が印象的だ。おそらく、三島橋から上流の面影橋を眺めたところ。は、1955年(昭和30)ごろに豊橋から撮影された佐藤染業の乾し場。は、豊橋から下流を眺めたところだが桜並木に隠れて佐藤染業が見えない。
◆写真中下は、1971年(昭和46)と1975年(昭和50)の空中写真にみる佐藤染業の乾し場。は、1974年(昭和49)撮影の同社乾し場。(『神田川』より)
◆写真下は、1974年(昭和49)撮影の豊橋際にあった稲荷。(同前) は、戦前に撮影された豊橋際の武蔵屋染工場。下左は、1994年(平成6)発行の「町工場の履歴書」展図録(豊島区郷土資料館)。下右は、1974年(昭和49)の映画『神田川』(東宝)DVD。

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高田町の商店レポート1925年。(8)酒屋 [気になるエトセトラ]

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 「静に春雨の降る日の午後であつた」と文学的なフレーズではじまる、自由学園Click!高等科2年生だった菅沼きみが酒屋を訪ねたのは、1925年(大正14)2月27日(金)のことだったと思われる。彼女は「春雨」と書いているが、東京中央気象台Click!の記録によれば東京市街地では雪が降っていた。前日の木曜まで曇りだった空は、この日から崩れて雪や雨に変わったようだ。
 酒屋の主人は、おそらく帳場に火鉢を置いてうたた寝をしていたのだろう。女学生が酒屋を訪うと、店の奥から「ひる寝からおこされた様な顔を笑ひにまぎらせ」ながら、彼女の前に現れた。話すのがあまり得意ではないらしい主人だったが、彼女の質問にはていねいに答えている。
 当時の酒屋は、現代でも多く見られるケースだが和洋の酒を並べるとともに、みりんや醤油、味噌などの調味料を同時に扱う店が多かった。また、来店した客に酒を売るだけでなく、“つまみ”を用意して酒をその場で飲ませる店も少なくなかったらしい。女学生が取材に訪れた酒屋でも、その場で酒を飲ませるコーナーがあった。
 店名が不明な酒屋の主人の証言を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 『酒の産地……大部分は灘ですが、そこの醸造元で出来たものが、東京の発売元に来て、そこから小売商の手に入るんです。家の仕入れてくる所ですか、神田です。』 酒屋のお得意は、大部分御用をきゝに行つて配達する。皆通帳で月末払ださうだ。『そんなら手がいるでせう。』『いや別にさう手はいらない商売です。私の所でも弟が手伝つて居るばかりですよ。それに魚や八百やのやうに、毎朝仕入れに出るといふ風な事もないんですし、えゝ別にきまつちやいませんがね、なくなり次第に行くんです。一番よくうれる品ですか、まあ、やつぱり中等品でせうな。』 中等品と云ふと一升二円内外ださうだ。そしてそのへんの酒が一度にどの位づつ(ママ)出るかと聞くと『大てい五合以下ですよ、こまかいんです。』 得意には労働者が多くて、一軒の家が平均して見ると、一日一合乃至二合位の割合で出るさうだ。又店にきて飲むものも、一日五六人づつある。一合づつ飲んで行くのが普通で、悪ひ酒だ。(カッコ内引用者註)
  
 この酒屋が仕入れていた「東京の発売元」は、1596年(慶長元)に神田鎌倉河岸で開店した「豊島屋」ではないだろうか。豊島屋は、江戸期から灘の酒を一手に卸販売しており、また豆腐田楽をさかなに酒を安く飲ませる、日本の居酒屋のルーツとなった店でもある。江戸期は幕府御用達の店だったが、明治以降は自家で日本酒醸造を手がけて現在にいたる、創業430年近い酒屋の老舗だ。
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 「通帳」という用語が出てくるが、これは銀行や郵便局の通帳ではなく、各家庭に御用聞きClick!がまわって置いていく、売掛け(家庭から見れば買掛け)の記録を記載した帳面のことだ。店側では、この通帳をもとに月末になると戸別に集金してまわり、各家庭では通帳を見ながら店へ支払う現金を用意するという仕組みだ。
 得意先に「労働者」(工員や職人など)が多いとしているが、酒は「中等品」がよく出るといっているので、それなりに稼ぎのある「労働者」たちなのだろう。また、買い方は斗升買いではなく五合以下で細かいとしているので、倹約している家庭が多かったようだ。また、仕事帰りに店に立ち寄って飲んでいく客が1日に5~6人ほどいて、取材した女学生は「悪ひ酒だ」と書いている。
 これは、「一合づつ飲んで行く」酒の品質が下等品で「悪ひ」のか、あるいは酔っ払った客がクダを巻いたり、主人に文句をいってからんだり、客同士で喧嘩をしたりと、どうしようもない酔い方をするので「悪ひ酒」なのか、どちらをさすのかがいまいち不明瞭だが、わたしは後者ではないかと想像している。おそらく、取材にきたやさしそうな女学生に、酒屋の主人が延々と酔客のグチをこぼしたのではないだろうか。
 店にお客が買いにきたのを契機に、話は酒から調味料へと移っている。やはり東京では、「山サ」と「亀甲萬」Click!の人気が江戸期から変わらずに高かったようだ。つづけて、口ベタな酒屋の主人の証言を聞いてみよう。
メルシャンワイン(旧・大国葡萄酒).JPG
  
 『お醤油を下さいな。』と云つて四合ビンをさげて、どこかのおかみさんがやつて来た。『えゝ五十銭、六十銭、七十銭、とあります。』 するとおかみさんは一番安いのを買つて行つた。醤油は店買ひでないお得意は大抵樽で買ふ。品は「山サ」「亀甲萬」等の上等品が出るさうだ。味噌も大部分配達するが、やはり百匁二百匁位づゝださうだ。けれどもこれも比較的上等品が多いといふこと。主人は煙草をふかしながら『この頃の売れ工合ですか、今年は去年なんかに比べれば悪いですな、世間が一般に不景気だつたんですからね。エ(、)それでも酒が一番よく売れますな。』 私達には味噌醤油の方が必要品だと思はれるが、不景気だと云つても酒の方がよく売れる。今のやうな人々の気持では、酒はなくてならないものらしい。奥の部屋でおかみさんがさつきから通帳の整理をして居るらしかつたので、『現金の方が都合がよいでせう。』と云ふと、『それにこしたことはありませんがね、お得意の方で中々さうはいかないんです。』 従つて月々払つてもらへないのがいくらかづつ定つてあるのだ。殊に酒の方などは多く使ふ家に、払はない家が多いさうだ。
  
 どうやら、この酒屋では調味料の得意先にお屋敷が多く、酒の得意先には「労働者」の家庭が多かったようだ。家の収入以上に酒を飲んでしまい、酒屋に借りをつくっている家が数多くあったらしい。
 酒屋の取材では、文章の多くを主人の言葉そのもので表現するのではなく、随所に取材した女学生の言葉をつなぎで入れているのは、口ベタな主人のせいだけではないような気がする。おそらく、そのまま文章化するにははばかられる、顧客に対する不満やグチ、文句などを女学生相手にずいぶんこぼしているからではないだろうか。特に、通帳による売掛けの代金が、なかなか回収できない点をかなりグチッているのか、消費者で顧客の側である女学生は少し反発している。
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 頼みもしないのに、家庭をまわって通帳を勝手に置いていくのは、売掛けをする店のほうではないか……と、女学生がやや反発気味に問うと、酒屋の主人は「それは宣伝のためですよ」と答えている。つづけて、「酒屋に特別の苦心もないけれど、何と云つたつて、商人として売つただけ払つてもらうのに苦心もし心配もしますね」と締めくくった。次回は、いつ訪ねても愛想がよくて気持ちがいい、「炭屋」の訪問記をご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:自由学園のホールから、西側ウィングの教室を眺めたところ。
◆写真中上:最近は、ネット通販の大量販売に押され気味な酒店。
◆写真中下:酸化防止剤が無添加のメルシャンワイン「赤」。下落合10番地に壜詰め工場があった、甲斐産商店Click!(大黒葡萄酒Click!)の現代版。
◆写真下は、1923年(大正12)1月25日に帝国ホテルClick!で開かれた女学生たちによる舞台で、演目はシェークスピアの『真夏の夜の夢』だった。は、1923年(大正12)3月3日の雛祭りに彼女たちの発案で開かれたコスプレ大会で、雛人形や七福神に扮した「活き雛祭り」。なにをやっても自由な反面、すべての責任は自分たちにあるという教育方針で、反対や異論がある場合は、それを説得するまで(されるまで)実施しないという、女性の自主独立や主体性をともなう民主主義教育が実践されていた。ただ、運動会でのスポーツや自由を標榜する人文字“JIYU”を校庭に描く「自由行進曲」のBGMで、彼女たちの応援に駆けつけていたのが戸山ヶ原Click!陸軍軍楽隊Click!だったのは皮肉なことだ。

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高田町の商店レポート1925年。(7)豆腐屋 [気になるエトセトラ]

自由学園大谷石.JPG
 いつだったか、下落合の目白文化村Click!を歩いていたら、豆腐の行商に出会ったことがある。あのプーッという、豆腐屋独特の懐かしいラッパを吹いていたが、乗っていたのはスクーターだった。近くの豆腐屋から、午後になると豆腐を入れた箱をうしろの荷台に載せ、近くの住宅街をまわっているのだろう。
 この街を注意深く見まわしてみると、昔から変わらない豆腐の専門店が、けっこうあちこちに残っているのに気づく。それだけ、スーパーで売っている工場で大量生産された豆腐ではなく、昔ながらの手づくり豆腐の需要が高いのだろう。うちの近所では残念ながら現在、専門の豆腐屋はまわってこないが、わざわざスーパーへ出かけなくても済むよう、多彩な食品を小型トラックに載せた「移動スーパー」Click!が毎週まわってくる。その中でも、豆腐はよく出る売れ筋商品のようだ。
 1925年(大正14)2月26日(木)と27日(金)の両日、自由学園Click!の女学生たちはいっせいに商店の取材に高田町内へ散っているが、高等科2年の清水雪子が取材に訪れたのは豆腐屋の「尾張屋」だった。豆腐屋は朝が早く夕方には閉まってしまうので、彼女は店じまいの少し前、その日の商売がほぼ終わる夕方近くに訪ねている。一連の商店インタビューを読んでいると、女学生たちは店の繁忙時間を事前に観察して認知しており、できるだけその時間帯を避けて取材に訪れている気配がうかがえる。
 さて、豆腐屋の「尾張屋」さんは、高田町の住民よりも下落合の住民のほうが多く利用していたのではないだろうか。「尾張屋」が開店していたのは、自由学園から南南西へ直線距離で500m弱、目白通り沿いの高田町金久保沢1120番地(現・目白3丁目5番地)の角地、つまり高田町と落合町の町境で営業をしていた。店の斜め前の北側も西側も、そして南側もすべて下落合で、目白通りから近衛町Click!へと入る道筋の角店だ。この時期、1922年(大正11)からはじまった東京土地住宅Click!による近衛町の開発Click!で、建設工事用の車両が店の前を頻繁に往来していたのではないだろうか。
 では、豆腐店「尾張屋」の主人のインタビューを、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。ちなみに、同レポートで具体的な店名が記されていて店舗を特定できるのは、この豆腐屋1軒のみだ。
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 『豆腐屋はずいぶん早く起きなくてはならない商売で、家などは三時から起きて、まあ一日に四斗の豆をつぶします。そのうち半分は白に、残りの半分は又半分に分けて、焼と油揚げに造ります。家では七人の職工がゐまして、四人は行商にかゝり、三人は製造の方にまはります。朝は六時には売りに歩くのですからね――、一箱冬ならばあけがありますので、三円位のものを持ち歩きます。夏はまあ二円位ですね、冬の方が売行がいいのです。いや、箱が空になるのは夕方位のものですよ。朝とか昼の稼ぎを合せたものが夕方のものになりますね。ですから、一人の行商人が六円平均に稼ぎます。一人の給料は寝泊りをして食べさせて、その売上高の二割二分払つてます。一人前の職工になるには、十四五歳から住み込んで、五年はかゝりませう。なかなかむづかしいものですよ。それで小僧が入営した時は1ケ月五円づゝの小遣をやつて除隊すればまた勤める様にしてます。』
  
 主人は、豆乳4斗(72リットル)の半分が「白」と証言しており、その中で絹ごしと木綿ごしの比率が知りたいが、女学生はそこまで訊いてはいないようだ。
 山手線の目白駅Click!をはさんで、目白橋Click!をわたった南東側は学習院Click!のキャンパスなので商売はできないが、北東側の高田町雑司ヶ谷大原(現・目白2丁目)、店のある北西側の同町雑司ヶ谷旭出(目白3丁目)と下落合、そして西側と南側の下落合へ、4人の店員は毎日行商に出かけていたのだろう。
 行商をする小僧たちの生活は、寝食給与(小遣い)が保証されており、もし赤紙(召集令状)Click!がきて入営しても、毎月5円の小遣いが支給されていた。こうして店員をつなぎとめ、除隊後に再び職場に復帰するよう店の側から働きかけていたわけだ。豆腐屋は、商店というよりもどこか職人の世界に近い仕事なので(主人も「職工」と表現している)、専門的な技術の習得そして熟練には時間がかかったのだろう。それだけ、製造技術の伝授に注力していた様子がうかがえる。
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 つづけて、「尾張屋」主人の話を聞いてみよう。
  
 『わしはこれでこの商売を三十年もやつてゐるんで、製造だけはなかなか心得たものですよ。前に大学にも教へに行つたことがありますよ。今話せ? そりやだめだ。一日かゝりますからな。今度ゆつくり話してあげるから一日がゝりでいらつしやい。残つた物ですか? 残つたものは、熱湯の中に鹽(塩)を入れ、その中に豆腐を入れると、製造当時と同じになるのですよ。それをまた次の日に売ります。まあ、家へ帰つて厚い鹽(塩)昆布を鍋の下に敷いて豆腐をゆでゝごらんなさい。さうするてえと豆腐は、何時間ゆでゝも堅くなりません。少し位悪くなつたものでも元通りになります。これは昆布がよいわけのものではなく、昆布の中にある鹽(塩)分がよいのです。この方法は、わしが随分方々を歩きましたが、関西でも朝鮮でもしていたのを見たが、どうしたのか、東京の人がしてゐないのです。今夜やつて御覧なさい。お母さんが喜びますぜ。』 気さくな面白い人であつた。(カッコ内引用者註)
  
 わたしも、「尾張屋」の主人が大学へ豆腐のつくり方を教えにいった経緯を知りたいのだが、それほど話が長くなるのだろうか。もし、訪問した清水雪子が再び同店を訪れ、「一日かゝり」で話を聞いているとすれば、自由学園の卒業生が寄稿する同窓誌などに文章が残っているかもしれない。
 古い豆腐を「元通り」にする方法を、なぜ「東京の人がしてゐない」のか主人は不思議がっているけれど、これは江戸東京地方の食文化Click!や食の美意識へのこだわりのちがいからだろう。真空パックや冷蔵庫が普及した今日ならともかく、豆腐の専門店で前日にこしらえた豆腐など、買って食いたくないのは当たり前にちがいない。魚でも野菜でも豆腐にしても、できるだけ新鮮なものを尊重し食卓に載せたいのは、江戸東京地方のゆずれない地域性だ。この女学生が家に帰ってそんなことをしたら、「お母さんが喜」ぶどころか「気味(きび)の悪いことしないで棄てなさい!」と、逆に叱られたかもしれない。
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講演スタンフォード大学D.S.ジョーダン192211.jpg
 店では、そろそろ夕方の店じまいに向けた仕事がはじまっていた。おかみさんの指図で、店の調度や道具類はきちんと片づけられ、板間もきれいに洗われていく。女学生が、「尾張屋」と書かれた戸を開け目白通りに出たときは、すでに通り沿いは薄暗く灯りが点いていた。次回は、掛け売りが円滑に回収できず悩む「酒屋」を訪ねてみたい。
                                <つづく>

◆写真上
:自由学園校舎の教室部。建物の内外には、F.L.ライトClick!設計による帝国ホテルClick!の建設で出た大谷石の余材がふんだんに使われた。
◆写真中上:1926年(大正15)に作成された『高田町北部住宅明細図』にみる、目白通りに面した高田町金久保沢1120番地の豆腐店「尾張屋」。
◆写真中下:最近は、人気が下がり気味らしい木綿ごし豆腐。
◆写真下は、1922年(大正11)9月に遺伝学の「メンデルの法則」を講義する東京帝大の三宅驥一。は、1922年(大正11)11月に講演した米国スタンフォード大学総長のD.S.ジョーダン。自由学園の教授や講師は、当時の他の女学校に比べて特異であり、メンデルの弟子H.モーリッシュや島崎藤村Click!、地震学のT.A.ジャガー、徳川義親Click!、英国詩人のR.ホジソン、ロシアの小説家R.L.トルストイの娘トルスタヤなど、開校早々に多彩な人物を招いている。国語や外国語、自然・社会科学ばかりでなく美術や音楽、演劇、文学など芸術分野にも力を入れ、美術教師には山本鼎Click!木村荘八Click!、桑重儀一の3人が就任し、追って彫刻・工芸分野では石井鶴三Click!と吉田白嶺などが着任している。『我が住む町』の社会調査のために、同じ高田町内に住む早稲田大学教授の安部磯雄Click!を招聘したことはすでに記した。

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佐伯家で飼われたニワトリの品種はなに? [気になる下落合]

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 下落合661番地の佐伯祐三Click!が、庭で放し飼いにしていた採卵が目的のニワトリは、はたしてどのような品種だったのだろうか。のちに、佐伯が渡欧する際にニワトリを押しつけられた曾宮一念Click!によれば、全身が黒色の品種を7羽ほど飼っていたようなのだが、おそらくこれらのニワトリは佐伯アトリエの斜向かいにあった養鶏場Click!(のち中島邸Click!→早崎邸)から入手したものだろう。
 佐伯祐三がニワトリを飼いはじめたのは、下落合にアトリエが竣工Click!した直後の、おそらく1921年(大正10)夏以降から、第1次渡仏へ旅立つ1923年(大正12)の秋口までの2年間だと思われる。アトリエが竣工して間もなく、“化け物屋敷”Click!に住んでいた鈴木誠Click!のもとへスコップを借りにきた佐伯が、画家にはなれそうもないので富士の裾野に土地でも買い、「鶏でも飼って暮そうかと考えている、どうだろう」(「絵」No.57/1968年11月)と相談に訪れている。このとき、すでに庭でニワトリを飼いはじめていたからこそ、口をついて出た言葉ではなかっただろうか。
 そして、温泉での静養から帰った関東大震災Click!の直後、1923年(大正12)秋に佐伯はニワトリたちを連れて、諏訪谷の曾宮一念アトリエClick!を訪れている。そのときの様子を、1992年(平成4)に発行された『新宿歴史博物館紀要』創刊号に収録の、奥原哲志「曽宮一念インタビュー」から引用してみよう。
  
 (前略)そうこうしているうちに、大正12年の暮れに(大正12年11月26日)、佐伯は船に乗ってパリに行っちゃったんです。これはねえ、おそらく僕は転地療養してて、落合にいない間だったんじゃないかと思います。その間にパリに行っちゃったんですよ。それで行く前に、彼は玉子でもとる気だったんでしょう、黒いニワトリをね、私の所に持ってきて、お前にやると、貰ってくれと。放しといちゃ困るだろうと言ったら、小屋作ってやるって、板っきれを方々から集めてきて、小さな小屋を庭の隅っこに作ってくれた。それからアケビの木ですね、実がなって食べられる、それを2本持ってきましてね、僕の部屋の入口のとこに、2本植えていきましたよ。それから下が三角になってる、室内用では一番安物の、佐伯が使ってた画架Click!を、僕が遊びに行ったら、これ君にやるって言って、どうしても聞かないんですよ。そして足の一番先に、普通の筆記用のインキでもってカタカナで「ソミヤ」と書いて、これやるから一緒にもってけって言うんで、佐伯と二人で私のアトリエまで、担いで来ましたよ。その画架はいまだにあります。
  
 曾宮一念が、なんとなくオタオタととまどっているうちに、7羽のニワトリを押しつけて鶏舎まで建てていった佐伯だが、このとき持ちこまれた黒いニワトリの品種はなんだったのだろう? 食用ではなく、採卵が目的だと思われる黒い品種なので、大正中期の養鶏資料を調べれば品種が特定できるのではないかと考えた。
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 海外で品種改良された、採卵・食肉を問わず優秀なニワトリの輸入に熱心だったのは、岩崎弥太郎Click!の三菱だ。明治の中期ごろから、おもに世界各地が原産のニワトリで、特に米国で品種改良されたニワトリの輸入を積極的に行っており、佐伯祐三が庭で飼いはじめたころには、日本で20種類ほどの養鶏用ニワトリが飼育されていた。落合地域や長崎地域には、採卵を目的とした養鶏農家が多かったらしく、付近の乾物屋Click!では同地域の鶏卵が店頭に並んでいる。
 ニワトリの種類によって、産む卵のサイズは大小さまざまであり、大きな卵を頻繁に産むニワトリの品種は、当然ながらかなり高価だった。大正中期に、日本で入手できた採卵用のニワトリで、全身が黒色の羽毛をもつ品種は6種類だが、現代の採卵用に買われているニワトリの品種とはかなり異なっている。それだけ、ニワトリの品種改良は急速に進んでいるのだろう。
 佐伯の時代に入手できた、6種類の黒羽種のあるニワトリとは、もっとも高価なアンダルシアン種をはじめ、レグホーン(レグホン)種、黒色ミノルカ(メノルカ)種、黒色オーピントン種、黒色ジャバ(ジャワ)種、そして黒色ハンバーグ(ハンブルグ)種だ。この中で、生育してから半年ぐらいで産卵をはじめ、年間に200個以上もの卵を産むアンダルシアン種とレグホーン種は、当時の養鶏場でもっとも人気が高かった品種だ。また、黒色ミノルカ種は大きな卵を産む品種で、年間180個前後の収穫があった。
 黒色オーピントン種は、どちらかといえば採卵用としてよりも観賞用(ペット)として飼われるケースが多かったらしく、艶やかな光沢のある黒い羽毛が特色で、「愛鶏家」の人気が高かった。黒色ジャバ種は、ジャワ島が原産だが米国で品種改良されたニワトリで、卵のサイズはそれほど大きくないが年間に200個ほど産出する。鶏卵は白色ではなく褐色をしていたので、白い卵との差別化という意味から付加価値のある商品だったらしい。
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 黒色ハンバーグ種は、採卵用のニワトリとしてはもっとも多産で、年間に240~250個の卵を産む品種だった。卵のサイズも大きく、重さも16~17匁(60~64g)と「大卵種」に分類されていた。同種は、ペットとしても人気が高かったらしく、独特な緑色がかった黒色の羽毛で美しかったらしい。ただし、曾宮一念の証言では、羽毛の色は「黒」としているので、緑がかった黒を画家である彼が単純に「黒」色とするかで疑問が残る。
 明治末から大正期にかけ、上記に挙げた羽毛が黒い品種のニワトリ価格は、以下のようなものだった。ちなみに値段は1羽ではなく、雄雌つがいの価格だ。
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 さて、もうひとつの“証拠”として、佐伯がスケッチしたニワトリの素描が残っている。佐伯アトリエの庭をウロウロしていた、ニワトリのおそらく雌鶏(めんどり)を描いたものだ。ご承知かもしれないが、ニワトリは品種によってそれぞれ体形がかなり異なる。佐伯が描いたニワトリの姿は、当時もっともポピュラーだった業務用のアンダルシヤン種かレグホーン種の雌鶏によく似ている。ただし、この2品種は値段に大きな差があった。大正初期に、アンダルシヤン種は雄雌のつがい(2羽)で45円もしたのに対し、レグホーン種のつがいはその6分の1以下の7円だった。
 東京美術学校を卒業したばかりで、下落合にアトリエを新築して間もない佐伯夫妻に、雄雌1つがいが45円のアンダルシヤン種はなかなか飼えなかっただろう。米価を基準に換算(現在の1/1,400)すると、アンダルシヤン種は1つがいで6万円以上もしたことになる。だが、黒色のレグホーン種なら7円なので、1つがいが1万円弱で購入でき、駆け出しの画家にでもなんとか手がとどく値段だったろう。しかも、第1次渡仏をする際には、曾宮一念―へ惜しげもなくプレゼントしていることを考慮すれば、アトリエで飼っていたのは安いレグホーン種ではないかと想定しても、あながち不自然ではないように思える。
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黒色オーピントン.jpg
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 佐伯夫妻は、採れた卵を健康のためにそのまま生で、あるいは料理して食べていたのだろう。もちろん、すき焼きClick!用の卵としても活用していたにちがいない。だが、曾宮一念に鶏舎までつくってプレゼントした、レグホーン種とみられる7羽の黒いニワトリは、佐伯の渡仏中に曾宮邸の庭へ侵入したドロボーによって、すべて持ち去られている。

◆写真上:現代でも採卵用のニワトリとして飼われている、イタリア原産の白色レグホーン(レグホン)種。黒や褐色など有色レグホーン種は、あまり見られなくなった。
◆写真中上は、1925年(大正14)に作成された「出前地図」Click!にみる佐伯アトリエと養鶏場。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる養鶏場跡。跡地の住宅が、大正末の中島邸から早崎邸に変わっている。は、南側から佐伯アトリエへと抜けられた路地。画面右手の塀が、養鶏場(のち中島邸→早崎邸)跡の現状。
◆写真中下は、佐伯祐三のニワトリ素描。は、大正期には高価だった藍灰色アンダルシヤン種。は、明治末の年賀状にみる褐色レグホーン種。
◆写真下は、スペインが原産の黒色ミノルカ(メノルカ)種。は、イギリスが原産地の黒色オーピントン種(雌鶏は左右)。は、現代ではポピュラーな米国が原産のロードアイランドレッド種。もちろん、佐伯の時代には数も少なく普及していない。
おまけ
「狙われるもんより、狙うほうが強いんじゃ。守宮組ん組長の命(たま)、取っちゃろかい!」と、この季節になると出没するヤモリを追いつめるオトメヤマネコ(♀)。ヤモリ(守宮)は小虫を食べる益獣なので、襲撃事件が発生するたびにオトメヤマネコを検挙・拘束しているが、流血の抗争はやみそうにない。もうすぐ3歳だが、すでに仔猫の面影はなくオオヤマネコ化し、裏庭を横切るタヌキにすごい声で吠え立ててケンカを売っている。
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徳川篤守と大隈重信の娘茶摘み。 [気になる下落合]

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 ときどき、下戸塚(現・西早稲田)の三島山Click!(現・甘泉園公園)の敷地に建設されていた相馬邸と、下落合の御留山Click!(現・おとめ山公園)に建っていた相馬邸Click!とを混同されている方がおられる。前者は、おそらく室町末期から江戸初期にかけて分岐した相馬家の流れで、江戸期には彦根藩井伊家の藩士だった家系だ。後者は鎌倉期から幕末まで、世界でもっとも長くつづいた封建領主としてギネスブックにも掲載されている、千葉から奥州へと移封された相馬中村藩の藩主・将門相馬家(本家)の家系だ。
 戸塚町下戸塚376番地の三島山に住んだのは相馬永胤であり、下落合378番地の御留山に住んだのが相馬孟胤Click!と、同じ「〇〇山」と名のつく敷地に住み、「下〇〇」の住所も似ていれば番地も2番ちがいに加え、双方の名前に「胤」の字がかぶっていることから混乱が起きるのだろう。相馬永胤は実業家であり政治家、教育者(専修大学の創立者)だが、相馬孟胤は華族(子爵)であり植物学者で、お互いどこかで知己を得ていたのかもしれないけれど、ほとんど接点はない。
 相馬永胤は1902年(明治35)、もとは清水徳川家の下屋敷だった3万5千坪の三島山(甘泉園とその外周域)を45,000円で買収し、自邸の建設に取りかかっている。清水徳川家の徳川篤守とは、米国留学でいっしょだったせいで学生時代から親しく交流していたのだろう。下落合490番地に住み、日本初の航空機による飛行Click!を成功させ、のちに陸軍航空士官学校Click!の校長をつとめた徳川好敏Click!は、この三島山にあった清水徳川家の下屋敷で生まれている。
 三島山を買収し、本邸と庭園の建設をはじめた相馬永胤は1902年(明治35)9月、隣家(といっても直線距離で550mほど離れている)だった大隈重信邸Click!へあいさつに訪れている。当時、相馬永胤は横浜正金銀行(旧・東京銀行→現・三菱UFJ銀行)の頭取をしており、同銀行は大隈重信Click!福沢諭吉Click!岩崎弥太郎Click!、井上馨の肝入りで設立された関係からだろう。自邸と庭が完成し、相馬永胤が四谷から三島山へ転居してくるのは、5年後の1907年(明治40)になってからのことだ。
 1880年(明治13)に作成された、フランス式の1/20,000地形図Click!を参照すると、当時の農家では茶の栽培がブームだったものか、神田上水(1966年より神田川)の両岸斜面にはあちこちに茶畑Click!を発見することができる。清水徳川家では、相馬永胤に下屋敷の敷地を売却する以前、周辺に住む若い娘たちを集めては専用のコスチュームを貸与し、毎年茶摘みのイベントを開催していた。
 若い女の子が大好きで、日本女子大をはじめ東京のあちこちにある女学校の卒業式や入学式などの講演に呼ばれると、爆弾テロルで吹き飛ばされた片足が不自由なのに、ホイホイと気やすく喜んで出かけていたとみられる、隣家の大隈重信Click!(東京各地の女学校記念写真などの資料に、大隈センセの姿を見かけることが多すぎるのだ)も、この楽しいイベントを見逃すはずはなく、さっそく自邸に茶畑をこしらえては若い娘たちを集め、清水徳川家と競うように毎年茶摘みイベントを開催していた。
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 下落合の薬王院西側(本村Click!)に、当時の清水徳川家と大隈家の双方から茶摘みに呼ばれて参加していた、95歳(1975年当時)になる元・娘の吉田すえ(ゑ?/きっと見目麗しい女子だったのだろう)という方の証言が残っている。2017年(平成29)に書籍工房早山から出版された、安井弘『早稲田わが町』から彼女の証言を聞いてみよう。
  
 清水御殿のころ、御殿前方(現・公務員住宅)は茶畑となっていて茶摘み時になると十代の村の娘さんが十四、五人ほどかり出され、清水家で用意したカスリの着物に赤いたすきがけで、揃って茶摘みする風景は清水家の年中行事の一つで、その風物詩を、見物に呼ばれた客人たちは馬車や人力車で駆けつけたといいます。この話は、昭和五十年に下落合の薬王院そばに住んでおられた吉田すえ(当時九十五歳)さんから聞いたもので、屋敷の周囲はけやきなどの大木で囲われ、門の両脇は土塀で金具のついた大きな黒い門が四ヵ所あり、そこにそれぞれ四人の番人が住んでいたといいます。/大隈家でも茶摘みがあって、清水家同様に茶摘みが行われていました、茶摘みをする村の若い娘さんは、人数も限られていましたから、両家に同じ娘さんが呼ばれることになり、娘たちは茶摘みのお駄賃の額を比べてささやき合ったと、九十五歳になったすえさんが娘時代を語ってくれました。
  
 茶摘みアルバイトのギャラは、もちろん大隈家のほうが多かったのではないだろうか。清水徳川家の台所は火の車で、1899年(明治36)に「華族の礼遇に耐へられず」として、爵位を返上するまでに困窮している。
 著者の安井弘は、現在も西早稲田交差点で寿司屋を経営する「八幡寿司」の4代目主人だ。ちなみに、蕎麦の「三朝庵」Click!が閉店した現在、明治初期から早稲田で営業している食いもん屋は、うなぎの「すず金」に「八幡寿司」、そして親父が贔屓にしていた洋食屋「高田牧舎」Click!の3店だけになってしまった。
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 なお、1976年(昭和51)に下戸塚研究会から出版された『我が町の詩 下戸塚』(非売品)には、下落合の吉田すえ証言のつづきが掲載されていて、清水家当主・徳川篤守が早稲田小学校の近くに妾(めかけ)を囲っていたのが発覚し、激怒した奥方は娘を連れて家出をした経緯が書かれている。家を出ていくとき、奥方の荷物が大きな大八車Click!に載せて15台もあったことまで、彼女は鮮明に記憶していた。
 余談だけれど、女子にかなり人気が高く、構内を歩くとまるで女子大キャンパスのようになっている、今日の早稲田大学の光景を見たら、大隈重信はどのような感想を抱くだろうか。西鶴研究で有名だった、文学部の教授・暉峻康隆(同教授とはいつか一度お話しする機会があった)とは正反対に、わたしがあちこちの資料で散見する女学校の各種記念写真にとらえられた表情と同様、女学生大好きヲジサンは「ほほほ、世界的なウヰルス危機ん中で辣腕ばふるっとうのは女宰相ばかりじゃ、男どもしっかりせんか! ……ところでウヰルスとはなんや? ヴヰナスならよう知っとっとが」と顔をほころばせながら、単純に喜びそうな気がするのだが……。w
 相馬永胤邸の時代になると、庭の南側一帯にサクラが植えられ、花見どきになると園遊会が開かれて、近くの住民や商人たちも招待されていたらしい。庭園(甘泉園)の面倒をみていたのは、下戸塚の植木屋・岩田家で、相馬家の半纏を着ながら年間を通じて出入りしていた。出入り商人は、同家の貴重な半纏をもらえたようで、畳屋の証言も残っている。『我が町の詩 下戸塚』から、畳職人・吉田義造の証言を引用してみよう。
  
 私が若いころ、畳職として相馬家に出入りができるようになるまでは、何回も腕試しをさせられ、相馬家の伴てんをもらうまでは随分苦労しました。平家の大きな家を入ると、三ツ指突いてお客様を迎える玄関の六畳間には、金屏風が置かれ、幾室もある広い座敷の廻りを、九尺の廊下(畳敷き)がめぐり、当時私達畳職人三人掛りで、相馬家の紋べり付表替えの仕事は、一ケ月では仕上がりませんでした。また、立派な床の間や広いお勝手にも驚きました。
  
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 当時の早稲田界隈は、田圃や畑ばかりが拡がる東京近郊の典型的な農村地帯で、特に隣りの神楽坂地域と並び、畑ではミョウガの生産が盛んだった。神田多町Click!の青物市場(やっちゃば)では、早稲田ミョウガは肉厚で味もよく高い値で取り引きされるため、「鎌倉の波に早稲田の付け合わせ」という川柳が残っている。「鎌倉の波」Click!とは、長谷・坂ノ下のフロート波乗りClick!のことではなく、もちろんカツオの刺身のことだ。
  
  
 最後に、少し長めの余談だけれど、いまから9年ほど前に東日本大震災の非常事態にからめて、次のような一文で結んだ記事Click!を書いた。ご記憶の方もおありだろうか。
  
 大震災と原発のカタストロフの中、官邸危機管理センターと各省庁間との緊急情報ルートが電話とFAXだけで、電源の冗長化もなく電気が消えたらほどなく業務も終わりでした……というニュースは、今回の予算要求の内実とともに世界じゅうに伝わっているだろう。各国の政府系システム管理者たちの間で、「21世紀のネットジョーク」にならなければいいのだが……。
  
 あれから9年たつわけだが、当時の民主党政権が計上した緊急時における各官公庁間の膨大なコミュニケーション予算や、医療をめぐるデータ基盤および通信インフラの巨額予算を、政府自民党・公明党はどのように消費・消化したのだ? 昨日のニューヨークタイムズで、新型コロナ禍の中での、数少ない笑い話のネタにされているではないか。
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 【ニューヨーク発共同】「新型コロナウイルスのデータをファクスで集めていた日本が、ついにデジタルへ」―。米紙ニューヨーク・タイムズ電子版は6日までに、日本政府が医療機関に新型コロナ発生届を手書きしてファクスするよう求めていた仕組みから脱却し、今月中旬からオンラインで行われるようになると伝えた。/ 同紙は、先進技術が使われる日本では「広範な役所仕事で古い技術を強要する政府」に多くの人が不満を抱き、代表例が「はんこの使用」と紹介。「医師が前時代的と不満を抱いたプロセスを合理化」する動きと指摘した。
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 同記事の配信後、さっそく日本政府は世界各地で物笑いのタネにされ恥をさらしている。繰り返しになるが、ICTが理解できない人間に(その重要性を認識できない人間に)、意思決定権を持たせる前世紀的な誤りをいますぐ、ただちに止めてもらいたい。そのこと自体が危機そのものであり、リスク拡大の要因なのだということを肝に銘じてほしい。

◆写真上:現在の甘泉園公園で、相馬邸は三島山の上(画面右上)に建っていた。
◆写真中上は、1854年(嘉永7)制作の尾張屋清七版の切絵図「牛込市谷大久保絵図」。は、1880年(明治13)に作成された1/20,000地形図にみる下戸塚の茶畑。は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる相馬邸と大隈邸。
◆写真中下は、清水徳川邸の跡に建設された相馬永胤邸のめずらしい写真。中央の白い着物姿の人物が相馬永胤で、右隣りは第2次大隈内閣の蔵相・若槻礼次郎。は、米国留学のころの相馬永胤()と早稲田の自邸における大隈重信()。は、3葉とも清水徳川家下屋敷=相馬永胤邸跡に設置された甘泉園公園の現状。
◆写真下は、清水徳川家の茶畑があったあたりの現状。は、1867年(明治元)創業の早大西門近くにある「八幡寿司」。は、「すず金」の焼きが強いうな重。夏目漱石Click!が常連の「う」Click!だが、学生街らしく味もそこそこで値段も他店の半額ぐらいで安い。

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高田町の商店レポート1925年。(6)漬物屋 [気になるエトセトラ]

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 卒業を間近に控えた自由学園Click!高等科2年の渡邊巳代が訪れたのは、高田町Click!(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)のどこかで営業していた漬物屋だった。漬物屋が扱う商品は、若い主人によれば漬物に煮物、そして缶詰とだいたい3つの分野に分けられると彼女に教えている。
 主人は、「あんまり立ち入つたことは云はれませんがね」と前置きしてから、それでも女学生の細かくて面倒な質問に快く答えている。1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から、さっそく引用してみよう。
  
 『(前略)缶詰は、広島方面から、牛肉の大和煮(、)千葉から鰯、らつきよう、台湾からパインアツプル、東京で福神漬、海苔、日本橋漬等ですね。/漬物は、沢庵が練馬、板橋、味噌漬が新潟(、)奈良漬は東京近在でやります。奈良から来る奈良漬なんては殆どありません、かへつて、東京で漬けたのを外ら(ママ:に)出す位です、梅干梅漬は紀州から、そして梅漬となりますと、木から取つたのを、すぐ、時をうつさずに、梅酢の中に入れるんです。なかなかかう堅く、割ると音の出るやうにするには、大変です』と主人は真紅な美味しさうな梅漬を一つ摘まんで、パチンと割つて見せた。/『漬物の問屋は、王子の福田屋です。さて煮物は、北海道から豆、鮭、干魚、貝紐、秋田方面から蛤、はぜ、時雨等です。この方の問屋は、花川戸の大宮といふ海産物問屋に来て、豆類の外は、大てい、つくだにになつて、各小売店に分けるのです。』(カッコ内引用者註)
  
 「日本橋漬」とは、もちろん大根を米麹に漬ける日本橋が発祥の、べったら祭りでも有名な甘じょっぱい「べったら漬け」Click!のことだ。おそらく親父のソウルフードのひとつだったのだろう、子どものころから品川の東海寺で生まれた「沢庵漬け」よりも、わが家では「べったら漬け」のほうが、食卓にのぼる頻度が圧倒的に多かった。
 文中で沢庵漬けの生産地として、練馬や板橋の両地域が挙げられているが、明治から大正の初期にかけ落合大根Click!による沢庵漬けClick!の製造は、米国のハワイなどへ輸出されるほど盛んだった。だが、大正の中期以降は耕地整理や宅地化が急速に進み、大根の生産量が大幅に減って沢庵漬け製造の首位の座を、練馬や板橋に明けわたしているのだろう。また、梅は現在でも東京市場では紀州(和歌山県)産のものが主流だが、大正当時も江戸時代と変わらずに、梅とみかんは紀州産が好まれていたようだ。
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 この店では、煮物の多くが自家でつくる商品だったので、半製半販の店舗形態だった。特に豆類の商品は自家製で、冬は2日ぶんぐらいをまとめて煮ておき、夏はすぐに腐るので1日に何度かに分けて煮るようにしている。また、冬は通常の煮る方法でつくるが、夏は腐敗を防ぐために水をいっさい使わず、砂糖と少しの塩など調味料だけで煮ていた。特に手のかかるのは「ふき豆」(富貴豆)で、乾燥したソラマメを茹でるが、重曹の入れ加減がむずかしかったようだ。
 「まづ重曹を入れてうでたのを、竹笊にうつして、樽に水を入れて、その中に皮をはがし、又、一つ一つていねいに皮をむいて、ざるに入れたまゝ煮ます」と、作り方までていねいに説明してくれている。主人の口調に、「うでた(茹でた)」「うでる(茹でる)」と東京地方の方言Click!がつかわれているのが懐かしい。「ゆでたまご(茹で卵)」という言葉が多くつかわれるようになったのは戦後のことで、ラジオやTVなどのマスメディアや文部省の学校教育Click!はともかく、東京ではもちろん「うでたまご」が一般的だった。
 さて、ここで少し気になるのは、漬物屋で扱っている缶詰類だ。確かに、当時の缶詰はたいがい煮たものや茹(う)でたものが詰められていたので、漬物屋で扱うことが多かったのだろう。その中に、パッケージがどこか福神漬けの缶詰に似ており、おそらく豆を甘辛く煮たのではないかとみられる、「はなよめ(花嫁)」Click!という缶詰が混ざっていやしなかっただろうか? 下落合のアトリエで、凝り性の佐伯祐三Click!が近くの雑貨店から取り寄せて食べつづけていた製品だが、自由学園のインタビュー調査と時代的にもほぼ重なるので、この乾物屋にも「はなよめ」が置かれていた可能性が高い。
 つづけて、乾物屋の親切な主人の証言を聞いてみよう。
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 『えゝ、朝ですか、たいして朝早く起きることもないんです。五時半頃から起きます。家は、家内と小僧一人です。でもかなり暇ですよ。まあ、漬物屋などは、それでもローズの出来ない方です。例へば、竹輪の煮付けだつて、あれは店に置いて、古くなつたのを煮るんです。だからどうしても堅くなりますよ』と主人は笑つた。『売れ行きですか、左様、夏分の方がよく売れますね。どうしても暑いからお茶漬となるんですね。そして量の多いものが売れますね。さう、一日平均百二十人位のお客があるでせうか。収入ですか、それはちと困つた問ですね。平均十五六円からはありますね。利益? え。これで二割五分位もうけなければやつて行けませんよ。物によつては、損なのもありますからね。小売商に来るまでには、もう仲買が五分位はもうけてますからね。』
  
 朝は早く起きないなどといいながら、現代から見れば5時半の起床はやはり早い。煮物の下ごしらえや、問屋へ出かける仕入れの作業があったのだろう。「ローズ(廃棄)」という言葉づかいや、主人の東京弁などを含めて考えると、東京市街地からの移転、あるいは老舗からの暖簾分けの店舗だったのかもしれない。
 夏になると食欲が落ちるせいか、漬物や煮物を添えてざっかけない茶漬けClick!をサラサラとかっこむ家庭が多いのは、(城)下町Click!も明治後の新乃手も変わらない。漬物屋には、それほど値のはる商品はなかっただろうし、自家で煮物を製造しているぶん光熱費や人件費を考慮すれば、25%の利益でもギリギリだったのではないだろうか。
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 女学生が主人にインタビューしている間にも、店にはお客の出入りが何人かあったようだ。最後に漬物屋の商売について、「もつと暇だと紙にでも書いて上げるんですが…」と、親切な主人は女学生を店から送りだしている。次回は高田町と下落合の境界、近衛町Click!の入り口に開店していた、ほんとうに早起きの「豆腐屋」を訪問してみよう。
                                <つづく>

◆写真上:1927年(昭和2)に竣工した、遠藤新Click!設計による自由学園講堂。
◆写真中上:大正期に撮影されたとみられる、樺太におけるサケ缶詰の製造工場。
◆写真中下:台湾に残る旧・パイナップル工場跡で、文化施設として活用されている。
◆写真下は、1922年(大正11)に撮影された自由学園Click!校舎の半地下にあるキッチン。女性の「自主独立」の理念から、昼食はすべて自分たちで準備した。写真は調理をする本科2年生の生徒たちで、ここでつくられた料理は専用エレベーターで上階の食堂に運ばれた。は、同時期に撮影されたキッチンの大型天火(ガスオーブン)。大正の当時、まだガスオーブンや電気オーブンのある家庭はめずらしく、本科の生徒や高等科の女学生たちは、このオーブンでケーキを焼いてデザートを用意した。食材の仕入れから食料予算の管理、メニューの決定、調理、後片づけ、さらに必要な調理機器や料理用具、食器の手配まで、食事に関するマネジメントはすべて彼女たち自身が当番制で行っていた。

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高田町の商店レポート1925年。(5)乾物屋 [気になるエトセトラ]

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 高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の全商店を調査する、自由学園Click!高等科2年生の一戸幸子が訪ねたのは、目白通りに開店していた乾物屋だった。ところが、調査Click!の趣旨を説明すると応対に出た男性は、「主人は病気でズツト前から寝てゐますから」と、自分が番頭であることを名乗ったらしく、「私でわかることならお話ししませう」といってくれた。さまざまな商店レポートの中で、店主が病気だったのはこの乾物屋のみ1軒だけだ。
 この番頭さんは親切だったらしく、女学生Click!の質問にはできるだけていねいに答えてくれている。たとえば、砂糖は相場の値動きが激しいので、1斤(600g)ずつ買うよりも値が下がったときに1貫(3.75kg)ずつ買ったほうが、総体的に得だなどと生活の知恵を教えてくれている。かんぴょうや湯葉は、東京で製造されたものを置いており、鶏卵は西隣りの長崎村で生産されたものを配達してもらっていた。
 卵は、ニワトリの種類によって大小のサイズに分類され、割れないよう米袋に「もみ糠」を詰めた中へ入れて長崎村から配送されてくる。「割れませんか?」という質問には、「ちつとも破れません」と答えている。女学生は「もみ糠」と記録しているが、ひょっとすると「もみ殻」の誤記ではないだろうか。わたしが物心つくころ、プラスチックや再生紙の卵容器などはまだない時代だったので、卵は茶箱にいっぱい詰めたクッション代わりのもみ殻に入れて、毎朝食品店に配送され店先で売っていたように記憶している。これは、リンゴやナシなどの果物でも同様だった。
 乾物屋にいた番頭の詳しい話を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 『大豆は北海道大豆が一番品もよく売れもようございます。その次が満州大豆で、この豆は染物屋と豆腐の原料、馬糧などにつかふ豆ですね。私共の手に入るまでゞすか。仲々どうして、深川市場-問屋-仲買人-それから小売商人の手に渡るんです。その間に五割位は高くなってゐますね。ですから私達は豆ばかしでなく大概のものは二割位しかもうかりませんですなあ。/昆布は北海道産が一番です。わかめは鳴戸、越後(、)にぼしは房州の九十九里浜、ふのりは九州、するめは静岡に北海道(、)鰹節は土佐、伊豆節等ですね。それからひじきなどね、エー? さあ何処からくるのか知りませんけれど、まあかうした海産物問屋があつてそこに買ひに行くんです。相場が年がら年中動いてますし、時季がそれぞれの品物にありますからね。そんなことをよく考へて買うんです。うどん粉にもいろいろ種類があります。天ぷらの衣につかう上等のもの、うどんをこしらへるのは並粉のやつですね。ついでに標を教へてあげませう。日清会社で出来るのが鶴標、東亜会社は弁天標、日本製粉のは竹標、まあざつとこんな工合(ママ)ですなあ。』(カッコ内引用者註)
  
 文中、染物業で大豆を使うのは、大豆のタンパク質を応用して染め色を濃くする技法だ。旧・神田上水(1966年より神田川)沿いに展開していた染物工場では当時、大豆の需要が高かったのだろう。言葉の口調から、おそらく東京の(城)下町Click!から移転してきた乾物屋のように思われる。当時の乾物に対する、東京市民の好みがわかるレポートだ。
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 うどん粉(小麦粉)についての記述があるが、当時の高田町には東京パンClick!の大規模な工場があったため、その周囲には大小の製粉所が集中していた。戦後、東京パン工場がなくなったあとも、これら製粉所は操業をつづけている。わが家の知り合いに、昔から製粉所を経営する目白にお住まいの方がいるが、場所をうかがったらやはり旧・東京パン工場があった敷地のすぐ近くだった。
 保存設備のない当時、乾物の保管はたいへんだったようだ。浅草海苔(江戸期に浅草和紙の製法に倣い、葛西で採れた天然海苔を紙状に漉いたものが浅草海苔のはじまり。海苔の産地が九州だろうが韓国だろうが、この製法で作られた和紙状の海苔はすべて浅草海苔だ)は、通常の海苔缶に入れたものを、さらに別の大きな缶に入れて保管している。特に梅雨から夏にかけての保管は、乾物屋泣かせだったらしい。
 先に小麦粉のことを「うどん粉」と表現していたが、番頭は「メリケン粉」(小麦粉)の保管についても苦労話を女学生に聞かせている。彼が話す「うどん粉」と「メリケン粉」のちがいは、強力粉と薄力粉のちがいを意識したものだろうか? メリケン粉は1ヶ月以上も保管すると酸味が出て売り物にならなくなるが、目白界隈ではたいがいすぐに売れるので、なんとか大丈夫だと答えている。
 また、かんぴょうや干し椎茸はカビが生えるので、いつも気を配ってないとクレームがきて売れなくなるし、コショウの粒には虫が湧くとこぼしている。カビや虫を防ぐには、しじゅう商品の風通しをよくしなければならなかったようだ。大正期には、一般の商店に電気冷蔵庫もエアコンも、ビニール袋による真空パックもないので、品質を保つにはすべて小まめな手作業が必要だった。鰹節も虫が湧くため、桶に入れて防虫剤を加え蓋で密閉しておいたらしい。防虫剤がなんだったのかが気になるけれど、これらの手作業は梅雨がはじまる前から10月ごろまで、5ヶ月間ほどつづけられる作業だった。
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 つづけて、乾物屋を仕切る番頭さんの証言を聞いてみよう。
  
 『雇人ですか。三人居りますよ。朝は六時頃起きます。夜は十時ですね。早く起きようと思ふんですけれど昼間随分忙しうござんすからね、どうしても……。/店に小買ひにお出になるお客の外、帳面のお屋敷が二十二三軒ばかしあります。ヘエヘエよく払つて下さるお家もあるんですが、中々の所もありましてね。随分困るんですよ。それに近頃は不景気になりましたから何処の問屋でも現金払になつたんでしてね。実に困りますよ。エーそうですよ。お客が皆現金にして下さると助かりますがね。中々お客の方でね。貸しあきなひはしたくないもんですね。/まあ大体こんなものですね。エエおわかりにならない所が有りましたらいつでもおいでなさい。』
  
 ここでも、お屋敷街をめぐる「貸しあきなひ」Click!の苦労話が語られている。カードや銀行口座から引き落としなどの仕組みがない当時、月々の売掛金はお屋敷を1軒1軒まわって回収しなければならなかった。素直に気持ちよく払ってくれる家はいいものの、消費した商品へあとから難くせをつけたり、けなしたりしてなかなか払わないケチでタチの悪いお屋敷も少なくなかったようだ。
 現在、目白通り沿いに展開する個人商店では、B to BはともかくB to Cの一般顧客を相手に売掛けをしている商店はほとんどないのではないか。(一部の酒屋や米屋の得意先、あるいは飲み屋の常連にはまだあるのかな?) ただし、宅配事業者の場合は、売掛け買掛けの仕組みがそのまま残っている。たとえば、日本生協や東都生協、生活クラブ生協などは月払いだし(わが家でも利用しているが)、自然食ルート(産直ルート)や宅配弁当なども同様だろう。でも、支払いは銀行引き落としやカードなどで決済されるので、まず回収しそびれることはなさそうだ。
 取材した女学生は、「皆買物を現金でする様にしたら、買ふ方でも売る方でもどんなに都合がよいかわからない、一日も早くそれが実行される様にしたい」と感想を記しているので、おそらくレポートに書かれた内容以上に乾物屋の番頭さんから、ひどいお屋敷のケーススタディ(グチ)をたくさん聞かされているのではないだろうか。
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 そして、乾物の品質保持や保存作業が、「案外手数のかゝることを知つて、いつでも高い安いばかし心にかけてかふ私達に又ちがつたことを知る機会が与へられたことを感謝する」と結んでいる。さて、次回は煮物や缶詰も扱う「漬物屋」を訪問してみよう。
                                <つづく>

◆写真上:創立当時は工事中で、わずか2教室か使用できなかった自由学園の本校舎。収容できない女学生たちは、羽仁夫妻の自宅を教室代わりに使っていた。
◆写真中上:乾物店の代表商品だった、江戸東京の料理には欠かせない「浅草海苔」。
◆写真中下:江戸東京たてもの園に“開店”している、乾物屋の店先。
◆写真下は、羽仁吉一・羽仁もと子夫妻の自邸に集まった本科と高等科の女学生たち。夫妻の自宅は、現在の婦人之友社Click!が建っている敷地だ。は、1922年(大正11)5月撮影のホールからの眺め。校庭の先には、当初からサクラが植えられていた。

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