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高田町の商店レポート1925年。(8)酒屋 [気になるエトセトラ]

自由学園ホール西側教室.JPG
 「静に春雨の降る日の午後であつた」と文学的なフレーズではじまる、自由学園Click!高等科2年生だった菅沼きみが酒屋を訪ねたのは、1925年(大正14)2月27日(金)のことだったと思われる。彼女は「春雨」と書いているが、東京中央気象台Click!の記録によれば東京市街地では雪が降っていた。前日の木曜まで曇りだった空は、この日から崩れて雪や雨に変わったようだ。
 酒屋の主人は、おそらく帳場に火鉢を置いてうたた寝をしていたのだろう。女学生が酒屋を訪うと、店の奥から「ひる寝からおこされた様な顔を笑ひにまぎらせ」ながら、彼女の前に現れた。話すのがあまり得意ではないらしい主人だったが、彼女の質問にはていねいに答えている。
 当時の酒屋は、現代でも多く見られるケースだが和洋の酒を並べるとともに、みりんや醤油、味噌などの調味料を同時に扱う店が多かった。また、来店した客に酒を売るだけでなく、“つまみ”を用意して酒をその場で飲ませる店も少なくなかったらしい。女学生が取材に訪れた酒屋でも、その場で酒を飲ませるコーナーがあった。
 店名が不明な酒屋の主人の証言を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 『酒の産地……大部分は灘ですが、そこの醸造元で出来たものが、東京の発売元に来て、そこから小売商の手に入るんです。家の仕入れてくる所ですか、神田です。』 酒屋のお得意は、大部分御用をきゝに行つて配達する。皆通帳で月末払ださうだ。『そんなら手がいるでせう。』『いや別にさう手はいらない商売です。私の所でも弟が手伝つて居るばかりですよ。それに魚や八百やのやうに、毎朝仕入れに出るといふ風な事もないんですし、えゝ別にきまつちやいませんがね、なくなり次第に行くんです。一番よくうれる品ですか、まあ、やつぱり中等品でせうな。』 中等品と云ふと一升二円内外ださうだ。そしてそのへんの酒が一度にどの位づつ(ママ)出るかと聞くと『大てい五合以下ですよ、こまかいんです。』 得意には労働者が多くて、一軒の家が平均して見ると、一日一合乃至二合位の割合で出るさうだ。又店にきて飲むものも、一日五六人づつある。一合づつ飲んで行くのが普通で、悪ひ酒だ。(カッコ内引用者註)
  
 この酒屋が仕入れていた「東京の発売元」は、1596年(慶長元)に神田鎌倉河岸で開店した「豊島屋」ではないだろうか。豊島屋は、江戸期から灘の酒を一手に卸販売しており、また豆腐田楽をさかなに酒を安く飲ませる、日本の居酒屋のルーツとなった店でもある。江戸期は幕府御用達の店だったが、明治以降は自家で日本酒醸造を手がけて現在にいたる、創業430年近い酒屋の老舗だ。
酒屋.jpg
 「通帳」という用語が出てくるが、これは銀行や郵便局の通帳ではなく、各家庭に御用聞きClick!がまわって置いていく、売掛け(家庭から見れば買掛け)の記録を記載した帳面のことだ。店側では、この通帳をもとに月末になると戸別に集金してまわり、各家庭では通帳を見ながら店へ支払う現金を用意するという仕組みだ。
 得意先に「労働者」(工員や職人など)が多いとしているが、酒は「中等品」がよく出るといっているので、それなりに稼ぎのある「労働者」たちなのだろう。また、買い方は斗升買いではなく五合以下で細かいとしているので、倹約している家庭が多かったようだ。また、仕事帰りに店に立ち寄って飲んでいく客が1日に5~6人ほどいて、取材した女学生は「悪ひ酒だ」と書いている。
 これは、「一合づつ飲んで行く」酒の品質が下等品で「悪ひ」のか、あるいは酔っ払った客がクダを巻いたり、主人に文句をいってからんだり、客同士で喧嘩をしたりと、どうしようもない酔い方をするので「悪ひ酒」なのか、どちらをさすのかがいまいち不明瞭だが、わたしは後者ではないかと想像している。おそらく、取材にきたやさしそうな女学生に、酒屋の主人が延々と酔客のグチをこぼしたのではないだろうか。
 店にお客が買いにきたのを契機に、話は酒から調味料へと移っている。やはり東京では、「山サ」と「亀甲萬」Click!の人気が江戸期から変わらずに高かったようだ。つづけて、口ベタな酒屋の主人の証言を聞いてみよう。
メルシャンワイン(旧・大国葡萄酒).JPG
  
 『お醤油を下さいな。』と云つて四合ビンをさげて、どこかのおかみさんがやつて来た。『えゝ五十銭、六十銭、七十銭、とあります。』 するとおかみさんは一番安いのを買つて行つた。醤油は店買ひでないお得意は大抵樽で買ふ。品は「山サ」「亀甲萬」等の上等品が出るさうだ。味噌も大部分配達するが、やはり百匁二百匁位づゝださうだ。けれどもこれも比較的上等品が多いといふこと。主人は煙草をふかしながら『この頃の売れ工合ですか、今年は去年なんかに比べれば悪いですな、世間が一般に不景気だつたんですからね。エ(、)それでも酒が一番よく売れますな。』 私達には味噌醤油の方が必要品だと思はれるが、不景気だと云つても酒の方がよく売れる。今のやうな人々の気持では、酒はなくてならないものらしい。奥の部屋でおかみさんがさつきから通帳の整理をして居るらしかつたので、『現金の方が都合がよいでせう。』と云ふと、『それにこしたことはありませんがね、お得意の方で中々さうはいかないんです。』 従つて月々払つてもらへないのがいくらかづつ定つてあるのだ。殊に酒の方などは多く使ふ家に、払はない家が多いさうだ。
  
 どうやら、この酒屋では調味料の得意先にお屋敷が多く、酒の得意先には「労働者」の家庭が多かったようだ。家の収入以上に酒を飲んでしまい、酒屋に借りをつくっている家が数多くあったらしい。
 酒屋の取材では、文章の多くを主人の言葉そのもので表現するのではなく、随所に取材した女学生の言葉をつなぎで入れているのは、口ベタな主人のせいだけではないような気がする。おそらく、そのまま文章化するにははばかられる、顧客に対する不満やグチ、文句などを女学生相手にずいぶんこぼしているからではないだろうか。特に、通帳による売掛けの代金が、なかなか回収できない点をかなりグチッているのか、消費者で顧客の側である女学生は少し反発している。
真夏の夜の夢舞台19230125.jpg
活き雛祭り19230303.jpg
 頼みもしないのに、家庭をまわって通帳を勝手に置いていくのは、売掛けをする店のほうではないか……と、女学生がやや反発気味に問うと、酒屋の主人は「それは宣伝のためですよ」と答えている。つづけて、「酒屋に特別の苦心もないけれど、何と云つたつて、商人として売つただけ払つてもらうのに苦心もし心配もしますね」と締めくくった。次回は、いつ訪ねても愛想がよくて気持ちがいい、「炭屋」の訪問記をご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:自由学園のホールから、西側ウィングの教室を眺めたところ。
◆写真中上:最近は、ネット通販の大量販売に押され気味な酒店。
◆写真中下:酸化防止剤が無添加のメルシャンワイン「赤」。下落合10番地に壜詰め工場があった、甲斐産商店Click!(大黒葡萄酒Click!)の現代版。
◆写真下は、1923年(大正12)1月25日に帝国ホテルClick!で開かれた女学生たちによる舞台で、演目はシェークスピアの『真夏の夜の夢』だった。は、1923年(大正12)3月3日の雛祭りに彼女たちの発案で開かれたコスプレ大会で、雛人形や七福神に扮した「活き雛祭り」。なにをやっても自由な反面、すべての責任は自分たちにあるという教育方針で、反対や異論がある場合は、それを説得するまで(されるまで)実施しないという、女性の自主独立や主体性をともなう民主主義教育が実践されていた。ただ、運動会でのスポーツや自由を標榜する人文字“JIYU”を校庭に描く「自由行進曲」のBGMで、彼女たちの応援に駆けつけていたのが戸山ヶ原Click!陸軍軍楽隊Click!だったのは皮肉なことだ。

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