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徳川篤守と大隈重信の娘茶摘み。 [気になる下落合]

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 ときどき、下戸塚(現・西早稲田)の三島山Click!(現・甘泉園公園)の敷地に建設されていた相馬邸と、下落合の御留山Click!(現・おとめ山公園)に建っていた相馬邸Click!とを混同されている方がおられる。前者は、おそらく室町末期から江戸初期にかけて分岐した相馬家の流れで、江戸期には彦根藩井伊家の藩士だった家系だ。後者は鎌倉期から幕末まで、世界でもっとも長くつづいた封建領主としてギネスブックにも掲載されている、千葉から奥州へと移封された相馬中村藩の藩主・将門相馬家(本家)の家系だ。
 戸塚町下戸塚376番地の三島山に住んだのは相馬永胤であり、下落合378番地の御留山に住んだのが相馬孟胤Click!と、同じ「〇〇山」と名のつく敷地に住み、「下〇〇」の住所も似ていれば番地も2番ちがいに加え、双方の名前に「胤」の字がかぶっていることから混乱が起きるのだろう。相馬永胤は実業家であり政治家、教育者(専修大学の創立者)だが、相馬孟胤は華族(子爵)であり植物学者で、お互いどこかで知己を得ていたのかもしれないけれど、ほとんど接点はない。
 相馬永胤は1902年(明治35)、もとは清水徳川家の下屋敷だった3万5千坪の三島山(甘泉園とその外周域)を45,000円で買収し、自邸の建設に取りかかっている。清水徳川家の徳川篤守とは、米国留学でいっしょだったせいで学生時代から親しく交流していたのだろう。下落合490番地に住み、日本初の航空機による飛行Click!を成功させ、のちに陸軍航空士官学校Click!の校長をつとめた徳川好敏Click!は、この三島山にあった清水徳川家の下屋敷で生まれている。
 三島山を買収し、本邸と庭園の建設をはじめた相馬永胤は1902年(明治35)9月、隣家(といっても直線距離で550mほど離れている)だった大隈重信邸Click!へあいさつに訪れている。当時、相馬永胤は横浜正金銀行(旧・東京銀行→現・三菱UFJ銀行)の頭取をしており、同銀行は大隈重信Click!福沢諭吉Click!岩崎弥太郎Click!、井上馨の肝入りで設立された関係からだろう。自邸と庭が完成し、相馬永胤が四谷から三島山へ転居してくるのは、5年後の1907年(明治40)になってからのことだ。
 1880年(明治13)に作成された、フランス式の1/20,000地形図Click!を参照すると、当時の農家では茶の栽培がブームだったものか、神田上水(1966年より神田川)の両岸斜面にはあちこちに茶畑Click!を発見することができる。清水徳川家では、相馬永胤に下屋敷の敷地を売却する以前、周辺に住む若い娘たちを集めては専用のコスチュームを貸与し、毎年茶摘みのイベントを開催していた。
 若い女の子が大好きで、日本女子大をはじめ東京のあちこちにある女学校の卒業式や入学式などの講演に呼ばれると、爆弾テロルで吹き飛ばされた片足が不自由なのに、ホイホイと気やすく喜んで出かけていたとみられる、隣家の大隈重信Click!(東京各地の女学校記念写真などの資料に、大隈センセの姿を見かけることが多すぎるのだ)も、この楽しいイベントを見逃すはずはなく、さっそく自邸に茶畑をこしらえては若い娘たちを集め、清水徳川家と競うように毎年茶摘みイベントを開催していた。
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 下落合の薬王院西側(本村Click!)に、当時の清水徳川家と大隈家の双方から茶摘みに呼ばれて参加していた、95歳(1975年当時)になる元・娘の吉田すえ(ゑ?/きっと見目麗しい女子だったのだろう)という方の証言が残っている。2017年(平成29)に書籍工房早山から出版された、安井弘『早稲田わが町』から彼女の証言を聞いてみよう。
  
 清水御殿のころ、御殿前方(現・公務員住宅)は茶畑となっていて茶摘み時になると十代の村の娘さんが十四、五人ほどかり出され、清水家で用意したカスリの着物に赤いたすきがけで、揃って茶摘みする風景は清水家の年中行事の一つで、その風物詩を、見物に呼ばれた客人たちは馬車や人力車で駆けつけたといいます。この話は、昭和五十年に下落合の薬王院そばに住んでおられた吉田すえ(当時九十五歳)さんから聞いたもので、屋敷の周囲はけやきなどの大木で囲われ、門の両脇は土塀で金具のついた大きな黒い門が四ヵ所あり、そこにそれぞれ四人の番人が住んでいたといいます。/大隈家でも茶摘みがあって、清水家同様に茶摘みが行われていました、茶摘みをする村の若い娘さんは、人数も限られていましたから、両家に同じ娘さんが呼ばれることになり、娘たちは茶摘みのお駄賃の額を比べてささやき合ったと、九十五歳になったすえさんが娘時代を語ってくれました。
  
 茶摘みアルバイトのギャラは、もちろん大隈家のほうが多かったのではないだろうか。清水徳川家の台所は火の車で、1899年(明治36)に「華族の礼遇に耐へられず」として、爵位を返上するまでに困窮している。
 著者の安井弘は、現在も西早稲田交差点で寿司屋を経営する「八幡寿司」の4代目主人だ。ちなみに、蕎麦の「三朝庵」Click!が閉店した現在、明治初期から早稲田で営業している食いもん屋は、うなぎの「すず金」に「八幡寿司」、そして親父が贔屓にしていた洋食屋「高田牧舎」Click!の3店だけになってしまった。
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 なお、1976年(昭和51)に下戸塚研究会から出版された『我が町の詩 下戸塚』(非売品)には、下落合の吉田すえ証言のつづきが掲載されていて、清水家当主・徳川篤守が早稲田小学校の近くに妾(めかけ)を囲っていたのが発覚し、激怒した奥方は娘を連れて家出をした経緯が書かれている。家を出ていくとき、奥方の荷物が大きな大八車Click!に載せて15台もあったことまで、彼女は鮮明に記憶していた。
 余談だけれど、女子にかなり人気が高く、構内を歩くとまるで女子大キャンパスのようになっている、今日の早稲田大学の光景を見たら、大隈重信はどのような感想を抱くだろうか。西鶴研究で有名だった、文学部の教授・暉峻康隆(同教授とはいつか一度お話しする機会があった)とは正反対に、わたしがあちこちの資料で散見する女学校の各種記念写真にとらえられた表情と同様、女学生大好きヲジサンは「ほほほ、世界的なウヰルス危機ん中で辣腕ばふるっとうのは女宰相ばかりじゃ、男どもしっかりせんか! ……ところでウヰルスとはなんや? ヴヰナスならよう知っとっとが」と顔をほころばせながら、単純に喜びそうな気がするのだが……。w
 相馬永胤邸の時代になると、庭の南側一帯にサクラが植えられ、花見どきになると園遊会が開かれて、近くの住民や商人たちも招待されていたらしい。庭園(甘泉園)の面倒をみていたのは、下戸塚の植木屋・岩田家で、相馬家の半纏を着ながら年間を通じて出入りしていた。出入り商人は、同家の貴重な半纏をもらえたようで、畳屋の証言も残っている。『我が町の詩 下戸塚』から、畳職人・吉田義造の証言を引用してみよう。
  
 私が若いころ、畳職として相馬家に出入りができるようになるまでは、何回も腕試しをさせられ、相馬家の伴てんをもらうまでは随分苦労しました。平家の大きな家を入ると、三ツ指突いてお客様を迎える玄関の六畳間には、金屏風が置かれ、幾室もある広い座敷の廻りを、九尺の廊下(畳敷き)がめぐり、当時私達畳職人三人掛りで、相馬家の紋べり付表替えの仕事は、一ケ月では仕上がりませんでした。また、立派な床の間や広いお勝手にも驚きました。
  
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 当時の早稲田界隈は、田圃や畑ばかりが拡がる東京近郊の典型的な農村地帯で、特に隣りの神楽坂地域と並び、畑ではミョウガの生産が盛んだった。神田多町Click!の青物市場(やっちゃば)では、早稲田ミョウガは肉厚で味もよく高い値で取り引きされるため、「鎌倉の波に早稲田の付け合わせ」という川柳が残っている。「鎌倉の波」Click!とは、長谷・坂ノ下のフロート波乗りClick!のことではなく、もちろんカツオの刺身のことだ。
  
  
 最後に、少し長めの余談だけれど、いまから9年ほど前に東日本大震災の非常事態にからめて、次のような一文で結んだ記事Click!を書いた。ご記憶の方もおありだろうか。
  
 大震災と原発のカタストロフの中、官邸危機管理センターと各省庁間との緊急情報ルートが電話とFAXだけで、電源の冗長化もなく電気が消えたらほどなく業務も終わりでした……というニュースは、今回の予算要求の内実とともに世界じゅうに伝わっているだろう。各国の政府系システム管理者たちの間で、「21世紀のネットジョーク」にならなければいいのだが……。
  
 あれから9年たつわけだが、当時の民主党政権が計上した緊急時における各官公庁間の膨大なコミュニケーション予算や、医療をめぐるデータ基盤および通信インフラの巨額予算を、政府自民党・公明党はどのように消費・消化したのだ? 昨日のニューヨークタイムズで、新型コロナ禍の中での、数少ない笑い話のネタにされているではないか。
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 【ニューヨーク発共同】「新型コロナウイルスのデータをファクスで集めていた日本が、ついにデジタルへ」―。米紙ニューヨーク・タイムズ電子版は6日までに、日本政府が医療機関に新型コロナ発生届を手書きしてファクスするよう求めていた仕組みから脱却し、今月中旬からオンラインで行われるようになると伝えた。/ 同紙は、先進技術が使われる日本では「広範な役所仕事で古い技術を強要する政府」に多くの人が不満を抱き、代表例が「はんこの使用」と紹介。「医師が前時代的と不満を抱いたプロセスを合理化」する動きと指摘した。
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 同記事の配信後、さっそく日本政府は世界各地で物笑いのタネにされ恥をさらしている。繰り返しになるが、ICTが理解できない人間に(その重要性を認識できない人間に)、意思決定権を持たせる前世紀的な誤りをいますぐ、ただちに止めてもらいたい。そのこと自体が危機そのものであり、リスク拡大の要因なのだということを肝に銘じてほしい。

◆写真上:現在の甘泉園公園で、相馬邸は三島山の上(画面右上)に建っていた。
◆写真中上は、1854年(嘉永7)制作の尾張屋清七版の切絵図「牛込市谷大久保絵図」。は、1880年(明治13)に作成された1/20,000地形図にみる下戸塚の茶畑。は、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる相馬邸と大隈邸。
◆写真中下は、清水徳川邸の跡に建設された相馬永胤邸のめずらしい写真。中央の白い着物姿の人物が相馬永胤で、右隣りは第2次大隈内閣の蔵相・若槻礼次郎。は、米国留学のころの相馬永胤()と早稲田の自邸における大隈重信()。は、3葉とも清水徳川家下屋敷=相馬永胤邸跡に設置された甘泉園公園の現状。
◆写真下は、清水徳川家の茶畑があったあたりの現状。は、1867年(明治元)創業の早大西門近くにある「八幡寿司」。は、「すず金」の焼きが強いうな重。夏目漱石Click!が常連の「う」Click!だが、学生街らしく味もそこそこで値段も他店の半額ぐらいで安い。

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