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佐伯祐三が学んだニワトリの飼育法。 [気になる下落合]

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 少し前に、佐伯祐三Click!がアトリエの庭で飼っていた、採卵用ニワトリの品種の特定(大正期の安価な黒色レグホーンClick!とみられる)を試みたが、飼育法の勉強をしなければ効率のよい飼い方や、規則的な採卵もできなかっただろう。佐伯は、それを家の向かいにあった養鶏場Click!(のち中島邸Click!→早崎邸)で教えてもらったか、あるいは飼育法を書いた書籍やパンフレットなどを参照しているとみられる。
 以前、農家や一般家庭を問わず、昭和初期に大流行したハトを飼育する投資ブームについて記事Click!を書いたけれど、明治末から大正期にかけてはニワトリを飼育する一大ブームが起きている。それは米国やヨーロッパで品種改良された、優秀なニワトリが次々と輸入され、乳牛につづく農家の現金収入には最適な副業だったのと、洋食や洋菓子の普及とともに牛乳と同様、鶏卵の需要が爆発的に伸びていたからだ。
 佐伯祐三が、おそらく1921年(大正10)の秋ごろ、画家になる自信が揺らいだのか同郷の鈴木誠Click!に、「富士山のすそのに坪一銭という土地があるそうだ、到底絵描きになれそうもないので、鶏でも飼って暮そうかと考えている、どうだろう」」(「絵」No.57/1968年11月)と相談しているのも、そんな養鶏ブームを反映した言葉だろう。そのころには、すでに黒色のニワトリを庭で飼い、養鶏の勉強をはじめていたのではないかと思われる。凝り性の佐伯のことだから、ニワトリの飼育法を記したパンフレットや、飼育本を手に入れては勉強していたにちがいない。
 また、自邸の斜向かいが養鶏場であり、情報を手に入れやすい環境もあったとみられる。鈴木誠に、「富士山のすその」という具体的な立地の話をしているのは、下落合の宅地化が進むにつれ、向かいの養鶏場は移転先を探している最中であり、その候補地のひとつが坪1銭の「富士山のすその」だったという経緯の可能性もありそうだ。事実、佐伯が第1次渡仏からもどってみると、養鶏場は移転しており、その跡地にはハーフティンバーの大きな西洋館=中島邸が建設されていた。
 さて、佐伯は大正中期にどのようなニワトリの飼育法を学んだのか、当時のパンフレットから想定してみたい。大正初期に発行されたとみられる、下落合の「萬鳥園種禽場営業案内」から養鶏法の項目をピックアップして引用してみよう。
  
 鶏舎の構造法
 第一、空気の流通最良なること(鶏舎は南東向を第一とす)/第二、湿気の侵入絶無なること/第四?、掃除至便なる様/第五、数種類を飼養する時は甲乙混入の恐れなき様作ること/第六、各舎の堺柵下甲乙相見る能はざる様地上二尺位腰板を付ること/第七、飼養上出入に至便なること/以上の方法を以て其羽数の多少に因り加減せられたし 雛舎一坪には拾羽を入れ可得 運動場一坪には三羽を普通とす 然れ共割合の少なき程養ひ安し
  
鶏舎用金網.jpg
佐伯アトリエ1982.jpg
 なぜか、「第三」の構造法がパンフレットから抜けているのが気になるが、「十五羽の養鶏は優に田畑一反部の収益よりも大なり」を事業スローガンに、萬鳥園種禽場では多種多様なニワトリの種卵や各品種の雄雌つがいを販売していた。
 また、当時の養鶏業者が毎月定期購読していた養鶏の専門雑誌に、日本家禽協会が発行する月刊「日本之家禽」というのがあった。萬鳥園種禽場では、全国から会員を募って通販雑誌として販売していたが、佐伯祐三は向かいにあった養鶏場の事業者から、同誌を何冊か借りて養鶏法を勉強していたのかもしれない。曾宮一念Click!にニワトリを上げる際、庭先へすばやく鶏舎をこしらえている手慣れた様子を見ても、そのころの佐伯が養鶏に通じていた様子がうかがえる。
 ニワトリの品種によって育て方が異なる点も、同パンフレットには留意事項として書かれている。上記の養鶏法では、異なる品種を飼う場合、それぞれのニワトリ同士が見えないように「二尺」(60cm余)の柵をめぐらすこととしている。これは、ニワトリの種類がちがうとお互いが緊張して落ち着かなくなり、卵の産出量に大きな影響が出るからだ。飼育場は、ヒナの場合は1坪に10羽、運動場には3羽がいいとされているので、佐伯アトリエの庭に7羽のニワトリは理想的な環境だったのではないだろうか。
 また、斜向かいの養鶏場のニワトリが、おそらく佐伯邸の庭からも見えた可能性があり、採卵効率を考えれば養鶏場とは異なる品種ではなく、ニワトリの落ち着きを考えて同じ品種のレグホーン種を飼いはじめたのかもしれない。すなわち、養鶏場で飼われていた品種もレグホーン種だった可能性が指摘できそうだ。ただし、養鶏場のニワトリは白色レグホーン種だったのに対し、佐伯はそれとは差別化するために黒色レグホーン種を選んだものだろうか。養鶏場から、「うちの逃げ出したニワトリを私物化してる」というようなクレームやトラブルを避けるためだったのかもしれない。
黒色ミノルカ(メノルカ)種.jpg
佐伯アトリエ1985.jpg
 また、ニワトリの品種によっては体力や性格に強弱があり、エサも動物質から植物質まで多種多様なので、できるだけ異なる品種を混同せず、1種類のニワトリを同一の鶏舎で育てることが望ましいとされている。すでにヒナを育てる段階から表面化する、ニワトリの強弱を一覧表にすると以下のようになるという。
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 つづけて、ニワトリのヒナを育てる注意点を、同パンフレットから引用してみよう。
  
 育雛法の相異点
 今其の一例を挙れば「シヤモ」と「チヤボ」とは在来種中の両極端にして亦ハンバーグ種とコーチン種とは新輸入種中の両極端に近きものと云ふを得べし 故に「シヤモ」の育雛上の最良法を「チヤボ」に用ゆれば如何 恐らくは好結果を得る事能はさるべし 故に今種類により雛の強弱を評し初心家の参考に教せんとす(中略) 孵卵器又は同一母鶏内に数種を抱卵せしめんとする場合には注意せさるべからず 強なるものと弱なるものと同一器内に入置く時は美食の如き多くは強者に占領せらるゝが故弱者は好結果を得る能はさればなり 故に数種を入卵せしむる時は其発育のほゞ似たるものを抱卵せしめさるべからず
  
 もってまわったいい方で、悪文の代表のような日本語の文章だが、明治末から大正初期にかけては、このような文語調(おもに中国語風の文体)のコピーが「高尚」で「格調」が高かったのだろう。要するに、ヒナのときから性格の強いニワトリと弱いニワトリを同一の場所で飼育すると、強い品種に「占領」されてしまうので、いい結果(発育や採卵など)を生まないということだろう。佐伯が育てていたとみられる黒色レグホーン(レグホン)種は、多彩なニワトリの品種の中でも「普通」種であり、「初心家」でも育てやすかったにちがいない。
黒色ハンバーグ(ハンブルグ)種.jpg
宇田川邸.jpg
家禽学講習録(日本家禽研究会)1921.jpg おくさまとお子さま方の簡易養鶏法(隆文館)1921.jpg
 大正の初期、養鶏の先進地域は千葉県だったらしく、中でも匝瑳(そうさ)郡では郡内各地の尋常小学校内に養鶏場をつくり、子どもたちがニワトリの飼育をして卵を業者に売る「鶏卵貯金会」制度を設立し、収益金を授業料や学校の経費に充てて、地域に住む全児童が容易に就学できる仕組みを実現している。また、同県では養鶏農家が参加する組合「養鶏協会」を起ち上げ、組織的な養鶏改良や品評会などの事業を展開していた。

◆写真上:白色レグホン種とみられるニワトリを飼う、陽当たりのいい開放的な養鶏場。
◆写真中上は、大正初期における鶏舎用の金網とその価格表。は、1982年(昭和57)に撮影された下落合661番地の佐伯邸とその前庭。
◆写真中下は、大正期には採卵用として飼われていた黒色ミノルカ(メノルカ)種。は、1985年(昭和60)に撮影された佐伯邸とその前庭。
◆写真下は、大正期には愛玩用としても人気があった黒色ハンバーグ(ハンブルグ)種。は、ペットのニワトリを抱く宇田川様Click!。向かいの木立を透かして見える家は、佐伯祐三『下落合風景』シリーズClick!で1926年(大正15)10月1日に描かれたとみられる「見下し」の、フィニアル(鯱?)が載る赤い大屋根が特徴的だった旧・池田邸のリニューアル後の西洋館2階部。は、佐伯が下落合にアトリエを建てたのと同年の1921年(大正10)に出版された養鶏法のブーム本。日本家禽研究会から出版された『家禽学講習録』()と、隆文館から出版された一條仁『おくさまとお子さま方の簡易養鶏法』()。

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