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高田町の商店レポート1925年。(6)漬物屋 [気になるエトセトラ]

自由学園講堂1927.JPG
 卒業を間近に控えた自由学園Click!高等科2年の渡邊巳代が訪れたのは、高田町Click!(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)のどこかで営業していた漬物屋だった。漬物屋が扱う商品は、若い主人によれば漬物に煮物、そして缶詰とだいたい3つの分野に分けられると彼女に教えている。
 主人は、「あんまり立ち入つたことは云はれませんがね」と前置きしてから、それでも女学生の細かくて面倒な質問に快く答えている。1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から、さっそく引用してみよう。
  
 『(前略)缶詰は、広島方面から、牛肉の大和煮(、)千葉から鰯、らつきよう、台湾からパインアツプル、東京で福神漬、海苔、日本橋漬等ですね。/漬物は、沢庵が練馬、板橋、味噌漬が新潟(、)奈良漬は東京近在でやります。奈良から来る奈良漬なんては殆どありません、かへつて、東京で漬けたのを外ら(ママ:に)出す位です、梅干梅漬は紀州から、そして梅漬となりますと、木から取つたのを、すぐ、時をうつさずに、梅酢の中に入れるんです。なかなかかう堅く、割ると音の出るやうにするには、大変です』と主人は真紅な美味しさうな梅漬を一つ摘まんで、パチンと割つて見せた。/『漬物の問屋は、王子の福田屋です。さて煮物は、北海道から豆、鮭、干魚、貝紐、秋田方面から蛤、はぜ、時雨等です。この方の問屋は、花川戸の大宮といふ海産物問屋に来て、豆類の外は、大てい、つくだにになつて、各小売店に分けるのです。』(カッコ内引用者註)
  
 「日本橋漬」とは、もちろん大根を米麹に漬ける日本橋が発祥の、べったら祭りでも有名な甘じょっぱい「べったら漬け」Click!のことだ。おそらく親父のソウルフードのひとつだったのだろう、子どものころから品川の東海寺で生まれた「沢庵漬け」よりも、わが家では「べったら漬け」のほうが、食卓にのぼる頻度が圧倒的に多かった。
 文中で沢庵漬けの生産地として、練馬や板橋の両地域が挙げられているが、明治から大正の初期にかけ落合大根Click!による沢庵漬けClick!の製造は、米国のハワイなどへ輸出されるほど盛んだった。だが、大正の中期以降は耕地整理や宅地化が急速に進み、大根の生産量が大幅に減って沢庵漬け製造の首位の座を、練馬や板橋に明けわたしているのだろう。また、梅は現在でも東京市場では紀州(和歌山県)産のものが主流だが、大正当時も江戸時代と変わらずに、梅とみかんは紀州産が好まれていたようだ。
缶詰工場(大正期).jpg
 この店では、煮物の多くが自家でつくる商品だったので、半製半販の店舗形態だった。特に豆類の商品は自家製で、冬は2日ぶんぐらいをまとめて煮ておき、夏はすぐに腐るので1日に何度かに分けて煮るようにしている。また、冬は通常の煮る方法でつくるが、夏は腐敗を防ぐために水をいっさい使わず、砂糖と少しの塩など調味料だけで煮ていた。特に手のかかるのは「ふき豆」(富貴豆)で、乾燥したソラマメを茹でるが、重曹の入れ加減がむずかしかったようだ。
 「まづ重曹を入れてうでたのを、竹笊にうつして、樽に水を入れて、その中に皮をはがし、又、一つ一つていねいに皮をむいて、ざるに入れたまゝ煮ます」と、作り方までていねいに説明してくれている。主人の口調に、「うでた(茹でた)」「うでる(茹でる)」と東京地方の方言Click!がつかわれているのが懐かしい。「ゆでたまご(茹で卵)」という言葉が多くつかわれるようになったのは戦後のことで、ラジオやTVなどのマスメディアや文部省の学校教育Click!はともかく、東京ではもちろん「うでたまご」が一般的だった。
 さて、ここで少し気になるのは、漬物屋で扱っている缶詰類だ。確かに、当時の缶詰はたいがい煮たものや茹(う)でたものが詰められていたので、漬物屋で扱うことが多かったのだろう。その中に、パッケージがどこか福神漬けの缶詰に似ており、おそらく豆を甘辛く煮たのではないかとみられる、「はなよめ(花嫁)」Click!という缶詰が混ざっていやしなかっただろうか? 下落合のアトリエで、凝り性の佐伯祐三Click!が近くの雑貨店から取り寄せて食べつづけていた製品だが、自由学園のインタビュー調査と時代的にもほぼ重なるので、この乾物屋にも「はなよめ」が置かれていた可能性が高い。
 つづけて、乾物屋の親切な主人の証言を聞いてみよう。
台湾パイナップル工場.jpg
  
 『えゝ、朝ですか、たいして朝早く起きることもないんです。五時半頃から起きます。家は、家内と小僧一人です。でもかなり暇ですよ。まあ、漬物屋などは、それでもローズの出来ない方です。例へば、竹輪の煮付けだつて、あれは店に置いて、古くなつたのを煮るんです。だからどうしても堅くなりますよ』と主人は笑つた。『売れ行きですか、左様、夏分の方がよく売れますね。どうしても暑いからお茶漬となるんですね。そして量の多いものが売れますね。さう、一日平均百二十人位のお客があるでせうか。収入ですか、それはちと困つた問ですね。平均十五六円からはありますね。利益? え。これで二割五分位もうけなければやつて行けませんよ。物によつては、損なのもありますからね。小売商に来るまでには、もう仲買が五分位はもうけてますからね。』
  
 朝は早く起きないなどといいながら、現代から見れば5時半の起床はやはり早い。煮物の下ごしらえや、問屋へ出かける仕入れの作業があったのだろう。「ローズ(廃棄)」という言葉づかいや、主人の東京弁などを含めて考えると、東京市街地からの移転、あるいは老舗からの暖簾分けの店舗だったのかもしれない。
 夏になると食欲が落ちるせいか、漬物や煮物を添えてざっかけない茶漬けClick!をサラサラとかっこむ家庭が多いのは、(城)下町Click!も明治後の新乃手も変わらない。漬物屋には、それほど値のはる商品はなかっただろうし、自家で煮物を製造しているぶん光熱費や人件費を考慮すれば、25%の利益でもギリギリだったのではないだろうか。
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校舎半地下キッチン1922(天火).jpg
 女学生が主人にインタビューしている間にも、店にはお客の出入りが何人かあったようだ。最後に漬物屋の商売について、「もつと暇だと紙にでも書いて上げるんですが…」と、親切な主人は女学生を店から送りだしている。次回は高田町と下落合の境界、近衛町Click!の入り口に開店していた、ほんとうに早起きの「豆腐屋」を訪問してみよう。
                                <つづく>

◆写真上:1927年(昭和2)に竣工した、遠藤新Click!設計による自由学園講堂。
◆写真中上:大正期に撮影されたとみられる、樺太におけるサケ缶詰の製造工場。
◆写真中下:台湾に残る旧・パイナップル工場跡で、文化施設として活用されている。
◆写真下は、1922年(大正11)に撮影された自由学園Click!校舎の半地下にあるキッチン。女性の「自主独立」の理念から、昼食はすべて自分たちで準備した。写真は調理をする本科2年生の生徒たちで、ここでつくられた料理は専用エレベーターで上階の食堂に運ばれた。は、同時期に撮影されたキッチンの大型天火(ガスオーブン)。大正の当時、まだガスオーブンや電気オーブンのある家庭はめずらしく、本科の生徒や高等科の女学生たちは、このオーブンでケーキを焼いてデザートを用意した。食材の仕入れから食料予算の管理、メニューの決定、調理、後片づけ、さらに必要な調理機器や料理用具、食器の手配まで、食事に関するマネジメントはすべて彼女たち自身が当番制で行っていた。

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