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貸家が空きだらけの東京郊外1922。 [気になる下落合]

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 1923年(大正12)に関東大震災Click!が起きる直前、東京の郊外域では目白文化村Click!洗足田園都市Click!などの開発がスタートしているにもかかわらず、空気がきれいで自然が残る健康的な郊外の田園地帯に住みたいという東京市民の人気は、目に見えて下落していたようだ。なぜなら、郊外移住のブームにのって地主や貸家業者が次々と住宅や貸家を建てたのはいいけれど、交通が便利で買い物も至便だった東京市街地よりも家賃が高額という、おかしな現象が起きてしまったからだ。
 郊外地主が強気なのは、世をあげての田園都市への移住ブームや、自然に囲まれた文化住宅へのあこがれがしばらく継続すると判断していたからだろう。落合地域でいえば、1922年(大正11)には東京土地住宅Click!近衛町Click!箱根土地Click!の目白文化村の開発がはじまり、追いかけて東京土地住宅によるアビラ村(芸術村)Click!建設計画が発表されていた。また、上野では平和記念東京博覧会Click!が開催され、最新の文化住宅Click!(モデルハウス)14棟が展示されて人気が高かった。
 したがって、郊外地主や貸家業者たちは、東京郊外への移住者は増えこそすれ、決して減ることはないと考えていたにちがいない。郊外に次々と建つ貸家も、最新の文化住宅を模したようなデザインの住宅が多かった。ところが、1922年(大正11)の時点では、郊外に建設された住宅街に軒並み空き家が目立つようになる。
 先年の1920年(大正9)から同年にかけ、東京市街の外周域には膨大な戸数の住宅が建設されている。1922年(大正11)8月28日発行の東京朝日新聞によれば、この2年間で特に貸家が増えた地域としては、鉄道駅でいうと大井町・大森・鈴ヶ森・蒲田方面で5,000戸、大崎・五反田・目黒で4,000戸、渋谷周辺では1,000戸、目白・雑司ヶ谷・池袋・大久保・中野では、それらを上まわる万単位の住宅が建設された。だが、すぐに埋まると思っていた貸家は、なかなか借り手がつかず空き家の状態がつづくことになる。
 それも当然で、市街地の借家に比べて家賃が高いのはもちろん、生活をするうえでのインフラが未整備だったり、買い物に出かける商店街が遠かったり、通勤には時間がかかったりと、ほとんどメリットが見いだせなくなっていたからだ。一度郊外に転居した人々が、家賃の高さとあまりの不便さに市街地へ逆もどりしてしまい、郊外に建てられた貸家は空き家だらけになっていった。当時の様子を、先述の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 一度住うと誰も懲り懲り/日毎に殖えて行く郡部の空家
 焦り出した貸家業/敷金を減じたり家賃を下げたり
 一両年この方の住宅払底で近郊近在に雨後の筍のやうに族生した貸家がこの頃各方面に空家になつたり、建てたまゝ塞がらぬのがだいぶ見受けられるやうになつた、(中略) それ等が一時「兎も角も住へさへ出来れば可い」といふ要求が盛んだつた頃は汽車電車の便も瓦斯水道や買物などの不便もお構ひなしと云つた風だつたのが、さて住んで見るとその日その日の暮らしが迚(とて)も堪へられない程不都合を感じ出したのと、俄造りの住心地の悪い上に第一家賃が滅法に高いといふのが原因で一度借りた人もまた便利な所へ移転するやうになる、一方には不景気で失業したり収入が減つたりする関係で比較的安い方面を探して引越して行くのが多い、こんな次第でこの頃は家主も大分焦り出して来て例へば敷金六箇月と吹いたのを三箇月に譲歩するとか進んだ気持の人は自発的に家賃を引下げて借家人を引きとめるといふことになつて来た、
  
 家賃が高くて生活も不便なら、誰も住みたいと思わないのがふつうだろう。
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 家主が焦るのは、現代と同じく税金事情からだ。家を新築すれば、毎年、東京府からは家屋税が請求されるし、地元自治体からは町税または村税が課せられる。加えて地主なら土地税が、借地なら地主から地代が請求されてくる。しかも、空き家状態がつづくと建物が傷むし、そのメンテナンス費もバカにならない。敷金や家賃を大幅に下げても、空き家にしておくよりは誰かに入居してもらったほうがマシで被害が少ないのだ。
 人が住まないと、住宅は急速に劣化して傷み、しまいには倒壊してしまうのはいまも昔も変わらない。換気をしないで、戸や窓を閉めきりにして空気の対流がなくなると、湿気がこもって木材の劣化が早まるようだ。人がいないので、室内の掃除や建物の手入れがなされず、そのまま急速に傷みが進行してしまう。また、雨漏りや吹きこみなども放置されるため、家屋全体の劣化が加速するのだろう。
 この40年間で、下落合でもそのような事例をいくつか見てきたけれど、おそらく大正当時の借家は安普請で、空き家になってからはアッという間に傷みが進んで、さらに輪をかけて借り手がつかなくなるという悪循環に陥っていた家屋も数多くありそうだ。つづけて、東京朝日新聞の記事を引用してみよう。
  
 『家賃と云つても甚だしい人は畳一畳二円四五十銭の割で私共さへ驚く位な取り方をした人もあり、特別安い古家で一畳一円二十銭見当のものであつた、こんな具合で需要者が漸漸(だんだん)減つて来ればこれまで不当に頑張つた(ママ)ゐた貸家業者も値下げすることは已むを得ないことであると同時に打算的に見ても迚もこのまゝで行けるものでないことは当然です』といふ 何しろ万事便利な市内より郊外の方が家賃の高いといふ現状が永続するとはうけとれない
  
 1922年(大正11)の当時、畳1畳が2円50銭というと、米価をベースに今日の価格に換算すれば約3,850円ということになる。つまり、8畳ひと間の広さの部屋を借りようとすると、約30,780円の家賃がかかることになる。今日のワンルームマンションなどの賃料に比べれば安いが、当時は貸室や貸家の値段がおしなべて廉価で、記事にも中古住宅だと1畳で1円20銭つまり8畳ひと間で約14,770円と半額以下の物件もあったと書いているので、いかに郊外住宅の強気な賃料設定かがわかるだろう。
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 しかも、一家が住む家ともなると4~5部屋があたりまえの貸家なので、強気の郊外賃料だとたちどころに高額となり、東京市内なら場所によっては中古住宅が2軒借りられるほどの値段だった。また、この記事は木造家屋の貸家のみを指標にしているが、当時、郊外にもポツポツ見られはじめたコンクリート造りのモダンなアパートメントだと、さらに高い賃料を請求されたかもしれない。
 さて、落合町の住宅事情はどのようなものだったのだろうか。少しあとの時代の記録になるが、1930年(昭和5)の時点で土壁の茅葺き農家はすでに25棟に急減しているとみられる。残りの住宅4,817戸は、洋館和館を問わず近代的な造りをしていたと思われるが、このうちの多くが借家あるいはアパートメントだったのだろう。
 ◆1930年(昭和5)現在の落合町建物棟数
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 当時の住宅事情について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「建物」から、一部を引用してみよう。
  
 町の大部分は将来共に住宅地として運命付けられている事は、地理的関係に於ても人事的経済関係より見ても明瞭とするが、従来住宅様式にも建築敷地の区割等にも何等の制限を行ふ処がなかつた為に、単に所有権に基くまゝ自由に建築され、土地は毫も合理的に利用せられざる乱設となつた、併しながら都市計画以降道路系統の定まるに伴れ総じて建物は新建築と変り農村特有の茅葺は正屋として漸く影を失はれて来た。
  
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 これら空き家だらけだった郊外の住宅が、一気に住民で埋まるのは1923年(大正12)9月1日の関東大震災以降のことだ。被害が大きかった稠密な東京市街地を逃れ、人々が郊外エリアに安全・安心を求めて大量に転居し、さながら“民族大移動”のような光景を現出することになる。郊外の地主や貸家業者にしてみれば、大地震のナマズ様々だったかもしれない。

◆写真上:大正期に多かった、フランス風出窓で洋間の応接室が付属する住宅。
◆写真中上は、1922年(大正11)8月28日発行の東京朝日新聞の記事。は、大正時代から流行りの日本家屋で唯一の洋間だった応接間。(新宿歴史博物館展示より)
◆写真中下は、赤土山から撮影した下落合の振り子坂Click!沿いに建つモダンな佐久間邸Click!(下落合1731番地)などの家々。は、1930年(昭和5)に撮影された洗足田園都市の住宅地。は、上落合624番地に建てられたアパートメント「静修園」。
◆写真下は、大正期に撮影された目白に建つ女性専用に造られたアパートメント集会室。は、大正期から市街地には数多く見られたアパートメント建築。は、わたしが子どものころにはいまだ郊外地域に数多く残っていた平家建てのコンパクトな住宅。

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長崎のシシ舞いには角(つの)がある。 [気になるエトセトラ]

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 東北地方で行われているシシ踊り、あるいはシシ舞いClick!の本来的な意味は、山で獲れたシシ(鹿)やアオジシ(ニホンカモシカ)、イノシシなどシシ神(まれびと/まろうど)の魂を鎮めて山へと送り返し、次の年も獲物がたくさん獲れる豊猟であることを祈り願う祭りであり儀式だった。ちょうど、アイヌ民族におけるイヨマンテ(多彩な動物に宿るカムイの魂送り)に近い、原日本の姿をとどめる貴重な祭祀だ。
 だが、農耕が生産基盤の多くを占めるようになってくると、山ノ神からもたらされたシシ神(獲物)たちの魂を鎮め、その再生を願う祭祀は、人間界の死者の魂を鎮めて「成仏」を願う儀式へと変節していく。現在、東北地方や北関東で行われているシシ舞いの多くが、仏教の概念である「盆」の時期に実施され、死者の魂を「あの世」へと送り返す儀式に衣替えしているのは象徴的な現象だ。
 また、山ノ神からのめぐみに感謝し、生命の再生を願って魂を送り返す祭祀が、疫病の防止や病魔退散の儀式へと転化している地域も多い。以前にご紹介した、江古田氷川社Click!に合祀されている御嶽社のシシ舞いも、そのような一例なのだろう。関東から南東北では、シシ(シカ・ニホンカモシカ・イノシシなど)の頭(かしら)が、おそらく江戸期以降に中国ないしは朝鮮半島からもたらされた、インドライオンを起源とするシシ(獅子)と習合してしまい、本来の顔貌を喪失してしまったとみられる。また、中国では「悪魔祓い」を本義とする獅子の性格も同時に“輸入”され、各地のシシ舞い(シシ踊り)の意味づけとして、後世にあと追いで被せられた可能性が高い。
 シシ踊り(シシ舞い)の顔が、大陸の獅子を模倣するようになるにつれ、頭に生えていた角(つの)も落ちてなくなり、江古田のシシ舞いの頭にはすでにツノが生えていない。ところが、同じく落合地域に隣接する椎名町駅前の長崎神社Click!(江戸期までは長崎氷川明神社)のシシ舞いには、いまでも一部のシシ頭に角が残っているのだ。それに気づいたのは、長崎町内を練り歩くシシ舞いの写真を眺めていたときだった。
 長崎のシシ舞いは、伝承では「元禄時代」すなわち江戸時代の初期からはじまったといわれているが、詳細な経緯は不明だ。江戸期からの行事だとすれば、他の地域で行われていた同様の祭祀を長崎村へ取り入れたことになる。だが、江古田村がそうであったように、もともとは江古田氷川社の祭礼ではなく、別の地域に奉られていた御嶽社の行事が、ある時期から御嶽社の江古田氷川社への合祀(属社化)とともに、江古田氷川社で行われるようになったケースを考慮すれば、長崎地域でもそれ以前から別の場所(湧水源のある粟島社Click!という説がある)で行われていたシシ舞いを、元禄期から長崎氷川社で実施するようになった……と想定することもできる。
 一連のシシ舞いが、中国や朝鮮半島からの影響を受けていない、古くからある日本本来のシシ舞いあるいはシシ踊りの形態を色濃く残していることを見れば、そのような想定をしても、あながちピント外れではないだろう。毎年、長崎神社(長崎氷川社)で行われるシシ舞いも、大陸系のシシ舞いとは縁遠い所作・舞踊をしており、東北地方に伝わる原日本のシシ舞いに近似したかたちを残している。
 さて、長崎のシシ舞いは毎年、5月の第2日曜日に開催されるが、シシが舞うエリアは「モガリ」と呼ばれている。「モガリ」は、もちろん「殯(もがり)」のことであり、死者の魂を鎮めその再生を願って、「死者の国」へと送り返す儀式をつかさどる場所であり、山の獲物(シシ神)あるいは人間の死者を送り返す東北のシシ舞い、あるいはシシ踊りへと直結する祭儀用語であることはいうまでもない。
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 長崎のシシ舞いにはいくつかの踊り(舞い)があるが、その中から「花舞」と呼ばれる舞踊を見てみよう。ちなみに、「花」とはボタンのことであり、中国(唐)獅子の影響が色濃く見られるけれど、「悪霊を美しい花笠におびき寄せて焼却する」という、やはり東北における古くからの習わしを踏襲しているのかもしれない。1996年(平成8)に豊島区立郷土資料館が開催した、「長崎村物語―江戸近郊農村の伝承文化―」図録から引用してみよう。
  
 花舞 花めぐりともいう。ぼたん畑のまわりを三匹の獅子がうかれて巡り舞う。人物に例えると、大夫獅子と中獅子が男、女獅子が女。大夫獅子と中獅子が女獅子を奪いあう様が演じられる。女獅子がぼたん畑のなかで神かくし(花と花の間へ隠れる)にあったため二匹の獅子が探しまわる。ついに若い方の雄獅子(中獅子)が女獅子をみつけて自分のものとする。大夫獅子はその様を見て嫉妬し中獅子を叱りだまし、とうとう女獅子を横取りする。御獅子が狂い、じゃれあい、あきらめるといった所作が演じられる。一時間はたっぷりかかる。大夫獅子は最初から最後まで踊り続けるため、20歳前後の体力がなければ踊りきれない。
  
 このように、舞踊の内容がシシ舞いの“意味”(目的)として「無病息災・悪疫退散」あるいは「五穀豊穣」とは、あまり関係のない筋立て(「五穀豊穣」には結びつけただろうか?)であることがわかる。むしろ、将来にわたり子孫繁栄(豊猟)を願い、シシ神(シカ・ニホンカモシカ・イノシシなど)の魂を山へと送り返す、東北各地に残るシシ舞いと通じる信仰心や、“物語”を包括したような内容となっている。
 3匹で踊られる長崎のシシ舞い(昭和初期に中獅子がもう1匹加わり、現在は4匹になっている)だが、この中で角(つの)が落ちずに残っているのが中獅子とよばれる獅子頭だ。その角をよく観察すると、まるで野生のウシかヤギのようにねじれているのがわかる。ニホンカモシカ(アオジシ)は、「カモシカ」と呼ばれているがウシ科の動物であり、角がねじれているめずらしい個体が、かつてどこかに存在したものだろうか。アオジシは、国の特別天然記念物に指定される以前、その肉を食べた人々の話によれば、牛肉に似ているが風味があっさりしていてしつこくなく、非常に美味だったという。
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 また、近年に加わった中獅子の1匹は、目が吊り上がった異形の顔をしている。東北のシシ(鹿)踊りの頭は、たいがい目が吊り上がったシシ神らしい怖ろしい表情をしているが、あえてそれに倣った頭(かしら)を造ったものだろうか。大正期か昭和初期に、東北のシシ(鹿)踊りと長崎のシシ(獅子)舞いの共通性に気づいたどなたかが、東北のシシ(鹿)頭に近いデザインのものを奉納したものだろうか。4匹めの獅子の出現理由は不明だが、そんなことを奥深く民俗学的に想像してみるのも面白い。
 最後に余談だが、長崎村には大鍛冶(タタラ)に直結する「火男(ひょっとこ)踊り」Click!が伝承されているのに気がついた。長崎の富士塚(古墳の伝承がある)にからめて残る踊りだが、近くには谷端川Click!千川上水Click!の水源のひとつだった粟島社の湧水池があり、砂鉄が堆積しそうな川筋と、タタラのカンナ流しに適しそうな丘陵地帯が展開している。同書より、引きつづき引用してみよう。
  
 (長崎の)冨士塚は、都内数十箇にある塚のうち、保存状態が特に優れているところから、昭和五十四年(1979年)五月、国の重要有形民俗文化財に指定されましたが、その陰に、(本橋)新太郎を中心とする冨士塚保存会の並々ならぬ努力があったことは言うまでもないことです。(中略) 新太郎亡き後、その子・本橋勇が代表となって『冨士元囃子』を存続させ、現在に至っていますが、父親以上に祭囃子に情熱を燃やし、今も町内の小・中学生、高校生等に稽古をつけています。/『冨士元囃子連中』には、祭囃子の他に色物といって「獅子舞」「火男(ひょっとこ)踊り」「大黒舞」などの余技があります。(カッコ内引用者註)
  
 なお、「長崎村物語―江戸近郊農村の伝承文化―」図録は、「富士塚」Click!のウかんむりをワかんむりにし、「冨士塚」という表記で統一している。
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 「月三講社」Click!の碑が林立している長崎富士だが、椎名町に誕生した富士講Click!の月三講社の講祖である三平忠兵衛(のちに改名して三平信忠)は、下落合の薬王院に眠っている。ここでいう椎名町とは、現在の西武池袋線・椎名町駅のことではなく、江戸期に下落合村から長崎村にかけて清戸道Click!(目白通り)沿いに拓けていた椎名町Click!のことだ。

◆写真上:長崎獅子舞いのうち、1時間ほど舞踊がつづく「花舞」。
◆写真中上は、奥州市のシシ(鹿)踊り。は、一関市のシシ(鹿)踊り。は、1909年(明治42)に撮影された長崎獅子舞の記念写真で右から左へ大夫獅子、女獅子、中獅子。いまだ3匹の時代で、4匹めの目が吊り上がった中獅子は登場していない。
◆写真中下:角が落ちずに残る、中獅子を写した3葉。
◆写真下は、月三講社の碑が林立する長崎富士塚。は、「冨士元囃子連中」に関連して踊られる火男(ひょっとこ)踊り。下左は、1996年(平成8)に発行された「長崎村物語―江戸近郊農村の伝承文化―」展の図録(豊島区立郷土資料館)。下右は、粟島社から東南東へ1,000mのところにあった湧水池のひとつで、祥雲寺坂下(現・池袋3丁目)の“洗い場”。落合地域と同様に、長崎地域周辺にはこのような湧水源となる野菜洗い場が随所にあった。

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落合地域の人が居つかない場所。 [気になる下落合]

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 怪談とまではいかないが、人が居つきにくい場所というものが確かにあるようだ。別に、そこで過去に忌まわしい出来事があったわけでもない。ほかの場所と変わらない一画であり、変わらない周辺の環境なのだけれど、住む人がコロコロと変わって落ち着かない。一度でも空き地になると、周囲は人気の住宅街にもかかわらず、いつまでも空き地の状態がそのままつづくような敷地だ。
 たとえば店舗でも、同じような傾向が見られる一画がある。どんな商店が入っても、遠からずにつぶれるか移転するかでいなくなる。それほど人通りが少ないわけではなく、周囲にはオフィスや学校なども多いので、食べ物屋が入ればそこそこ売り上げが見こめるはずなのだ。開店の当初は、店主が見こんだとおり昼どきなどお客が店の前まであふれている。それが、数ヶ月たつと混雑がなくなり、1年もすると昼どきでもガラガラに空いていて、いつ前を歩いても店内に客の姿を見かけることがまれになる。
 店のメニューが飽きられたのだといえばそれまでだが、周囲の食べ物屋は別にメニューを変えることもなく、客が通常どおり入って営業をつづけている。そして、いつの間にか当該の店はつぶれるか移転するかして、またしばらく「テナント募集」のプレートが貼られることになる。すると、数ヶ月ののち、今度は別の種類の食べ物屋が、やはり周囲の客足のよさに惹かれて店開きするのだが、開店当初は繁盛するものの、やはり1年ほどで閉店していなくなる、その繰り返しなのだ。周囲の飲食店には、別に頻繁な入れ替わりや閉店などなく、10年20年と安定した営業をつづけているのだが……。
 周囲の人たち(飲食店も含む)は、「どうして、あの場所だけつづかないんだろうね?」と、一様に首をかしげるだけだ。特に料理がマズイわけでも、接客態度に問題があるわけでも、ましてや店舗が不潔でも、雰囲気が暗くて悪いわけでもないのに、短期間でつぶれて空き店舗になる。マーケティング的な視点からいえば、どのような食べ物屋でも新規参入しやすい好条件の場所のはずだし、だからこそすぐにも新しい店舗が決まって開店するのだが、もっても数年、早い店は数ヶ月ほどで閉店してしまう。
 上記のケースは、落合地域のとある通り沿いの店舗敷地の実例だが、住宅敷地でも同じようなことが起きていると、地元の複数の古老の方からうかがったことがある。いわゆる、「人が居つかない場所(土地&家)」という課題だ。古老たちの話によれば、それは耕地整理が行われた大正時代からはじまっており、家を建てては壊し、建てては壊しの繰り返しで、そのつど住民が入れ替わってきているという。人が実際に住んでいた期間は短く、むしろ空き家や空き地だった期間のほうがよほど長いのだそうだ。
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 調べてみると、確かに各時代の地図や空中写真を参照しただけで、その土地には家があったりなかったりと一定せず、特に戦後の入れ替わりは激しくて、家が建つとほどなく空き地になり、再び家が建つと数年で別の家の屋根が確認でき、それも数年で再び空き地になる……というように、住民が頻繁に入れ替わっていた様子がわかる。
 落合地域には湧水源や“洗い場”Click!と呼ばれた湧水池が多かったので、その埋立地へ知らずに家を建ててしまい、家内の湿気やカビに悩まされてやむをえず転居したとも思えない。当該の敷地は、いくら地図をさかのぼってみても水場とは縁がなく、高燥で住みやすそうな位置にあり、周囲の環境も申し分のないほど居住には適した場所だ。
 古老に訊ねても、そこで過去に忌まわしい事件や事故、人死にがでるような出来事があったわけでもなさそうだ。念のため、いつもやっていることだが落合地域の歴史や出来事を調査するために、レイヤ状に積み重なった地図類や住宅詳細図(事情明細図)と、それらの情報をキーワードにした過去の資料当たりなど、あたかも小野不由美の小説『残穢』(新潮社)に登場する「私」のように、時代を江戸期にまでさかのぼって調査を掘り下げてみても、別に不審な出来事はなにも見つからない。事件や事故とその場所とは無縁であり、わたしのアンテナにもなにひとつひっかかってこない。その敷地は、住宅を建てるのには格好の土地であり、不動産屋の視点でいえば駅や商店街、学校も近く文句のつけようがないほどの好適地だ。……でも、なぜか人が数年と居つかない。
 このような現象を占い師Click!(八卦、陰陽道、道教、占星、望気、卜、風水……と術式の呼び方はなんでもいいのだが)あたりに話すと、おそらく「そこには龍の道が通っておるから、人が絶対に住んではいけないのだ」とか、「あの世への霊道に、家を建てるなどもってのほかじゃ!」とか、「この土地一帯の鬼門に、家など建ててはいかん!」とか、「守護天使の居心地がよくない場所なんだねえ」とか、「地相が悪すぎるのじゃ」、「地層ですか~、地層は旧石器時代から人が住んでいた埋蔵文化財包蔵地の富士山系ロームで、ダイコンとか野菜はとってもよくできますよ~」、「バカモン、地層じゃない地相じゃ!」とか、わたしには意味不明なことをいわれそうだ。
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 また、地磁気がすべての要因のように考える人だと、「磁場が悪いのだ」とか、「逆パワースポットなんだよ」とか、「気配がよくないねえ、元気を吸いとられる土地だな」とか、「気の流れが絶望的に悪いスポットだ」とか、「地磁気が狂っておる場所なんだ」、「でも、コンパスはちゃんと北を指してて、特に磁場がおかしいわけでもないですよね」、「……それでも地磁気が狂っておる、逆パワースポットなんじゃ!」とか、さらに意味不明なことをいわれそうで、その人物のほうがよっぽど怖い。
 このような、人が居つきにくい場所や、人が寄りつかない場所は、いつの時代にも存在するものだが、そのほとんどはなんらかの理由や要因が付随しているものだ。拙サイトでも、そのような伝承をたどってみると、1500年以上も前に築造された古墳時代からのいわれとみられる、禁忌エリアClick!「屍家」伝説Click!などのケーススタディもご紹介している。江戸期には、古戦場跡や古い処刑場、墓場の近くなどが、やはり「人が居つきにくい場所」「妖怪が跋扈する場所」などとして紹介されたりもしている。
 でも、落合地域にあるくだんの敷地は、大昔はおそらく旧石器人や縄文人が往来し、長く武蔵野の原生林が広がっていたエリアであり、平安期から鎌倉期にかけて街道が整備されはじめ、その後は近世にいたるまで畑地だったとみられる場所で、明治末から大正期にかけ耕地整理が実施されたあとは、普通の住宅地として開発されてきた土地だ。特になにがあったわけでもなく、落合地域のどこにでも見られる、路線価からいえばけっこうな価格のする住宅敷地ということになる。
 藤原時代の前、いにしえの土地の姿や風情は非常に見えにくいが、「いや、あすこは旧石器時代人たちがさ、北海道の珪質頁岩Click!を加工した工場の廃墟に由来する、いわくつきの土地柄なんだぜ」とか、「土器を抱えた縄文時代の母子の亡霊が、深夜になると現れて親戚のいる三内丸山までいってちょうだい、おカネないけど焼き栗1甕でいいかしらとタクシーに乗りこむ、このへんでは知られた心霊スポットなのよね~、おお怖ッ!」などというような万年単位の怪談事例を、わたしは東京地方でかつて一度も耳にしたことがない。w もはや、「人と土地との相性がよくない」としか表現のしようがないところだ。
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 いっそ、周囲を屋敷林のような緑で囲って野菜畑にでもしておいたほうが、豊穣な収穫をもたらしてくれるのかもしれない。年単位の契約で、家庭菜園として土地を周辺の住民に貸しだせば、あちこちの空き地に乱立している流行りのコインパーキングよりは実入りが多く、固定資産税の支払いには困らないような気もするのだが……。

◆写真上:いつも、うちのヤマネコからねらわれて殺気を感じているヤモリ。ヤモリ(守宮)がいる家は栄えるというが、これも昔ながらの迷信のひとつだろう。
◆写真中上:下落合の街角ピックアップ。
◆写真中下:上落合の街角ピックアップ。
◆写真下:西落合の街角ピックアップ。
なお、掲載している写真と文章とは、なんら関係がありません。

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ちょっと苦手な佐伯米子の手紙。 [気になる下落合]

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 下落合661番地に住んだ佐伯祐三Click!の資料を調べていると、佐伯米子Click!の手紙やハガキClick!類にいき当たることがままある。史的な事実を裏づける重要な資料もあれば、戦後の美術ファンあてに出された返信や、自作が出品されている展覧会へ誘う案内状的な手紙も多い。そんな1通が、わたしの手もとにもある。
 江古田1丁目に住む美術愛好家の夫妻に向けた、展覧会へのお誘いの手紙だ。おそらく、過去に佐伯米子Click!の作品を購入してくれた人物か、あるいはどこかの展覧会で知りあって、ときどき連絡を取りあっていた既知の夫婦なのだろう。文面を読むと、彼女の手紙にしてはかなりざっくばらんな雰囲気で書かれており、ある程度親しく手紙や電話のやりとりをしていた様子が伝わってくる。
 この手紙が書かれたのは1960年(昭和35)5月11日、郵便局の落合長崎局Click!が受けつけたタイムスタンプは5月12日、宛名の人物へ配送されたのは近所なので同日か、あるいは翌5月13日だったとみられる。
 同年5月11日~13日にかけ、気象庁の記録によれば東京地方は快晴がつづいているが、なぜか佐伯米子が書いた宛名書きのインクの文字がにじんでいる。彼女が投函前に、水滴のついた茶飲みか濡れた布巾をそばに置いていたか、同封筒を託されて投函した女中または絵画教室に通ってきていた教え子の手が濡れていたか、あるいは受け取った夫妻が手紙の表面に水滴をたらしでもしたのだろう。
 1960年(昭和35)前後の佐伯米子は、手紙の差出人書きを手書きにせず、住所や電話番号が入った印判を多用している。印判には、「新宿区下落合二の六六一/佐伯米子/電話(96)三四九四番」と刻まれており、朱肉を用いて捺印していた。佐伯アトリエに電話が引かれたのは、おそらく戦前からだと思われるが、この(96)3494という電話番号は戦後のものだ。佐伯祐三が存命中には、おそらく電話は引かれていなかっただろう。電話の必要が生じれば、隣家に住む落合第一尋常小学校Click!の教師で『テニス』Click!をプレゼントした青柳辰代邸Click!か、北隣りの朝子夫人Click!曾宮一念Click!のファンだったらしい酒井億尋邸Click!で借りていたのかもしれない。
 電電公社の落合長崎局Click!の市内局番が「9」からはじまるのは、わたしの学生時代も1960年(昭和35)の当時も変わらない。佐伯米子の時代は「9X」と2桁だが、わたしの時代は「9XX」と3桁になっていた。もちろん、現在は「9」の上に別の数字がふられ、市内局番は4桁になっているので、(96)3494にいくら電話しても「お客様がおかけになった電話番号は」とつながらない……とは思う。大林宣彦Click!作品のように時空がゆがみ、「はい、佐伯でございます」と彼女が出たりしたら怖いのだが。
 では、佐伯米子が江古田の美術ファン夫妻に出した手紙を引用してみよう。
  
 先日は、お電話ありがとう存じました。/あのせつは頂度、人がきて、入口にまたせてございましたもので、おちつきませんで失礼致しました。/ただ今現代美術が始まっておりますので、どうぞ、おひまを作ってお越し下さいますよう。なかなかのんびりとしたよい会でございます。/イタリの版画も多くまいっております。このたびは私小さいのを二点出品致しました。アルルの古城と静物でございます。どうぞごらん下さいまして、御批評頂きたく。でも自分でみましても、弱い感じが致しました。額を細く致したのもしっぱいでございました。/ではお二人ともお元気で。さようなら
    五月十一日                   さえき
 方々から御招待状がまいっていることと存じますが。
  
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 文中で、「現代美術が始まって」と書かれているのは、同年4月末から5月まで東京都美術館で開催されていた、第4回現代日本美術展のことだろう。彼女が「弱い感じ」と書いているように、自身でも不出来だったのを自覚していたようで、同展のあとに発行された美術誌に、彼女の作品をことさら取りあげた“見出し”は見つからない。
 佐伯邸の玄関先に待たせていた「人」が気になるが、おそらく足の悪い彼女は気軽に買い物へ出られないので、近所の商店からまわってきた御用聞きClick!の可能性が高そうだ。「落合新聞」Click!竹田助雄Click!がスクーターに乗り、佐伯米子のもとへ取材に訪れるようになるのは、「落合秘境」=御留山Click!の保存運動がスタートした1964年(昭和39)以降のことだが、あるいは鎌倉の近代美術館から取材に訪れた若き嘱託学芸員だったりすると、がぜん展開が面白くて物語性を帯びるのだが、おそらくそうではないだろう。
 この文面でもそうだが、佐伯米子の手紙はどこか受けとった相手にしなだれかかるような匂い、相手にもたれかかるような感触がにじみ出て、わたしには苦手な文章だ。特に相手が、高名な人物(特に画家仲間)だったり、自分よりも年上だったりすると、その傾向がいちじるしく強くなるように思われる。こういう人によって態度を変える裏表のあるところが、同性から快く思われなかった性格の一端Click!でもあるだろうか。
 この手紙でも、最後に書かなくてもいいような追伸、「方々から御招待状がまいっていることと存じますが」と付け加えることで、「いろいろな画家からお誘いがあるのでしょうけれど、それらはさておいて、わたしの作品を観にきてね」と、どこかねっとりとした念押し感と、気味(きび)の悪い媚びを感じてしまうところが、佐伯米子たるゆえんなのだろう。封筒の裏に、ちょっと芝居がかって「五月十一日 よ」と書くのも、なんだか恋人あての「御存じ」付け文のようで後味が悪い。
 わたしは、彼女が死去した1年6ヶ月後の高校時代に、下落合を訪れて佐伯アトリエの門前に立っているが、もし生前に会って取材をしていたら、(城)下町Click!女子らしからぬ“ちょっと苦手な女性”になっていたかもしれない。
 足にハンディがあったため、おのずと身についてしまった性格ないしは姿勢なのかもしれないけれど、同じ下町で同郷の銀座で生まれ育った典型として、わたしが真っ先に思い浮かべるのが岩下志麻Click!のようなシャキッとした女性のイメージなので、よけいに気になるのかもしれない。でも、佐伯祐三は、そういうところがことさら「かわいい」と感じたからこそ結婚したのだろう。わたしには、ちょっと理解できない好みであり感覚なのだが。
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 ほぼ同時期に、佐伯米子が山田新一Click!にあてた手紙がある。こちらは、1961年(昭和36)10月1日に書かれ、翌日に投函されたらしく10月3日の新宿局による消印が押されている。手紙の郵便料金が、10円から一気に35円へ値上がりした直後のものだ。長くなるので、その一部を引用してみよう。
  
 山田新一様      十月一日      米子拝
 お手紙拝見して、思わず、遠い京都の空をみつめました。涙をポタポタこぼしながら、きっと、もってはいらっしやらないのを、無駄と思いつゝおたづね致したのに……。/世の中が、こんなにかわり、私も生きて皆様にお会いすることが、はづかしく、平気をよそおっておりましても、心では、人さまに申し上げられない、苦しい思いでこさいます。思えば生前には、とりわけ親しくして頂いて、朝鮮の釜山にいらっした頃、フランスへの途中、宿(ママ:泊)めて、頂いたり、他、数々の思い出話しがあの時こさいました……。/お父様のやさしい方でしたこと、/こうして生きながらえている、私の悲しさつらさは、きっと、いつかはお話出来る時もこさいませふ、/こん度の名画全集には藤島先生と二人のります。/どなたに伺っても手紙をもっていらっしやいません。筆無性(ママ)でしたからね。(後略)
  
 文中の「こん度の名画全集」とは、1961年(昭和36)に平凡社から出版された『世界名画全集/藤島武二・佐伯祐三』(同全集続刊6巻)のことだ。おそらく、佐伯祐三が友人に出した手紙を掲載しながら、彼女はそのときの思い出を巻末の解説か、あるいは挿みこみの月報(季報?)にでも書こうとしていたのではないか。
 佐伯米子は、「筆無性でしたからね」と書いているところをみると、山田新一Click!は「もう佐伯の手紙は、1通も残っていない」とでも回答したものだろうか。だが、山田新一は佐伯からの数多くの手紙やハガキ類を、たいせつに保存していたはずだ。なぜなら、佐伯米子の死去から8年後、1980年(昭和55)に中央公論美術出版から刊行された山田新一『素顔の佐伯祐三』では、それらの手紙やハガキ類を写真でていねいに紹介・解説しているし、また彼は朝日晃へ佐伯アトリエの1921年(大正10)における竣工時期などがおおよそ想定できる、美術史的にも重要なハガキClick!を提供しているからだ。
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 美術ファンへの手紙とは異なり、山田新一Click!あての手紙には朱肉の印判を使用していない。相手が夫の親友だった山田新一では、手書きにしないと失礼だと感じたのだろう。どこか憐れみを誘うような、メメしい文面にムズムズと居心地の悪さを感じるのだが、手紙の封緘に「の」の字を書くのもジメッとした甘えを感じて、わたしとしては気持ちが悪い。

◆写真上:佐伯米子の印判が押された、美術ファンあてに送られた封書の裏面。
◆写真中上は、1960年(昭和35)5月12日の落合長崎局スタンプが押された手紙の表面。は、封入された手紙の内容。は、麹町の心法寺にある佐伯家の墓Click!。佐伯祐三に米子、彌智子の一家がそろって眠る墓は、ここ1ヶ所しかない。
◆写真中下は、アトリエで制作中の佐伯米子。は、野外で写生中の佐伯米子。は、1947年(昭和22)ごろ制作の佐伯米子『エリカの花』Click!
◆写真下は、1961年(昭和36)10月1日に書かれた京都にいる山田新一にあてた封書の表裏。は、夫の手紙について書いた同手紙の内容。

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上落合1丁目328番地の吉岡憲アトリエ。 [気になる下落合]

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 上落合にアトリエをかまえていた吉岡憲の、アトリエ所在地が判明した。弟である吉岡美朗が編集した年譜によれば、1948年(昭和23)1月に世田谷区粕谷から上落合1丁目328番地(現・上落合2丁目3番地)へと転居している。世田谷区は吉岡憲の故郷であり、1915年(大正4)3月に北多摩郡千歳村粕谷78番地で産まれ育っている。
 上落合の地番を見て、すぐに二葉染工場(現・二葉苑)Click!を思い浮かべた方は江戸友禅・小紋染めClick!の昔ながらのファンか、松本竣介Click!のファンかもしれない。そう、上落合328番地は大正期からそのほとんどが二葉苑の染工場敷地であり、松本竣介が1944年(昭和19)に妙正寺川をはさんで下落合側からスケッチした『上落合風景』Click!の、まさにその場所だからだ。松本竣介とは、吉岡憲が上落合に転居したその年、つまり1948年(昭和23)の最晩年に交友しているのは、麻生三郎らの紹介だったろうか。
 吉岡アトリエから西部新宿線の中井駅までは300m弱で、高田馬場駅へ出て『目白風景』Click!(1950年)や『高田馬場風景』Click!(同年ごろ)を描くのも容易なら、そこから旧・神田上水(1966年より神田川)沿いを散策しながら江戸川公園まで出かけ、『江戸川暮色』(同年ごろ)を制作するのもたやすかっただろう。
 また、戸塚町2丁目54番地(現・西早稲田2丁目11番地)にあった、杉本鷹が主宰する全日本職場美術協議会中央研究所へと通勤し、麻生三郎Click!や大野五郎、中谷泰、井上長三郎などといっしょに、画学生たちの指導をするのにも便利だったはずだ。同研究所は、現在の早稲田通り沿いに建つ第一山武ビルがあるあたりに建っていた。高田馬場駅から約850mほどで、歩いても10分以内でたどり着ける。
 上落合1丁目328番地にあったアトリエは、一部が平家建ての住宅で、棟つづきに2階建てのアトリエ部が付属していた。吉岡憲の死後、1975年(昭和50)に展覧会の作品を借りに出かけた窪島誠一郎Click!の証言が残っている。1996年(平成8)に「信濃デッサン館」出版から刊行された窪島誠一郎・監修『手練のフォルム-吉岡憲全資料集-』から引用してみよう。
  
 「吉岡憲デッサン展」の開催準備のために上落合の菊夫人のところへ何度も足を運んでいた。菊夫人の住む家は、西武新宿線中井駅の商店街の外れの、細い小路を五分程あるいたところにあった。古い木造アパートや小住宅がびっしりと密集している地域だった。そこに、吉岡憲が菊夫人と暮らしていた平家建ての家屋と、それと棟つゞきになっている十坪程の二階家のアトリエが建っていた。たてつけの悪い古びた硝子戸をあけると、部屋いっぱいに乱雑におかれたカンバスや画架のあいだから油絵具の匂いがぷんと鼻をついた。
  
 この記述を読むと、吉岡アトリエは一戸建ての住宅だったことがわかる。だが、この文章だけでは、二葉染工場(二葉苑)が敷地のほとんどを占める上落合1丁目328番地のどこに、吉岡憲アトリエが建っていたのかがわからない。
 もうひとつ、吉岡憲が健在だった1950年(昭和25)に、同アトリエを訪ねている画学生の証言を聞いてみよう。この画学生とは、のちの洋画家・鞍掛徳磨のことで、日本大学芸術学部に在学中から吉岡憲に師事していた。吉岡憲は戦後、武蔵野美術大学や女子美術大学の講師をつとめ、1949年(昭和24)には日大芸術学部の講師にも就任している。
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 『手練のフォルム-吉岡憲全資料集-』に、挿みこみで添付されたオリジナル証言集の小冊子『吉岡憲のこと』所収の、鞍掛徳磨「であい」から少し長いが引用してみよう。
  
 私は誰からといった紹介らしい紹介もなく、上落合のアトリエを訪ねることにした。西武線中井駅で下車して改札を出ると、左側に踏切がある。そこをわたらないで、左に折れると三、四分の所で、直ぐに分かった。/初秋の空は青く澄んで高く、朝夕涼しさを感じさせていた。当時、高田馬場で電車を待つホームの眺めは、ガード下の飲み屋、下落合にくだる川沿いに立ち並ぶバラック、目白側の丘の学習院寮、その下の町工場、風呂屋の煙突、踏切とその番小屋といった風景であった。/アトリエは、道に面して門札が掛けてあって、ちょっとした庭の先からアトリエの戸をノックして私は直接仕事場にひきつけられていた。私はかなり以前から親しくしているかのように迎えられた。(中略)アトリエの広さは十五畳程で、漆喰壁を塗り込む段階で中断されていた。細い板が横に間隔をおいてうちつけてるだけであった。その素材の板の表面を覆いかぶせるように作品が掛けてあった。床から壁に立てかけてあるもの、額縁にはめこまれてあるもの、木枠をとりはずして画鋲でとめてある作品、コンテで描いたデッサン、ペンと淡彩、といった具合であった/籐椅子に案内され座る。
  
 鞍掛徳磨の文章は、道順が省略されてわかりにくいが、改札を出て左側の踏み切りを「わたらないで」右側に折れ、妙正寺川に架かる寺斉橋をわたって、最初の曲がり角を「左に折れると三、四分の所」に、上落合1丁目328番地の吉岡アトリエがあった……ということになる。おそらく、染の小道Click!などのイベントで二葉苑を訪れた方がおられれば、まったく同じ道順なのですぐにおわかりだろう。
 1950年(昭和25)の当時は、まだあちこちに戦争の焼け跡が残り、空襲で焼けた住宅には急ごしらえのバラックが建ち並んでいた時代だ。高い建物など存在しないため、高田馬場駅のホームから目白崖線沿いの下落合がよく見わたせたと思われる。文中に登場する踏み切りとは、高田馬場2号踏み切りClick!とその番小屋だとみられる。
 さて、鞍掛徳磨の文章を読むと、吉岡憲のアトリエは妙正寺川の寺斉橋をわたって「左に折れると三、四分の所」にあり、その「道に面して門札が掛けてあっ」た住宅で、しかも窪島誠一郎によれば「平家建ての家屋」とは棟つづきになっている、「十坪程の二階家のアトリエ」ということになる。これに合致する住宅が、鞍掛徳磨が訪問した1950年(昭和25)から、吉岡憲の死後19年がたち、1975年(昭和50)に窪島誠一郎が訪れるまでの間に撮影された空中写真で見つかるだろうか。
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 通常、航空機に装備された空撮専用カメラClick!で撮影される空中写真Click!は、もちろん地上に写るものは真フカンからの撮影になるので、地上にある住宅のほとんどは平面的な屋根しか写らない。ところが、かなり以前から気づいていたことだが、目標物の上空をかなり外れて、少し離れたところから撮影された空中写真を参照すると、その写真の片隅に目標物が“立体”としてとらえられているのだ。
 たとえば、鞍掛徳磨の文章にも登場している学習院昭和寮Click!を例に説明すると、各時代ごとに真上からではなく“立体”Click!として観察したければ、同寮が建っている下落合や近くの目白駅の上空からではなく、少し離れた戸山や早稲田、百人町あたりを飛んだ撮影機の航路評定図を参照して、中心点のずれた空中写真を観察すればいい。戦後の上落合1丁目328番地界隈を“立体”で観察したければ、戸山か高田馬場4丁目、あるいは東中野の上空を飛んだ航空機が撮影した空中写真を参照すればいいことになる。
 その結果、1948年(昭和23)から1975年(昭和50)ごろまでの27年間変わらずに、平家つづきでアトリエとして使われていた2階家が付属する建物、そして中井駅の駅前通りから左折した道路に面していた住宅は、たった1軒しか存在していない。二葉苑への入り口の左手、328番地の南西隅に建てられていた住宅だ。ちょうど、現在の「染の里 二葉苑」ビルと駐車場のあるあたりが、吉岡憲アトリエ跡ということになる。
 何枚かの空中写真にとらえられた住宅を観察すると、中井駅の駅前通りから妙正寺川沿いに東進する道に面して建てられており、西側が平家で東側が2階家の造りをしていたのがわかる。1963年(昭和38)以降のカラー写真では、屋根が灰色っぽい色をしているので、当時の住宅に多い大量生産されたコンクリート製の瓦屋根だったものだろうか。南側には樹木を植えた小さな庭が見え、道路に面して西寄りに小さな門が見える。
 328番地一帯は、1947年(昭和22)の空中写真では焼け跡のままなので、吉岡憲一家は1948年(昭和23)に新築の住宅へ入居したことになる。しかも、鞍掛徳磨の証言によれば、アトリエに使われた2階家の壁に漆喰が塗られていなかったことを考えると、いまだ建設中の住宅に急いで転居してきたのかもしれない。敗戦直後は極端な住宅難であり、世田谷の粕谷に身を寄せていた吉岡一家は、竣工を待ちきれなかったものだろうか。
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 このアトリエで、吉岡憲は22年間にわたり仕事をしているが、1956年(昭和31)1月15日の深夜午前1時ごろ中央線・東中野駅近くの高根町踏み切りに飛びこんで自死している。41歳の誕生日を迎える、2ヶ月前のことだった。芸術家が自殺をすると、すぐに「制作や表現上の悩み」「仕事のいきづまり」などと書かれることが多いのだが、吉岡憲の自裁は、どうやらそれほど“単純”ではなさそうだ。また機会があれば、別の記事に書いてみたい。

◆写真上:吉岡憲のアトリエ跡は、正面に見える二葉苑の施設になっている。
◆写真中上は、1947年(昭和22)撮影の上落合1丁目328番地でいまだ焼け野原だ。は、1963年(昭和38)撮影の同所。328番地の南西隅に、道路に面した吉岡アトリエが建っている。は、1966年(昭和41)作成の「住居表示新旧対照案内図」にみる上落合1丁目328番地で、翌年に上落合2丁目3番地に変更された。
◆写真中下は、1975年(昭和50)に撮影された空中写真にみる吉岡アトリエ。ちょうど窪島誠一郎が菊夫人を訪ねたころで、西側の平家に東側の2階建てアトリエが付属していた様子がよくわかる。は、1979年(昭和54)撮影の吉岡アトリエだが1984年(昭和59)の空中写真にはすでに写っていないので、80年代の早々に解体されたと思われる。は、自死する2年ほど前の1954年(昭和29)に制作された吉岡憲『春雪』。
◆写真下は、1950年(昭和25)ごろに制作された吉岡憲『高田馬場風景』。は、1953年(昭和28)ごろに九州の長崎風景を描いた吉岡憲『おらんだ坂あたり』。下左は、1996年(平成8)に出版された窪島誠一郎・監修『手練のフォルム-吉岡憲全資料集-』(「信濃デッサン館」出版)。下右は、生真面目な性格がよくでた吉岡憲のポートレート。

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自由学園で行われた美術授業。 [気になるエトセトラ]

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 以前、目白通りに面した下落合437番地の目白中学校Click!で行われていた、美術教師・清水七太郎Click!による美術活動をご紹介Click!したことがある。もともと、落合地域では大正の最初期から画家たちがアトリエを建てはじめ、“芸術村”のような雰囲気が醸成されていたが、高田町の雑司ヶ谷Click!にも多くの画家たちが居住していた。
 自由学園Click!でも、美術や彫刻・工芸の分野には力を入れ、早くから展覧会を開催するなど、独自の教育方針を採用していた。特に美術の教師には、現役の画家たちを3名もそろえるなど、一般の女学校では見られない特色のあるカリキュラムとなっていた。1921年(大正10)の開校時、同学園の美術教師として最初に迎えられたのは、「自由画教育」の提唱で知られていた山本鼎Click!だった。
 開校時の美術の授業について、当時の本科生徒が記録した文章がある。1985年(昭和60)に婦人之友社から出版された、自由学園女子部卒業生会・編集の『自由学園の歴史Ⅰ雑司ヶ谷時代』から引用してみよう。
  
 先生は当時自由画教育の提唱者として知られる山本鼎先生。何でもよく見て、自分で見たままを自由に描きなさいといわれ、お庭の花壇の花を写生したり、小石川の植物園等にも出掛けた。又先生がむちのようなものをふり上げていらっしゃる姿を十五分で描いてごらんといわれることもあった。(今いうクロッキー) ただただお手本を描き写していた頃としては全く新しい方法である。自分で図案をつくることも度々勉強した。木の実、葉っぱ、釘などもモチーフとして大切なことを知ったし、何かモチーフによいものはないかと探ねまわったことも忘れられない。
  
 追いかけて、本科の女学生が増えてくると、桑原儀一と木村荘八Click!が美術の教師陣に加わった。美術の授業は、毎週1回(1時限)と決められていたが、毎週土曜日が丸ごと「美術の日」に当てられていたため、美術の1時限は実質3~4時間、つまり土曜日の半日すべてが充てられることになった。1922年(大正11)6月には、早くも第1回美術展覧会を開催し学園外へも一般公開されている。
 桑原儀一は、おもに本科1年生へ美術の初歩を教えたが、木村荘八Click!は本科3年生には絵画の実習、本科4年生には美術史、高等科の1・2年生には美術講話を行い、本科1年から高等科2年までの6年間、絶えず美術の授業や講義が受けられるカリキュラムが整備された。これは音楽など、ほかの芸術分野の授業も同様だったろう。
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 美術展覧会の開催も、自由学園ならではの主体性重視の教育方針で行われた。ちょうど同時期に行われていた、目白中学校における「目白社」の美術展は、美術教師の清水七太郎Click!による指導のもとに開かれている。ところが自由学園では、教師は展覧会へ展示する作品を選ぶ鑑査役だけで、会場の設営からレイアウト、必要な用具や調度の手配、展覧会の広報などへいっさい“口出し”ができなかった。
 女学生が自分たちで展覧会のことを調べ、必要な取材をし、人員を配置し、予算を管理し、必要な物品の手配を行い、会場の設営から撤収までをすべて運営するという、学園当局や教師たちは彼女たちの自治および主体性にゆだねる姿勢を、終始一貫してつらぬいている。木村荘八は、それを「見逃すことの出来ない愉快な、面白い特徴」だとし、美術展へ手だしができないのを、少し残念がっている様子さえうかがえる。同書収録の、木村荘八『学園第二回絵画展覧会より』から引用してみよう。
  
 展覧会は無論「自由学園の」です。功罪は倶に自由学園が負う。美術家の教師たる我々が負う。しかしここの内部には、学校や教師に負わせずとも自ら負うことを潔よしとしている一団の選手がいます。――展覧会はその目録から、陳列から、額の心配から、番号札から、招待から、案内まで、否、あとの取り片づけまで、展覧会前後の案内掃除一切迄……悉く、全部、現在の四年生が衝に当たってしたのです。/我々(山本鼎、桑重儀一、小生)は絵を選むことをしました。それと学校の都合で日どりを工夫するぐらいしたでしょう。小さい級の者や高等科は美術の催しに対して、二日間教室を明け渡すことをしました。各々机や教壇を外へ運ぶことも、そこまではしたと思う。そのあとは、そっくり四年生が何も彼も処理しました。
  
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 本科4年生は、年齢でいうと16~17歳ぐらいの女子たちだ。すべての支度を終えたのは、展覧会前日の午後7時ごろだったようで、木村荘八は「ああ、あたしおなかが減ってしまった!」という声を聞いている。
 全会場(展覧会場には7教室を転用)の設営が終わると、すっかり夜になってしまったが、中央ホールのテーブルで本科4年生の25人全員がお茶をいれ、しばらく休憩している。彼女たちは、全員がクタクタのはずなのに、興奮しておしゃべりが止まらなかったようだ。木村荘八は、その話し合いを「不思議な雀のようです」と記している。つづけて、木村の文章を引用してみよう。
  
 私も今までに幾度も友達と展覧会をして、この一番おしまいの一休みの天国はよくおぼえがあるから、察しられます。察しるのはまた私も――この日は何にもしないが――みんなの天国へ誘われた心理でしたろう。/それから帰ることにしました。あたりは郊外の闇だから、人影の数で見ずには名ではわからない。山本氏がよく一同の数をして、細い道を目白駅まで一緒に来たのであった。学校を出た途端に校内の電燈が消えましたが、誰か一人一番後まで残ってスイッチをひねって駈けもどって来た人などあったはずです。
  
 遠くから自由学園に通ってくる女学生は、当時の武蔵野鉄道Click!には上屋敷駅Click!が未設置だったため、山手線の目白駅か池袋駅まで歩くしかなかった。木村荘八が記録した展覧会は、1924年(大正13)11月の第2回美術展だったので、3代目・目白駅Click!はすでに橋上駅化を終えていたはずだ。
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 学校や教師がほとんど関与しない、この第2回美術展覧会が実施されて以降、年度ごとに開かれる同展は本科4年生の仕切りによる仕事になっていく。木村荘八は、それを展覧会以上に面白くて愉快で立派な、「四年生の自治団」と呼んでいる。

◆写真上:黄色い灯りが漏れる、夕暮れの自由学園校舎(現・自由学園明日館)。
◆写真中上は、美術展覧会が開催される前の作品鑑査風景で手前から桑重儀一、木村荘八、羽仁吉一。は、美術展覧会の出品目録(展覧会パンフレット)で1922年(大正11)の第1回展覧会()と1926年(大正15)の第4回展覧会()の表紙。これらも彼女たちが、すべて構成・編集・デザインを行い印刷所へ発注している。
◆写真中下は、1926年(大正15)6月に自由学園の敷地にアトリエが竣工した日の記念写真。立っているのは美術部の委員と美術科の女学生で、前列左から羽仁吉一、石井鶴三、山本鼎、木村荘八、山崎省三、羽仁もと子の教員たち。は、1921年(大正10)に近くの公園に出かけたのだろうか本科1年生に写生を教える山本鼎。は、娘を自由学園に進学させているため美術展を観にきた日本画家・平福百穂。
◆写真下は、1925年(大正15)ごろに描かれた美術展用の水彩画作品。は、南沢村(現・久留米市南沢)に完成した自由学園「清風寮」へ帰る女学生たち。1930年(昭和5)ごろに新聞社のカメラマンが撮影したもので、モダンな彼女たちが大きな荷物を持っているのは、寮での炊事はすべて自分たちで賄う自治運営のため、野菜やパン、卵など目白駅周辺で購入した食糧を運んでいる。駅名に「たなしまち(田無町)」と見えるが、現在のひばりヶ丘駅のことで、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)のプラットホームの様子がよくわかる。余談だが、自由学園の資料をあれこれ漁っていると、武蔵野鉄道(西武池袋線)の田無町駅(ひばりヶ丘駅)と、西武鉄道(現・西武新宿線)の田無駅を混同している記述があり要注意だ。

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下落合の炭糟道(シンダー・レーン)。 [気になる下落合]

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 10年ほど前に、下落合で暮らしていた洋画家・小松益喜Click!の作品をご紹介していた。作品は、1927年(昭和2)に制作された『(下落合)炭糟道の風景』Click!だ。描かれたカーブの道と道幅、地形、両側に拡がる風景などから、正面の建物は雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)沿いの下落合274番地にあった基督伝導隊活水学院Click!の、大正期に建っていた旧校舎ではないかと想定していた。あるいは、清戸道Click!(目白通り)のカーブから、元病院の建物を活用した目白聖公会Click!の旧教会堂を描いたものかとも考えたが、それにしては大正期の地図でさえ確認できる数多く並んだ店舗が見えず、商店街の風情がまったくない。
 以前の記事の中で、「炭糟道」の炭糟とは石炭ガラのことで、土がむき出しだった路面の吸水性を高めて泥沼化することを抑えたり、ロードローラーや整地ローラーなどで圧力をかけて固めることにより、コンクリートやアスファルトとまではいかないまでも、道路の簡易舗装ができる素材だったことをご紹介している。馬車や牛車、自動車が頻繁に往来する幹線道路や街道では、泥道に車輪をとられて立ち往生する車両がまま見られていた。そこで登場したのが、「炭糟」と呼ばれる石炭ガラだった。「炭糟」は、正式名称を「シンダー・アッシュ」といい、おもに火力発電所など大量に石炭を使用する施設や工場から排出される石炭ガラ(灰)のことだ。
 大正期の東京市街地では、幹線道路はコンクリート舗装あるいは石材が敷かれクルマの往来が容易であり、住宅街の路面にも砂利が敷かれて固められていたけれど、郊外の郡部ではほとんど土面がむき出しの道路のままだった。地元の自治体に、路面を舗装する予算的な余裕がないのも原因だったが(おそらく下水道の整備のほうが重要視されただろう)、当時の舗装は道路を利用する近隣住民の寄付によって行われていたケースが多い。
 落合地域における道路事情について、1932年(昭和7)に刊行された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 明治十七年十月品川赤羽間の鉄道が村の鼻先を貫縦して黎明を告ぐるものがあつたが、当時土木事務に就ては何等の施設なく、道路の改修補装は殆ど各部落有志の手に委任の状態であった、併ながら時代の進運に依る必然的の要求は、到底かゝる姑息なる方法を許さゞるに至りて、土木費を村費に計上するに至つたのは明治四十年以降の事である。而も其予算が甚だ微々で到底全般の要求を満すべくもなく、今日に至りし道路網の一新には、悉く地元の寄付奔走の力が與つて居る。
  
 1932年(昭和7)現在でも、ほとんどの道路が土面のままだった落合町だが、小松益喜が描いた「炭糟道」は、まがりなりにも補修(簡易舗装)の手が加わっている幹線道路だ。この補修費が、町の予算で賄われたものか、住民たちの寄付で賄われたものかは不明だが、描かれた道路が目白崖線の下を走る雑司ヶ谷道(新井薬師道)だとすれば、馬車の往来が頻繁だった落合中部に住む華族による寄付か、あるいは増えはじめた工場の物流を考慮した道路整備の一環だったのかもしれない。
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 さて、そもそも「炭糟道」は、石炭による産業革命が早くから進行していた、イギリスで誕生したもののようだ。もともとの名称を「シンダー・レーン」あるいは「シンダー・ロード」と呼び、それを和訳したものが「炭糟道」、あるいはイギリスの詩人アンドリュー・モーションによる「石炭殻の道」ということになる。火力発電所などから出る石炭ガラには、粉状のフライ・アッシュと粒状のシンダー・アッシュが含まれるが、道路の簡易舗装に用いられたのは粒状のシンダー・アッシュのほうだった。
 イギリスの文学作品を読んでいると、1950年代以前(特に戦前)の情景を描いた作品に、ときたま「炭糟道」の記述が登場している。たとえば、2014年(平成26)に徳間書店から出版されたロバート・ウェストール『ウェストール短編集/真夜中の電話』所収の、『ビルが「見た」もの』から引用してみよう。
  
 猫がいたのは、二番目の訪問者がやってくるまでのことだった。シンダー・レーンと呼ばれる石炭がらで舗装した道を、郵便配達員の自転車の細いタイヤが、シャリシャリと音をたてて村から上がってくる。ビルはうれしくなった。あれは年配の配達員のパーシーだ。勾配がきつくて、少し息が切れている。/もう一人、名前のわからない若い配達員がいるが、その男ならもっと勢いよく登ってくる。なぜ名前がわからないかというと、その若い配達員は長居することがないからだ。自転車を降りて目の見えない男としゃべるのが気づまりなのだろう。
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 ここでは、「炭糟道」あるいは「石炭殻の道」と和訳されず、そのまま「シンダー・レーン」とされている。また、文中にもあるとおり、土面がむき出しの道路ばかりでなく、急な坂道は雨が降ると泥で滑りやすく危険なため、産業廃棄物であるシンダー・アッシュを吸水や滑りどめとした舗装が行われていたのだろう。下落合は、目白崖線沿いのあちこちに急勾配の坂道が通っていたため、シンダー・アッシュによる簡易舗装は街道や幹線道路ばかりでなく、特に傾斜が急な坂にも施されていたかもしれない。
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A.モーション「石炭殻の道」2009(音羽書房).jpg R.ウェストール「真夜中の電話」2014(徳間書店).jpg
 当時、大雨が降ると道路はぬかるみとなり、クツや洋服の裾が泥だらけになるばかりでなく、泥沼にクツを取られ「発クツ調査」Click!が必要になったり、荷運びの車輪が泥沼に沈んで1日動けなくなったりする事例が頻発していた。当時、下落合に建設された住宅には、玄関先に“靴洗い場”Click!が設置された邸もめずらしくない。
 また、道の側溝(ドブ)にはフタがほとんどなかったため、大雨であふれた汚水が道路にまで拡がり、町の衛生上Click!も好ましくなかった。さらに、坂道ともなるとぬかるみに加え、大雨が降れば水が滝のように坂下まで流れ落ちるため、なんらかの道路整備は当時の郊外の町々では喫緊の課題だったろう。
 では、石炭ガラの「炭糟」=シンダー・アッシュとはどのようなものなのだろうか? 2001年(平成13)に『環境技術』4月号に収録された、金津努の論文「フライアッシュの有効利用」から少し引用してみよう。
  
 燃焼させた石炭の約13%が石炭灰となって排出される。この内、ボイラー下部のホッパー内に落下するものがクリンカアッシュと呼ばれ、石炭灰の5~15%、ボイラーから煙道を通って電気集塵機で捕捉されるものがフライアッシュと呼ばれ、石炭灰の85~95%を占める。また、空気余熱器・節炭器を通過する際に落下採取されるものをシンダーアッシュと呼ぶが、量的には数%と少なく、一般には、原粉サイロにおいてフライアッシュと一緒に貯蔵される。したがって、石炭灰のほとんどはフライアッシュということになる。/フライアッシュ、シンダーアッシュ、クリンカアッシュとも、化学成分はほとんど同じであるが、物理形状が異なり、それぞれ0.1mm以下、0.1~1.0mmおよび1.0~10mmである。特にフライアッシ ュは粒形が球形でガラス質のものが多い。
  
 上記によれば、石炭ガラのうち0.1~1.0mmほどの粒状の灰が、シンダー・アッシュと呼ばれる素材になるようだ。道路の土面をおおうようにこれを敷きつめて、多少の圧力をかけることにより簡易舗装にしていたものだろう。また、水分を含むと固まったのかもしれない。小松益喜のタブロー『炭糟道の風景』、あるいはA.モーションによる詩集『石炭殻の道』の表紙に描かれた絵を見ると、道の表面がかなり黒っぽく描かれている。
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 しかし、今日のコンクリートやアスファルトの路面とは異なり、炭糟道は風雨への耐久性が低かったにちがいない。数年たつと舗装面はボロボロになり、結局は土面が露わになってしまったのではないだろうか。砂利や玉石を敷きつめたほうが、まだ長持ちしたような気がするけれど、おそらくその工法だと費用がかなりかさんだのかもしれない。

◆写真上:イギリスに残るシンダー・レーンだが、玉砂利を混合しているようだ。
◆写真中上は、1927年(昭和2)に制作された小松益喜『(下落合)炭糟道の風景』。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同作の描画ポイント候補。は、燃焼が終わって取りだされた石炭ガラ。この状態ではフライ・アッシュとシンダー・アッシュ、そしてクリンカ・アッシュが分離されていない。
◆写真中下は、昭和初期の目白通り。右手に写る下落合544番地のタバコ店や柿沼時計店の前から西を向いて撮影した風景で、左手は目白福音教会Click!(目白平和幼稚園)の敷地。は、同時期の目白通りで下落合558番地の吉野屋靴店前から東を向いて写した風景。右手は目白福音教会(目白英語学校)の敷地で、吉野屋靴店の先には志摩屋、近江屋とつづいている。目白通りに、シンダー・アッシュによる簡易舗装が行われていたかどうかハッキリしないが、両写真ともにわだちを残して走るダット乗合自動車Click!の後部が写っている。下左は、2009年(平成21)に出版されたA.モーション『石炭殻の道』(音羽書房)。下右は、2014年に出版されたR.ウェストール『真夜中の電話』(徳間書店)。
◆写真下は、1926年(大正15)制作の佐伯祐三『下落合風景』Click!(部分)で、道路が黒く塗られているようなのが気になる第一文化村の北辺に通う二間道路。は、1950年代後半に撮影された第一文化村の三間道路。砂利が敷かれているだけで、舗装されていないようだ。は、1960年代の同じ三間道路。すでに簡易舗装されているようだが、当時は周辺に土庭が広い邸宅が多く、風で運ばれた土が路面にうっすらと積もっている。

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女性が経営した葛ヶ谷(西落合)の斎藤牧場。 [気になる下落合]

三上知治「仔牛」第2回帝展1920.jpg
 以前、落合地域を含めた「東京牧場」Click!をテーマにした記事Click!を書いたとき、参照した資料(東京牛乳畜産組合名簿/1919年)の中に、落合村の牧場数が2軒と記録されており、そのうちの1軒が上落合247・429番地にあった福室軒牧場Click!(1923年の関東大震災後に廃業)と判明して記事にしたことがある。もうひとつ、葛ヶ谷(のち西落合)374番地にあった斎藤牧場の詳細も判明したので、改めてご紹介してみたい。
 斎藤牧場の歴史は古く、1907年(明治40)ごろからすでに乳牛牧場として開業しており、1929年(昭和4)に廃業するまで約23年間も営業をつづけた牧場だった。古くから葛ヶ谷(西落合)にお住まいなら、親の世代から斎藤牧場について聞いている方も少なくないのではないだろうか。牛乳の納品・配達先は、森永牛乳や興真牛乳をはじめ、周辺の商店(アイスクリーム屋、氷屋Click!菓子屋Click!など)、日本女子大学寮Click!井上哲学堂Click!、近所に建ちはじめた個人邸など、企業から家庭まで多彩だった。
 斎藤牧場を実質的に経営していたのは、斎藤とりという女性だった。名義上は夫が牧場主だったようだが、早稲田大学を卒業した学究肌の人物だったらしく、プライベートな研究課題に熱心だったためか牧場事業をあまりかえりみず、とり夫人が事業のいっさいをとり仕切っていた。ただし、女手ひとつではすべての業務をこなしきれないため、家には女中をふたり置き、牧場にはスタッフを常時3人ほど雇い入れていたようだ。牧場には、最盛期に20頭以上の乳牛ホルスタインが飼われていた。乳牛1頭につき、1日に1斗(約18リットル)のミルクが搾れたという。
 牧場の経営はおしなべて順調だったようだが、1918年(大正7)ごろ2棟あった牧舎のうち1棟が火事になり、乳をよく出す乳牛の1頭が火傷が原因で死亡している。この火災には、地元の消防団Click!である葛ヶ谷消防隊も出動しているのだろう。牧舎全体に火がまわる前、牛をつないだロープを日本刀で次々と斬って逃がしたようだが、特に乳をよく出す「銘牛」の1頭は間に合わなかったらしい。記録には「銘牛」と書かれているので、どこかの品評会で優秀賞でも受賞した乳牛だったのかもしれない。
 とり夫人は、葛ヶ谷御霊社の祭礼時にはかなり多めの祝儀を出していたらしく、同社の神輿が葛ヶ谷を巡行するときは、斎藤牧場の中にまで入りこんで厄除けのためにかなり長時間にわたりもんでいった。また、先の牧舎が火災にみまわれたときは、葛ヶ谷消防隊がいち早く駆けつけ、斎藤家の母家へ火がまわらないよう、屋根上で纏をふって懸命に火の粉を払ってくれたらしい。現在でも葛ヶ谷御霊社の大・中神輿は、旧・葛ヶ谷374番地(現・西落合4丁目16番地)をかすめるように巡行しているが、斎藤牧場があった当時からの名残りなのだろう。
 斎藤牧場の想い出を語っているのは、とり夫人の子息である斎藤嘉徳という方だ。1997年(平成9)に、新宿区地域女性史編纂委員会が発行した『新宿に生きた女性たちⅣ』収録の、「葛ヶ谷で牧場を経営した母」から引用してみよう。
  
 母は明治二五(一八九二)年生まれです。朝は五時にはいつも起きていました。牛はきれい好きなものですから、まず若い衆といっしょに牛舎の掃除をしました。牛舎は藁葺き屋根だったんですよ。/餌は近所の農家から青草を目方で買いました。芋づるも牛の好物でしたね。夏場はそれで間に合いました。青草は干し草にしないで一日か二日で食べさせてしまうんです。飼料はその他に豆板(大豆かすを固めてプレスしたもの)や糠、ビールかすなどを問屋から車で何台も購入しました。おからも買いましたから豆腐屋がしょっちゅう出入りしていましたね。豆板はなたでけずり落として水で煮て柔らかくしてから、他の飼料と混ぜ合わせたもんですよ。竹やぶの竹に縄を張って、大根の葉っぱを干して干葉(ひば)を作りそれも餌にしたんです。そういうものを配合して食べさせると濃い牛乳が出るんですよ。飼料は飼料小屋に入れて保存しました。
  
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 森永や興真など牛乳メーカーに、搾乳した乳を瓶詰めにして納品するときは、遠心分離機を使った品質検査が毎日あったという。1合瓶の牛乳を使い、遠心分離機に1分間ほどかけると、脂肪分の数値が検出される。脂肪分が高いほど、高価に買いとってくれたようで、脂肪分の低い数値が出るとエサの見直しや工夫が行われた。
 当時(大正後期ぐらいか)の牛乳は、1合瓶の1本が7~8銭で売られていた。大口の顧客への納品はトラックで運んだのだろうが、近所への配達は子どもも手伝っていた。自転車に仕切りのついた箱を取りつけ、1合瓶を15~16本ほど入れては、近くの商店や個人宅をまわって配達している。これらの業務いっさいを、牧場のスタッフや子どもに指示していたのが、実質牧場主のとり夫人だった。
 つづけて、同書の「葛ヶ谷で牧場を経営した母」から引用してみよう。
  
 若い衆は三人ぐらいはいつもいましたから、牛の体を洗ったりのきつい仕事は任せられましたが、牛のお産や搾乳など何でも母はやっていましたね。女中も二人いたので家事は任せていたようですけれど。若い衆は月給制で月二、三〇円でした。母のいうことを「はい、はい」とよくきいていましたね。/牛乳の入った大きなバック(タンク)の中に、瓶詰にした牛乳を入れて蒸気で蒸す高温殺菌法と、氷のバックに入れて冷却殺菌する方法と二通りありましたんです。氷で殺菌する方が牛乳が「しまって」好まれましたね。燃料は主に石炭でした。電気は大正の初めに引かれました。ずっと井戸を使っていて、水道を引いたのは終戦の翌年です。
  
 牛乳の殺菌法で、フランスのパスツールが開発した低温殺菌法(パスチャライズド)が日本で一般化してくるのは、大正末から昭和初期にかけてなので、この証言はそれ以前の大正時代に見られた殺菌法の様子だろう。石炭の火力を使った高温殺菌では、牛乳の成分が変化して風味が変わってしまったかもしれず、氷による冷却殺菌では細菌の数をたいして減らせなかったのではないかと思われる。
 大正初期に葛ヶ谷には電気が引かれているが、東隣りの長崎村や西隣りの江古田村もほぼ同時期だったろう。湧水が清廉で美味しく、近くに野方配水搭Click!があるにもかかわらず、荒玉水道Click!の水を使わなかったのは落合地域のどこでも同じだ。下落合では、1960年代に入ってからも美味しい井戸水の使用をやめない邸がかなりあった。
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 1923年(大正12)9月の関東大震災のときは、斎藤牧場にほとんど被害は出なかったが、牛乳の卸問屋が業務を停止してしまい販売が不可能になってしまった。そこで、とり夫人は震災直後の3日間、5斗(約90リットル)の牛乳を荷車に積んで、近くに被服廠跡Click!もある被害がもっともひどかった本所界隈に出かけていって、毎日牛乳を被災者に配り歩いた。カルピスClick!三島海雲Click!と同様に、残暑がきびしい時季だったので、腐敗防止のために冷却殺菌用の氷も積んで、よく冷えた牛乳を配って歩いたのかもしれない。ちょっと、守山商会Click!(守山牛乳Click!)の大震災による被災者の群れを絶好の商機ととらえた、守山兄弟Click!に聞かせてやりたいようなエピソードだ。w
 昭和初期になると葛ヶ谷の耕地整理が進み、下落合と長崎の両方面から宅地化の波が押し寄せてきて、衛生や周辺への臭気の問題から、斎藤牧場は徐々に肩身のせまい事業となっていく。さらに、警視庁Click!や自治体からの衛生管理も年々きびしくなり、乳牛の飼育環境から搾乳法、牛乳の管理、果ては搾乳する作業員の健康管理にいたるまでやかましくいわれるようになった。守山商会の事例で、この時期に酪農家をやめる事業者が続出している記事を書いだが、斎藤牧場でも殺菌室の設置など新たな設備投資をあれこれ指示され、とても採算が合わないために廃業へ追いこまれている。
 ほとんど事業継続を断念させるような、この時期の酪農家への締めつけは、名目は誰にも反対できない牛乳や乳製品に関する衛生品質の向上(消費者利益をうたいながら)だったが、大手牛乳メーカーと行政が手を組んで中小の酪農家をつぶして淘汰し、潤沢な設備資金があり大牧場を抱える大手企業の、市場独占をもくろんだ策動のようにも見える。
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 さて、斎藤牧場の経営をとり仕切ったとり夫人と、裁判官をめざしていたらしい早大の連れ合いとは、当時ではめずらしい恋愛結婚だった。とり夫人は仕事をやめたあと、さまざまな思い出が詰まった牧場経営について息子に語って聞かせたらしい。戦時中、西落合はオリエンタル写真工業Click!の工場や野方配水搭Click!などの周辺は空襲を受けたが、斎藤牧場跡は無事だった。とり夫人は、戦争が終わった直後の1949年(昭和24)に死去し、牛乳配達のお得意先だった井上円了Click!が眠る近くの蓮華寺に葬られている。

◆写真上:第2回帝展に出品された、1920年(大正9)制作の三上知治『仔牛』。渡仏前の作品だが、大正後期には下落合753番地に住んだとみられる三上知治Click!なので、このホルスタインの仔牛も近くの牧場で写生したものかもしれない。
◆写真中上は、1941年(昭和16)に撮影された斎藤牧場跡。は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる斎藤牧場。は、斎藤牧場跡の現状。
◆写真中下は、1994年に新宿歴史博物館より出版された『新宿区の民俗(4)落合地区篇』(資料A)に掲載の葛ヶ谷御霊社中神輿巡行ルート。は、大正期の葛ヶ谷消防隊。(『おちあいよろず写真館』コミュニティおちあいあれこれ/2003年より) は、1954年(昭和29)ごろの西落合に残る藁葺き農家。(資料Aより)
◆写真下は、昭和20年代に撮影された住宅街のあちこちに畑が残る西落合風景。(資料Aより) は、1913年(大正元)ごろに撮影された西巣鴨保里牧場で産まれた仔牛たち。(「ミルク色の残像」展図録・豊島区立郷土資料館/1990年より)

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相馬邸の妙見神「星祭」を想像する。(下) [気になる下落合]

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 北辰・北斗七星=妙見神信仰における「星祭」Click!、つまり神事と例祭の中で、その祖型をよくとどめているケースとしては、岐阜県郡上郡大和町(現・郡上市大和町)にある、本来は千葉氏の明建社(妙見社)で行われている「星祭」が挙げられる。
 その祭りは、本祭である「神事」「神輿渡御」「野祭り」の3部と、祭礼後の直会(無礼講)から構成されており、それぞれの行事は次のような内容となっている。川村優・編『房総史研究』(名著出版/1982年)所収の伊藤一男『東国妙見信仰の地方的伝播』をベースに、その概略をわたしなりにまとめてみよう。なお、原文からの引用ではなく、おおざっぱに概要をまとめたものなので文責はわたしにある。
  
 ◆神事
 例祭日の早朝、奉仕者は栗栖川の渓谷で禊(みそぎ)をし、心身を清浄にする。神事は、当日の正午ごろから3時ごろまで3時間ほど行われる。
 ・笛と太鼓の「妙見囃子」に合わせ、供物控棚に置かれた供物を神前に次々と供える。
  神前での儀式が終了すると同時に、供饌したものはすべて撤饌する。
 ・社の神主が開式の祝詞を奏上し、祭礼に参加する関係者一同が神前へ玉串を奉納して
  神前の儀は終わる。
 ・神主は本殿に移って神移りの祝詞を奏上し、本殿内の神前に供えた幣をささげて
  拝殿へともどり、拝殿にあらかじめ安置されていた神輿へ神を移す。
  
 以上が、「神事」の内容だ。相馬家の神職担当あるいは奉仕者は、相馬邸内に湧き出る泉(おとめ山公園の湧水源)で、神事の早朝には身を清浄化するために禊(みそぎ)を行なったのだろうか。また、神前の儀については福島県の相馬家にかかわる社から、神職を招いて神事を挙行したものだろうか。相馬邸内の妙見社には、神輿蔵や神楽殿などが付属していたので、神輿はあらかじめ早朝に太素神社の拝殿(前)へと運ばれていただろう。
  
 ◆神輿渡御
 ひととおりの神事が終わると、祭礼に参加する関係者一同で神輿を担ぎ、拝殿・本殿の周囲を3回まわったあと明建社の竪大門および横大門を抜けて、約300m先にあるスギの大樹(「帰りスギ」と呼ばれている)まで往復する。その間、紋張獅子と篠葉踊り子と呼ばれる役柄の少年たちが、明建社の表参道を走りまわって乱舞する。
 神輿渡御に参加するのは、先導(露払)×1名、幣持×3名、弓取×2名、神輿担手×4名、音頭(呼び役)×1名、杵振り×1名、笛吹(太笛)×1名、太鼓×3名(打ち手×1名、担ぎ手×2名)、鼻高(天狗面)×1名、獅子×4名、給仕×2名(供物や神酒、菓子類の配布者)の、おもに白麻狩衣を着用した以上19名が近在を練り歩く。この行列の後方には、篠葉踊り子×少年8名がつづき、呼び役が「神の妙見なる竹の林、ボーンボ」と叫ぶと、踊り子がいっせいに「サーンヨシ、ボーンボ」と唱和して応え、参道をあちこち走りまわる。
  
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 以上が、神輿渡御の概略だ。「星祭」は、もともと武家の祭礼だったはずだが、おそらく中世以降に微妙な変容をしているものか、どこか「農」=五穀豊穣を祈念するような装いや雰囲気がプラスされているようにも感じられる。
 相馬邸内の「星祭」では、これほど大人数の神輿渡御が可能だったかどうかは不明だが、ひょっとすると相馬氏あるいは千葉氏ゆかりの地域から、専門職(神職)や専門要員を集めては催していたのかもしれない。特に神事をつかさどる神主は、福島県相馬市のいずれかの社から、祭礼前に招かれていた可能性がある。例祭の当日、相馬邸のご近所にお住まいだった方で、かなりテンポが速い「妙見囃子」(どこか江戸町内の祭囃子に近似している)、あるいは神輿渡御の囃子(おもに太鼓の音が響いただろう)を記憶している方はおられるだろうか。
  
 ◆野祭り
 近在の神輿渡御が一段落すると、行列一行は神輿を下して竪大門にある鳥居内の広場で休息し、やがて野祭りがスタートする。そして、「神前の舞」「杵振りの舞」「獅子起こしの舞」の順序で田楽が神輿の神前に奉納される。
 「神前の舞」は、妙見神が乗る神輿に向かい、神輿の担ぎ手4名がおのおのビンザサラを手に踊る奉納舞いだ。つづいて「杵振りの舞」は、茶色の頬かぶりをした演者が杵をかついで現われ、神前で餅をつくような所作をして杵を振りふり踊りを奉納する。最後の「獅子起こしの舞」は、鼻高(天狗)が白扇を手に獅子を起こす舞いを奉納する。
 これらの奉納舞いとほぼ同時に、明建社へ参詣にきた近在の人々へ、神酒や饌米、篠ちまきなどがいっせいに配られる。田楽が終了し、供饌をあらたか配り終えると野祭りは終了し、再び神輿を中心に行列を整えて拝殿へともどる。そして、神輿の中に収められた幣(妙見神が乗り移っている)を本殿の神前へもどして、すべての例祭が終了する。
  
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 つまり、相馬邸の正門(黒門)を開け放ち、神輿渡御を終えた神輿が安置されていた場所(玄関横の広場だとみられる)で、神酒や食事、果物、菓子類がふるまわれたのは、おそらく3つめの「野祭り」の段階だったことが想定できる。
 「星祭」の重要な行事である「神事」と「神輿渡御」は、おそらく相馬家の家族Click!や姻戚(神職含む)、あるいは一族に近しい人たちで早めに実施し、いまだ祭礼の当日、ないしは翌日に最後の「野祭り」を行なうために正門(黒門)を開放し、近所の人々に丸1日を通じて酒や菓子類をふるまっていたのだろう。
 郡上市大和町の明建社では、「野祭り」のあとには「直会」(無礼講)が行なわれ、「星祭」に参加したすべてのスタッフ(奉仕者や関係者)が祭礼の仕事から解放され、立場や年齢のちがい(昔は身分のちがいだったろう)を意識することなく、自由に酒を飲みご馳走を食べながらの談笑が許されて、丸1日を解斎の宴会に費やすという。
 岐阜県郡上郡の明建社「星祭」における奉納舞いは、中世田楽の面影を色濃く伝える舞いとして、民俗学的にみても非常に貴重な伝統行事のようだ。はたして相馬邸内では、1920年(大正9)に焼失した神楽殿Click!では、どのような奉納舞いが行なわれていたのだろうか。また、神楽殿の焼失後は、「神輿渡御」を終えて広場に安置された神輿の前で舞われていたのかもしれない。ちなみに、岐阜県郡上郡の明建社でふるまわれているお神酒は白い濁り酒のようだが、下落合の相馬邸でふるまわれた神酒は、おそらく福島で醸造された品質のよい清酒だったのではないだろうか。
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 下落合の太素神社でも、祭りの主宰者であり将門相馬家の当主だった相馬孟胤Click!自身が、祭りの日には樽から柄杓で酒をくんで参詣者ひとりひとりに配っていたという証言が残っているが、「星祭」の直会(無礼講)を受け継いだ行事ではないかと想定している。
                                 <了>

◆写真上:御留山の谷戸に残る湧水源だが、このところ湧水量が減りつづけている。
◆写真中上は、大正初期に撮影された相馬邸庭園の渓流。以下、相馬邸内の写真は『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道様蔵)より。は、2葉ともおとめ山公園の日本庭園に保存された北斗七星礎石。は、御留山湧水池のひとつ。
◆写真中下は、1915年(大正4)の邸竣工時に撮影されたとみられる相馬邸庭園の湧水流(上)と現状(下)。は、岐阜県郡上市大和町にある明建社の拝殿。は、下落合(1丁目)310番地の相馬邸で暮らした人々。前列の左から相馬沢子、相馬碩子、相馬順胤、相馬邦子(相馬孟胤夫人)、後列左から相馬正胤、相馬孟胤、相馬広胤。
◆写真下は、上から下へ明建社の祭礼の様子で「神輿渡御」「神前の舞」「杵振りの舞」。は、1982年(昭和52)に出版された川村優・編『房総史研究』(名著出版)と、収録された伊藤一男の論文『東国妙見信仰の地方的伝播』。

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相馬邸の妙見神「星祭」を想像する。(上) [気になる下落合]

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 落合地域では、社(やしろ)の祭礼の記録は地元の史料や、古老たちの証言として随所に残されている。たとえば、町内の各睦会による落合総鎮守の下落合氷川明神社Click!祭礼Click!をはじめ、新宿区の無形文化財となっている“おびしゃ祭り”や“トウジツサイ”が開かれる中井御霊社Click!、同様に葛ヶ谷御霊社Click!、上落合の月見岡八幡社の宵祭りから本祭りなどの記録は豊富だ。
 また、新宿歴史博物館による『新宿区の民俗(4)-落合地区篇-』(1994年)では、川上香「祭礼の変化と町会」のように研究論文なども散見できる。さらに、同博物館が刊行した『新宿区の文化財(9)―民俗・考古―』では、葛ヶ谷御霊社と中井御霊社の“おびしゃ祭り”の神事が取りあげられている。これらの社のある周辺では、町内の氏子の数も多いため、さまざまな地元の記録に残される、あるいは地域の民俗として、学術的に研究されやすい性格があるのだろう。
 しかし、落合地域の私邸内に勧請された、あるいは遷座・建立されていた社(やしろ)についての祭礼記録はきわめて少ない。そのような事例では、少なくとも戦前まではなんらかの神事や例祭が定期的に行われていたはずであり、私邸内であっても規模が大きな社、あるいは高名な社では、格納されていた神輿ないしは山車も祭礼では巡行していたとみられる。そして、神事や例祭が終わると近所の家々や訪問(参詣)した客たちに、食事や酒、餅、千巻、果物、菓子類がふるまわれている。ときに、近所の人たちが寄り集まり、神輿をかついで邸内を巡行したケースもあったのではないだろうか。
 このような事例は江戸期からあり、大名家の屋敷内に勧請されていた多彩な社へ、町人の自由な参詣や出入りを許していた例が少なからず存在している。吉良邸Click!内にあった松坂稲荷Click!大岡屋敷Click!内にあった豊川稲荷、有馬屋敷内にあった水天宮Click!(常時参詣ではなく定期開放)などが有名だ。
 そのような私邸内の祭りについては、ふるまわれた酒や菓子類を記憶する人たちの証言が多い。当時、子どもだった人々が祭りの行なわれている邸内に入り、餅や菓子をたくさんもらった記憶が大人になってからも強烈な印象として語られ、地域の記録として残りやすいからだ。ちょうど、鍛冶屋の周辺では火床(ほと)の神(三宝荒神)の荒神祭Click!のとき、「ビンボー鍛冶屋! やーい!」とはやし立てると、菓子やミカンをたくさんもらって食べた記憶が、いつまでも消えずに語り継がれるケースに似ている。
 たとえば、下落合ではこんな証言が語られている。落合の自然と緑を守る会が発行した、『増補版・私たちの下落合―落合の昔を語る集い―』(2013年)収録の、故・斎藤昭様Click!による『わが思い出の記』から引用してみよう。
  
 ご存じない方も多いでしょうが、現在のおとめ山公園を含む一帯は、かつて相馬さんという旧大名のとてつもなく大きなお屋敷で、現在のおとめ山公園の三倍くらいも広さがありました。その正門は坂の上の道路に北に面して建ち、時代劇に出てくるような堂々たる武家屋敷門でした。/私が小学生の頃、屋敷の執事の息子が同級生にいたので、ときどき遊びに行き、入口に近い庭に入れてもらいましたが、奥のほうには行けませんでした。ただ、年に一度、屋敷内のお社のお祭りがあり、その時は門を開けて屋敷を開放してくれたので、邸内をいろいろと見物することができました。なかでも蔵の中を見せてくれて、槍やよろい兜などの武具を見たのが記憶に残っています。
  
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 ここで語られているのは、下落合310番地(現・下落合2丁目)の将門相馬邸Click!と、御留山Click!に拡がるその広大な庭園Click!のことで、「武家屋敷門」は同邸の正門(黒門)Click!であり、門前で実際に時代劇の撮影が行われていたことは、すでに近くの映画会社(撮影所)とともにご紹介Click!している。そして、「お社」とは同家が邸内に奉っていた太素神社(妙見社)のことで、年に一度の例祭時には屋敷を開放して、来訪者には酒や菓子類などがふるまわれていた。さて、七夕も近いので、相馬邸で行われていたとみられる妙見神の「星祭」について、各地に拡がる同祭とも比較しながら書いてみたいと思う。
 この証言以外にも、相馬邸の例祭で菓子をたくさんもらって食べたという証言を、わたしは複数の方から何度かお聞きしたことがある。だが、太素神社(妙見社)の祭礼で行われていた祭りの本体、つまり拝殿・本殿で執り行われた肝心の神事については、わたしは一度も資料で読んだことも、また証言として聞いたこともない。
 落合地域に存在する社の神事については、かなり詳細な記録や証言があるにもかかわらず、相馬邸内の妙見社については、私邸内において基本的には一族だけで実施されていた神事のせいか、その祭礼の規模が地域全体に拡がり大きかったにもかかわらず、記録が残りにくかったのだろう。
 そこで、相馬邸で行われていた妙見神の神事について、わたしなりに想定してみたいと考えた。それは、鎌倉期より幕府の御家人として全国へと配置された、関東の千葉氏と相馬氏に付随して勧請・展開された妙見社で、定期的に催されてきた神事(いわゆる「星祭」)と同質のものだったのではないだろうか?……というのが、わたしの仮説だ。
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 そもそも夜空の北辰(北極星)・北斗七星Click!への信仰は、日本では縄文時代の天文観察と崇拝からつづくといわれているが、後世になると道教と習合して「鎮宅霊符神」=妙見神Click!が生まれ、仏教と習合して「北辰妙見菩薩」が誕生している。妙見神は古代からの千葉氏、そして分化した相馬氏で代々受け継がれ信奉されてきた氏神であり、房総半島(千葉地方)だけで妙見社は188社も現存している。
 ただし、薩長政府による明治期の“日本の神殺し”政策Click!で、数多くの妙見社が廃社となり、実数は現存数をはるかに超えていたといわれている。そして、鎌倉幕府における重要な御家人として千葉氏や相馬氏の全国展開・配置により、その妙見神信仰は東北地方から九州地方にまでおよぶことになった。
 その様子を、1982年(昭和57)に名著出版から刊行された川村優・編『房総史研究』に収録の、伊藤一男『東国妙見信仰の地方的伝播』から引用してみよう。
  
 妙見社の儀式や年中行事など、目に見えない無形の宗教的価値体系を整然と組織して、妙見への奉仕体制をもって国内武士を統一していったのである。また、分化してゆく支流は、根本所領の妙見を各地に勧請し、その分布範囲は下総・上総・常陸・武蔵あるいは美濃・東北、遠く九州肥前にまで及んだのである。その代表的事例としては、千葉本宗家の肥前国小城郡(佐賀県)、相馬氏の奥州行方郡(福島県)、東氏の美濃国郡上郡(岐阜県)など、新恩所領への一族移住と守護神勧請をあげることができる。
  
 妙見神信仰(古代の北辰・北斗七星信仰含む)は、もともと方位を知らせる輝星あるいは星座へのグローバルに拡がる信仰であり、縄文期はともかく古墳期からは馬牧地帯と微妙に重なっているのが面白い。東北(南部)や房総(千葉)、上毛野(群馬)などでは、古代から馬畦(目黒/めぐろ=馬牧場)で日本馬の馬牧が行なわれている。
 余談だけれど、落合地域の西落合(旧・葛ヶ谷)にも「妙見山」Click!が存在しているが、鎌倉期よりもより古い事蹟による伝承の可能性がある。
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 また、騎馬戦が主流であり、いわゆる「坂東武者」を形成して独特な湾曲を備えた馬上の武器、すなわち太刀や長巻などの日本刀Click!を生んだ地域と重なるのも非常に興味深い。最新の研究成果では、日本刀の故地は現在の岩手県南部にあった舞草(もぐさ/もくさ)鍛冶集団Click!と想定されており、南部駒の生産地とも重なる点に留意したい。
                               <つづく>

◆写真上:御留山谷戸の泉から流れる渓流で形成された、冬枯れの湧水池のひとつ。
◆写真中上は、旧・財務省官舎の庭で保存されていた相馬邸の北斗七星礎石。は、現在のおとめ山公園にある日本庭園で保存されている七星礎石。は、南東側の斜面から眺めた相馬邸の母家で右手がサンルーム。以下、相馬邸内の写真は『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道様蔵)より。
◆写真中下は、相馬邸の北側に接する道路に面していた正門(黒門)。は、1941年(昭和16)より福岡へ移築された黒門の袖と長屋の貴重なカラー写真。(提供:相馬彰様) は、相馬邸内に建立されていた太素神社(妙見社)。
◆写真下は、おとめ山公園の日本庭園に現存する七星礎石や庭石。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる太素神社と思われる建物の位置。1920年(大正9)に起きた太素神社の神楽殿炎上事件Click!(焼死者が発生している)の厄災祓除から、または東邦生命による宅地開発がスタートした1940年(昭和15)ごろかは不明だが、太素神社の拝殿・本殿は敷地内で遷座しているとみられる。同社は、1950年(昭和25)に下落合から福島県小高町へ移築・遷座している。は、相馬邸の太素神社を移築した相馬小高神社の奥の院。

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